マジョリティが二次創作や脳内補完に親しんでいる社会 - シロクマの屑籠
リンク先でも触れたように、最近は、物語生成システム、あるいはデータベース消費に該当するようなコンテンツ消費が盛んだ。素のままのキャラクターやコンテンツを愛するのではなく、「疎な情報でつくられたキャラクターやコンテンツを消費者それぞれが願望や想像力で肉付けし、そうやって二次創作的・脳内補完的にキャラクターやコンテンツを消費する」作法が、すっかり普及した。
なぜ、現代の青少年は二次創作や脳内補完をやすやすとやってのけるのか?その作法を、いつ、どこで、どうやって身につけたのか?
この問いの答えのかなりの部分は、「ニコニコ動画経由で、そういう楽しみを覚えたから」「ライトノベルを読んでいたから」「それらしいアニメを見続けたから」でカヴァーできると思う。あまり多くないかもしれないけれど、『ひぐらしのなく頃に』のような、ビジュアルノベル系統の作品に触れたことで、そういう作法を身につけた人もいるかもしれない。
でも、本当にそれだけなのか?
脳内補完や二次創作、データベース消費というと、同人誌やビジュアルノベルやボカロなどが連想しやすく、それらについては多くの言葉が費やされた。実際、この手の話をする際には同人誌やビジュアルノベルやボカロを持ってくるのは一番手っ取り早く、典型的で、先行する議論も整備されている。
でも、それらだけが、ごく普通の青少年を脳内補完的・二次創作的なコンテンツ消費に誘ったわけではないと思う。ゲーム、特にコンピュータゲームが、青少年の脳内補完能力や二次創作能力を育てるトレーニング装置として、少なからぬ役割を果たしたのではないか。
以下、そのあたりについて書き残してみる。
「君は、粗いドット絵の向こうにどんな物語を夢見た?」
思い出に残っているコンピュータゲームの記憶は、世代やハードウェアによってさまざまだ。NECのパソコンで『Wizardry』『信長の野望』を遊んだ世代もいれば、ファミコンの『ドラクエ』『ゼルダの伝説』が生まれて初めてのゲーム体験だった人もいるだろう。どうあれ、夢中になったゲームの思い出は簡単に色褪せない。
そうした初期のゲーム体験を思い出してみて欲しい。全部が全部ではないにせよ、少なからぬゲームについては、ブラウン管に映っているグラフィックや数値以上の物語や情景を、脳裏に思い描いていたはずだ。
『信長の野望』では、鉄砲隊の50という数字に迫力を。
『ドラゴンクエスト4』のファミコングラフィックの向こう側には、躍動するキャラクター達の冒険劇を。
『Wizardry』なら、”正体不明の魔物”のつまらないグラフィックの向こう側に、邪神の恐るべき姿を。
もし私達が、それらのゲームに登場するキャラクターやコンテンツを素のままに受け取っていたら、鉄砲隊ユニットはただの数字で、ミネアとマーニャはサムネイル未満のドット絵で、“正体不明の魔物”に畏怖の念を感じることも無かっただろう。けれども、ゲームに深く埋没したプレイヤーは、数値・パラメータ・サムネイル未満のグラフィックをもとに、生き生きとしたキャラクターや息を呑む光景を思い浮かべ、そうやって膨らませた想像も含めてゲームを楽しんでいた。
時代とともにゲームハードが進歩し、グラフィックが美しくなっても、そうしたゲームプレイに伴う想像力の飛躍は止まらなかった。例えば、『ゼビウス』が美しいグラフィックをもたらした時、プレイヤーはグラフィックの美しさだけに魅了されていたのではなく、プレイヤーの想像力をかきたてる演出やフィーチャー*1にも魅了されていた筈だ。『ゼビウス』は、素のままのグラフィックを提供していただけでなく、プレイヤーに一定の想像力を膨らませる余地をも提供していた。“世界観”をも提供していた*2、とも言える。
もちろん、タイトーやコナミ、光栄やエニックスといった他のメーカーも頑張っていて、アクションゲームかシミュレーションゲームかを問わず、優れたゲームにはしばしば優れた世界観提供機能が付随していた。そしてその世界観と、貧相なグラフィック・簡素な音源でつくられたBGMを頼りとして、当時のプレイヤーは夢中になって血湧き肉躍る決戦や壮大なファンタジーを夢想していた。
こうした夢想の図式は、『動物化するポストモダン』のなかで東浩紀さんが説明した、ビジュアルノベルとそのキャラクターを介したデータベース消費の図式に、なんだか似ている。
疎な情報量でつくられたキャラクターと物語を素のままに楽しむのではなく、プレイヤー自身の願望や想像力で肉付けしたシミュラークルを――脳内イメージを、と言い換えたほうがわかりやすいかもしれない――楽しむ図式は、ビジュアルノベルの専売特許だったわけではなく、昔のコンピュータゲームもそれに似ているところがあった。ハードウェアの制約によって情報量が疎にならざるを得なかった黎明期の事情も、世界観の提示やプレイヤー自身の想像力を頼みとすることでハードウェアの制約をカヴァーした点も、よく似ている。言葉で語られる情報量の多寡という点では、多くのコンピュータゲームはビジュアルノベルにかなわないけれど、『大戦略』シリーズや光栄の『信長の野望』シリーズのような場合は、兵器や武将に付随するパラメータが、プレイヤーの夢想を助けてくれていた――“この、対空攻撃力160のジェット戦闘機を投入した暁には、ドイツは負けない!”的なやつである。
だから、東浩紀さんのデータベース消費の理屈に一番フィットしているのはビジュアルノベルとしても、それに似た脳内イメージの消費は、実はファミコン時代から始まっていて*3、広範なゲームジャンルで起こっていた現象ではなかったか。ゲームと共に育った世代は、「疎な情報量でつくられたキャラクターや物語を、自分自身の願望や想像力で肉付けし、脳内イメージを楽しむ」“訓練”を受け続けてきた、と言い換えられるかもしれない。控えめに言っても、準備運動ぐらいにはなっただろう。そうした“訓練”は、筋金入りのゲームマニアだけが行っていたものではなく、国民的ヒットゲームを買って遊ぶような、もっと広範でもっとミーハーなプレイヤーにも当てはまるものだった。
あの粗いグラフィックの向こう側に、物語は確かにあった。
ちっちゃいドット絵の女の子が、本当にかわいかったのだ!
そのようなコンピュータゲームの時代蓄積があり、そのような“訓練”を受けながら育ってきたプレイヤーの世代蓄積があったことも、データベース消費的・物語生成システム的な想像力が普及していく下地になったんじゃないかと思う。
なお、念のため断っておくと、私は脳内補完的・二次創作的なコンテンツ普及の“主犯”がコンピュータゲームだと言いたいわけではない。TRPGやアニメも含めて、たくさんのコンテンツやメディアミックスがそうした消費状況をつくりあげてきたんだろうと思う。ただ、ゲームをやりまくって育った私などからみれば、そうした消費状況の準備期間、あるいは“訓練”期間としてのコンピュータゲームの役割も、これはこれで無視できないような気がするのだ。
疎なグラフィックから壮大な脳内イメージを膨らませるゲームが、この国では何度も大ヒットしてきた。そうした蓄積もまた、今日のサブカルチャーの風景をつくりあげる素地になったんじゃないかという思いを、誰かに届けておきたくなって、この文章を書いてみた。
※来週は、『もうひとつの「物語生成システム」としてのゲーム――ゲーム体験の個人性と個別性について(仮)』をアップロードする予定です。『skyrim』も、『斑鳩』も、『艦これ』も、それぞれとプレイヤーが織り成す物語はあくまで個別的で、プレイヤーの数だけ物語が存在する……そういう類の話をまとめている最中です。