オタクはありのままのキャラクターを愛でているのか?
萌えたりブヒったりしている時にオタクの脳内では何が起こっているのか?
このあたりは、東浩紀さんが『動物化するポストモダン』で書いた“データベース消費”というモデルでだいたい説明されていると思う*1。とはいえ、何度触れても滋味深い話だし、最近は人間もデータベースとして消費されがちなので、ここでは『Fate/Zero』っぽい喩え話を書いてみようと思う。
キャラクターは、その人の欲望を盛るための器でしかない。
『Fate/Zero』風に言うと、オタクにとっての美少年/美少女キャラクターは、聖杯にあたる。願望器、ということだ。現代のキャラクター愛好家達は、実際には、キャラクターそれそのものを愛しているのではない。そのキャラクターにお手盛りした願望や欲望を愛している、と言ったほうが現実に即している。
その最たるものが、ニコニコ動画などでよく見かける“薄い本ができるな”“レズ☆ハッピー”といったコメントの数々だ。キャラクター同士のカップリングなどもこれに相当する。
仮に、愛好家達がキャラクターそのものだけを直に愛しているとしたら、作中で描写されていない勝手な想像や妄想を付け加えて楽しんだりはするまい。作中描写や公式発表の情報だけを忠実に守り、そこから一歩もはみ出そうとはしないだろう。切手蒐集家、絵画鑑賞家、ミニカー蒐集家といった旧来のマニアを思い出してみればわかる。彼らは勝手な想像や妄想を付け加えたりはしないし、二次創作をやろうともしない。鑑賞する側・蒐集する側としての旧来のマニアは、対象そのものを鑑賞するのが常だった。
対して、キャラクター同士のカップリングや“薄い本”について即座に連想が浮かぶような、“よく訓練された”キャラクター愛好家の場合、そのキャラクターから派生したカップリングや“薄い本”についての連想も込みで、一緒くたに愛している。「対象そのもの」を鑑賞する旧来のマニアやコレクターとは、ここが決定的に異なっている――キャラクターに投げかける自分自身の欲望や想像をひっくるめて楽しむのは、オタク界隈においては一種の作法のようなものだ。その作法が具現化したものが、同人誌をはじめとするファンによる二次創作作品、ということになる。
しかも、キャラクターにどういう想像や欲望を連想して楽しむのかは、個々人の自由に委ねられている。ある美少年キャラクターに「受け」を連想しても「攻め」を連想しても、基本的には問題はない*2。または、同一の美少女キャラクターに「しようもない性的欲望」を想像する人もいれば、「ディストピアに舞い降りた聖戦士」的な理想を仮託する人もいるかもしれないが、キャラクターという器にどのような想像や欲望をねじこんで楽しむのかは、完全に個人の自由なのである――ワイングラスに焼酎を流し込むかオレンジジュースを流し込むかロマネ・コンティを流し込むかが個人の自由に委ねられているのと、このあたり何も変わらない。
「キャラクターは自分の願望や欲望を流し込んで形にするための器――願望器である」とはこういうことだ。
“最高の願望器”としての初音ミク
願望器としてキャラクター達が愛される作法が普及するようになって、随分と歳月が経ったと思う。キャラクターを愛好する歴史のなかには、事件やハプニングもあった。『センチメンタルグラフィティ』のように、まだ願望器としてのキャラクターが完成する前から我先にオタクが自分の願望や欲望をねじこみまくった事件もあったし、かんなぎ非処女騒動のように、処女欲を注ぎにくくなってしまった願望器を床にたたきつけてしまうような事件もあった。
そうした失敗やハプニングを踏まえてか、最近のキャラクター達は実によく出来ているというか、キャラクター愛好家がイージーに自分自身の願望や欲求を注ぎ込めるようつくられていると思う。
なかでも凄いのは、初音ミクだ。
初音ミクは、それそのものは楽器でしかないし、特定の萌え属性とか物語とか、そういったものには乏しい。けれども、かえってそのお陰で、ありとあらゆる人の、ありとあらゆる願望や欲求を受け入れる、とてつもない願望器として活躍している。初音ミクで検索すれば分かるように、このキャラクターは、あらゆるイメージに化身するし、あらゆる歌を歌っている。およそエロが似合うキャラクターとも思えないが、彼女がエロな二次創作に供されることさえある。願望器としての彼女の汎用性は比類無い*3。「キャラクター愛好家のどんな願望や欲求も具現化できる究極の願望器」だ。まさに聖杯と呼ぶに相応しい。
ほかにも、東方シリーズやTHE IDOLM@STERのキャラクターなどをはじめ、属性や物語による束縛の緩いキャラクターが、汎用性の高い願望器として活躍している姿を見かける。このあたりのキャラクター消費の実相は、ソーシャルゲームの顧客獲得などに応用されていたりもするんだろう。
人間が“願望器=キャラクター”として消費されるということ
ここまでは、架空のキャラクターにまつわる話だったが、もちろん、実物の人間がキャラクター愛好家の願望器として消費されることもある。わかりやすいところでは、ジャニーズやAKB48などもそうだろう。あのあたりにはいろんな願望器が揃えられていて、自分が推すキャラクターに好きなだけ願望や欲望を注ぎ込むことが出来る。一応、タレントの人達は生身の人間なので、注ぎ込める願望や欲望のレンジは若干狭いけれども、そこはそれ、プロデューサーの人達は優しい人達らしく、願望や欲望を注ぎ込みたくてウズウズしている人達に様々な便宜をはかって、ファンの願望や欲望が迷子になってしまわないよう、精巧なシステムをつくっていらっしゃるように見える。
こうした、生身の人間がキャラクター=願望器として消費される構図は、精巧につくられたシステムの内側だけでなく、意想外な場面で起こることもある。放送作家の岩崎夏海さんが「狂人としてのハックルベリー」という願望器として消費されていた件などもそうだろう。
はてなという場は、一言で言えば狂人を欲していた。狂人ブロガーを強く希求していた。その声に、要望に応え続けたというのがはてなでのぼくだった。だから、これはけっして釣りではない。むしろ、釣られていたのはぼくだった。ぼくがはてなという場に釣られ、発狂ブロガーと化していた。
2012-09-28 14:47:21 via web
架空のキャラクターを願望器に見立てて、そこに欲望や願望を注ぎ込んでも、キャラクターという聖杯は壊れることもなく、どこまでも欲望や願望を引き受けてくれるだろう。しかし、生身の人間をキャラクターという願望器に見立てて、そこに不特定多数の欲望や願望を注ぎ込んだ時、“なかのひと”はどのような影響を受けるだろうか?
人間は、ある面ではキャラクターだが、別の面ではキャラクターではない。初音ミクのような聖杯には決してなれない生身の人間という器には、欲望や願望を受け入れるキャパシティの限界がある。その限界を越えると、キャラクターに振り回されているような感覚を覚えたり、疎外されているような感覚を覚えずにいられない――岩崎夏海さんのような人でさえ、たぶんそうなのだ。キャラクターを消費するという作法がすっかり定着した現代社会において、そうした疎外の構図は、他人事では済まされない。キャラクターを願望器として消費するのは快感でも、願望器として消費されるのは楽なことではない。にも関わらず、私達はこんなにもキャラクターを消費して、こんなにもキャラクターとして消費されている。