シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

水星の魔女はガンダムという伝統芸能をやってのけた

<この文章には『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のネタバレを含みます>
 
 
 

 
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第二期がこないだの日曜に終わった。大団円のエンディング、と言えるんじゃないだろうか。第一期に引き続いて、2020年代のガンダムとして『水星の魔女』は完結した。私はそれをうれしく思う。
 
 
2020年代にガンダムという手垢のついた、伝統すらできてしまっているIPの新作を作るのは、とても大変だろうなぁ……と放送前から思っていた。私自身、長年ガンダムを観てきた人間だから、ガンダムと銘打つからには、その作品にはガンダムらしさがあって欲しいと願っていた。歴代のガンダムだってそうだっただろう、ガンダムがガンダムらしくない時には賛否両論が沸き起こる。だから歴代のガンダムも、それぞれ「これだってガンダムなんだよ」と主張できる共通点を何かしら持とうと努めていたように思う。そうやって何十年もやっているうちに、ガンダムには定型詩に似た、ある種の様式が生まれていた。
 
ガンダムという伝統。
それは表現の幅を狭める束縛かもしれないし、ガンダムという束縛をとおして何を表現するかを競う、短歌や五言絶句のような様式と言えるかもしれない。
 
でもって、『水星の魔女』はガンダムという伝統に沿っていただろうか?
私は、めちゃくちゃ沿っていたように思う。製作者側がガンダムというものをよく理解して『水星の魔女』を制作していた。元々ガンダムが好きな人が「何がガンダムらしさか」を研究したうえで制作に臨んでくれていたのだと思う。このことは、ガンダムという伝統芸能の新作において、かなり重要なポイントだったんじゃないだろうか。
 
本作にはガンダムらしさが横溢していた。
子世代の親世代に対する反発や葛藤。地球圏と宇宙圏、その確執。仮面の人物とその謎。ガンダムが盤面をひっくり返す。ガンダムとパイロットのシンクロニティ、ときにそれが有害な作用を及ぼし、廃人をもつくってしまう描写。そしてガンダムをとおして過去の死者と語り合う最終回。
 
これらひとつひとつが無くても、ガンダムという伝統を表現してみせることは不可能ではない。けれども『水星の魔女』は、こうしたものをとおしてガンダムらしさを表現していた。ガンダムでないアニメなら、こうした表現を踏襲する必要はあるまい。けれども本作がガンダムを名乗る以上、それはガンダムでなければならなかったし、ガンダムらしさを表現しなければならなかった。
 
そうしたガンダムらしさの枠組みを守りつつ、『水星の魔女』はSNS映えをうまく演出していた。それは『コードギアス』風のガンダムだったかもしれないし、第二期になっても宇宙空間と地球圏の広がりや奥行きがわかりにくい、ちょっと紙芝居めいたガンダムだったかもしれない。ベネリットグループなどの企業まわりの話をはじめ、正直、粗いと感じた箇所がなかったわけではない。もっと言えば、「私自身が見たかったガンダム」はたぶんこうじゃなかったとも思う。たとえば、このガンダムの筋書きはSNS映えを重視し過ぎているように私には見えた。SNS時代の番宣を考えるに、それは効果的な戦術だが、結果としてとってつけたような話の流れに陥ってなかっただろうか。
 
それでもガンダムという伝統芸能をやってのけつつ、現代風に番宣し、ガンプラ販売への努力もやってのけていた『水星の魔女』は立派だったと思う。モビルスーツ戦の描写にあまり予算がかけられない事情のなかでも、色使いやエフェクトなどに気を配り、精一杯ガンダムが映えるよう、ガンプラが売れるよう努めているのも伝わってきた。ガンダムが他のモビルスーツたちとは別格であるさまも伝わってきた。脇役のポーズが『ガンダムW』のオマージュだったのもなんだかうれしかった。
 
さりとて古けりゃいいってものでもない。『鉄血のオルフェンズ』や『ガンダム00』もそうだが、ガンダムはいつも古くて新しい作品であるべく、努力を繰り返してきた。古いだけのガンダムを日曜午後5時に放送する意味は無いわけで、それぞれの時代のガンダムは、それぞれの時代の新しさを必死に表現してきたように思う。そのさまは、あたかも華道の家元の継承者が、伝統を引き継ぎながらも自分の代ならではの表現を模索するかのようにもみえる。これは、ガンダムが伝統芸能化しているから成立するアングルで、私のような年取ったファンは毎回、「今回のガンダムはどんなガンダムをみせてくれるんだろうか」と楽しみにすることができる。
 
で、『水星の魔女』は2023年にふさわしいガンダムだっただろうか?
 
イエス!
 
さまざまな制約があったにもかかわらずこうして古さと新しさの混じりあった2023年のガンダムがつくられ、無事に最終話まで視聴できたのは眼福としか言いようがないじゃないですか。だったら『水星の魔女』に難癖をつけてまわるより、私はそのアチーブメントを讃えたい。主題歌と作品の組み合わせもキャラクターも良かった。その点も含め、今ならではのガンダムではなかったかと思う。
 
『水星の魔女』をつくった人たちは、立派な温故知新の作品を作ってくださったのだと私は思いました。ガンダムを演るってのは、絶対に大変だったはず。お疲れ様でした。いいものをみせていただきました。次回作も楽しみに待ってます。
 
 
[第一期を視聴し終えた時の感想はこちら]:明後日のガンダム──『ガンダム水星の魔女 第一期』感想 - シロクマの屑籠