そういえば、一心不乱に己を非モテ非モテと自称する人達にとって、自分に投げかけられる非モテという自称は祝福なのだろうか?それとも呪いなのだろうか?
この二分法自体は極めてナンセンスなものに違いない。だが、例えば一心不乱に非モテを自称する人達をみていると、自分自身にある種の呪いのまじないをかけているように感じることが少なくない。少なくとも、祝福しているようにはみえない。私がしばしば感じるあの感触は、一体何なのだろうか?そして、あの営みはどのような適応的意義を内包しているのだろうか?*1
あの言葉を自称する人達の認識と、私の認識との間にあるギャップに、思いを馳せながら。
*1:適応的意義を内包しているとしたら、どの程度の未来射程距離を保有しているのだろうか?