医療や介護の世界では、栄養補給の手段として流動食がよく用いられる。普通の食事が摂れない人も何も食べなければ飢えて衰弱してしまうから、そういう人にとって、流動食は命綱になる。食べる機能が回復不可能な場合は、いつまでも流動食を使い続けなければならないかもしれない。
メンタルヘルスの世界でも、あたかも似たようなことが起りがちだ。“承認欲求の流動食”“自己愛の流動食”で心の飢えをしのいでいる人をあちこちで見かける。それどころか、すっかり依存してしまって、並みの心理的充足が難しくなってしまっている人もいるようだ。
人間は、心理的に充たされる体験無しでは心が飢える
人間のメンタルは、心理的に充たされたと感じられない状態が続くと衰弱してしまいやすい。ストレスを回避するのも大切だが、そこそこの頻度で心理的に充たされたと体験できなくてもキツくなる。もし、心理的に充たされたと感じない状態が長引くと、ストレスや不安に弱くなっていき、メンタルヘルスを損ねやすくなってしまうだろう。定期的に食物を摂らなければ衰弱して病気になってしまう身体と、このあたりちょっと似ている。
だから人間は、心理的に充たされる体験を求めてやまない。本能的にも、そういう仕様になっているのだろう。A.マズロー風に言えば「承認欲求」「所属欲求」「自己実現欲求」、H.コフート風に言えば「自己愛が充たされる体験」といった充足感は、健康なメンタルヘルスを維持するうえで欠かせないし、それを求めること自体は、悪いことでもみっともないことでもない。
心理的に充たされる体験には、消化しやすさ/しにくさがある
ただし、消化しやすい食べ物〜消化しにくい食べ物があるのと同様に、「心理的に充たされる体験」にも体験しやすいもの〜体験しにくいものの難易度の違いがある。そして、胃腸の強弱に個人差があるのと同じか以上に、どういう体験を心理的充足と感じ、どういう体験をストレスと感じるのかには個人差がある。
比較のために、食べ物の例を挙げてみる。
お粥や流動食は消化に良く、病人にも摂取しやすい。対してゴボウやタケノコのような食べ物は、しっかりとした咀嚼力なり消化力なりが必要で、胃腸が弱っている時には食べにくい。近江牛やマグロのトロのようなグルメも、消化力の乏しい人にとっては厄介な代物でしかない。
似たようなことが心理的充足にも言える。
例えば、理想的な恋人にハグされて「よしよし」されるのは、たいていの人を心理的に充たしてくれるだろうし、メンタルが弱っている人も満足しやすい。お粥や母乳に相当するような心理的充足と言えるだろう。しかし、同僚やクラスメートとの挨拶や、会話時のアイコンタクト程度の体験ともなると、余裕のある時には心理的充足の足しになるけれども、余裕の無いときや衰弱している時には充足感が得にくい。同様に、先輩や先生からの忠告を心理的充足として体験できるのか、それとも幻滅や失望を見出してしまうのかも、受け取る側のメンタルの状態によって左右されやすい。
それどころか、日常的なやりとりからは心理的充足が殆ど得られていない現代人もいるように見受けられる。一応、社会的儀礼と割り切って挨拶やコミュニケーションをこなしてはいるけれども、心理的にはなんら得るところなく、非日常の次元で心理的充足を望んでやまないような人達だ。不特定多数のアテンションを集める・架空のキャラクターに我が身を重ねる・カルトで万能っぽいカリスマから「かけがえのないあなた」と認めて貰うetc……そういう、どぎつい心理的充足ばかり求め、日常の次元では全くと言っていいほど充足感を酌み出せない、そんな、“こころの咀嚼力・消化力の乏しい人”が増えているのではないだろうか。
“こころの咀嚼力・消化力の乏しい人”はとかく生き辛い
もちろん、こうした“こころの咀嚼力・消化力の乏しさ”は、メンタルヘルスを維持するうえでも社会適応を維持するうえでも大きなハンディになる。
挨拶をはじめとする日常的なコミュニケーションから心理的充足を感じやすい人は、日常生活さえちゃんとしていれば心理的に飢えてしまう心配は少ない。日常生活から大きくはみ出す必要も、日常生活を不満げな顔で過ごした挙句に孤立していくリスクも少なめだろう。こういう人達にとっての日常は、心を潤す彩りに満ちているし、これこそ本物の“リア充”である。
しかし、そういった日常的なやりとりからは心理的充足感をロクに汲み取れない、どぎつい非日常しかあてにできない人は、日常生活のコミュニケーションだけでは心理的に飢えてしまうだろう。なにせ、挨拶もアイコンタクトも彼らの心を潤してはくれないのだ。そんな彼/彼女らにとって、日常とは、灰色の世界でしかない。
彼/彼女らが心理的に充たされたと感じるためには、もっと強烈な充足感を狙わなければならない。勢い、「スポットライトを浴びたい」「V.I.P.な扱いを受けたい」「特別な人に目をかけてもらいたい」といった、要求水準の高い目標設定になってしまいがちだ。「何者かにならなければ気が済まない」というやつである。しかし、そんなハイレベルで非日常な目標設定がそうそう上手くいくわけがないので、才能と運に恵まれた一握りの例外を除いて、この試みは失敗に終わる。
あるいは、ハイレベルで非日常な充足感を恋人や配偶者に求めるタイプの人もいる。だが、どぎついまでの「繋がり」「理解」をパートナーに求めれば、パートナーを疲弊させてしまうか、逆にパートナーのちょっとした反応不足に幻滅するかして、これも大抵の場合、破綻に至る。
そのうえ、そうやって非日常な心理的充足をありがたがっているうちに、日常のコミュニケーションが疎かになってしまい、結果としてますます日常生活から心理的充足を得にくくなってしまう悪循環に陥る人もいる。さらに、「崇高な目標を目指している私は素晴らしい。日常に満足している連中は馬鹿ばかり」といった見下しの目線を身につけ、その見下しをもって自己愛を充たすような、鼻持ちならない処世術を形成してしまったら、もはや社会適応はきわめて困難である――そういう鼻持ちならない処世術は他人からは透けて見えるので、どこで働こうが、誰と働こうが、必ずといっていいほど敬遠されるからだ。最終的には、『山月記』で言うところの“虎”になるしかない。
心理的充足の“流動食”で心の飢えを凌ぐ現代人達
では、“こころの咀嚼力・消化力の乏しい人”はメンタルヘルスを破綻させるしかないのか?確かに、一部の人はメンタルヘルスを破綻させて心療内科や精神科の門をノックするだろう。しかし大半の人は心理的充足を上手く補って、精神的破綻を回避している。
バブル時代から用いられていたのは、「普通の人が持っていなさそうな装飾品やデジタルガジェットをいち早く手に入れ、自分は特別なセンスの持ち主だ・優れている、と思い込む」手法だ。ルイ・ヴィトンのバッグにしろ、iPhoneにしろ、この手のアイテムは皆に普及しきってしまえば心理的な充足を与えてくれない。しかし、常に流行の先端を走り、新しいガジェットを選び続ける限りは、「普通の連中とは違ってセンスの良い特別な私」という自惚れた自己イメージを維持できる――いつまでも流行との追いかけっこを続け、金銭的代償を支払い続ける覚悟さえあれば、の話だが。
また最近は、ネットゲームやソーシャルゲームを介して自己愛を充たしている人も多い。気の遠くなるような時間をネットゲームに注ぎ込む人もいれば、ソーシャルゲームに膨大な金銭を投じる人もいる。ネットゲームやソーシャルゲームは、非日常レベルの心理的充足を、個人の技量やセンスとは無関係に、時間やカネさえかければ誰にでもゲットできる、という点が画期的だった。だから日常生活ではほとんど心理的充足が得られない人にとって、ネットゲームやソーシャルゲームはそれらを体験できる蜘蛛の糸になることがある。勿論、運営企業もそのことを知悉したうえで、彼らからリソースを吸い上げていくわけだが。
ほかにも「職場の上司や学校の教官を尊敬できないかわりに、カルトなカリスマとの一体感に酔いしれる」「美少女や美少年キャラクターとの擬似親近感で充たされる」といった例もあるように、市場には、どぎついまでの心理的充足が大量に供給され、消費されている。それらはガジェットやコンテンツやキャラクターのかたちをしているけれども、心理学的な実態は、日常生活では心理的に充たされ足りない人に心理的充足を補うための流動食であり、サプリメントである。
“流動食”に依存すると、生き筋が狭くなる
こういうことを書くと、「流動食に頼って何が悪いんだ」「心理的に飢えてメンタルヘルスを損ねるよりは、ずっといい」と反論する人がいるかもしれない。確かに、メンタルヘルスを損ねるよりはマシなのかもしれないが、こうした心理的充足には、やはり問題がある。
ひとつには、コンテンツやガジェットやキャラクターに依存するほど、金銭や時間といったリソースをそこに費やさざるを得なくなってしまう、という点だ。例えばソーシャルゲームという、まさに流動食としかいいようのないツールに心理的に依存してしまったら、どうなるのか?程度にもよるが、多くの時間と金銭を費やす羽目になるだろう。しかも、企業は流動食への依存を脱却させる方向にではなく、むしろ依存を強めるほうに頑張るから、一度財布の紐を掴まれてしまったら、その依存状態から抜け出すのはそう簡単なことではない。
それと、そうした流動食やサプリメントにばかり頼っていると、“こころの咀嚼力・消化力”がいつまで経っても強化されない、という問題もある。現実の職場関係にしても男女関係にしても、非日常な充足ばかり求めていてはマトモに長続きするものではない。日常的なやりとりを無味乾燥なストレスと感じるのか、それとも心理的充足を汲み取れるのかは、メンタルヘルスの維持と社会適応を両立できるか否かの分水嶺となり得る。ところが、若い頃から流動食のような心理的充足に頼り続けてきた人は、“こころの咀嚼力・消化力”が弱いままで、日常的なやりとりのあれもストレス、これもストレス、ということになってしまいやすい。そうなると、メンタルヘルスの維持と社会適応を両立できる選択肢は自ずと狭くなり、“生き筋”の幅が狭くなってしまうだろう。
現代社会には、心理的充足のためのサプリメントや流動食が氾濫しているから、今更それを摂るなと言ってもしようがないし、たぶん、それら無しでは都市やニュータウンでの個人生活が成立しないところまで来ているだろう。だからといって、そうしたサプリメントや流動食に依存しすぎた挙句、コンテンツやガジェットを提供する企業に足枷を嵌められて搾取されたり、自分自身の社会適応の幅やストレス耐性を改善させる可能性を見失ったりするのはもったいない、と私は思う。そんな流動食とサプリメントに依存した人生を過ごすことに、何ほどの意味があるのか?その、消費に塗りつぶされたスタンドアロンな生から、一体何が生み出され、何が残されるというのか?
コンテンツやガジェットを創っている企業を肥え太らせることが人生の生き甲斐だという人はともかく、そうでない人は、この手の流動食やサプリメントと節度ある付き合い方を心がけるべきだ。控えめに言っても、依存しすぎないよう注意は必要だと思う。