私自身が脱オタしたいと思った頃から十数年が経ち、ウェブサイトで考察とケースレポートを蓄積してから六年が経った。私が言うところの『脱オタ』、つまりオタク趣味へのリソースを一時的に減少させてでもコミュニケーションスキル/スペックにエネルギーを注ぎ、それらの改善を図るという行為について、自分でもよく経験し、数多くの人達の経験談と実態をみてきたと思う。そろそろここら辺で、「脱オタに失敗しやすいのはどんな人なのか」についてまとめてみたいと思う*1。
汎用適応技術研究[index]における検討と症例報告、及び私の見聞から
脱オタに対して肯定的な人も批判的な人も、「脱オタは、誰でも成功できるものとは限らない」という点では見解が一致している。しかし、どのような特徴の人が脱オタに成功しやすい/失敗しやすいかについて統一された見解はみられない。そこで今回、脱オタの可否を占う目安になりそうな特徴について私見を紹介する。脱オタ、即ち「コミュニケーションスキル/スペックを改善させる試み」をやっても失敗や挫折に終わってしまう人はどんな特徴を持っているのか?
1.高齢ほど失敗しやすい
当サイトの脱オタ症例報告をみると、年齢が若い人ほど少ない苦労で高い成果を挙げていることが分かる。投稿された報告を読む限り、10代〜20代前半の施行者はかなり短期間に成功している。しかし年齢が後になるほど成功したと感じる度合いは少なくなり、30代以降の投稿者はゼロである。また私自身が見聞した範囲においても、20代後半以降の施行者と20代前半以前の施行者に大きなギャップが横たわっているようにみえる。
この現象の要因は、脳の硬化によるもの・恥のかきやすさかきにくさによるもの・等等が考えられるが、脱オタが高齢になればなるほど難しいものであることがはっきりとみてとれた。おそらくだが、脱オタに限らずコミュニケーションスキル/スペックの幅を広げる活動全般が、出来るだけ若年のうちに対処したほうが効果的且つ失敗が少ないということもいえそうだ。鉄は熱いうちに打て。
2.一、二回の失敗や挫折を受け容れられるか否か
極めて若年で、一度の脱オタ試行でコミュニケーションの幅が広がった人は良いとして、そうでない人は失敗や挫折に対するレジストがどれぐらいなのかが問われることになりそうだ。失敗や挫折への耐性が無い人は、幾らファッションをいじろうとも、肝心要のコミュニケーション試行が少なくなってしまうし、やったとしても及び腰になってしまう。言うまでも無く、「怖気づいた態度」は、従来のコミュニケーション対象とは異なる集団・性別・文化との接触に際して悪い心象を与えやすいし、ちょっとしたチャンスを素通りする確率も増大させてしまう。一度や二度の失敗で打ちのめされて「ボクはもうだめなんだ」と敗残兵気分から立ち直れない可能性も高くなる。
脱オタに限らず、本来、何か新しい技能や領域を習得するにはトライアンドエラーが必要で、つまり幾らかの失敗や挫折は殆ど不可避なわけだが、失敗耐性・挫折耐性が低すぎる人はそれが出来ないし、だからこそオタク井戸の底から一歩も這い上がることが出来ない。コミュニケーションスキル/スペックの向上や、異性との交際などといった分野は、失敗や挫折を「太平洋戦争序盤の航空戦で戦訓を得たアメリカ軍のように」生かしていかなければならない分野の最たるものである。しかし、失敗や挫折に脆弱すぎる人達は、どうしても踏み込みが甘くなってしまいがち&諸試行の成功確率を自ら下げがちで、しかも失敗後に戦訓を研究する余裕すらなく落ち込んだり、さっさと諦めてしまったりしがちである。これでは到底、失敗を成功の素に化学変化させることはおぼつかない。
3.失敗や挫折を振り返って戦訓に出来るかどうか
失敗や挫折は成功の素だが、ただ失敗や挫折を繰り返すだけでは決して成功には至らない。成功に近づくには、「失敗したのは何故なのか」「どういう所がまずかったのか」を振り返らなければならない。そして修正可能なポイントについては修正したり工夫したりして次の挑戦に移らなければならない。
しかし、脱オタに失敗する人のなかにはしばしば、こうした失敗を成功の素に変える為の作業が出来ない人達がいる。これでは幾ら失敗しようが辛い思いをしようが、それを糧にすることなんてできっこない。「反省だけなら猿にも出来る」というけれど、実際には反省、それも“効果的な反省”や“次につながる反省”が出来ない人というのは存外多いらしい。
ある脱オタ挫折者が、失敗や挫折を振り返って戦訓に出来ない理由は幾つかあるだろう。三つばかり例を挙げてみる。
ひとつ。知的機能に問題があって、因果関係や問題点を抽出できない場合。
ふたつ。失敗を振り返ることの痛みに耐えることの出来ない自意識なり自己評価なりがあって、失敗した自分・挫折した自分を振り返りきれないか、歪曲した形でしか振り返ることが出来ない場合*2。
みっつ。極端な責任転嫁型のパーソナリティの持ち主で、失敗や挫折の理由を外在化させてしまって自分自身の弱点を検証する視点を持たない場合。などなど。
4.小学生時代後半〜中学生時代の適応状況
脱オタ症例検討をみる限り、小学校時代後半〜中学校時代にかけて、クラス内カースト(いわゆるスクールカースト)においてどの辺りに位置づけられていたかと、予後に関連があるように思われる。この思春期の出だしにおいて上位カーストに属していた人は、高校時代に挫折してオタク界隈に逃げ込んだとしても、比較的短期間に脱オタを果たしてコミュニケーション上の問題を解決している傾向が強い。対して、小学校時代後半〜中学校時代にかけて、下位カーストにいたり、それこそオタクと蔑まれてみたりした人は、脱オタが上手くいったと思える境地に到達するまで、大変長い時間をかけている。また、必ずしも十全な結果に至ったとは言い難い人も少なくない。
おそらくだが、思春期前期のコミュニケーション空間における適応が良かった人の脱オタと、悪かった人の脱オタは質的にも量的にも根本的に異なるものではないかと私は考えている。「侮蔑されがちなオタクの適応技術研究」という観点からみれば、後者にウエイトを置いた形で私は今後も提言していくのが適当だろう。そして思春期前期の適応が捗捗しくなかった人こそが、脱オタを渇望するのだろう。
5.脱オタ進行と、異性とのコミュニケーション発展が平行しているか否か
因果関係なのか単なる相関関係なのかは分からないが、脱オタ試行の最中に異性とのコミュニケーションが促進することは予後良好のサインのようである。男女交際の開始とか、異文化の異性に対して物怖じしなくなったとか、とにかく異性に関する肯定的経験が出てくる人は予後が良いケースが多い。そもそも、オタクな人がわざわざ脱オタしようとか格好つけようと思う究極的要因のひとつとして異性への意識というものがあるわけで、異性の面における改善は、コミュニケーションに関する状況の客観的好転を意味するだけでなく、当人の主観レベルにおける満足度を大いに引き上げることだろう。そして、当人の主観レベルにおける満足度の向上が、さらなる好循環を生み出すことは言うまでも無い。
6.ファッションへの依存度や、ファッションへの勘違い
脱オタというと、どうしてもファッションの事がイメージされがちだが、実際の脱オタにおいて、ファッションとは手段であり目的ではない。脱オタを考えるオタな人達が求めているのは、ファッショナブルな自分ではなく、コミュニケーションに難の無い自分だったり、女の子と手を繋いでいる自分だったりするわけで、ファッションはあくまでコミュニケーションスキル/スペックに寄与する触媒の類でしか無い筈である。
しかし、脱オタ=ファッションという勘違いに喜んで飛びついてしまう人が案外いるらしく、コミュニケーションの質・量の拡大をそっちのけにしてひたすらファッションに投機してしまう人が観察されている。「見た目」だけに過剰に囚われるのも愚かなことだのに、ファッションだけに過剰に囚われてしまうとなると、他の事が疎かになるわお金はかかるわでろくな事が無い。不幸なことに、ファッションに入れ込みすぎると「お洒落な俺様」に優越感を味わってしまうケースも多く、そうなると立派なファオタの出来上がりということになる。着ている服の値段が高くなろうが、ファッションで優越感ゲームを楽しもうが、それでは手段を目的と履き違えているだけのことであり、彼のコミュニケーションスキル/スペックに関する諸問題は置き去りにされてしまう。ファッションから来る優越感に味をしめすぎた人が堕ちる、ある種の地獄である。
7.自己評価の低さ
コミュニケーション上の他者評価の向上を通して、低かった自己評価を引き上げていくという事も、脱オタの究極目的の一つだと私は思っているものの、「どうやら元来の自己評価が低すぎれば低すぎるほど脱オタが頓挫しやすい」という印象を私は益々深めている。脱オタ者はしばしば、「顔面の形態」にコンプレックスを持っているが、これはルックスに限定した話ではない。もっと総体としての自己評価の高低が、脱オタの予後に関連しているように思える。どこに閾値があるのかは不明だが、総体としての自己評価が一定の水準を割り込んでいる人は、どれほど頭がよかろうとお金に恵まれようと、厳しいようなのである。
そういう意味では、症例2(汎適所属)のように、(地に落ちた)自己評価をオタク界隈の内部で取り戻す行動は十分有意義で、脱オタという視点からも見直されるべきではないかと私は考え始めている。かく言う私自身も、ゲームや学業を通して自己評価を備給したことが脱オタの推進力として大きな力になっていたと記憶している。この他、比較的高齢だけれどほぼ完全な脱オタに成功した症例4(汎適所属)をみるにつけても、総体としての自己評価(おそらく、現今の状況だけでなく、幼少期からの性格形成も関与していることだろう)の高低も脱オタの予後を占うファクターとして重要なのではないだろうか。
なお、自己評価の低さは踏み込みの甘さや、失敗反省能力の低下にもダイレクトに繋がるという意味でも予後を左右しやすそうだ。2.3.の可否は脱オタの予後にいかにも直結しそうだが、自己評価の低い人にはかなり難しいことかもしれない。
脱オタしにくい人を知ることは、脱オタのしやすい人を知ることに繋がる
以上、脱オタの予後不良を予見する7つのファクターを紹介してみた。この他にも、実際には幾つかのファクターが予後と相関しているように思えるが、実際の見聞から重要そうなものを抜粋してみた次第である。
脱オタの失敗しやすいファクターを知ることは、脱オタを成功させる方法を知ることに直結している。そして予後不良因子を避けるなり減らすなりすることは、脱オタの失敗確率を下げてくれる筈である。己の弱点を知り、己の弱点をカバーしながら脱オタに邁進していくことは、施行者が挫折する確率を下げてくれると思う。脱オタの可否についてよく考え、あわよくばトライして中〜長期的な適応の幅を広げるオタクが一人でも多く増えてくれることを祈念する。そしてこの文章が誰かの何かの参考になるなら、これに勝る喜びは無い。