シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

一般に青年が主張する内容は正しくない。しかし、青年がそれを主張するそのこと自体は正しい。

 
2006-12-10 - 古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」
革命的非モテ同盟跡地
 
 この二つのリンク先の若い人達に、まずは以下の格言を呈示してみたい。
 

 ・一般に青年が主張する内容は正しくない。
  しかし、青年がそれを主張するそのこと自体は正しい。
                                       byジンメル[断章]

 
  上記リンクに即して書くなら、「一般に非モテが主張する内容は正しくない。しかし、非モテがそれを主張するそのこと自体は正しい。」ぐらいになるだろうか。
 
 先日、いわゆる非モテを自称している人達と直に会う機会があって、色々話をした。私よりも一回りぐらい若い歳の彼らと、男女交際の話やらオタク談義やら色々とやったわけだが、そんな彼らの語る姿はとても生き生きとした、二十代の青年然としたものだったと思う。はてな界隈/blog界隈においては、そうした青年達が*1、自分の問題や社会問題についてオンライン上で言葉を交える機会がたくさん転がっている。あまつさえ、オフライン上で遭遇するチャンスすら時には与えられる。私は、彼らのこうしたやりとりはとても有意義なことなんじゃないかと思っているし、その為のツールとしてインターネット・ブログ・オフ会を活用する事に、何の躊躇も遠慮も要らないとも思う。彼らが職場・学校・日常生活においてどうなのかは私の関知するところではないが、どうあれ、「思春期の終わっていない彼らに好適な、語るべき場が存在していて、語りたい事を存分に語れる」ということ自体はすごくいいことであり、彼ら個人の適応にとって十分な意義があるんじゃないかと思う。
 
 例えば、際限なくネット上でループすると言われがちな非モテ議論。あの、物憂げでアポクリン汗腺の臭い漂うテキスト群をみている時、私はしばしば彼らの盲点や理想論的問題点を見出してしまうし、「その道はいつか来た道」と突っ込みたくなる場面も少なくない。だけど、たとえネット先人達からみて飽き飽きしたリピート議論だったとしても、または内容的に理想主義的過ぎたり世間知らずな所があったとしても、「彼ら個人個人が、彼らの年齢においてあんなに一生懸命に語る」、という事には彼ら個人の適応に関する意義が含まれている、ことを忘れるわけにはいかない。年寄り衆にとっては「いつか来た道」であり懐かしいログに過ぎない記憶であっても、年若い人達にとっては「今まさに歩んでいる道」でありタイムリーに紡ぎだされる言葉であることを、記銘しておこう。
 
 もちろん、彼らが若いからといって議論や主張そのものを評価する際に手加減する必要はあるまい。現実無視の理想論にはそれ相応の指摘をしたって良いと思うし、青臭い事を言っている時には素直に「青臭いです」と突っ込めばいいと思う。第一若いから手加減するなんて失礼千万というものだ*2。私自身もそうやって大人達にボコられながら今に至ったことを思えば、誠実に容赦なく対等に取り扱うってもんだろう。そうやって、色んなものにぶつかりながら齢とっていくってモンなんだろうし、今現在の私もおそらくそういうプロセスを現在進行形で継続しているわけだ。私より年上の人からみれば、こうやって私がシコシコ書いていることそのものが、やはり拙さであったり、「その道はいつか来た道」にちがいないわけで。*3
 
 こうした認識を持ったうえで、改めて自称非モテの人達のネット議論をみてみると、たとえ彼らが理想論を振り回したり、時に防衛機制や願望のバイアスに引っ張りまわされていたとて、嗚呼あれはあれでいいんだなというか、モラトリアムな時代をすごす彼らにとっては、今まさにああいう雄叫びが必要不可欠なモノなんなんだな、という肯定的な捉え方が可能になる。彼ら個人個人の心的要請の備給や成長の一プロセスとして、または人付き合いの一環として“いわゆる青臭いループ”を眺めやった時、議論そのものを痛烈に批判することはあるにせよ、議論する当人と議論をするという行為については駄目出しのできよう筈も無い。同じ年頃の時の自分がやっていた、より愚かな主張の数々を回想するにつけても、現在の彼らの姿勢や営みを応援したい気持ちにならずにはいられない。私も人生の諸先輩方も、そうやってかつて歩いて来たんだろうし、私が今いる立ち位置も、やがて彼らにとって替わられるポジションに違いないのだろう。彼らが、ああやって色々とぶつかったりクネクネしたり揉まれたり凹んだりしながら、今まさに成長の真っ只中にあることを思い起こしておこう。来し方行く末はさて知らず、若い非モテ論者達も彼らの歩幅でではあれ、今もまさに娑婆を歩き続けている、精一杯歩いている姿がある、と捉えたい。
 
 世間には、議論というものやテキストというものに、一個人が齢を重ねていくプロセス以外の意味を見出さずには気が済まない人達というのも確かに存在している。そういう価値観しか持ち得ない人の場合*4、一個人が成長していく経験としてのブログ放談・ブログオフ会に、意味や意義を見出すことはなんら無いだろう。しかし、思春期ブロガーの思春期的レクレーションとして彼らの営為を捉え直すとしたら、あれらの“青臭く遠回りにも見える活動”も、個人個人にとって重要な一通過点として、または摂取しなければならなかった成長上の栄養素として最把握できるんじゃないだろうか。ネット上における、一見非生産的で、理想主義的で、現実無視の理想論っぽい非モテ議論に関しても、このような視点で再把握をした場合、個々のdiscussionの是非はともかく、彼らの営為そのものはやはり肯定的な文脈で捉えることが出来るんじゃないだろうか。私は、非モテ談義の個々のdiscussionにはそれほどの価値は無いと思っているが、非モテ談義を行う個人個人が精一杯のdiscussionを今この瞬間に行っているという事には、何らかの意義なり意味なりがあると思っているし、そのプロセスが後日の当人にとっての何らかの養分となる可能性を信じたい。また、そのようなdiscussionを展開する個々人の未来に幸あれと、祈らずにはいられない。
 

 子供叱るな  来た道だもの
 年寄り笑うな 行く道だもの
 来た道 行く道 二人旅
 これから通る今日の道
 通り直しのできぬ道
                         by妙好人(←浄土真宗の名無しさん)

 
 disるべき議論は明確にdisりつつも、彼ら個々人の営為と彼ら個人の適応には祈りの言葉を。私は、不特定多数の非モテなるものがどうなろうが正直知ったことではないが、はてな/blogでみかけた自称非モテブロガー個々人の行く末については、どうか少しでも平穏であれと念じずにはいられない。そして適応の一プロセスとして、blog放談やオフ会、その他諸々の人間同士のやり取りが、僅かなりとも彼らの心中に堆積していく事を祈りたい*5
 
[追記1]:このテキストで価値を再確認してみた、思春期的レクリエーションやら青臭いプロセスやらは、勿論思春期非モテブロガーの人達に関してのお話で、十分な分別が期待される年頃にも関わらず、現実の苦痛から逃れたい自分自身を慰撫する為の道具として、大学生も真っ青の空理空論にしがみつく人達の営為については、防衛を通して心的ホメオスタシスを維持する為の機構としての役割しか認めないし、その生産性と将来性は未来に開かれていないと推定せざるを得ない。
 
 「あなた、俺より○年長生きしてるってのに、まだお砂遊びにしがみついているんですか?」
 
 十代〜二十代にかけてそれなりに似つかわしかった、また必須だったこうしたプロセスに、いつまでもしゃぶりつかずにはいられない大人というものは、清少納言にご登場頂くまでもなく、一般的には見苦しいものだと相場が決まっている。はしかやおたふく風邪のような思春期特有の現象として捉える場合と、目隠しで認知を歪めながらいつまでも場所に居続ける為の行動とを、同列に取り扱うことを私は良しとしない。
 
[追記2]:なお、非モテ議論が飽くなきループを繰り返し、議論そのものとして陳腐化していくとしても、「そうした議論が各年代ごとに際限なく繰り返される」という現象を議論する事にはまだ面白さが残っているような気がするし、世代を超えて果てしなくループする現象を観察・記録することにも未だ意義がある、と私は思っている。できれば、五年後も十年後も似たような話がネット上でループする有様を確認してみたいものだ。そしてその事を踏まえた考察を呈示したいものだ。

 

*1:なかには中年や少年や婦女子も混じっているような気がするけどまあいいや

*2:また逆に、年上だからどうのこうのとか、アルファブロガーだからどうのこうのというのも、政治的目論見を優先させる場合で無い限りはどうかなぁと思う。あと、若い世代の人達の議論が単に青臭いだけのものとは限らない点にも留意しなければならない。年齢や世代の違いから生まれる異なる視点や、若いが故の大胆さなどから学ぶものを素通りすることは勿体ない限りだ。

*3:まぁ、この“年齢の階梯”“年輪差”といった構造は上の世代から下の世代まで未来永劫続いているに違いなく、その事は屈託なく受け取っておいて良いんじゃないのかな、とも思っている。また、私がそういう視点で下の世代の発奮議論を眺めやることも、それほど不自然な現象ではないと理解している。

*4:困ったことに、「そういう人」というのがまさに思春期ブロガー当人だったりすることが少なくなかったりする

*5:ここで、効率主義的視点を持ち出すなら、もっと堆積効率の良い選択肢があるんじゃないかとか、そういう話になってくる。または、より若い段階でより効率的な戦場で行うべきだという話になってもくる。そして、脱オタや適応技術を追求する私としては、そうした効率重視の視点も無視はできない。けれど、もし効率についての議論を行う際には、非モテの人達の現在の適応も、現在の状況下で最適であろうとされる選択肢が意図的または自動的に選択されているに違いないことに留意が必要になるだろう。そして、そういった選択肢しか選べない彼らをして、そういった選択肢を選択せしめる内的/外的条件について一層検討しなければならないだろう。