シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「あの頃の秋葉原」として眺める『シュタインズ・ゲート』

 

STEINS;GATE ELITE - Switch

STEINS;GATE ELITE - Switch

 
 
 2018年も3カ月を切って、秋アニメが始まった。そのため、連休中に『シュタインズ・ゲート ゼロ』の録画を慌てて見て、秋という季節のせいか感傷的な気分になった。というか、最近どうも感傷的になりやすく、思い出話ばかりブログに書いている。良くない傾向だ。
 
 
【アニメ版『シュタインズ・ゲート ゼロ』そのものについて】
 
STEINS;GATE 0 - PS Vita

STEINS;GATE 0 - PS Vita

 
 
 アニメ版の『シュタインズ・ゲート ゼロ』は、かなり頑張っていた。
 
 予習としてゲーム版をプレイしてはいたけれども、正直、2009年の『シュタインズ・ゲート』の正統な続編というにはシナリオが弱いというか、元気の出ない岡部倫太郎と、その周辺の鬱々とした物語を魅力的にみせるだけの精緻さを欠いているように思われた。ファンディスク『比翼恋理のだーりん』では許容されたシナリオのユルさも、正統な続編ではちょっと許容しづらい。個人的には「これなら初代だけで美しく完結していたほうが良かったのでは?」と思わなくもなかった。
 
 それでも、アニメ版は頑張っていた。
  
 おそらく制作予算にそれほど余裕は無かっただろう。にも関わらず、できるだけ美しく、できるだけ面白くしようと工夫した跡がたくさんみられたし、端折って構わないところはできるだけ端折り、補うべきものを補っているように見受けられた。もちろんゲーム版が一方的に劣っているわけではなく、ゲーム版のほうが描写の細かい部分もあるが、マルチエンディングなゲーム版と一本ルートなアニメ版の違いをカバーした「移植」はたいしたものだったと思う。
 
 
【ガラケーからスマホに持ち替えても、雰囲気は00年代】
 
 それより本題に移ろう。
 
 かつて、ガラケーに向かって「エル・プサイ・コングルゥ」とつぶやいていた岡部倫太郎は中二病をやめ、『シュタインズ・ゲート ゼロ』ではスマートフォンに持ち替えていた。ラボメン同士の連絡もメールではなく、LINEを使っている。
 
 ところが『シュタインズ・ゲート ゼロ』が2010年代風かというと……そんなことはない。ゲーム版がリリースされたのが2015年だが、体感的には、00年代後半の雰囲気にみえてしまう。
 
 リリースが2015年で舞台が2011年だから、懐かしい雰囲気になるのは不思議ではないし、そうでなければ『シュタインズ・ゲート』っぽくもないのだろう。良きにつけ悪しきにつけ、『シュタインズ・ゲート』シリーズは2011年以前の雰囲気、もっと言えば00年代の秋葉原の雰囲気から逸脱していない。
 
 スマホやLINEを使うようになっても、結局、ラボメンは00年代の雰囲気を手放さなかった。コスプレ。メイド喫茶。2ちゃんねる用語。そしてダルという「変態紳士」。初代『シュタインズ・ゲート』では、そういった00年代のオタクカルチャーやオタク仕草がストーリー進行に不可欠な要素として描かれていたが、10年代の『シュタインズ・ゲート ゼロ』でも基調は変わらない。
 
 秋葉原の描かれかたにしてもそうだ。『シュタインズ・ゲート ゼロ』で描かれる秋葉原もまた、00年代後半っぽい、「オタクの街」としての面影が残っている頃のものだ。ダルと阿万音由季のデートシーンあたりは「普通の街」になりつつある秋葉原を連想させるけれども、それでもなお、作中の秋葉原は「普通の街」や「観光の街」にはなっていない。
 
 『シュタインズ・ゲート ゼロ』のストーリーでは、その秋葉原で第三次世界大戦が始まり、平和だった世界は失われていく。そういう筋書きのせいか、いよいよもって私には「あの頃のオタクと秋葉原」がノスタルジックに、失われゆく世界に感じられた。ラボメンたちの奮闘が、失われゆく一時代に拘泥している自分自身、あるいは周囲の中年(元)オタクにダブってみえることもある。
 
 ラボメンたちの奮闘が、私自身の懐古の気分と混じり合って、なんとなく混乱してしまうのだ。世界線だのタイムマシンだのが登場する作品だけに、その混乱も楽しみのうちなのかもしれないが。
 
 現実世界では第三次世界大戦は起こっていないが、それでも秋葉原の街並みは変わり、オタクもオタク仕草も変わっていった。今となっては、『シュタインズ・ゲート』シリーズで描かれる諸々は思い出の領域だ。それだけに、00年代のオタクや秋葉原に思い入れのある人にはたまらないものがある。
 

 
 2010年代からみた『シュタインズ・ゲート』シリーズは、在りし日のオタクにとっては素晴らしいタイムカプセルだ。そういう意味でも、『シュタインズ・ゲート エリート』初回版特典としてファミコン版がついてくるのはいかにもお似合いだった。『シュタインズ・ゲート』シリーズは、在りし日を懐古するためのタイムカプセルという位置づけに(少なくとも現在は)おさまっているのだろう。
 
 
 
【10年代と「中二病」の死】
 
 で、岡部倫太郎、である。
 
 『シュタインズ・ゲート ゼロ』では岡部倫太郎がすっかり普通の大学生になっていて、初代『シュタインズ・ゲート』で「鳳凰院凶真」を名乗っていた面影が失われている。
 
 ストーリー上、ほかのラボメンたちは「鳳凰院凶真」の復活を望んでいるのだが、2018年から眺めると、これがちょっと奇妙にうつる。というのも、中二病を捨てた岡部倫太郎だけが10年代風の雰囲気をまとっていて、他のラボメンたちが00年代のオタクの雰囲気を引きずり、その古いありように岡部倫太郎を引きずり戻そうとしているようにもみえるからだ。
 
 『シュタインズ・ゲート』シリーズは、中二病的なパワーが物語の駆動力になっているから、ラボメンたちが「鳳凰院凶真」の復活を望むのはおかしくない。
 
 ところが、現実世界における中二病の位置づけが変わってしまったことで、『シュタインズ・ゲート』で描かれる中二病を、00年代の頃と同じ風には見られなくなってしまった自分自身に気づいてしまった。
 
 
 一般に、「中二病」という言葉は伊集院光のラジオ番組が初出とされている。いくらかニュアンスの変化はあったにせよ、その後、この言葉は広く知られるようになり、今ではそこらのママさんや小学生でさえ「中二病」という言葉を知っている。広く知られてしまったことによって、中二病概念は良くも悪くも陳腐化してしまった。小学生のうちから中二病という言葉を知り、それが滑稽な仕草だと世間に知られてしまうと、もはや、中二病はかつてと同じようには存在し得ない。
 
 中二病は、あまりにも広く知られてしまったことで神秘性を失い、ベタにやるものではなく、メタかネタとしてやるものになってしまった。
 
 そうした社会変化のもとで眺める「鳳凰院凶真」は、まだ中二病という言葉が死んでいなかった頃の「鳳凰院凶真」とは違った風にみえる。岡部倫太郎というキャラクターの面白さは、ある部分で中二病という言葉の尖り具合に依存していたというのが、今ならよくわかる。中二病という言葉が陳腐化し、すり減ってしまった2018年において、「鳳凰院凶真」とは、戻らぬ輝きだ。その戻らぬ輝きを、時間遡行によって取り戻そうというのである。
 
 このあたり、ゲーム版ではちょっと食い足りない感じがあったけれども、アニメ版は精一杯「鳳凰院凶真」の輝きを描こうとしていて好感が持てた。その輝きには「残光」という言葉がよく似合うようには思われたが。
 
 
【過去を思い、時の流れに思いを馳せる】
 
 『シュタインズ・ゲート』と『シュタインズ・ゲート ゼロ』は00年代後半の雰囲気をまとっているが、見る側は歳を取り、平成の世も終わりを迎えようとしている。今、このシリーズを鑑賞し直してつくづくわかるのは、時間は流れていくということ、私達も時代も街も変わっていくということだ。
 
 それだけに、タイムカプセルとしての『シュタインズ・ゲート』シリーズには記念碑的な価値があるともいえるし、時間遡行という作品のテーマにもよくマッチしていたようにみえる。
 
 今後、このシリーズがどのように変わっていくのかはわからないけれども、今は「あの頃の秋葉原の思い出」として大切にしておこうと思う。エル・プサイ・コングルゥ。