2022年の冬アニメをじっくり鑑賞している暇は無いのだけど、どうしても観ないわけにいかないと目を付けていたのが『平家物語』だった。
絵柄も話題性も自分が好きな方面の作品ではなく、アニメの通人が云々する方面のようにもみえた。とはいえ尻込みしていられない。なぜならタイトルが『平家物語』だから。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。それなら観るしかない。
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で、観た。
かじりついて観てしまっている。
9話まで観たが、この9話のなかで平家の栄枯盛衰がおおよそ描かれきっていた。私は原作でお寺が燃える話がすごく好きで、善光寺などは、ほとんどとばっちりのように炎上していてそれも好感が持てるのだけど、このアニメ版でも寺社がしっかり狼藉&炎上している。平安時代末期の末法観に彩りを沿えていて、とても良かった。
娑婆は美しくも醜い。人もまた。
もちろん寺社の炎上ばかりが『平家物語』の魅力なのではなく。
たとえば平清盛は、あくがつよく、強欲で、強引な人物として描かれる一方、才気煥発で稀有壮大な人物としても描かれ、後白河上皇は楽しげで人の良さそうな顔つきと怖ろしい陰謀家の顔つきをしていて、どちらも良かった。
平重盛とその息子たち、そのほかの平家一門も、その人柄や得手不得手がわかりやすく・覚えやすく描かれていて見ていて楽しい。重盛の息子たちは作中もすくすくと成長していき、そのさまも見ていて楽しかった。
徳子たち、女性陣もふるっている。
が、なんといっても平家物語のいいところは、そんな平家一門とその周辺が無常の風に吹かれてたちまち滅びていくところだ。これがたまらない。
主要人物のなかでは、まず平重盛が早逝する。もし重盛が生きていたら、後年の平家の没落フラグは回避できていたのではないか? そう期待させる要石の退場を、アニメ版『平家物語』は主人公・びわの特殊能力の継承とあわせて描いている。
続いて平清盛。アニメをとおして物語全体を眺めてみると、平清盛も早く死んでしまった人物で、もうしばらく生きていたら平家没落のプロセスも違っていたのでは、と思わせる死にっぷりだった。
じゃあ物語の筋として、重盛や清盛が生き永らえる根拠というか、必然性があったのかといったら、どこにもなさそうだった。原作でもこのアニメ版でも、平家には罰が当たって当然の咎、カルマの蓄積があった。東大寺も興福寺も三井寺も清水寺も焼いたのだから仏罰覿面だし、そうでなくても平家一門はおごり高ぶり、四方八方に狼藉を働いてきた。だから、その平家一門の首脳陣には罰が当たってしかるべきなのである。少なくとも物語の大きな筋として、彼らはきっちり苦しんで死ぬべき人々だった。
けれども平家没落は、咎を引き受けるべき大人たちだけでなく、伸び盛りの若者や子どもをも巻き込んでいく。アニメ版9話では、美男子として知られる敦盛と、笛の名手である清経の二人が世を去った。ネタバレがはっきりしている平家物語だから、他の若者たちが今後どうなるのか、安徳天皇がどうなるのかは語るまでもない。平家物語は悲劇だ。その悲劇がアニメになった時、こうもきっちり悲劇的なアニメになるのかと感心した。と同時にすっかり悲しくなってしまった。たまらねえなあ。
世界は美しいと歌うけれども
このアニメの主題歌『光るとき』は、いかにも平家物語を指しているかのように、以下のように歌う。
何回だって言うよ 世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても
今だけはここにあるよ 君のまま光ってゆけよ
充実した制作陣のおかげか、挿入される花(と、その花がぼたりと落ちる描写)が美しいためか、とにかく、アニメ『平家物語』の世界は美しい。いや、原作の平家物語だって人の情、人の勇気、そういったものに胸を打たれるシーンがたくさんある。国語の教科書にも出てくる那須与一のシーンもそのひとつかもしれない。
だから主人公であるびわが見届け、後世に語っていく世界とは、悲しくて苦しくても美しい世界だったのだと思う。
じゃあ、美しい世界とは、世界の美しさとは、どのようにして成り立っていたのか? アニメ版も、そこのところは下品にならない範囲でしっかり描いていたように思う。強い者が奪い、弱い者が奪われて泣く、醜い末法平安ワールドがそこにあった。びわの両親もびわ自身も、そうした弱肉強食の世界に苦しめられて、奪われてきた側だ。びわが、それでも世界は美しい、君のまま光ってゆけよと歌うとしたら、それはとても尊いことだ。しかしその美しさは、いわば泥の中に咲いた蓮の花も同然、それか死体の上に咲いた彼岸花だったりしないか。
そしてびわ自身はともかく、作中で美しく咲き誇った花たちも次々に散ってゆく。
日本人の心には「桜は散るから美しい」といった感性があるというが、そうだとしたら、私はそのバイアスに基づき、平家物語で散っていく人々をことさら美しいと感じているのかもしれない。いや、しのごの言わず美しいものは美しいと言おう。けれども。
けれども、このアニメ版の平家物語は美しい悲劇の周辺にある醜さをあまり躱していない。いや、作品の品(ひん)とか放送コードとかを無視すれば、こんなものは幾らでも醜く描けるだろうけれど、作品を毀損しない範囲で醜さを想起できるようには作られている。美しさの裏側にべっとりとこびりついた醜さ。「世界は美しいよ、だけど……」と言いたくなるような含みがこの作品にはいつもある。それもまた、たまらない。
平家物語という美しくて醜い悲劇は、あと2話残っている。
最終回のストーリーは初めから決まっているけれども、そのストーリーがアニメのなかでどう描かれ、登場人物たちがどのような光を放つのかは観てみなければわからない。楽しみだ。びわと一緒に、壇ノ浦まで見届けたい。
あの人はジョーカー
ところで、後白河上皇ってこんなに凄かったのか。作中では陰謀家であると同時に楽しげな人物でもあり、木曾義仲に顔をしかめていたり、幽閉されて悔しがったり、なんとも人間的なお人だった。
とはいえ栄枯盛衰の大波小波のなか、この人はのらりくらりと生き残って、たぶん、最終回を無事に迎えるのだろう。政治の舵取りが上手かったのもさることながら、平家の要人が次々に世を去るなか、まず健康に長らえたこと自体、ずるいほど幸運に見える。
なにしろ保元の乱の勝者なのだから、幸運、という言葉だけで後白河上皇を片付けることはできないのだけど、才気だけで生き残れるほど甘い時代でないことは清盛や重盛が身をもって示しているわけで。
最終回のストーリーを知っている側からすると、後白河上皇がジョーカーにみえる。なんだかんだ人生をエンジョイしている感じも良い。こんな風に世渡りできる人間は稀だが、そういう稀な人生があるのも、また娑婆だったりするし、こういう人生があるから、余計、平家(や源氏)の悲劇が悲劇的にみえてならない。