動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/09/28
- メディア: Kindle版
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いつかまとめようと思ったけれども、今朝は早起きしたので書く。
昔、哲学者の東浩紀さんは美少女キャラクター消費とか、そういうオタク界隈についての考察を幾つも書いてらっしゃって、私は好んで読んでいた。『CLANNADは人生』とか仰っていた頃の東さんの文章にシビれたものだ。
そのなかでも好きな本は『動物化するポストモダン』だ。そこに記載されている、「キャラクターのデータベース消費」の説明が、当時のキャラ萌え、特にゲーム*1に登場する美少女キャラクター萌えや、同人誌の消費形態にフィットしていると感じた。
「キャラクターのデータベース消費」についてものすごく大雑把な説明をすると、
・疎な情報量でつくられたキャラを素のままで消費するのでなく、
・キャラにオタクそれぞれの知識や想像力や願望を掛け合わせて
・自分が想像したいようにキャラを“脳内補完”あるいは“二次創作”したイメージを消費する
といったものだった*2。
この「データベース消費」というモデル、『動物化するポストモダン』が出版された頃のキャラクター消費をうまく言い当てていたと思う。当時、界隈の流行を先導していたのはエロゲー界隈*3だったけれども、データの容量の都合などから、登場するキャラクタ達ーは疎な情報量で構成されていた。同書の挿絵には90年代のLEAFのキャラクター達が登場するけれど、こうしたキャラクター達は、限られた台詞・限られた立ち絵・限られた一枚絵など、情報量としては貧弱なものだった。素のままで消費しても痩せっぽっちな、既知の萌え属性や自分自身の願望をかけあわせて消費してはじめて豊かなキャラクター達だったと思う。
しかも、そうした事情はエロゲーに限ったものではなく、設定やパラメータばかり豊富なゲームのキャラクター達*4を消費する際にも、現在に比べれば疎な情報量で構成されがちだった当時のアニメキャラクターを消費する際にも、適用しやすかったと思う。当時、「オタク界隈の美少女キャラクター消費は、だいたい『動物化するポストモダン』で説明できる」ってのは、そんなに外れたモノ言いではなかったんじゃなかろうか。
たかが十年、されど十年
で、それから十年以上の歳月が流れた。キャラクター消費の実相は様変わりし、オタクという言葉も希釈されてわかりにくいものになってしまった。今、「データベース消費」はどこまで当てはまるだろうか。
今でもキャラクターの「データベース消費」理論がしっくりする領域は広い。
「疎な情報」「設定先行のキャラクター」といったものを素材として、“脳内補完”あるいは“二次創作”を消費者に委ねて楽しんでもらう領域は、例えばブラウザーゲームやソーシャルゲームに、あるいは初音ミクのようなボカロの世界に、果てしない広がりをみせている。「脳内補完」という表現はもう使われないだろうし、一時期のように、“ツンデレ属性”“ヤンデレ属性”といった萌え属性がことさら注目されるわけでもない。けれども、疎な情報量のキャラクターを素材とし、そのキャラクターをもとに膨らませた脳内補完や二次創作イメージにむしゃぶりついて脳汁を垂らす……というキャラクターの消費形態は、もはやニッチなオタクだけの遊戯というわけでもなさそうで、大衆化したと思う。
特にボカロ周辺に関しては、そうしたデータベース消費が徹底したかたちで行われているようにみえる。トヨタの海外向けCMに登場する初音ミクは、私の知っているデフォルトの初音ミクではないというか、外国人に受けそうな顔立ちにモディファイされていた。携帯電話売り場に飾られているミクのスマホのデザインを見ても、妙に人間臭いというか、「ああ、この顔は二次元慣れしていない人向けにチューンされているな」感があった。企業が初音ミクを採用する時、想定消費者に向けてあらかじめ二次創作が行われていて、当該消費者の“脳内補完”のレベルにあわせているようにみえる。そうか、企業がこんな事をやるようになったのか……二次創作やコスプレの世界まで含めると、初音ミクの消費形態はあまりにも多様すぎて、何でもアリのようにみえてくる。
というより、ボカロに与えられた情報が疎だったからこそ、ボカロのキャラクター達は「何でもアリ」を受け止められたわけか。
その一方で、データベース消費から遠ざかっていった領域もあると思う。アニメの世界で特にそれを感じる。
アニメ、特に深夜アニメは、この十年間、ほぼ一貫してクオリティが高まってきた。絵もキャラクターも描き込みが細かくなり、昔に比べると密な情報になってきた。「このアニメ、低予算かな」とか思っても、案外としっかり描いてあったりする。ニコニコ動画で「作画崩壊」というコメントが流れてくるたびに、幾らかの同意を感じつつも「だけど、十年前に比べたら、たいしたことない」と思ったりもする。
もちろん、現在の深夜アニメもデータベース消費に用いられないわけではない。「薄い本が厚くなるな」という言い回しなどはその最たるものだし、実際、人気作品の同人誌が大量生産される構図自体はあまり変わっていない。それでも、一人一人のキャラクターに書き込まれる情報量というのは確実に増えていて、たぶん、そうした情報量の増大に視聴者は自然に慣らされている。例えば、『惡の華』のような作品がリリースされてきた背景には、“キャラクターに書き込まれる情報量の増大にアニメ視聴者がだいぶ慣れてきている”という判断があったのではないか*5。
だから、現代視覚文化というか、アニメ・エロゲー・キャラクターゲーム・ラノベそのほかを一緒くたにしたジャンルには、「データベース消費」をまさに地で行く領域と、「データベース消費」から遠ざかっているというか、比較的脳内補完の幅の少なそうな、キャラクターというより登場人物という言葉の似合うような、密な情報で構成されたキャラクターを駆使した領域とに、割れてきているなぁ、と思う。もちろんそれは喜ばしいことではある。昔ながらのデータベース消費も楽しめ、しかもアニメやゲームなのに密な情報で構成されたキャラクターを眺めることもできるんだから、こんなにありがたいことはない。
いつの間にか脳内補完が下手になった自分自身に気づいた
で、私、である。
昔に比べて、脳内補完が下手になった。
90年代は、輝くような脳内補完というか、「俺は脳内でキャラクターをエミュレートできる!」とかわけのわからないことを呟いていた。『涼宮ハルヒの憂鬱』が出た頃も、そんなに違わなかったと思う。私は正しく「データベース消費」していた。
ところが最近、アニメを観ていても自分が脳内補完をあまりやらなくなって、ディスプレイに描かれた素の情報に頼りはじめていると気づくようになってきた。そういう非-データーベース的なキャラクターとのお付き合いは、『おおかみこどもの雨と雪』のような作品だけでなく、『蒼き鋼のアルペジオ』や『White Album2』を観ている時にも当てはまるし、“脳内補完やらなきゃ嘘でしょ”と言いたくなるような作品――『ソードアートオンライン』や『インフィニットストラトス』――にさえ当てはまるようになってきた。
どうしてこうなったのか?
第一の理由として思いついたのは、「少しずつ密度の高まっていった深夜アニメを眺め続けていたから」だが、案外、年を取ったせいで想像力が枯れてきただけなのかもしれない。
まあ、理由なんてどうでもいい。ただ、あんなに親しんでいたキャラクターの「データベース消費」が自分の趣味日常から剥離し、いつの間にか違ったやりかたでディスプレイの向こうを眺めている自分自身に気づいた時、十年という歳月を痛感せずにいられなくなった。たぶん、そうした痛みを伴った感覚は今書き留めておかなければ忘れていくような気がするので、詠嘆を込めて、ブログに書き残しておくことにした。