白衣を着ていない時の話。そして一個人として対人関係をメンテナンスする雄猿として行動する時の原則の話。
プライベートモードの時は、「ああ、この人はこのまま行くと80%以上の確率でコケるね」と思っていても、そのリスクを本人に忠告することはない*1。その人が自由に失敗する権利を守り、その人が不快な忠告を避ける権利を守らなければならないからだ。助かる道が私にみえていたとしても敢えて放っておくことこそ、その人の自由を尊重しつつ不快を最小限にする道である、筈だから。
もちろんこれは、以前に二度三度は忠告したことのある人に関する話だ。世の中には、そういった意見を耳に入れることを厭わない人もいる*2ので。しかし世の中には、二度三度忠告してしかも忠告通りの不幸な結末に至ったとしても、まだ忠告を煩がるだけの人もいらっしゃるわけで、そういう人には耳障りの忠告は何の効果ももたらすことがない。そもそも、そういった人に何かしらのアドバイスを送ることが、私個人の適応に寄与するのだろうか?(いや、寄与しない。その人の人間関係から速やかにフェードアウトするのが得策ではないか)
よって、失敗する権利を擁護すべく、明らかに失敗しそうな人も、なるに任せるのが適当なのだろう、たとえ私自身の視点からみて95%以上の失敗確率が想定される場合であろうとも。自由の尊重という観点からも、当人の不快回避という観点からも、私自身の適応的対人戦略の面からも、そういった人の失敗する権利を擁護することが望ましい、と私はいつも感じて行動している。忠告などというものは、ことプライベートに関する限り、自分の為または自分と相手の為に有用な場面でだけ選択されるべき行動であって、誰にも好ましい効果を与えそうにないと考えられる時に、相手の失敗する権利を逆撫でしてまで投げかけるものではない、と思う。
…しかしこんなことは本来、わざわざテキストにして書き残すほどのことではなく、誰もが自動的に判断して自動的に実践している処世に違いない。
[留保]:しかし、忠告することそのものが自分自身に益を為す場合(例えば自意識を満足させる)には、忠告することが忠告対象がどう思うのかに関係なくガンガン投げかけられることがあり得る。忠告が、相手と自分の関係に寄与するか否か・相手の適応に影響を与えるか否かではなく、自分自身の満足なり利益なりだけを担っている場合には、A氏からB氏への忠告は情け容赦の無いものとなるだろう。B氏側にとって厄介このうえない状況だが、こうした営為は世間一般で広く認められる。