シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

いつから、こんなにゲームが褒めてくれるようになったんだろう…。

 

ピコピコ少年

ピコピコ少年

 
 近場のゲーセンに新作シューティングゲームが入らない生活が続くうちに、だんだん家で遊べるゲームに頼るようになりました。Xbox360のゲームをやったり、steamで仕入れたゲームをやったり。数年ぶりに『ドルアーガの塔』を登りたくなり、ナムコクラシックvol.3を引っ張り出して遊んでいます。腕がなまったのか、30〜50階ぐらいでゲームオーバーになってしまい、なかなかドルアーガに遭えません。集中力が続かなくなっている、と感じます。
 
 時間が無い時や出先では、ソーシャルゲームで済ませる事も多くなりました。こちらの記事に、ソーシャルゲームは15分ぐらいの暇を埋めるのにちょうどいいけれど時間泥棒、みたいな事が書いてありますが、確かに、『けり姫スイーツ』を15分ほど遊んでいると、不思議とゲーム空腹感がみたされて、ゲームを遊んだ気分になれてしまいます。
 
 そうやって、アーケードシューティングゲームから遠ざかり、新旧の家庭用ゲーム*1を遊んでいるうちに、ふと思うことがあります。
 
 「いつから、ゲームがこんなに褒めてくれるようになったんだろう……。」
 
 『けり姫スイーツ』は、何か達成するたびにピカピカの演出とファンファーレがあって、実績解除も表示されて、とにかくプレイヤーをおだてるなぁと感じます。ちょっとパチンコ屋じみていて、うるさいですが。『パズドラ』もそうでしたが、プレイヤーの自然な上達速度にあわせて、褒めてくれたり、爽快感を与えてくれたり、とにかくプレイヤーをもてなしてくれる。Xbox360やsteamのゲームにしても、実績解除ってやつがあって、プレイヤーが何かを達成するたび、ポコポコ勲章が与えられます。シビライゼーション3の頃は、こうじゃなかったような。
 
 ゲームが、褒めてくれるんですよ。
 
 「君はよく頑張った、君はゲームが上手になった、君はこのゲームのたつじん級になった……。」
 
 あっちでもこっちでもゲームが褒めてくれるようになった……ということは、ゲームに褒めて貰えないとゲームしない人のほうが多数派なんでしょうか?それとも、いわゆるエンディング的なものが希薄なゲームが増えてきたから、ゲームが褒めてくれないと、何をどう楽しみ、何を目標にすればいいのか分からないから、実績解除的なものが普及してるんでしょうか?ソーシャルゲームの場合は、短時間のプレイでも達成感をプレイヤーに提供しなきゃいけないから、すぐ褒めるやたら褒めるってのは理に適っているような気がします。でも、本当の理由はわかりません。わからないけれど、昔のゲームはこんなに褒めてくれなかった、おもてなしをしてくれなかった、とは思います。演出に割り当てられる余裕の多寡もあるんでしょうけど。
 
 手許にあるナムコクラシックvol.3。
 
 1979年のギャラクシアン。きつい。難しい。一応、ギャルボス編隊を倒せば800点が貰えるけれども、800点とはなんですか。昔はこれが嬉しかったような気がします。それでも1面から敵の動きはいやらしく、これでもかというほどゲームオーバーに直面する。
 
 1982年のディグダグ。こちらは5面ぐらいまでは難易度の上昇も緩やかで、小学生でも楽しめそうです。ただ、あんまり褒めてくれません。ベジタブルボーナスと、岩を使って敵をまとめて潰すカタルシスだけが心の友。これでもかというほどゲームオーバーに直面する。
 
 1984年のドルアーガの塔。4面から登場する魔法使い達は子ども泣かせで、攻略情報があってもなお、宝箱の出し方は熾烈でした。本当に褒めてもらえるのは全60階をクリアしてエンディングを迎えた時だけ。これでもかというほどゲームオーバーに直面する。
 
 昔のゲームは、褒めてくれませんでした。全く褒めてくれないわけではなく、『スーパーマリオブラザーズ』や『リンクの冒険』にしても、一区切りクリアすれば一応それらしいファンファーレが鳴りはしました。けれども、1回新規に褒めてもらうためには、数回のゲームオーバー、つまり「まだまだ君はだめだな」とゲームに告げられなければなりませんでした。それも、序盤から。のみならず、幾つかのゲームは「死んで覚えろ」が露骨でした。『ドルアーガ塔』なんてその最たるもので、そこらじゅうに「死んで覚えろ」「まだまだ君はだめだな」「なかなか君は頑張ったみたいだが、ツメが甘かったみたいだね。ZAP……。」といった仕掛けが施されていました。
 
 逆に言うと、かつてのゲーム小僧達は、ゲームに褒めそやされなくても、ゲームをやっていた、のでしょう。ゲームを遊ぶ動機付けのうち、ゲームそのものにチヤホヤされたい動機の割合がすごく少なくて、そんなものを期待して遊んでいるプレイヤーはあまりいなかったように思います。ゲーム仲間との競争や、ゲームそのものの面白さに惹かれていた割合が高かったように記憶しているんです。*2少なくとも過去の俺は、実績解除とか、達成感とか、そういったものをゲームに差し出してもらうことを期待していませんでした。今日は何面まで行こう、今日はハイスコアを何点取ろう――そういった目標設定や達成感はかなりのところまで自分自身で決めていたように思います。
 
 一方、今日日のゲームには、実績解除というシステムがあり、「君はよく頑張った、君はゲームが上手になった、君はこのゲームのたつじん級になった……。」とたっぷり褒めてくれます。褒め殺しなゲームと、つっけんどんなゲーム、どちらが良い悪いかはさておいて、生まれてはじめて遊ぶゲームがたくさん褒めてくれるゲームの場合と、あまり褒めてくれないゲームの場合では、ゲーム体験の質感や、ゲームに期待される執着は、微妙に違ってくるのではないかと想像します。もとより、ゲームそのものの演出や手触りが進化し、インターフェースも変わってきているので、そこだけで新旧のゲームを比較できるわけでもないのですが、「ゲームを介した楽しみとは何か」「娯楽としてのゲームとは何か」といった問いに対する答えが、やはり違って来るのではないか、と思うのです。
 
 ゲームウォッチやファミコンの時代から、俺は褒められもしないのにひたすらゲームをやっていました。ゲームウォッチは、ファミコン以上に褒めてくれないゲームばかりでした。それでも、ピコピコをやめられなかった。ゲームが楽しくて、好きでしようがなかった。そんな俺が「君はよく頑張った、君はゲームが上手になった、君はこのゲームのたつじん級になった……。」といっぱい褒めてくれるゲームを遊んで、それでなんとなくゲーム空腹感を充たしているうちに、ゲーセンに行かなくてもいいや、とか思い始めているのです。
 
 そうやってゲーム愛好家として猫背になった自分の姿をメタに眺めながら、最近、いろんな事を考えます。ゲームも、自分自身も、年を取りました。
 
 

*1:ブラウザゲームの流通している時代に、家庭用ゲーム、という言葉自体、なにやら古くさいですね

*2:そういえば、ゲームそのものの面白さって何でしたっけ?島国大和さんが以前書いていた、「狭義のゲーム性」ってやつのことといえばそれまでかもしれませんが、そこまで骨格的なゲーム性だけを愛していたかっていうと、そうでなかった筈です。それでも、骨格としてのゲーム性がなければゲームとして面白くないという信仰と、ゲームとは綜合的なエンターテイメントだという信仰があるとしたら、かつての私は前者に近く、年を取るにつれて後者に近付いている、とは感じます。ただ、『ダライアス』や『レイフォース』に対する愛着や思い出は、狭義のゲーム性にほどよく肉付けされた、娯楽としての端正さがあってはじめて成立していたような気もするので、ゲームそのものの面白さについて深く考えるのはやめておきます。