シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

新型コロナウイルスと、呪術で戦っていませんでしたか

※今日、書くことはエビデンスを踏まえたものではありません。感染対策に貢献するものでもありません。私のエッセイ、いや思いつきでしかないことをあらかじめ断っておきます。※
 
 

(※出典:『肥後国海中の怪』(京都大学附属図書館所蔵))
 
 
人々は、新型コロナウイルス感染症と「呪術」や「アニミズム」で戦っていたのではないだろうか。
 
 
外出自粛やマスク、手洗い、医療機関や行政機関の努力の甲斐もあって、5月27日現在、この感染症は下火に向かっているようにみえる。実際にウイルスの拡散を防いだのは医療や防疫のテクノロジーであり、そうしたテクノロジーにもとづいて専門家が助言を行い、施政が行われたからだろう。
 
 
そのことを踏まえたうえで、専門家ではない私たちの大半がどのように感染対策を"体験"したのか、あるいは"解釈"したのかについて、所感を書いてみたい。
 
専門家ではない私たちのなかには、この、新型コロナウイルス感染症との戦いを「呪術」として、「アニミズム」の一環として戦っていた人はいませんでしたか。
 
医療機関や行政機関は、サイエンスやエビデンスに基づいたかたちで「不要不急の外出をひかえてください」「マスクをしてください」「ソーシャルディスタンスを保ってください」とアナウンスしていた。そこに呪術やアニミズムが入り込む余地はほとんど無かったように思う。
 
だけど、そうしたアナウンスを受け取る私たちは、サイエンスやエビデンスに基づいたかたちで受け取っていただけでなく、むしろ同時に、「穢れを払う」「清める」「物忌みをする」といったかたちで受け取り、実践してはいなかっただろうか。
 
いわば、私たちは医療機関や行政機関のアナウンスするとおりに感染対策を実践すると同時に、「穢れを払う」「清める」「物忌みをする」といった日本人に古くから伝わる呪術をも実践していたのではないだろうか。
 
感染対策が叫ばれていた頃、人々は、争うようにマスクや消毒液を買い求め、驚くほど従順に外出自粛を成し遂げ、進んでソーシャルディスタンスを守ろうとした。もともと日本にはきれい好きな習慣があり、手を洗ったりマスクをしたりすることに抵抗の無かったとはいえ、諸外国と比較しても素早く、徹底的にそうした感染対策が実践に移された。
 
命が惜しいから感染対策?
そういう人は大勢いたはずだ。
 
なんだか不安だったから?
もちろん不安は私たちを強力に動機づけたことだろう。
 
サイエンスやエビデンスを理解していたから?
うん、日本にもそういう人はいたに違いない。
 
でも、そういった常識的な動機だけでなく、私たちは*1アニミズムな魂の命じるまま、「穢れを払う」「清める」「物忌みをする」ことに熱中してもいなかっただろうか。
 
たとえばマスク。マスクが売り切れはじめ、ドラッグストアに行列をなして買い求めていた頃、マスク着用をサイエンスやエビデンスに基づいた感染対策として実践していた人はいったいどれぐらいいたのだろう?
 
とりあえずマスクをしてさえいれば、鼻がマスクからはみ出していても、裏返しに装着していても平気な顔をしている人がたくさんいた。あと、空気を清めるだとか、手を洗うだとかに関して、サイエンスやエビデンスを度外視した、気休めというより有害な行動を繰り返していた人々も多かった。外出自粛に関しても、どうしてあんなに人々は熱心で忠実だったのか? よもや、ときの政権に人々が忠誠を誓っていたから、ではあるまい。
 
思い出せば思い出すほど、あの頃の私たちは感染対策に熱心だった。サイエンスやエビデンスを度外視している人も多かったはずなのに、感染対策は熱気に包まれていた。あの熱気はいったいなんだったのか?
 
サイエンスやエビデンスを皆が理解していたからではあるまい。そもそも、サイエンスやエビデンスを動機としていたなら、あれほどの熱気は生じなかったのではないか。3月の半ばから5月上旬にかけての、物忌みカーニバルとでもいうべき、異様な熱心さで行われた感染対策は、私たちの習慣や伝統に練り込まれた、無意識のうちに駆動する壮大な呪術でもあったのではないだろうか。
 


 
この二つのツイートは4月3日時点のものだが、形式主義的なマスク着用が横行しているのを見ているうちに、私はマスク着用には感染予防の役割と同じかそれ以上に、社会的・心理的な役割が宿っていると思うようになっていった。
 
それに伴って、人々の着用しているマスクが「注連縄(しめなわ)」に、コンビニのレジに設置されたビニールシートが「鳥居」のようなものに思えてきた。人々は、マスクをしたりビニールシートを敷いたりソーシャルディスタンスを保ったりして、いわば、「結界」を作っている、といったイメージだ。
 
そういうイメージを持っている日本人が私以外にたくさんいても、サイエンスやエビデンスにもとづいた感染対策と矛盾していなければ、呪術とて咎められることはない。
 
ネットの賢い人たちのなかには、実のところ感染対策を呪術のように実践している人々、形式はなぞっていてもサイエンスやエビデンスへの理解が欠如している人々に勘付き、警告を発する者もいた。けれどもそれは少数派で、結構な数の人々は、メディアからの情報をサイエンスやエビデンスにもとづいて理解し実践したと同時に「穢れを祓う」呪術にもとづいて解釈し実践していた、ように私にはみえた。それどころか、サイエンスやエビデンスにはほとんど無頓着に、感染対策を専ら呪術ベースで解釈し実践していた人も、本当は少なくなかったのではないか。
 
もともと日本ではトイレの後に手を洗う人がたくさんいるが、たとえば新宿駅のトイレの手洗いコーナーなどを見ていればわかるように、トイレの後の手洗いをキチンと実践している人は思うほどにはいない。しかし、ともあれ手を洗うこと・手を清めることを習慣にもとづいて(形式的に)実践している人はかなりいる。あるいは、サイエンスやエビデンスにもとづいた手洗いが実践できなくても、習慣にもとづいて(形式的に)手を洗えればとりあえず気が済む人々が存在している。
 
サイエンスやエビデンスに基づいて感染対策を推し進めていた人々の思惑とは別に、アニミズムや呪術に基づいた動機がドライブしていて人々が異様な熱心さでマスクや外出自粛やソーシャルディスタンスをやっていたのではないか?……と考えてみたとしても、特段、役に立つ知見が得られるとは思えない。かりにそのような動機が今回の騒動でドライブしていて人々を躍起にさせていたのだとしても、それが感染を実際に防いだと考えるのは正しくないだろう。感染対策の効果は、あくまでサイエンスやエビデンスに基づいて分析されなければならない。
 
しかし、そうした真面目な話とは別の与太として、この数か月にわたって異様なまでに忠実に行われた感染対策のうちに、私は、熱気を、熱情を、動機を、モチベーションを見てしまった気がした。命が惜しいから・不安だからといった一般的な動機に加えて、なんらか、お祭りやお祀りのごときエネルギーが宿っているように感じた。
 
もちろんこれは、私の主観に基づいた心象風景に過ぎないのだけど、こういう心象風景ができあがったのは久しぶりだったので、ここに書き残しておくことにした。他意は無い。
 
 
 
 
 
 
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[関連]:熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』第一章(上)を公開します - シロクマの屑籠
[関連]:熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』第一章(下)を公開します - シロクマの屑籠

 
*2020/05/27の15:40に、アマビエさまの画像を貼り付け。

*1:いや、もうこの際、私はと言ってしまったほうがスッキリするか