2023年に入ってから働きすぎているが、9月ぐらいから労働が極まってきて、次第に息が詰まりそうになったり睡眠がとりづらくなってきた。実働時間でいえば研修医時代を上回っている気がする。寝ている時間以外、だいたい何かをやっているからだ。
20代や30代の頃、働くのはとにかくイヤなことで、それが仕事である限りともかく負担だった。それに比べれば今は仕事慣れしているし、その一部が自分の関心領域に寄ってくれたとも言える。特に文章をつくる方面は今でも好きだ。手が痛くならない限りで、カルテを書くのだってそれなり好きだったりする。
で、朝から晩まで、楽しみといえば『葬送のフリーレン』を観ることぐらいの毎日を過ごしていると、時間的制約以上に体力的制約から、ブログやツイッターを書くことが難しくなり、新しい小説やアニメやゲームに触れることも難しくなる。『ブルアカ』や『セーリングエラ』が遊びかけのまま私の帰りを待っているのに、いつ帰れるのか見当もつかない。新しいことが辛くなる。ログインボーナスだけもらうのが楽しくなる。夜も8時を回るとなにもできなくなる。
こうして働いて働いて働き尽くしてみると、視野が狭くなるかわりに生産効率は高くなる。新規性に向かって脳を開いていくのでなく、今あるものを・今あるとおりに。『シヴィライゼーション』や『Hearts of Iron』で技術開発をいったんストップして生産に全振りした時のような生産性は、人間においても可能だった。おれは2023年型のp_shirokumaを最適効率で吐き出し続ける工場だ! 2023年いっぱい、新規性をあきらめて現在の自分自身を無限生産する工場になると決めたんだ。それは一種の気持ち良さを伴うと同時に、視野の狭い、目の前の生産ラインにとらわれた境地でもある。
もし、こんなことを3年も続けたらどうなるだろう? 2026年になっても2023年式のp_shirokumaを吐き出し続ける工場を続けていたら、ちょっとした浦島太郎になってしまうだろう。一方で、こうも思う──これって、中年が全身全霊で働き続けた時に陥りやすいやつではないか? と。
中年の仕事にも色々あるだろう。
いつもイノベーティブな仕事をしている人、ある程度の余裕があり、その余裕を新規性へと割り当てている人もいる。だがそうでない中年もいる。命の蝋燭にかんなをかけながら、とにかく全力で目の前の仕事を最高の効率でこなしていかなければならない中年。それが精一杯の中年。そのように働かざるを得ない中年がなにもかも時代遅れになっていくのは必然ではなかったか?
20世紀の終わり頃、そうしてなにもかもが時代遅れになっていく中年を馬鹿にし、嘲笑する人々がいた。今だってそういう人は幾らでもいるだろう。しかし、こうして目の前の生産ラインにとらわれた毎日を過ごしてみると、くたびれたスーツみたいになっていく中年とは、働いて働いて働いた結果として視野が狭くなって、新規性にリソースを回せなくなって、娯楽すらおろそかになっていったのではないか、と想像したりする。
それは愚直すぎる働き方だし、今風とは言えない。でも、働くという営みがある一線を超えると、目の前の仕事以外は何もできなくなってしまうことがあり、そうしなければならない局面は人生や社会にはそう珍しくないのかもしれない。いや、珍しいわけがない。そのようになっていく中年はいくらでもいる。すり減りながら働いていく中年。きっと、何かの必然性があってやっているのだ。それが強いられたものか、選んだものか、選んだ結果として強いられる結果になったものかは定かではないが。
可能なら、私は2024年にはこのオーバーワーク状態を小休止して、心身を休め、ブログやツイッターや新しい小説やアニメやゲームに触れられる状態に戻りたいと思っている。それは計算だろうか。はかない願望だろうか。ときどき怖くなる。このまま2023年で自分の進歩は止まってしまうだろうか。ひょっとしたら自分は心身のどちらか(または両方)を破壊してしまうのではないだろうか。息が詰まりそうになる。不整脈が跳ね上がる。ぎりぎりをやっている。これでは老けてしまうだろう。それでも働く。ブログもツイッターもしなくなった人々のなかには、こうして働きすぎてできなくなってしまった人もいるのかもしれない。かつて、ブログやツイッターは働くことの合間の自然な息継ぎだったのに、今はこうして意識的に書かなければ書けなくなっている。焼きが回ったのだろうか。それとも働くとは本来こういうものなのだろうか。さあ、どうなんだろう? 時間と体力が30代の頃のようにあればいいのに、とも思う。