社会全体の趨勢・マクロな傾向としては、老人が尊敬されにくくなることは避けられない、と私は考える。とりわけ、見ず知らずの他人と都市空間で出会うような場合には、年長者であるだけで無条件で尊敬や配慮が確保されるとは考えにくい。老人が尊敬される時代は終わった - シロクマの屑籠ではその事を書いたわけだが、しかし実際には尊敬される老人というのは沢山存在するし、祖父母や恩師を敬ったり大事にしたりする若い人も少なくない筈だ。誰だって、老人すべてを一様に軽蔑しているわけではない。
つまり、マクロのレベルで老人全体の価値が相対的に下がりやすくても、ミクロの個人レベルにおいては、必ずしも老人/年長者個人は脱価値化されていないし、尊敬される余地がなくなったわけでもないのだ。年を食っても尊厳を侵されず、若年者からもゴミ呼ばわりされにくい境遇に至るにはどうすれば良いのか?若いうちから出来ることはあるのか?そこら辺について、考えられる事々をまとめてみる。
方策1:お荷物になりにくいような配慮
まず、周囲の人や家族の負担になりにくいような配慮を行うことで、周囲からお荷物扱いされにくくするという視点を紹介してみる。幾ら六十歳までの品行が良いものであろうと、親族との繋がりが密であろうと、長期間に渡って重大な負担を周囲の人に続ければ関係は冷え込み“うんざり”されてしまう可能性が高くなる。なんやかや言って、周りの迷惑になりすぎると(老いも若きも問わず)尊厳を侵されやすくなるリスクを負うことには注意が必要だ。
残念ながら、こうした“お荷物リスク”を完全に防ぐ方法は無い。なぜなら、老いて長生きすれば*1ADLの低下は避けがたく、そのなかの幾つかは個人の努力では回避不可能なものも混じっているであろうからである。しかし、リスクをマネジメントすることは可能だし、家族に負担をかける期間を比較的短くすることも期待できる。例えば糖尿病・虚血性心疾患・脳梗塞などを予防する取り組みは、寝たきりリスクや障害リスクを減らすことが出来るだろう。世話をかけっぱなしという心境は、世話をする側だけでなく、世話を受ける側の尊厳をも蝕むわけで、そのリスクを減らす工夫や、リスクを先延ばしし少しでも健康な老後を過ごす工夫は一考に値する。“暴飲暴食を防ぐ”“不摂生を避ける”などの成人病予防の努力は、老人になってからではなく、若いうちから可能な、否、若いうちからこそ推奨される営みだろう。自ら望んで無茶苦茶な不摂生をした挙げ句に五十代後半でトリプル成人病とかになっても、それは自分が悪いというものである。
また、ライフスタイルや心構えのレベルでも若年者のお荷物にならないような心がけというものは、あるかもしれない。節制を尊び我利我利亡者にならないようなライフスタイルや心構えが可能なら、次第に衰えていく心身の身の丈にあった振る舞いが可能かもしれない。六十代七十代になってもまだ二十代三十代の執着をそのまま満たそうとするようでは、老醜を晒すというだけでなく、周囲の人にそれなりの負担をかけざるを得ない、ことには注目しておく必要がある。“老いて益々盛ん”は結構なこととしても、その盛んさ加減が周囲の人にどのような影響を与えているのか、には注意が必要だろう。
方策2:人と人との間の関係を善いものに保つ
人間の生存に関する考え方の一つに、ネットワーク状に張り巡らされた“ご縁”のなかで人は生きているというものがある*2。そして、ご縁は日々の行動によって様々なかたちで蓄積していく。例えば、娘息子や孫たちの前で軽蔑すべき愚行を曝し続ければ、年々軽蔑の念は子どもや孫の心のなかで強くなっていくだろう。逆に、賢明な行為や敬意に値する行為を繰り返し続ければ、年々尊敬の念は高まっていく、と考えられる。
良縁であれ悪縁であれ、人と人の間で構築される繋がりは、一つ一つの間主観的体験の蓄積によって移ろっていく。子や孫の前で浅ましい年長者として醜態をさらし続ければ、子や孫は「この人はそういう人」という前提で付き合いを形成していくだろうし、そこから余計な学習をしてしまうかもしれない。例えば、老いて動作の鈍くなった祖父を邪険にする父親を日常的に眺めやる子どもは、“自分の父親は動作が鈍くなった人を邪険にするような人”という前提で親子関係を構築していくかもしれないし、それどころか“自分の父親も、要らなくなったら邪険にして良いものなんだね”という学習を推進するかもしれない。もし、妻や両親、子どもに対して邪険に振る舞う人が、自分が年老いて退職した頃に皆から邪険にされ、軽蔑されたとて文句の言える筈が無い。それこそ因果応報、である。
ご縁(人間関係)の蓄積は、もちろん肉親との間だけに留まらない。ご近所さんとの関係・勤め先や取引先における関係、などなど、人間関係はありとあらゆる所に発生・蓄積している。そして人間関係の内部で蓄積する皆の経験・体験は、つもりつもって世間の評価というものを形成していくことだろう。ひとえに娑婆のどこに行こうとも、年齢相応の節度・分別ある見識・余裕ある態度etcは人間関係において尊敬の念を蓄積させるだろうし、そういったものは年季の入った年寄りが(本来)得意とするものの筈、である。一方、年甲斐もなく我利我利亡者な振る舞いを続ける老人は、「このジジイ/ババアは終わっている」と馬鹿にされても致し方あるまい。
方策3:自分の人相を振り返ってみる
もちろんこれは、ニコニコ笑って過ごしましょうという単純な意味ではない。
顔に刻まれる皺と同じかそれ以上に、自分自身の日々の振る舞いは、自分自身の行動傾向のなかに深く刻まれる。例えば定年になるまで頭ごなしに部下を怒鳴り散らす癖があった男性などは、定年後に行動傾向を変えようとしたところで怒鳴り癖を簡単になおす事は出来ない。また同様に、人の不幸をみて笑うことだけが楽しみの人などは、顔面の人相と同じかそれ以上に、纏っている空気や精神が卑しくなっていく事を避けられない。
日々の振る舞いは、人と人との関係性のなかにだけ降り積もるのではなく、あなた自身の精神と纏っている空気にも堆積する事を覚えておく必要があるだろう。そしてその堆積は、若いうちから延々と降り積もって形成され続けるのだ。還暦を迎えた頃に尊敬されるような人品を身につけているか否かは、若い頃からの日々の営みによって蓄積形成されるものだ、と私は理解している*3。そして、“降り積もって形成されたあなたの人品”は初対面では済まない人間関係の構築に際して、甚大な影響を与えるものなのである。
方策4:通文化的・時代普遍的な諸価値を身につける・教養を身につける
知識や文化の蓄積に関しても(補助的ながらも)有効な方策があるので書いておく。
老人が尊敬される時代は終わった - シロクマの屑籠に書いたとおり、時代の流れやテクノロジーの進歩によって、老人が身につけたスキルや知識は陳腐化しやすく、それが若年世代に希少性を提供する可能性は低くなっている。だが、すべての分野でスキルや知識が陳腐化しているわけではない点には、注目する価値があろう。
例えば年季が入っているほど研磨される職人的技芸の分野においては、どれほどwikipediaで知識を身につけている若者であっても、練達した老人の技倆に敵うことは無い。いや、職人的技芸に限らず、“人格の研磨”という点においても、年季が入っていなければ示しようのないものは沢山あると思う。通文化的・時代普遍的な諸価値を身につけることは、これこそ年長者ほどアドバンテージを期待することが出来る分野、の筈である。徳性も含めた諸価値のなかには、魂の年輪を(多かれ少なかれ)必要とするものがあるのではないか、と思う。
また、時代の流れに関わらず有意味・有価値な教養を蓄積させるうえでも、老人は大きなアドバンテージを有している。例えばクラシック音楽・俳諧・茶道etcの、幾らでも凝りようがあって認知されやすい趣味分野は、熟達に多大な年数を要する*4。そして流行とは無関係であるが故に、それらの文化的アドバンテージは歳をとろうとも陳腐化せず、むしろ年余にわたる修練によって益々光り輝くのである。
個人的には、これは古典的な趣味に限らないものだと思う。かつては不良の音楽だったジャズ音楽も、今ではすっかり熟年者の文化的ステータスへと変化した如く、現在サブカルチャーとされている諸分野に関しても、年余にわたる蓄積と修練は、何らかの文化的ステータスを中年〜老年期において提供し得るのではないか、と私は考えている*5。流行のテレビ番組に右往左往していては何も残らないかもしれないけれど、趣味・文化・教養と呼び得る何かを長年磨き続けることは、(ジャンルにもよるが)定年後の自分自身に価値を残存させる一助になるかもしれない。
要は、個人が立派な老人になるか否か
結局のところ、要はあなた個人が尊敬に値するか否か、という所が肝要なのではないだろうか。年齢以前の問題として、人間として尊敬に値する人物かどうか、人間のクズなのか好ましい人柄なのか、という事が真っ先に問われるという事を忘れてはいけない。文化的付加価値や技能的付加価値も重要には違いないけれど、それだけでは若年者に「嫌なジジイ/ババアだ!」と誹られることは免れまい。
そして、自分自身がどのような人物・人品なのかは、ご縁のなかで(つまり娑婆における人間関係のなかで)相互-作用的に形成されるものなのである。もしあなたが人間関係で結ばれたネットワークのなかで悪業を重ねるなら、単に周りの人に軽蔑の念が蓄積するばかりでなく、あなた自身の精神と行動傾向にもカルマが降り積もっていく事を記銘すべきだろう。あなたが人間関係のなかでとった一つ一つの行動は、あなたに関する現在の評価だけでなく、未来のあなたの行動傾向と未来におけるあなたの評価をも少しづつ、しかし不可避に形づくっていくのだ。あなたは別に“尊敬される老人”などというものに憧れる必要は無い。けれどももし、あなたが軽蔑される老人にはなりたくないと思っているとしたら、自分自身が今どうであるのか、そして今やっている振る舞いが自分自身と周囲の人々の内に何を蓄積させているのかに自覚的になったほうが良い、と私は考える。悪玉コレステロールも、悪縁悪行も、過ぎればあなた自身に牙を剥く筈だ。
[謝辞]この文章はhttp://kazus.blog66.fc2.com/blog-entry-1957.htmlによって大きな影響を受けました。また、id:buddhistさんのコメントにも刺激を受けました。ありがとうございます。
*1:老いなくても事故や突然の難病を被るなら
*2:ご縁、という言葉が嫌いな人は、間主観、という言葉でも代入してやってくださいな
*3:この問題は、ネットで言われる非モテ・喪男・コミュニケーションスキル/スペックにまつわる議論に関して恐ろしい洞察をもたらすものが、紙幅の都合でここでは省略せざるを得ない
*4:勿論、一点集中で多大なリソースを犠牲にすれば、若年者にもこれは可能だ。しかし、そのような一点集中をやりすぎると当人の適応に大きな影を投げかけることは避けがたい
*5:ところで、オタク分野、例えばライトノベルやエロゲーといった分野は、現在のジャズ音楽のような地位を将来確保することが出来るだろうか?このテキストでは敢えて答えを明示するのは避けるが、オタク諸氏に是非考えて頂きたい命題である