シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「非国民」のボルテージとリアリティ

 


 
ろくな感じ方ではないけれども、「非国民」的な考え方が水面下でどんどん高まってきていると感じる。
 
今のところ、日本人が日本人に対して「おまえは非国民だ」という語彙を使っているところを見かけることはないし、今の段階では、非国民なんて言い回し自体、流行らないだろう。けれども実質的には非国民と他人を名指しで非難するのに限りなく近い表現や言い回しを、オンラインでもオフラインでも耳にするようになった。でもって、「おまえは非国民だ」に限りなく近い表現や言い回しをしている人は、いかにもそれが必要なこと、正義にかなったことであるかのように表現している。
 
この現状を見ていて、戦中、誰かを「非国民」呼ばわりする人間がいたという事実にリアリティを感じるようになった。いや、実際戦中には「おまえは非国民だ」と言う人がいたのだろう。けれどもそれがピンと来ないというか、本当にそんなことを言う奴がいたのか? と思う部分があったわけだけど、この十数年の間に、どんどん「なるほど、そりゃ戦中にはそういう奴がいただろうなー」に変わってしまったのだった。
 
昭和の終わりから平成のはじめにも、そういう人間は本当はいたに違いない。
けれども学生時代の私が「おまえは非国民だ」という表現を見たのは、それこそ『はだしのゲン』のような作品のなか、戦中を語る世代の「悲惨な戦争を繰り返さないようにしましょう」系の話のなかのことで、日常生活のなかで「おまえは非国民だ」的なことを言う人間に出会うことは無かった。少なくとも、今思い出すことはできない。誕生してそれほど時間の経っていない頃の2ちゃんねるの片隅では、そういう言葉を見かけたかもしれないが。
 
「おまえは非国民だ」に近い表現や言い回しを意識させられるようになったのは、第一に、東日本大震災のときだった。震災が起こり、福島で原発事故が起こってから、さまざまな人がさまざまな言葉を木霊させた。その際、"自分たちの考えていることこそ国民として当然の考え方で、そうでない考えは国民として異常な考え方である"といわんばかりの表現や言い回しを私は何遍も見聞きした。
 
災害復興についての議論で、原発や放射能についての議論で、何%の人がそうだとは言えないにせよ、語気の荒い人々は他人を国民としてふさわしくないかのように、きついレトリックで糾弾した。そうした糾弾の背景にある心情や利害は、この際問わない。どうあれ、非国民という語彙の焼き直しにしか見えない言葉が、たとえばtwitterの大通りあたりを流れていったのだった。
 
でもって新型コロナウイルスの大流行をとおして、「おまえは非国民だ」の令和版とでもいうべき表現や言い回しは一気に増大した。マスク着用などの行動規範を巡って、ワクチン接種を巡って、また政策と利害を巡る諸々を巡って、「おまえは非国民だ」の令和バージョンを披露する人々がいた。第二次世界大戦以前とは状況が違うから、もちろん、「国民か、非国民か」という語彙そのものは現れない。が、今がもし戦中なら、かならず「おまえは非国民だ」という形態を取ったであろう言葉が、パンデミックをとおして炙りだされた。
 
たぶんこれは日本だけに起こっている出来事ではないのだろう。ロシアによるウクライナ侵攻を巡る諸々にしても、その他の欧米や中国での出来事にしても、レトリックこそ「おまえは非国民だ」ではないにしても、戦中の日本ならば「おまえは非国民だ」に相当するに違いない非難や難詰がごく間近なものになっちゃっているようにみえる。それも、世界じゅうで。
 
こうなってしまったのは、世界じゅうの余裕がなくなってきたせいかもしれないし、フェイクニュースが取り沙汰されるご時世のためかもしれない。けれどもフェイクニュースが取り沙汰されるような、ポスト構造主義的な社会状況も、結局のところ、世界のどこもかしこも余裕がなくなってきたせいなのかもしれない。カネ勘定としての利害だけでなく、面子や自由や命までもが天秤に乗せられている切羽詰まった状況では、世界も国も組織も個人も、「おまえは非国民だ」の令和バージョンをやらずにいられなくなるのかもしれない。
 
そういう「おまえは非国民だ」のボルテージが日本でもたぶん世界全体でもどんどん高まり、いわば非国民的な言動が検閲され、非難され、ひょっとしたらBANされるかもしれない現況のなかで、私のなかで「非国民」のリアリティはかつてないほど高まっている。ああ、「非国民」とはこんなに間近に迫ってくる言葉で、どこで待ち伏せしているかわからない言葉だったのか! と納得する思いがする。
 
たまたま私は日本というデモクラティックな国に住んでいるので、ナショナリズムや国家統制に根差した「非国民」という言葉を実際に見聞することはない。しかし換骨奪胎された、いわばデモクラティックな国にふさわしいかたちの「おまえは非国民だ」ならば、もう珍しいものではない。いつ、その言葉で他人を刺そうとしてしまうのか、いつ、その言葉で他人に刺されてしまうのか、見当もつかない。そうやってびくびくしていること自体、人間をますます「非国民」的な表現や言い回しへと傾けていくものかもしれない。
 
将来、日本がなんらか政治的デシジョンを迫られるようになった時、何かを語ることが国民的で、何かを語ることが非国民的だとみなされるようになったとしても、もはや驚くまい。その際、言論の自由という建前は、個々人の社会適応の助けにはならないだろう。そうなった時、協力者/共犯者となるか、せめて黙っている以外の道が、少数派の意見や信条を持つ者に残されるとは思えない。
 

 
 したがって、現代の世界では、「より軽い、より大衆的な武器」、すなわち情報を通じた心理戦が決定的な意味を持つ、とメッスネルは述べる。
 心理戦を主な手段とするこのような闘争を、メッスネルは「非線形戦争」と呼んだ。すなわち、今後の戦争は、ひとつながりの戦線を挟んで戦う形態(線形戦争)とはならず、あらゆる場所で人々の真理をめぐる戦いが繰り広げられるというのである。しかも、それは人々対人々の戦争となる。戦争目的が敵軍隊の壊滅とか領土の獲得ではない以上、戦闘の主体も標的も人々となるからだ。そして最後に、「非線形戦争」には平時と有事の区別は存在しない。心理戦には明確な始まりも終わりもなく、一見すると平和な時期にも絶え間なく続く。

おお、こわいことだ。
 
それを人間の弱さや愚かさとして指摘することもできようけれど、冷笑する気にはなれない。なんというか、ああ、そんなものなのかという苦い納得がある以上のことはうまく言えない。