シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

私は失敗を積極的に経験する

 
 ときに私は、どう考えても失敗しそうな知人の取り組みを積極的に支援する。また私自身も、失敗することが確からしい選択肢を敢えて突き進んでみることがある。なぜなら、失敗はそれ自体が重要な価値や可能性を秘めているからだ。私は、必ずしも失敗をネガティブに捉えない
 

失敗しないと気づかない人達

 周りを見渡していると、私からみて失敗すること・頓挫することがあまりにも明白な選択を選ぶ人に気づくことがある。どう考えても失敗するであろう就労プラン・間違いなく破局に至るであろう男女交際・高望みもいいところな応募etcは、身近なところにも少なくない。私が「無謀な失敗」とダメ出しした挑戦の90%以上は、実際、失敗に終わる。だが、私はそれを止めないし、むしろ応援することも少なくない。特に、当人が「上手くいくんじゃないか」と見当違いな見積もりを立てている場合は、である。
 
 当人が「上手くいくんじゃないか」と見当違いな見積もりを立てている原因は色々だろう。強い不安を押さえ込むためかもしれないし、世間知らずなだけかもしれない。願望によって目くらましされているからかもしれない。だが、いずれの場合であれ、「上手くいくんじゃないか」と思っている人達は「上手くいかないよ」という言葉を欲していないことが多く、また受け容れることが出来ないケースも多い。実際は、受け容れる余地があるかどうかを会話のなかから拾い上げ、もし受け容れる余地があるなら「失敗確率があるよ」と伝えることがあるにせよ、往々にして、最も失敗確率の高い人達が最も失敗可能性を受け容れられない人だったりするので言えずしまいなことが多い*1
 
 しかし実際に失敗を経験した後には、失敗前は聞き入れられなかった言葉でも届く可能性が出てくるし、「何故失敗すると見積もられるのか」について学ぶ動機を得る芽も出やすい。失敗は、成功に至る必要条件でも十分条件でもないけれど、しかし失敗を契機として何らかの教訓を学び取る機会というのは少なくない。また、失敗を契機としなければ(我々凡人には)分からないことが世の中には多々存在している。よって、失敗が当人にとって致命傷にならないと推測される限りにおいては、失敗の末路がこちら側からみて明白であっても、何も言わずに送り出すことが望ましいケースは少なくない、と思う。
 
 また、失敗可能性のある事物に対して「失敗を恐れるあまり一度も経験しない」こと自体がリスクになる場合が娑婆では結構ある。未経験であることがそれ自体アキレス腱になるような事物については、(睾丸が大きくなる前におたふく風邪にかかっておいたほうが良いように)一度は火の輪をくぐっておいたほうがかえって良かったりするわけで、免疫獲得という観点からも失敗でも構わないから経験が奨励される分野というものはあるだろう。いい歳になってからでは失敗しづらい・免疫をつけづらい経験というのは意外と多い。あなたも、中年ぐらいまでアレコレ経験しなかったが故に破滅を迎えた人をみかけたことがあるんじゃないだろうか。
 
 あと、積極的意志を「事前のありがたくもない失敗確率提示」によって遮られることが、果たして当人にとって良いことなのか、もちょっと疑問だ。確かに、事前に失敗確率が分かっているなら絶対やめておくべき選択肢というものも世の中にはある。だが一方で、失敗確率を知って尻込みしてしまっては永遠に成功フラグが登場しない*2選択肢や、失敗確率への勇猛さが成功可能性を高める選択肢なんてものもあったりするので、失敗確率がみえるなら挑戦しない、という行動傾向を助長すること自体が、その人の可能性を奪ってしまうやもしれない。それはいただけない。だったら精一杯やってみて失敗して、その失敗を一緒に検討したり次回どうするのかを練ったりするほうが良いのではないか、と思うわけである。
 

失敗しないと気づかない事々

 前述の話は、もちろん私自身にも適用される。若輩の身には、まだまだ世の中は分からないことだらけであり、私には失敗経験が常に不足している。「他人のことはよく見えても、灯台元暗し」ということもあって、他人に忠告されても了解不可能な、そして学ぶ為に必要な失敗が私自身にも沢山ある。そして灯台元の暗い場所というのは、防衛機制やらなにやらのせいで、失敗でもしない限りは直視がなかなか困難だ。この手の暗がりは、誰もが幾つかは持っている筈であり、そして暗がりの克服に失敗という苦い薬が必要な場面は少なくない。
 
 また、失敗確率が相当高いとある程度わかっている場合でも、敢えて全力で失敗してみることが得難い情報をもたらす点にも私は着目する。どういうことかというと、「ある挑戦に対してその時点で全力を出し尽くして失敗することが出来たなら、それはもう現時点の自分には無理な代物とはっきり諦めがつく」ということが私にとって高い価値の情報なのである。ダメージコントロール可能な分野において*3精一杯頑張って精一杯失敗することは、実は自分自身の力量や分際を測定するモノサシとして機能する点に着目しよう。精一杯やって成功すれば儲けモノだが、失敗してもあまり損失感は無い。私は全力を投入した失敗を通して、自分自身の能力について若干の理解を得ることが出来るのだ。そして、自分自身の能力についての情報は、次回以降の振る舞いに関して有益な選択肢・低い失敗確率・少ないダメージを提供する可能性を秘めている。失敗を通して現時点における自分の限界に見当をつける行為は、(ゲームのようなステータス表示欄など存在しない)娑婆世界において、自分自身に関するきわめて有用な情報を提供してくれるのだ。十分に全力を出し切ってというなら、「己の力量や分際を知る為にわざわざ敢えて壁に体当たりしてみる」という行為を私は馬鹿にしない。自分自身について知ることは、他人について知ることと同じぐらい難しく、そして貴重なことなのだから。
 

よって私は失敗を重視する。とりわけ、美味しそうな失敗を重視する

 なので、私は知己に対しても、自分に対しても、失敗を含んだプロセスを極めて重視するし、ある種の失敗を厭わない。そして、失敗を通して様々な学習・情報・教訓などを得ようとあがくだろう。失敗は実際、痛かったりコストがかかったり遠回りだったりする経験なわけだが、そうしなければ学ばない・学べないことというのは数多存在する。少なくとも現在までの私自身はそうだし、他の人においてもそう違わない筈だ。私は失敗を通してようやく学び、失敗を通して何となく自分自身の輪郭を把握するが、私はそれらの学びや把握を貴重なものだと信じている。失敗しなくても全て分かるという人間が娑婆にいないとするなら、失敗を情報源として活用するという私の適応ドクトリンは、失敗からただ逃げ回るだけの人達に比べれば有効な処世であろう、と私は信じて疑わない*4。私は失敗というプロセスを通して、常に成功する人ほどではないにせよ、失敗出来ない人達よりは多くを学び、強くなってやる。大いに失敗できる機会*5が与えられたなら、多種多様なバリエーションの失敗を全力で経験しようとするだろう。私はまだまだ失敗し足りない。
 

*1:そして受け容れられる可能性が低い状況の人間関係において、賢しげな忠告は容易に人間関係を破損するのだ。関係を維持する為にも、忠告めいた真似を避けたほうが良い場合は少なくない

*2:または、失敗を何度か経験しないと成功フラグが立たない

*3:ダメージコントロール不可能な分野においては、この限りではない。例えば60になった人が退職金すべてを初体験の信用取引に突っ込んで勉強する、などという行動は、ダメージコントロールがきわめて悪い行為であり、「勉強代は自分自身の運命」なんて話になりかねない。

*4:繰り返すが、失敗に際してダメージコントロールがきかずに奈落が口を開けるかもしれない失敗については、必要最低限としなければならない。先に挙げた、先物取引にいきなり全投資などというのはハイリスクというよりも、ただの蛮勇といわざるを得ない

*5:思春期のモラトリアムは、まさにこうした失敗機会の宝庫である