オタクが融解した、「げんしけん」二代目が、つらい - たまごまごごはん
リンク先の記事は、まだオタクという言葉に輪郭が備わっていた時代を覚えている人には身に染みるものじゃないかと思う。少なくとも私は他人事と感じられず、むずむずした気持ちになった。
いちいち引用しているときりがないので一か所だけ挙げてみる。
「げんしけん」一巻は2002年。
2002年のアニメ挙げてみましょうか。
「キングゲイナー」「おジャ魔女どれみドッカーン!」「シスタープリンセスRePure」「灰羽連盟」「最終兵器彼女」「まほろまてぃっく」「東京ミュウミュウ」「朝霧の巫女」「アベノ橋魔法☆商店街」「あずまんが大王」「ラーゼフォン」
だいたい雰囲気分かっていただけると思います。
雰囲気、分かります……。
昔、深夜アニメはオタクのものだった。
死語を用いるなら「大きなお友達」のもの。
記事タイトルになぞらえるなら「おれらの」もの。
その2002年から干支が一周した2014年。
もう、深夜アニメは「おれらの」ものではない。「みんなのもの」だ。『俺、ツインテールになります。』や『魔法科高校の劣等生』のような作品はあるにせよ、否、それらもひっくるめて、昔よりも帯域の広いジャンルに“成長”した。深夜アニメが日本のサブカルチャーシーンに占める存在感は2002年頃とは比較にならないほど大きい。
似たようなことがライトノベルやゲームにも当てはまる。これらが『ダ・ヴィンチ』や『日経トレンディ』に紹介されるようになったということは、「大きなお友達」の愉しみが「普通の大人が楽しんでいてもおかしくない」愉しみに変わった、ということに他ならない。
時代は変わった。
「みんながオタクになった」というより、オタク的とみなされていた諸々がメジャーになったのだ。
[関連]:ギャルはこのまま終わるのか?――相次ぐギャル雑誌の休刊とギャルの激減(松谷創一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース
時代の分水嶺としての『涼宮ハルヒの憂鬱』
最近、このオタクメジャー化現象の(ひとつの)目安として『涼宮ハルヒの憂鬱』を思い出す。
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『涼宮ハルヒの憂鬱』がライトノベルとして誕生したのは2003年だったが、アニメ版がちょっとした社会現象になったのは2006年以降だった。ネット動画、秋葉原の歩行者天国、そしてバラエティ番組に“ハルヒダンス”が登場したのを、覚えている人は覚えているはずだ。
もちろん、『ハルヒ』が時代に寵愛された背景にはYouTubeの存在があっただろうし、一年前の『電車男』がシーンにもたらした影響も無視できない。タイミングが良かったと言われればそのとおり。
ただそれだけでなく、『ハルヒ』という作品の内容・受容のされ方を思い出すにつけても、この作品こそが分水嶺だったんだなぁと思わずにはいられない。
『涼宮ハルヒの憂鬱』は、ざっくりまとめると二通りに消費された。
ひとつは主人公・キョンの自意識越しにみた『涼宮ハルヒの憂鬱』。
キョンの自意識は屈託だらけで、その思念・そのコミュニケーションは言語に頼るところが大きい。だからキョンの自意識越しにみえる『涼宮ハルヒの憂鬱』は、00年代前半のオタク向け作品としてあまり矛盾しない。劇場版『涼宮ハルヒの消失』は、そのようなキョンと(今となってはこれも古臭さすら感じる)長門有希の物語として、アニメ版のフィナーレを飾った*1。私にとっての『涼宮ハルヒの憂鬱』は、ここで終わったことになっている。
でも、それだけじゃなかった。
涼宮ハルヒ、というよりSOS団越しにも『涼宮ハルヒの憂鬱』は受容されていた。
オタクの写し鏡のような主人公を媒介者として『涼宮ハルヒの憂鬱』を楽しむのではなく、もっと集団性を帯びた、もっと身体的で、もっと間口の広いフックに引っかかった人達も、『涼宮ハルヒの憂鬱』を楽しんでいた。ハルヒダンスは言うに及ばず。文化祭で熱唱したハルヒもそう。あのときのハルヒは、果たして「おれら」に向かって熱唱していたのだろうか?そうかもしれないが、そうでないかもしれない。間違いないのは、90年代〜00年代前半にオタクをやっていた人達以外をも惹き付ける魅力が、あのときのハルヒとSOS団にはあったらしい、ということだ。
私は専らオタクの側から・キョンのほうから『涼宮ハルヒの憂鬱』を眺めていたから、この、消費の二重構造をそれほど自覚していなかったし、他人の指摘も半信半疑に眺めていた。けれども私が間違っていた。キョンは疑いなく「おれら」のほうを向いていたが、ハルヒとSOS団は「みんな」に向かってウインクしていた。
でもって、『けいおん!』だ。
この作品も、オタクの作法で楽しもうと思えばちゃんと楽しめる。でも、『涼宮ハルヒの憂鬱』に比べれば、いわゆる「萌え属性」的な要素は薄らいでいるし、キョンのような、往時のオタク的自意識も希薄だ*2。作品の舞台は軽音部になり、オタクの自意識や妄想よりも、集団的で、身体的で、日常的な学園ファンタジーが炸裂した。
「大きなお友達でなければ楽しめないニッチなアニメ」という面影は、『けいおん!』からは感じられない。京都アニメーションは『らき☆すた』のような作品も創っていたけれども、とにかくも『涼宮ハルヒの憂鬱』と『けいおん!』で旧泰然としたオタクとは異なる視聴者層に強烈にアピールした。
00年代後半のこうした出来事を経て、あるいはパチンコ屋に進出した大量のアニメ系コンテンツの援護射撃もあってか、気が付けば、深夜アニメは間口の広いものになっていた。深夜アニメを鑑賞するにあたり、オタク的な自意識も“オタクのお約束”ももう必要無い。たまに必要になったとしても、リンク先でmakaronisanさんが指摘しているように、ニコニコ動画で視聴していれば“勝手に誰かが教えてくれる”。
それだけ、深夜アニメは人を選ばないジャンルになったということだろう。
ハイコンテキストなジャンルからローコンテキストなジャンルになった*3ともいえる。
ジャンルは川の流れのように
ここ数年来の私は、こうした「人を選ばないアニメ」「ローコンテキストな作品」への流れを、嬉しさ半分、サンチメンタリズム半分に眺めてきた。オタク専ではない創りの『琴浦さん』や『花咲くいろは』を楽しみつつ、一方で『さくら荘のペットな彼女』『ソードアートオンライン』のような作品を視て精神の均衡を保っていたような気がする。
ところが、そのライトノベル系由来の作品群も実際はどんどん新しくなっていて、旧来のオタク的屈託、オタク的知識が必要な場面は少ない。「知っていれば面白い」要素こそあれ、そうした知識の乏しい学生さんでも楽しめるように創られている(望ましいことだ!)。今期のアニメ『魔弾の王と戦姫』なども、(絵柄の様子から)先祖返りしているようにみえてオタク的教養とはあまり関係なく楽しめる。
そして、旧来のオタオタしいお約束やコンテキストに依拠した作品は、観ていて痛々しいほど“老いて”いった。それを痛感させられたのが『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の二期放送分だ。一期が放送された頃の『俺妹』はそれなり新しくみえたが、二期が放送される頃には、この作品は突出して古めかしいと感じられた。ストーリーがどうこう以前の問題として、オタク的コンテキストの取り扱いが完全に時代に追い抜かれている感じがして、好きな作品だっただけに悲しかった*4。「あんなにキラキラしていた桐乃も黒猫も、古くなっちまったんだな」。
現在のローコンテキストな一例として、最後に『神撃のバハムート GENESIS』を挙げておく。
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ソーシャルゲーム原作のこのアニメは、誰でも楽しめるよう細心の注意が払われていて、作中情報だけで完結して楽しめるよう創られている。原作ゲームの知識はもちろん要らない。「萌え属性」には極力頼らず、“知っていなければならないお約束”も乏しい。こういう作品に触れると、ああ、深夜アニメは本当に「みんなのアニメ」になったんだなぁと感心する。もちろん、そういう感慨はこの作品に限ったものではない。
深夜アニメが市民権を獲得していくのは嬉しい。一方で、自分が思春期に愛したエッセンスがそこから失われていくのを眺めるのは悲しい。ただ、後者は思春期を終えた者のサンチマンタリズムであり、悲しみを感じるのは悪く無いとしても、悲しみに溺れて「自分の時代至上主義」に陥るのは有害だと思う。なにより、現在のアニメを楽しまないのは勿体無いことだ。
幸い、私の心は新しいアニメを見るたびに震えてくれる。少なくとも今は。今年は『シドニアの騎士』が特に思い出深かったし、くだんの『神撃のバハムート GENESIS』も楽しい。もちろん『Fate/Staynight』『Gのレコンギスタ』も楽しみだ。時代は変わっても、自分が年を取っても、面白いものは面白がっておこう。来年以降も楽しみだ。
- 作者: 熊代亨
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