シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

再考・『涼宮ハルヒの憂鬱』のどこが新しかったのか

 
 
はてなブックマーク - ハルヒ革命と保守・新自由主義化するハルヒ世代 - 美少女と僕らのセカイ
涼宮ハルヒ美顔革命論について各方面の反応 - Togetter
 
 先日、「ハルヒ革命と保守・新自由主義化するハルヒ世代」というタイトルのブログ記事が書かれ、たくさんの人から批判や嘲笑を集めた後、消えてしまった。「エヴァ以降、ハルヒ以前のキャラクターにみられなかったのは『顔の良さ』」という持論からはじまって、「保守・新自由主義化するハルヒ世代」という世代論的な話にうつっていったが、やけに難しい言葉遣いだった。
 
 書き手は1995年生まれを名乗っていて、『涼宮ハルヒの憂鬱』に関する過去の議論についてあまり知らない様子だった。『ハルヒ』について語りたい意気込みは伝わってくるものの、それを伝えるための文章力も知識もデリカシーも足りておらず、批判や嘲笑を集めるのもやむなし、といったところではあった。
 
 だが、20代前半の若者が大上段にアニメを語るとはそういうものではなかっただろうか。
 
 インターネットが普及していなかった頃のローカルなオタクコミュニティでは、世間を知らず、知識も乏しい若いオタクが、要領を得ない作品論をぶちあげることは珍しくなかった。そういう、意気込みの空回りした作品論がオープンなインターネットに晒されるようになった時、批判や嘲笑を集めるのは理解できることではあるけれども、せっせと作られた若者の作品論が一蹴され、消えてしまうのは悲しいと私は思った。
 
 それでも熱量にほだされ、私も「ハルヒのどこが新しかったのか」を再考したくなった。似たようなことは4年前にもやっているけれども、好きな作品の話は、何度やったって悪いものじゃない。
 
 

「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の先駆けとしての『ハルヒ』

 
 

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 私は、『涼宮ハルヒの憂鬱』がそれ単体で"革命"を起こしたとは考えていない。
 
 それでも、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』が流行の端境期の人気作品なのは間違いなかろうし、同時代の幾つかのコンテンツやプラットフォームとともに記憶されるべきだとは思う。
 
 まず、ライトノベル版『涼宮ハルヒの憂鬱』がよくできていたことを断っておく。SF的要素や(90年代後半~00年代に流行した)心理主義的要素をちりばめ、キョンの独特な語り口を特徴とするライトノベル版は、同時代の愛好家の需要に応えていたと思う。
 
 ただし、それだけの作品ではなかった。
  
 たぶん、アニメ史のなかで重要だと思われるのは、「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の先駆けのひとつが、アニメというジャンルでは『涼宮ハルヒの憂鬱』だったということだ。
 
 『涼宮ハルヒの憂鬱』は、「ハルヒの顔が良い」という曖昧な理由によって特別だったわけではない。絵やストーリーでいえば、ほかにも優れた作品はそれなりあった。たとえば『エウレカセブン』や『アイドルマスター(アイマス)』あたりと比較して、『涼宮ハルヒの憂鬱』が突出して2010年代寄りのデザインだったとは思えない。今、『涼宮ハルヒの憂鬱』を観ると、その絵柄は2010年代よりも90年代後半に近いとすら感じる。
 
 だが、「女の子たちが歌って踊ってライブした」00年代のアニメとしては『ハルヒ』が早かった。エンディングテーマ『ハレ晴レユカイ』もそうだし、文化祭でハルヒが熱唱するシーンもそうだった。現代アニメではもはやテンプレートとなっている「女の子たちが歌って踊ってライブする」センスを、アニメというジャンルで最初に開花させたのは『涼宮ハルヒの憂鬱』ではなかったろうか。
 
 この時期には「女の子たちが歌って踊ってライブする」コンテンツが立ち上がってくる機運があった。Xbox360版の『アイドルマスター』がリリースされたのが2005年だし、AKB48が始動したのも2005年。『ハルヒ』だけが特別だったわけではない。ゲーム・アイドル・アニメという複数のジャンルで同時多発的にそれは起こり、燎原の大火のように広がっていった。
 
 ハルヒダンスの生みの親である山本寛さんは、2018年6月の公式ブログで、ハルヒダンスの流行への戸惑いと嫌悪感を表明しておられる。
 

当時は戸惑ったものだ。
なんでこんなに受けるの?
 
嬉しいというよりは、変な感じだった。
幸いにして「朝比奈ミクルの冒険」や「サムデイ イン ザ レイン」など、しっかり仕掛けて作った部分も充分に評価されたので、まだ違和感は薄かった。
 
しかし「ハルヒダンス」、なんでこんなに受けたんだろう?
作画スタッフに罪はない、あくまで演出上の問題だが、この程度で??
 
僕にとっては「刺身のツマ」がえらく評判になったようなものだ。
そこを褒められてもなぁ、という。

 

もうウンザリだ。
死ぬまで踊ってろサルども。
 
結局「一番解りやすいもの」が受けるのだ。
『エヴァ』での庵野さんの悩みも、そういうところだったのかなぁと、想像してしまう。

 
 「ハルヒダンス」は山本寛さんにとって「刺身のツマ」だったという。だが振り返ってみれば、まさにその「『刺身のツマ』がなぜ流行ったのか」が問題であり、00年代前半に流行ることのなかった何かが流行り始める先駆けを、たまたま山本寛さんが掴みかけていたと推察される。
 
 「ハルヒダンス」が流行した後には、『らき☆すた』や『けいおん!』が続き、もっと後発の『ラブライブ!』も大ヒットした。『アイマス』も今日まで太い命脈を保ち続けている。AKB48の台頭と発展は言うまでもない。そうしたプロが仕立てたコンテンツたちの裾野には、アマチュアたちが投稿した無数の「歌ってみた」「踊ってみた」系の投稿作品、『アイマス』や『初音ミク』などを使った投稿作品が広がっている。
 
 

『マクロス』や『サクラ大戦』とは位置づけが違う

 
 『ハルヒ』以前にも「女の子が歌う」「女の子たちが踊る」コンテンツが無かったわけではない。twitterでやりとりしていて思い出させてもらったが*1、たとえば『マクロス』や『サクラ大戦』はそれに近いようにもみえる。
 

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檄!帝国華撃団

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 しかし、『マクロス』や『サクラ大戦』がヒットしたからといって、似たようなコンセプトで女の子が歌う・踊るコンテンツが広がるとまではいかなかった。
 
 あまりにも早すぎたとも言えるし、似て非なるコンセプトだったとも言える。たとえばリン・ミンメイは、AKB48よりも昭和アイドルに近い存在ではなかったか。帝国華撃団にしても、あれは銀座に本部を置くような歌劇団であって、平成アイドルとは路線が違う。
 
 『マクロス』や『サクラ大戦』は、その時代の作品としてそれほどおかしくないし、じゅうぶんヒット作と言えるけれども、00年代の中盤以降に急速に広まっていった「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の直近の先祖とするには、コンセプトも時代も違い過ぎる。
 
 インターネットの普及や動画投稿サイトの登場といった、メディアのプラットフォームにかかわる変化がなければ、『涼宮ハルヒの憂鬱』は「それなりに売れたライトノベル」で終わっていたかもしれず、『マクロス』や『サクラ大戦』よりもマイナーな存在として終わっていたかもしれない。『アイマス』にしてもそうで、00年代の複雑で広範な背景に支えられてヒットしたのだろう。
 
 だが、たとえそれが僥倖だったとしても、『涼宮ハルヒの憂鬱』は、そうしたテンプレートの最初期の作品と位置付けられる程度には早かったし、新聞に一面広告を出すぐらいには存在感も示していた。そのことは、アニメ史やサブカルチャー史の一幕として憶えておいてもいいように思う。
 
 「ハルヒの顔が良い」だけでは、こうはならなかったはず。
  
 

*1:特に @stdaux さんに感謝

うちの近所の公園には風の精霊が棲んでいる

 
 
 
 『ポケモンGO』をやっているおかげで気付いたのだけど、うちの近所の公園には風の精霊が棲みついている。
 
 「風の精霊が棲みついている」のは、往来の邪魔にも子どもの遊びの邪魔にもならない、ポケモンGOのジムバトルをするのにちょうど良い小さな空き地だ。
 
 その公園内の空き地は、周辺をマンションやゴミ置き場に囲われて、袋小路のような構造になっている。いい歳したおじさんがポケモンGOのジムバトルに集中しても目立たないのでポケモンGO向きのロケーションだ。でもって、春夏秋冬通いつめて気付いたのだけど、そこは、ちょっと風が吹くとつむじ風が起こる不思議な場所なのだった。
 
 木枯らしの吹く、11~12月の時期はとりわけそうで、枯れ葉がぐるぐる回転し続けている。風系統のポケモンを使っている時につむじ風が起こっているとと、ポケモンが具象化しているような錯覚をおぼえて気分がアガる。他のポケモントレーナーとジムバトルをしている時につむじ風が吹いても、それはそれで、バトル! という感じがして嬉しい。
 
 ポケモンGOのジムバトルの場所につむじ風がしょっちゅう起こるのは、偶然なのか、それとも必然なのか。
 
 

ポケゴーやっている時は、やっぱり精霊って呼びたくなるわけですよ。

 
 現代の科学の知識をもってすれば、なぜ、つむじ風が起こるのか・どのような場所につむじ風が起こりやすいのかを説明づけることはできる。
 
 風の精霊に相当するつむじ風や竜巻は局所的に起こった風の流れだし、その背景として気圧差や地形を考えればいい。
 水の精霊に相当する渦潮のたぐいも、水流や潮汐力などによって説明づけられる。
 

 
 とはいえ、科学以前の時代なら、つむじ風や渦潮が頻繁にできる場所を「精霊が棲んでいる」と説明づけたのは自然なことだっただろう。日本では、そういった場所が「龍のすみか」とみなされたこともある。
 
 どうあれ、つむじ風や竜巻や渦潮のたぐいは「自然界の力が具象化したもの」ではあり、科学時代の人々はそれを「天候」や「自然現象」ととらえ、昔のアニミズムな人々はそれを「精霊」や「龍」や「神」の顕現といった風にとらえたのだろう。
 
 でもって、ポケモンというのは多分にアニミズムな作品なわけで、流体力学にもとづいてつむじ風を考えるより、公園の空き地に風の精霊が棲んでいる、と考えたくなる。でもってそいつは、つむじ風を起こして子どもを喜ばせたり、おじさんの帽子を飛ばしたり、スカートをめくったりしている。
 
 こういう地元の小さな大自然に気付けたのは、まさにポケモンGOのおかげ。これからも遊び続けて、まわりの風景をよく見ていこうと思う。
 
 

Pokémon GO Plus (ポケモン GO Plus)

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アタマが良くてマーケットがわかる人しか稼げない社会は「要らない」。

 
 以下のリンク先記事は、現状分析としては間違っておらず、実際、仕事への要求水準は高くなっているのだろう。
 
人手不足なのに給料が上がらないのは、経営者の強欲のせいではなく、仕事に要求される能力が高くなったから。
 

ですから現在の状況を単純に言えば、
1.事務職の消滅とともに、「普通の人」が遂行できて、「それなりのお金がもらえる」職場は消滅してしまった。
2.今は「低賃金・肉体労働」の仕事に就くか、専門家として「知識労働」に従事するか、その2つしか選択肢がない
ということになります。

 
 日本だけでなく、欧米諸国でも「普通の人」が働いて「それなりのお金がもらえる」職場は少なくなっている。低賃金の肉体労働や単純労働に従事するか、高度なスキルを必要とする知識労働にジャンプアップするか、そのどちらかを迫られがちな世相なのは、そのとおりなのだろう。
 
 加えて、リンク先ではマーケティングセンスの重要性も指摘されている。
 

例えば今の時代は、人工知能や統計解析の専門家は稼げても、刀鍛冶や畳職人はそれほど稼げません。
要するに、専門家でありさえすればよいのではなく、「マーケットがある上での専門家」である必要があります。

 高度なスキルを持っていてもマーケティングセンスがなければ稼げない。ここでは刀鍛冶や畳職人が「稼げない専門家」として挙げられているが、マーケティングセンスというのは、ある種、魔法のセンスであり、市場のニーズをくみ出せるなら刀鍛冶や畳職人でも「事業」を興せないことはないだろう。刀鍛冶や畳職人で想像しづらいなら、和菓子職人について考えればもっとわかりやすい。どれほど素晴らしい和菓子職人でもマーケティングセンスが無ければ零細のままだし、過疎化にまかせて廃業を余儀なくされるおそれもある。だが、マーケティングセンスと技芸を両方持っている和菓子職人であれば、支店を全国に持つような「事業者」になることも叶おう。
 
 
【「アタマが良くて商売センスのある少数以外は低収入待ったなし」】
 
 なので、リンク先の文章を額面どおりに受け取るなら、現代社会において「稼げる」のは、アタマが良くて商売センスにも恵まれている人、ということになる。
 
 だが果たして、世の中にそのような人がいったいどれぐらい存在するだろうか。
 
 大半の人は、それほどまでに高度なスキルを身に付けられるわけではないし、マーケットを読めるわけでもない。
 
 となると、この現状分析から導かれる帰結は「ごく少数のアタマが良くて商売センスのある人ばかり高収入になって、そうでない大多数は低収入に甘んじるしかない」というものである。
 
 昨今の世帯年収の中央値を思い出すにつけても、ここでいう低収入とは、昭和時代末期の「中流意識の家庭」よりもずっと少ない水準を想定せざるを得ない。
 
 もはや中流意識を持つことすら困難な、息子や娘を大学に送り出すことも困難な──それどころか、結婚や子育てを夢見ることすら許されないような──世帯収入に甘んじる人がどんどん増える未来が透けてみえる。実際問題、昭和時代まで中流意識を持っていた家庭の子女の少なくない割合が21世紀には"下流"へと流れ着き、"失われた20年"をたまたま生き残った者たちが、減りつつある"中流"の席を奪いあっている。
 
 そして稀有な才能やコネクションに恵まれ、マーケティングにも通じているごく少数が、資本主義の果実のジュッとした部分を頬張っているのである。 
 
 21世紀の資本主義の状況として、橘玲さんが記すようなビジョンを否定することは難しい。
 
  
【そんな社会を認めて構わないんですか?】
 
 現状がこうである、と分析するのはいい。
 だが、その現状を是とするか非とするかは、また別の問題である。

 日本は資本主義の国であるとともに民主主義の国でもある。
 
 成人すべてに投票する権利が与えられ、デモクラティックに意思決定が進んでいく日本において、そんな、ごく少数の人間だけが資本主義の果実のいちばんおいしいところを持っていってしまう社会をしかと認識し、それをそのままにしておく道理はあるものだろうか。
 
 アタマが良くてマーケティングのわかる少数派にとって、21世紀の資本主義の状況は天国も同然である。グローバリゼーションは、アタマが良くてマーケティングのわかる少数派にとってうってつけの状況を提供している。
 
 だが、国民の大半はそんなにアタマは良くないし、マーケティング適性も持ち合わせていない。そして高騰する大学教育が象徴しているように、高度なスキルを次世代に授けるためのハードルも高くなりつつある。次世代に高度なスキルを易々と身に付けさせられるのは、すでに高度なスキルやマーケティングセンスを手中におさめた少数派の家庭だけだ。もし、政府なり財界なりが高度なスキルの人材が欲しいというのなら、低収入の家庭の子女が高度な教育を受けやすいようなパスウェイの整備に予算と情熱を傾けるべきだろうに、実際にはまったくそうなっていない。"下流"的な家庭からアタマが良くてマーケティングセンスにも恵まれた人材を輩出することは、昭和時代よりも困難になっている。
 
 だったら革命しかない!
 
 ……というのは冗談としても、この民主主義の国において、ごく少数の人間だけが資本主義の果実を堪能し、大多数の人がそれを指をくわえてみているしかない状況は、かなりおかしい。少なくとも、中流的な生活が困難になる人がドシドシ増えざるを得ない状況を静観するばかりで、それが世間だと開き直る人々ばかりの社会状況を是とするのは奇妙なことのように私には思える。
 
 これは、民意が反映されていない状況ではないだろうか。
 
 もちろん、民意が反映されれば万事うまくいくというわけではない。アタマが良くてマーケティングのわかる人々の言うとおりにしたほうが、国民総生産が上昇しやすい、といったことはあるかもしれない。でもって、アタマが良くてマーケティングのわかる人々はプレゼン能力にも優れているから、「自分たちの言うことをきかないと結果として国全体が貧しくなって、あなた達はもっと貧しくなるんですよ」的なことを滔々と語ってみせるだろう。今、流行のエビデンスというボキャブラリーを交えながら。
 
 だが、国全体が貧しくなるかどうかなんて、大多数の人は興味の無いことである。ましてや、「事業」をやってのけられる人々の都合を気に掛ける必要性なんてどこにもない。大多数の人が気に掛けるのは、自分や近しい人が豊かと感じられているかどうか、そして「自分が決してなりようのない連中」との差異、あとは「連中」が自分たちのことを大切にしているか馬鹿にしているか、である。
 
 EU離脱したイギリスやトランプ大統領が当選したアメリカで起こったことの一側面は、アタマが良くてマーケティングのわかる人々にとって都合の良い政治状況や社会状況に対する「そんな社会は要らない」というメッセージではなかったか。
 
 英米の有権者の選択が、最終的にそれらの国の大多数への福音になるのかは、私にはわからない。しかし民主主義を良いものとみなす限りにおいて、有権者にはそのような選択をする権利があり、それらの選択はやはり尊い。そして日本国民だって本当はそうしたって構わないはずなのだ。
 
 私はいちおう医者だから、アタマが良くてマーケティングのわかる人々にとって都合の良い社会でもなんとか生きていけるだろう。むしろ、この筋のブルジョワ社会化がますます徹底してくれたほうが、私のような立場は社会適応しやすくなるはずである。
 
 だが、そのような社会が大多数にとって望ましいものだとは思えない。資本主義の果実がもっと広い裾野に広がって、中産階級的な人々が増えることを多くの人が期待しているなら、そのために声をあげても構わないのが民主主義ではなかったか。
 
 21世紀の資本主義の現状を醒めた目で分析した後、私達はどう考え、どう立ち回るべきなのか。
 
 アタマが良くてマーケティングのわかる人々だけがおいしい果実をむさぼり、そうでない大多数が貧困に甘んじることの是非について、少なくとも英米の大多数と同じぐらいには日本の大多数も声をあげていいのではないだろうか。ごく少数の人間だけが稼げて、そうでない大多数が低収入に甘んじるしかない社会に、「そんな社会は要らない」というメッセージを出していっていいのではないだろうか。
 
 たとえそれが、英米で起こったこと同様に、相応の副作用を伴うものだとしても。
 
 現状を現状として分析するのは分析家の仕事だ。
 
 だが、現状を分析した後、その現状の是非について考えるのは、政治家の仕事であり、ひいては、有権者である私達の責務である。だから一有権者としての私は、アタマが良くてマーケットがわかる人しか稼げない社会に対して、「そんな社会は要らない」と声をあげておきたい。少なくとも、稼げない大多数が世代再生産もままならない状況へと追いやられる前提のもと、ごく一部のアタマが良くてマーケットのわかる人々が大多数の成り行きを黙って見ているばかりの社会には、それっておかしいんじゃないかと考える一人でいたいと思う。
 
 

一切が過ぎ去っていくインターネットに、念仏を

 
 三十代後半になったあたりから、ときどき「歳月!」と叫びたくなるようになった。
 
orangestar.hatenadiary.jp
delete-all.hatenablog.com
 
 昨日から今日にかけてインターネットの歳月について考えさせられる文章を立て続けに読んで、まさに私は「歳月!」と叫ばずにはいられなくなった。
 
 今をときめくバーチャルユーチューバー。リンク先でorangestarさんが書いているように、最近のインターネットの流行り廃りは早い。ニコニコ動画の生主が輝いていた時代も、もう遠い昔のことのように感じられる。そういえば、Ustreamもなくなってしまったのだった。
 
 そしてDelete_Allさんが書いているように、金銭欲に流されていったブロガー達の行方は知れない。一時期はそれなりに繁栄していた「金銭欲をモチベーション源とするブロガーたち」は、その頭領たちも含めて勢いを失ってしまった。
 
 もともと早かったインターネットの栄枯盛衰が、いよいよもって加速しているようにみえる。
 
 インターネットにへばりついて思春期を過ごしていた私のような人間は、そのインターネットの流行によって思春期をかたちづくり、折々の流行を魂に刻み込んできた。私の場合、『セカイ系コンテンツ』とか『テキストサイト』とか『はてなダイアリー』あたりがまさにそうで、それらは意識するまでもなく自分自身の魂に入り込んできて、私の歴史の幹になっていった。
 
 だが、そうやって既に歴史の幹をつくりあげてしまった私という存在にとって、2010年代後半のインターネットの栄枯盛衰は魂に刻まれることの少ない、通り過ぎていくものになってしまっている。その時々のコンテンツやオモシロ人間は勿論面白いとしても、それらは魂に刻まれることなく、たちまち飛び去ってしまう。
 
 ネットで流行のコンテンツをたまたまフォローできたとしても、あるいは人生を火の玉にして燃え尽きていく勇者が現れたとしても、以前のように、骨までしゃぶることはなくなってしまった。私の執着が薄れたから? そうではあるまい。流行りのコンテンツも、火の玉になって燃え尽きる勇者も、ひとときのものだとわかってしまったから。あっという間に消えてしまう可能性の高いものに、以前ほどの興味を感じなくなってしまったから。
 
 それでも元気の良い時期には、新しいものを楽しむことはできる。燃えゆくインターネットの勇者は美しいし、散りゆく花には格別の趣もある。
 
 けれども冬至が近づいている今の時期の私には、そうした新しさを楽しむ気持ちより、一切が過ぎ去っていくことへの寂寥感が勝ってしまう。こういう心境を、ほかの同世代のインターネット愛好家や、元愛好家の人達も経験しているのだろうか。それとも、私がdepressiveになっているだけなのか。
 
 

過ぎ去っていくネット=忘れられていくネット

 
 なにもかもあっという間に過ぎていくネットは、忘れられていくネットでもある。ひいては、自分自身がどんどん忘れていくネットとも言える。
 
 忘れること・忘れられることにはポジティブな側面もあり、それはインターネットにとって必要なことでもある。それでも、今、目の前で繰り広げられているインターネットの景色があらかた忘れられ、自分自身も忘れていくとしたら、その営みにどのような意味があるのだろうか。
 
 もちろん若い人には意味があろう。今まさに流行を魂に刻み込んでいる人達にとっては、かように流速の速いインターネットも空しくはあるまい。だが私はもう若くはないし、今、栄華のきわみにある人々もいずれ色褪せ、消えていくことを知ってしまっている。この厳粛な事実を前に、私は念仏をとなえたくなる。一切が過ぎ去っていくインターネットと、そこで渦を巻く人の業に対して、念仏に勝るものが果たしてあるのだろうか。愛好家のみなさんは、こういうニヒリスティックな気分をどのように取り扱い、対処しているのだろうか。
 
 

「街角の自己実現人間」にあなたは気づいていますか

 
Point of view - 第123回 熊代 亨|人事のための課題解決サイト|jin-jour(ジンジュール)
 
 
 リンク先の寄稿文章で触れた、自己実現の境地に辿り着いた人について、こちらでも少し捕捉を。
 
 かつて、自己実現という言葉が若い世代に持てはやされたことがあったけれども、「なりたい自分になる」とか「自分発見」みたいな自己願望成就のニュアンスに傾いてしまっていた気がする。
 
 それとは別に、マズローの欲求段階説のてっぺんを目指す的な向きもあった。自己実現という、モチベーションの至高に辿り着くことをありがたがっていた人達だ。インターネットのある界隈を眺めていると、どうやら、今でもそういう向きは残存している。承認欲求や所属欲求を下等なものとみなしながら、自己実現欲求・自己実現、といった言葉にこだわる人々が。
 
 たぶん、「自己」という語彙が良くないのだろう。
 
 現代社会においては、「自己」とは各人の中心であり、各人にとっての世界の中心でもある。自分がかわいい、という意味だけでなく、他人に迷惑をかけてはいけない、という規範意識も含めて、現代人は「自己」を神聖な冒すべからざるものとみている向きがある。
 

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

 
 自己実現・自己実現欲求は、この「自己」という語彙の現代的解釈の影響をモロにこうむって、「世界の中心の、冒すべからざる自己(自分)の目指すもの」といったニュアンスに巷では変質してしまっている。
 
 それゆえ、そのように語られる自己実現・自己実現欲求という言葉には、自分自身への強い執着がついてまわっていて、これらの言葉を持て囃している人からも、だいたい同じ気配が感じられてならない。
 
 

「街角の自己実現人間」は、たぶん天命を知っている

 
 自己実現の境地に辿り着いた人について、私は以下のようなことをリンク先で書いた。
 

自己実現の境地にたどり着く人は、その性格上、比較的人生のキャリアを重ねた人が多いように見受けられます。ただし、役職の高い人とは限りません。案外、事務のおばさんがそのような境地にたどり着いていて、周囲の人々を導いている……なんてこともあったりするのです。

 
 自己実現の境地に辿り着いている人というは、なにも、偉い人ばかりではない。つい、偉い人・業績をあげた人・有名になった人を想像したくなるかもしれないが、そういうものではない。
 
 もっと目立たない場所、小さなコミュニティのなかにも、自己実現の境地に辿り着いている人はいる。包容力のある立ち振る舞いで職場のムードメーカーになっているおじさんやおばさん、地道にコミュニティをメンテナンスしている年長者といった人々に、私は自己実現の境地を見出さずにはいられない。
 
 「街角の自己実現人間」は、承認欲求や所属欲求にガツガツしている素振りがまったくみられない。他人に褒められれば喜ぶし、自分の居場所やコミュニティを大切に思っているふしもみられるが、そういうものでは彼等の行動原理はほとんど説明できない。好奇心や知的探究心といったモチベーションでも彼らの行動原理を説明づけることは難しく、なにやら、確固とした行動指針のコンパスがあるようにもみえる。
 
 もう少し踏み込んだ物言いをするなら、“「街角の自己実現人間」は、己の天命をきき、それにしたがって生きているようにみえる。”たとえ、著名人のようなスケールのでかさや派手さは無いとしても。
 
 

「上を見上げるより周りを見ろ」

 
 自己実現・自己実現欲求という言葉には、いまだ、きらびやかな印象がこびりついているし、そのような言葉を口にする人々は上を見上げて歩いているようにみえる。
 
 でも、それはハイレベルな承認を求めているだけの話でしかなく、実際に自己実現の境地を目指すのなら、「街角の自己実現人間」のほうを向き、そういう人の生きざまを知っておくべきではないだろうか。
 
 つまり、己の天命をきいてそれにしたがっているような人々、確固とした行動指針のコンパスがあって、みだりに承認や所属の欲求に流されない人々を、間近の生活圏で探して、そういう人の生きざまを頭の隅に入れておくのも案外大切なことなんじゃないかと、私は思う。
 
 だからといって、上を向いて歩くべきではない、と言いたいわkではない。特に伸び盛りの年齢の人は、自己実現の境地なんて考えずに、承認欲求や所属欲求のおもむくまま、上を向いて歩いたって構わない。
 
 というより、そういう気持ちの時期は上を向いて歩いたほうが絶対にいい。
 
 だけど、上を向いて歩くこと、あるいはインターネットスラングでいう「何者かになること」と自己実現という語彙をイコールで結びつけるのは、ちょっとおかしいんじゃないか、とは申し上げておきたい。
 
 上昇志向の結実と、いつか辿り着くかもしれない自己実現の境地は、必ずしもイコールとは言えない。どれだけ偉くなってもちっとも自己実現の気配が感じられず、我執・妄執にみちた人間というのも実際にはごまんといる。他方で、それほど偉くなっていない「街角の自己実現人間」もちまたには存在している。
 
 我執・妄執を突き詰めるのもそれはそれで良いけれども、そのことを自己実現というワードで糊塗し、怪しげな正当化をするのはたぶん自分自身のためにもならないと思う。でもって、自己実現の境地について本当に知りたいのなら、「街角の自己実現人間」を探し出して、そういう人の背中から学ぶべきことのほうが多いのではないかと思う。「街角の自己実現人間」に、あなたは気づいていますか。