シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「俺が借りなきゃ誰が借りる」──図書館の利用、それと貢献

 
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黄金頭さんがbooks&appsで図書館利用について文章を書いてらっしゃった。エッセイと呼んで似合いの文章だと思う。はてなブログのエッセイストとして、はじめのほうに名前の挙がるブロガーではないだろうか。
 
図書館の利用については私にも来歴があり、思い入れがある。
触発されてそれを書いてみたくなった。書いてしまえ、と思う。
 
 

図書館で本を借りることを忘れていた

 
私は小さい頃から図書館に連れていってもらっていたので図書館で本を借りることには抵抗がない。当時の実家には蔵書と呼べるものはなく、狭い廊下の本棚には父の職業上の専門書と『史記』が、それと母が親族からもらい受けた、古びた子ども向け図鑑一式と絵本が収納されていた。それらのおかげで小中学生の頃は国語と理科と社会については苦労しなかった。
 
けれども高校時代からしばらく、図書館のことは忘れていた。大学生時代、レポートをつくるために大学の図書館や市立図書館を利用したことはあったけれども、通うことはなかった。読みたい書籍は買えば良いと思っていたし、買いたいと思う本じたい、そこまで多くなかった。私はビブリオマニアではなく、ゲーセンでアーケードゲームを嗜むゲーム小僧、ゲーオタだったからだ。医師免許証を手に入れてからは医学書との付き合いが始まったけれども、医学書こそ、図書館にはあまりなく、自分で買ったほうが手っ取り早い。そして仕事道具として使う書籍は借りるものでなく、いつも手許にあるものでなければならない。
 

 
こういった本は図書館で借りるわけにはいかない。特に洋書はアンダーラインをひいたり訳した言葉を書き込んだりしたいから、汚くなるほど使い込まなければ意味がない。そして20年以上精神科医をやってて思うのだけど、旧版を手許に残しておくと案外面白かったりする。ここの挙げた三冊はどれも旧版だが、それだけに最新版と読み比べると精神医学がどのように変わってきたのか、どう進化してきたのか察せられて面白い。フロイトや中井久夫の書籍もいいが、こういう分厚いテキストブックたちもそれはそれでいい。
 
 

人文社会科学の書籍は、図書館なしでは歯が立たない

 
そういう書籍との付き合いが変わったのは、私が書籍を書き始めてからだった。
 
書籍を書くか書かないかの頃の私は、精神医学や精神分析についての書籍は自分で買う、そうでない書籍は東京の大きな書店をぐるぐる見回して見繕う、ということをしていた。一番お世話になっていたのは八重洲ブックセンター*1、次点が新宿の紀伊国屋書店だ。半年に一度ほど、それらの大書店に出かけてじっくりと人文社会科学方面の書籍を手に取り、必要なものをまとめ買いする。東京に出る際の楽しみのひとつだった。
 
ところが書籍を書き始めて間もなく、半年に一度の東京詣ででは間に合わないことがわかってきた。
 
私は人文社会科学の本を「横と縦」に読む。
そのためにはたくさんの本が要る。
 

 
たとえばこれらの新書は単体で読んでも面白いが、単体では正否の判断がつかない。当該分野についての勘所、何が当該分野で常識とみなされ、何が筆者のオリジナリティといえるのかもわからないままだ。だから一冊の新書を「上陸地点」にしたら、横と縦に読書を広げなければわかったことにはならない。
 
横とは、同じ分野の別の新書や解説書を当たってみることだ。一冊目と二冊目と三冊目の著者が別々にもかかわらず同じことが書いてある内容は、当該分野で常識とみなされている見込みが高い。もちろん、googleやtwitter(X)で書籍のタイトル、当該ジャンルを検索したりするのも良い。似たような書籍を読むことで多少はその分野について読んだぞという気持ちになってくる。巻末に記された参考文献もたまってくるだろう。
 
次は縦の読書だ。縦の読書は、それらの新書の巻末に記されている、原著や原著により近い位置づけの解説書や学術書のたぐいだ。日本はかなり多くの外国書籍が翻訳されている大変ありがたい国なので、私は少ない数の原著を現地語で読むのを諦めるかわりに、より多くの邦訳原著を広い分野で読み漁る道を選んだ。邦訳といえども、原著を読むのは登山に似ていて、頑張らないと読み切れないし頑張って読んだだけでは景色がちゃんと記憶されない。
 
資料として読むなら斜め読みして必要な箇所を中心に読む……というのももちろんアリだ。でも、人文社会科学の書籍はキチンと読んだほうが筆者の人となりや社会についての感性が伝わってきて私は好きだ。インターバルをあけて二度三度と読み返すともっと理解が理解が深まるから好きだ。新書を読むだけでは伝わってこない妙味は、だいたいそういうところに潜んでいる。だから邦訳原著の景色をきちんと味わおうと思ったら、いきなり飛び込むでなく、新書や解説書や学術書で下準備をやった後が好ましい。それでやっと、納得や合点のいく読み方ができる……ような気がする。
 
こういう読書の仕方をはじめて以来、一冊の新書を上陸視点として縦横に無数の書籍を読みたい気持ちが起こるようになり、さりとてその全部を購入していては身がもたない。そして人文社会科学の書籍には絶版になって異様なプレミアがついてしまっているものも少なくない。
  
たとえば『逸脱と医療化』はもう何年も前から二万円を切ったことのない絶版本だ。こういうプレミア本が行く手を遮るように現れた時、ガチャを回すような気持ちで購入するのはちょっと躊躇う。これは1連数万円のガチャなのだ。そんなもの回していられない。買うにしても、本当に大切な本なのか見当をつけなければならない。じゃあ、どうする?
 
それで私は図書館のことを思い出した。少し大きな街の図書館に出かければ、人文社会科学の書籍はそれなりある。県立図書館という手もある。使い方をマスターしてみると、図書館は知識の宝物庫だった。一冊の新書からスタートした知識、特に縦に向かって専門書や学術書や邦訳原著を攻略する際には、まず図書館で借りてみると勝手がわかった。
  
そうした図書館での人文社会科学の書籍で特に思い出深いのは、この『<子供>の誕生』だ。これは、社会を見る目も精神分析を見る目も一変させてくれたし、この書籍自体が新たな横の読書の起点になった。すぐに自分でも買い、アンダーラインを引いたり文句やツッコミを書き込んだり、表紙がボロボロになるほどヘビーユースしている。
  
なかには「買うほど重要じゃないかも、でも目は通しておきたいな」って本もある。『ヒトラーとドラッグ』などもそうした書籍のひとつだった。自宅に置いても腐ってしまう、でも念のため読んでおきたい書籍を借りる場として、図書館はありがたい。そうやって知識を耕す公共の引き出しとして図書館を用いはじめたら、やめられなくなってしまった。そして私は少しずつ読書のキャパシティを広げていって、10年前に比べてより多くの本が読めるようになった。それは図書館のおかげだ。
 
 

「おれが借りなきゃ、誰が借りるんだ」の精神でバシバシ借りる

 
私は、そうした図書館での書籍の貸し出しについて罪悪感をまったく覚えていない。ひとつには私が小さい頃から図書館で本を借り続け、その恩恵を受けてきたからだが、もうひとつには、私が借りることでその書籍の運命が変わるかもしれない……というものもある。
 
どういうことかというと、図書館の書籍って借りてあげないと処分されちゃうことがままあるよう、思われるからだ。
 

 
たとえば我が家にはこのE.エリクソン『洞察と責任』の旧版があるが、古本屋でこれを購入した時、そこには○○大学図書館 というはんこが押されていた。除籍されてしまった本が古本屋に回ったのだろう。図書館の本はボロボロになっても除籍されるが、まったく読まれなくなっても除籍される運命だ。
 
だとしたらだ。図書館の本にとって、借りられる、ということは結構大事なことではないかと私は思う。まるで書籍に魂が入っているような、除籍する時に供養が必要そうな物言いに聞こえるかもしれないが、実際私はアニミズムな日本人なのでそういう感性を持っている。そして図書館には誰にも借りられることのないまま年を取っていく書籍がたくさん眠っている。
 
さきに紹介した『<子供>の誕生』やプレミア本である『逸脱と医療化』も、図書館で会った時にはそうだった。それらは通常の本棚には置いてなく、奥の書架から取り出していただいたものだった。たくさんの人が予約し、たくさんの人に読まれていく人気書籍たちをよそに、図書館には、ありとあらゆる分野の素晴らしい、でもあまり読まれる機会のない学術書や専門書、しっかりとした解説書が無数に眠っている。それは貴重だし、それらも図書館を図書館たらしめているもの、自治体ひいては県民/市民全体の知識の源たらしめているものだと思う。
 
そうはいっても一人の人間が借りられる書籍の数なんてたかが知れている。また、除籍の判断にあたって読者が借りた実績がどれぐらい重視されるのかも私にはわからない。けれども図書館で眠り続けているありがたい書籍たちに私が(それとも私たちが、だろうか)できる最善のことは、そうした眠れる書籍たちをちゃんと借りて参考にして、利用者の一人として知識をつけること、そしてなにかに役立てること、得たものを社会に還流していくことだと思う。
 
私の場合、とにかく文章を書きたい人間だから、図書館で借りた書籍は第一に参考文献として用いる。それだけじゃない。ブログを書くでもいいし、誰かとのおしゃべりに役立てるでもいい。自分が本を買うかどうかの下見としても遠慮しないし、小説や絵本からインスピレーションや感動をもらい受けるかもしれない。とにかく、図書館とその蔵書にとって好ましいのは、借りられること・貸すことをとおして利用者に良い影響を与えていくことだから、借りて役立てるのが筋ってものではないかと思う。
 
特にプレミア本や学術書を自分で買うのを躊躇している人には、図書館の奥の書架で眠っている本を借りて、読んでみるのをオススメしたい。もちろん図書館の本はみんなのものだから丁寧に扱わなければならないし、ちゃんと期日に返さなければならない。もっとも、そういう本は2週間では到底読み切れず、レンタル延長を申し出ることもあろうけれども。いずれにせよ、公共物という意識のもと、節度と分別を弁え、感謝の気持ちを持ちながら貸していただくものだろう。そうして自分の血肉としたり参考にしたりすると同時に、その、書架に眠ったままになりがちな書籍には「この本を借りて必要としている県民/市民がいました」という履歴が残ることになる。
 
奥の書架から出していただく書籍のなかには、手垢のまったくついていない品もあったりする。たくさんの人に読まれる書籍を用意するのも図書館の役割だが、こんなに読まれない書籍まで取り揃えてあるのも図書館の役割だと私は思うので、その新品同様の書籍を喜び勇んで読みにかかる。そして自分が借りることをとおして、その書籍の命運が少しでも長くなればいいなと願ったりする。もちろん、一度借りられたぐらいでは何も変わらないに違いない。それでも一人の利用者として図書館の書籍にできること、ひいては図書館の役割や存在意義を浮き彫りにすることとは、自分が借りるべき本を借り、そこから何かを読み取って、得たものを世の中にそれを還流させていくことではないか、と思う。
 
図書館には、予約が殺到する書籍もあれば誰かに借りられるのを静かに待っている新品同様の書籍もある。そこにこそ、図書館にならできる、図書館にしかできない公共の知恵を提供する大事な機能があり、インターネットでは得ようのない知識の泉もあるように思う。だから図書館、もっと使ってもっと知識を汲み取ろうよ。そこで大事な書籍に出会ったら本屋さんで買っちゃおうよ、と言ってみる。
 
 

*1:建て替え中