シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

新型コロナ対策というトロッコ問題と民主国家の責任問題を考えていたらわけがわからなくなった

 
新型コロナウイルス感染症が第七波を迎えているとのことで、医療機関を中心に危機感が高まってきている。他方、先日の祇園祭の写真が示すようにコロナ禍以前の日常を取り戻す活動も目立ってきた。ワクチン接種が進み、重症者の割合が下がっていることも含めて、さまざまな要因が重なって人々の行動選択や世間の雰囲気が変わってきて、それらを背景として医療や政治の偉い人の判断も変わってきているのだろう。
 
それにしても。
 
感染症対策や行動自粛のゴールポストが少しずつ変わっていくさまを見ていると、諸決定には命がかかっているにもかかわらず、人々の行動選択と世間の雰囲気、それらの空気を読むまつりごとによって決まっているのだとしたら、それって本当はなんだろう?と思ったりする。間接的にせよ、私たちのなんとなくの行動選択と世間の雰囲気によってゴールポストが動いているとしたら、そのゴールポストを動かしている私たちの意志決定とその責任っていったいどんなものなんだろうか?
 
ただ、後でも触れるように、私たちがなんとなくで行動選択し、世間の雰囲気を醸成し、それを参照しながらまつりごとが決まっていくことが無自覚だから悪い! 自覚しろ! 自覚したうえで決断しろ! と言い切っていいのかも本当はわからない。国民主権な民主国家においては、完全に無自覚ってのもいけない気はするけれども。
 
この第七波も含めて、コロナ禍に際しての私たちの行動選択は、何かを選ぶ替わりに何かを捨てる・削るの連続だった。一見、何かを救っているようにみえる選択も、かならず何かを犠牲にしたり代償にしたりしていた。たとえばコロナ禍の第一波の頃、私たちは行動選択をとおして犠牲者を最小にできた一方で、支援も不十分なままサービス業者が朽ちていくことにもなった。それは、医療や政治の偉い人の判断だ、という人もいるかもしれない。ある程度はそうだろう。けれども民主国家であるこの国において、偉い人の判断の背景にはいつも私たちの声や行動選択や世論がある。だとしたら、全部が全部、医療や政治の偉い人の責任だと言い切るのはおかしいだろう。日本が民主国家で、政治家も民意や世論を気にしている以上、本当は私たちにだって責任がある。政治家にアサーティブに働きかける圧力団体が介在しているとしてもだ。
 
第二波、第三波とたび重なる感染拡大に際しても、行動自粛のゴールポストが動いたり税金で賄われる援助があったりなかったりした。が、何かが選ばれ、何かが捨てるか削られた構図は同じだ。東京オリンピックの頃もそうだ。そうした選択の結果、医療の領域で救われた命もあっただろうし救いきれなかった命もあっただろう。でも医療がこの世のすべてってわけじゃないので、経済領域や社会関係の領域で救われた命、救われなかった命もあっただろう。もちろん経済領域や社会関係が停滞することで間接的に命を削られることだってある。外出機会やコミュニケーションの減少によって認知機能が低下した人や、メタボが進んだ人もいたし、家庭の問題が深刻になった人もいた。もちろんリモートワークによって楽になった人、学校をやめずに済んだ人もいただろう。
 
いずれにせよ、だ。
 
みんなの行動選択と世間の雰囲気をとおして、コロナ対策が毎回繰り返され、そのつど、人々の命運は大きく左右された。毎度のコロナ対策がひとりひとりの思い描いたとおりのコロナ対策でなかったとしても、それは私たちみんなの選択の結果という側面が伴っていたはずで、私たちにはなにかしら責任があり、私たちの空気を読む医療や政治の偉い人をそのように行動させる背景をつくりあげてきた側面が伴っていたはずだった。日本が民主国家で、私たちがデモクラシーを奉じて生きているってことは、そういうことでもあったはずだし、実際、コロナ禍の最中にも国政選挙が行われたりもした。
 
 

医療重視でも経済重視でもなにかしら犠牲が出るとしたら、これってトロッコ問題的状況じゃないか

 
医療に激振りすれば直接的な新型コロナウイルス感染症の害悪が少なくなる一方、経済的・社会関係的な害悪が多くなる。その正反対に激振りすれば経済的・社会関係的な害悪が抑えられる一方、新型コロナウイルス感染症の害悪が増えて、医療崩壊を迎えれば他の病気で亡くなる人も増える。
 
そこまで極端な二択ではないとしても、医療ー経済のスライダーのどのあたりに振ってもそれなり救われる人もいれば、それなり削られたり失われたりする人もいるとしたら、これは命の選択にほかならない。
 
で、命の選択といってふと思い出すのが、マイケル・サンデル教授の『白熱教室』でもとりあげられていたトロッコ問題だ。
 

 
走るトロッコに乗った5人を見捨てるのか。それともトロッコを止めるために待避線へと進路を切り替え、そこにいる1人がトロッコに轢かれて犠牲になるのはやむなしとするのか?
そもそもそういう選択を迫ること自体がひどいとか色々なことが言われがちだけれど、この問題を正面きって考えることは哲学領域では重要なことだと考えられ、たくさんの論者が考察していると聞く。それはそうなのだろう。
 
問題は、私たちは哲学領域で考察しているわけでも、哲学者なわけでもない、ということだ。哲学者はトロッコ問題に考察をもって挑めばいい。しかし私たちまでトロッコ問題を考えるよう迫られ、考えないのは人間失格だと言われてしまったらまあその、困る。そもそも、そんな選択を迫る前になんとかすれば良かったじゃないかと言いたくなるのが非-哲学者の心情だろう。
 
ところが新型コロナウイルス感染症によって、私たちはトロッコ問題を回避不能な選択として迫られ続けているのではないだろうか。もちろんここでの選択は、トロッコをどうするかではなく感染症対策だし、決定の段を下すのは医療や政治の偉い人ではある。けれども私たちだって本当は、人々の行動選択や世間の雰囲気をとおして、間接的には感染症対策の決定に影響をおよぼしているはずだ。ことの真っ最中に国政選挙が行われたとなれば尚更である。
 
そうやって私たちだって、少なくとも間接的には誰かの命が助かるかわりに誰かの命が削られたり失われたりする、そういったたぐいの選択をしてきたのだとしたら? で、それは医療や政治の偉い人の責任であると同時に、民主国家においては私たちの責任でもあるとしたら?
 
 

人の顔が見えるのにトロッコのレバーを引けるのも、それはそれで恐ろしいのだけど

 
「民主国家において、感染症対策にはトロッコ問題的側面がある」と気づいてみると、私などは、なんと恐ろしい意志決定だろうと怖気づいてしまう。しかし民主国家としての年季が違う欧米諸国をみる限り、たぶん、彼らはそれをやってきているのだろう。欧米諸国が日本よりデモクラシーの意識が高いという通説に基づくなら、欧米諸国の人々は、トロッコ問題的側面があるとわかったうえで日本よりもずっと早くコロナによる自粛を緩和し、沢山の人が新型コロナウイルス感染症にやられる状況を甘受してきたってことになる。たとえ、そこにうまくいく/うまくいかないといった目算があり、その目算の当たりはずれがあるとしてもだ。
 
たとえばスウェーデンのコロナ政策は透明性が高い議論がなされている、と往時には盛んに報じられたものだ。透明性が高い議論が行われるってことは民主国家として褒められることのはずだし、少なくともなし崩し的に決定がなされるよりは好ましいはずだろう。しかしその透明性が高いと報じられた議論の結果として、2021年のスウェーデン人はコロナにさんざんにやられた。透明性が高い議論、民主国家として(たぶん日本に比べて)優れた意思決定の果てにそれが起こったのだとしたら、スウェーデンの人々は、自分たちがトロッコのレバーを引いたというその感触を自覚していたのだろうか?
 
こちらの東京新聞の記事を読む限り、スウェーデンの人々といえども、醒めた目でトロッコのレバーを引いていたとは言い切れないようにみえる。Aを選んでもBを選んでも誰かが助かって誰かが犠牲になるとわかっている選択を、醒めきった意識でやってのけるのはスウェーデンの人々にだって簡単ではないのだろう。たとえ民主国家の取り決めとしてそうなっているとしても、人間は、哲学命題の水準で実地の選択肢をそう簡単には選べない。
 
もちろん数字だけを見ていればそれができるかもしれないし、数字だけを見て判断しなければならない場面もあるかもしれない。そう考えると、各方面の偉い人に課せられた責務の大きさは知れない。しかし、身内に高齢者がいる人、職場で基礎疾患のある人を診ている人、経営の厳しい観光業やサービス業の身内のいる人、ひと夏をコロナに潰された子どものいる人、等々が、トロッコのレバーを引けるとはちょっと思えない。つまり人の顔が見えるのにトロッコのレバーを引くのはめちゃくちゃ難しいように思える。ポジショントークや自己中心的な動機に基づいて、やれ、自粛しろ、自粛やめろと主張するほうがある面においてよほどマトモではないだろうか。たとえそれが、民主国家の主体としてふさわしくないとしても。
 
感染症対策に限らず、本当は、民主国家のさまざまな決定にトロッコ問題的側面があり、たいていの選択肢が誰かを救うと同時に誰かを救えない、そういった性格のものだとしたら、民主国家の主体としての私たちは、それを醒めきった意識でいちいち決定できるものなのか。また仮に決定すべきだとして、決定するのが人間的だと言えるのか? 人間が哲学命題の水準でデザインされているならそうかもしれないが、きっと人間は哲学命題の水準でデザインされていないから、それって非人間的ではないかと思わずにいられない。だとしても、独裁を否定し、民主国家のていのもと私たちがそれをやっていかなければならず、意識していかなければならず、責任を負うていかなければならないとしたら、なんと難しいのだろう……と思う。
 


 
それとも実際には他の民主国家でも「おれたちは雰囲気で民主国家をやっている」のが実態であり、本当はそれぐらいでちょうど良いってことなんだろうか? そのあたりもあまりわからない。
 
新型コロナウイルス感染症をとおして、私は、民主国家とその責任の所在にトロッコ問題がくっついていることを次第に意識するようになった。だけど本件に限らず、民主国家が有限のリソースを振り分ける際にはトロッコ問題的要素は常についてまわっているはずなのだった。そして戦争が起こる/起こらないといった極端な状況下では、感染症対策よりも鋭利な決断を迫られるかもしれない。
 
こうやって考えているうちに、こうした決定と責任のプロセスが正気とは思えなくなってきた。しかし正気とは思えなくても民主国家の主体たるもの、それを引き受けるのが筋なのかもしれない。人の顔が見えるのにトロッコのレバーを醒めきった意識で引くのは私には正気とは思えないから、私だったら人の顔を思い出しながら引いてしまうだろう。で、その総体として民主国家の意志決定がなされていく……という風に考えたくもなる。どうあれ、責任を医療や政治の偉い人だけに帰するわけにはいかないはずだ。