シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

適応研究者から、自称非モテへの問いかけ

 

僕の場合、こういうこと聞いてきたり、相手が非モテっていうだけで上から目線でものをしゃべるやつを思いっきり殴っても許される価値観を想像したいね。
http://d.hatena.ne.jp/yugyu/20061005/p1

2006年10月06日 p_shirokuma 思春期心性 上?下?どっかに太政大臣みたいなのがいるの?んでもって、非モテを名乗る人たちは、何かそういうのを拝んでありがたがってるのかな?かな?/↑この似非上下を視たからこそ、オタは脱オタするんじゃないの?
2006年10月06日 yugyu ↓そりゃ無理って言うか。補足が早すぎです/↑の方にいらっしゃる何人かの方は自分のお足元が見えていないようですね/↑あなた方が乗っかっているビールケースを叩き潰すことを夢見ているのです

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/yugyu/20061005/p1 より

 
 なるほど、ビールケースをたたきつぶしたい気持ちを抱いているんですね。はっきりしない所もあるにせよ、非モテではない人達が高いところにいて⇔非モテが低いところにいると感じているんですね。ようくわかりました。
 
 これらコメントに対して、私が答えるとしたら、または質問するとしたら、以下のようなものになるだろうか。
 
 非モテを自称する人達が、マジョリティの価値観に迎合しそのなかで適応を向上させようとする、いわゆる『脱オタ』を採用しないとすれば、id:yugyuさんが視た“上下関係”を直視し、上からの目線だの下からの目線だのという事に拘る事は、個人の適応を維持するうえで利口な戦略では無いと思う。むしろ、苦痛を長引かせるだけの、非生産的な選択肢ではないか?だからこそ、私はマジョリティの価値観を崇め奉るような、もっと言えば、マジョリティの価値観に上下関係を見出して歯軋りするような戦略を、勧めない。
 
 もし、そういったマジョリティの価値観に上下関係を見出すのならば、だったらガタガタ言わずに脱オタなどの適応技術で武装するなり、等身大の自分の範囲で最善を模索するなり*1する事を勧めざるを得ない。例えば私の場合、id:p_shirokumaさんは、いったいぜんたいどういう動機で脱オタしたのかなぁ?と、このブクマコメを見て思った。 - 世界のはてといった問いに対して、躊躇せずに答えることが出来る――即ち、私はマジョリティの価値観を太政大臣ほど崇めるではないにしても、やはり無視しきれないと思ったからこそ、脱オタに舵を切ったわけである。脱オタを遂行する者というのは、id:Masao_hateさんを含め、マジョリティの価値観の中で泳ぎまわって個人の適応を最適化しようという目論見を持ったからこそ、脱オタを遂行するわけだ*2。そういった脱オタ指向者達が、モテだの何だのといったマジョリティの価値観を受け容れたうえで、その上下関係なり数直線なりのなかで「勝ち上がっていこう」とするのは分かる。分かるだけでなく、おそらくそれこそが脱オタの適応向上の道だろう。だが、脱オタを良しとせずに非モテを自称する人々においてはどうか。彼らがマジョリティの価値観のなかに上下関係を見出し、ましてやモテだのセックスだのを殿上人として見上げながらルサンチマンに耽るのはどうなのか。
 
 そりゃね、脱オタを指向する人達はまぁいいですよ、殿上人を見上げていても。脱オタの適応向上ってのは、言ってみれば下克上、(マジョリティのモテ価値観を引き受けたうえで)足軽でも這い上がればモテだの自意識の解消だのといった高みに至れるかもしれない、そんな風に思いながら上を見上げ、ハングリー精神を焚きつけるってのは決して悪いもんじゃないでしょう。
 
 だけど、非モテを自称しながらイケメンだの容姿だのを“見上げて”“殴りたいけど殴れない”なんて思い続けて、それで一体何になるんですか?それで、これからも未来永劫僻み続けるわけですか?いや、今現在の葛藤を防衛する方法としてはそれもいいかもしれない。けど、それ以上の何があるっていうんですか?よもや、ガタガタ言わずに強くなるか「僕は全部駄目です」と諦めるかすれば? - シロクマの屑籠の困った相談相手さんのように、脱オタに走るわけでもなく、脱オタにリソースを投下するわけでもなく、でも女の子に自分を丸投げしたいとか言いだすわけではありますまいな。そんな無茶な要求が通らないことを理由に通りすがりのカップルをバットで殴りたいとか思っているなら、そんな正当化はあんまりだ。『喪男道』の覚悟さんとまるで変わらない。
 
【じゃあ非モテはどうするよ、に対して思いつく対案】
 
 そこで、私は一応以下のアイデアを呈示する。これは、脱オタを嫌悪感の故に選ばない非モテだけではなく、脱オタしたいけど脱オタの遂行が困難になってしまった人*3に対しても有効かつ必要な処方箋だと思う。それは、
 

 実際上または見かけ上の、マジョリティ価値観ヒエラルキーからの離脱

である。手をこまねいたまま、マジョリティの価値観ヒエラルキーをまなざし続け、自分を低位に置きながら“モテ”を高位に据えるなんていうのはやめて、自分自身の価値体系のなかで*4マジョリティの価値観ヒエラルキーを脱臼/麻痺させてしまう方策を勧める。現実には、完全に脱臼/麻痺させることは困難だが、脱臼/麻痺の度合い次第では(自分自身の心的葛藤を中心とした)個人的適応を大幅に向上させることが出来るだろう。また、脱オタ的方法論とハイブリッドでやっていくんだとしても、マジョリティの価値観ヒエラルキーへの拘泥が小さい人のほうが作戦を遂行しやすく、なおかつ作戦案に過大な要求をしなくて済むようになると思う。
 
 例えば、文化ニッチの細分化が進んだ現代の、とりわけオタク界隈には、マジョリティの価値観からある程度の距離をとる事に成功しているオタク達が沢山いて、オタク達に提供されるべきオタクコンテンツの質・量はかつてないほど豊かなものになっている。オタク界隈の住人達をみる限り、エロゲーだの軍事知識だのを消費しながら“モテ”というメジャーな価値観から一定の距離を保って己の心的適応をやりくりすることはそれほど難しいことではない。脱オタ以外はダメという人達はこういうのを“逃げ”と呼ぶかもしれないが、そんなの放っておけばいい――個人の適応が短期〜長期的に最大化する道を選べば良いだけだ。
 
 このように、完全にとは言わないにしてもマジョリティの価値観を脱臼/麻痺させる生き筋がオタク界隈には豊富に存在している。多分、オタク界隈以外の色々な文化圏にも存在するだろう。それらを多用し、モテを殿上人のように崇め奉る度合いを減じることが出来るならば、自称非モテの適応(とりわけ心的適応)は向上するだろうし、それこそが脱オタしない非モテにとって巧い戦術なのではないだろうか。娑婆で生きる為の極最小限の技術・スペックを保有しつつも、マジョリティの価値観に呑み込まれる割合を最小化し、カップルをまなざし続けて目(と心)を焦がすような馬鹿げた処世を捨ててしまうのが、(脱オタを潔しとしない)非モテの適応としてはまだしも合理的なんじゃないかと私は考えている*5
 
 だからこそ、私は問いかけるわけだ。「脱オタするか、モテだの異性だのを諦めるかすればいいじゃないの?」と。自称非モテの宙づり状態がしんどいものだとしたら、1.マジョリティの価値観の内部で這い上がっていくか、2.マジョリティの価値観を脱却するか(現実には完全なる脱却は不可能なので、「一定の距離を置く」と表現するのが精一杯か)、どちらかを選ぶしか無いんじゃないのか?と。或いは、3.“世界でいちばんだめなやつ”を競い合うことに心の拠り所を求めるような、マジョリティの価値観を逆さまにしたヒエラルキーで勝ち上がるしか無いのではないか。だからこそ私は、ガタガタ言わずに強くなるか「僕は全部駄目です」と諦めるかすれば? - シロクマの屑籠と問うわけである。もし、これら以外の第四の道があるのなら是非教えて貰いたい。良いアイデアならば、早速適応技術として着目して研究してみたい。非モテを自称する人達よ、私は1.2.3.が自称非モテの短期〜長期にわたる個人的適応を守る作戦だと思っているが、第四の作戦があるのだろうか?そして、それは十分に長期間にわたってあなたの適応を維持することが出来るのだろうか?考えがあったら、是非教えて欲しい。私の知らない巧い個人的対策を、ネットに公開して欲しい。
 

 【ちなみに、マジョリティのヒエラルキーは破壊不能です。】
 
 なお、念のため断っておくが、マジョリティの価値観のヒエラルキーには、多分に通文化的/通歴史的な一定のバイアスがかかっている。各種リソースの多寡は、マジョリティの価値観においては一貫して問われ続ける根本要素であり、これは人間が人間である限り、あまり大きな変化はみられないだろう。id:yugyuさんは

あなた方が乗っかっているビールケースを叩き潰すことを夢見ているのです

というレトリックに思いを託したが、これは極めて楽観的な比喩だと思う。yugyuさんが見上げて唾を吐きかけたくなるところの、マジョリティの価値観ヒエラルキーというものは、投げつければ損壊するようなプラスチックケースでは無い。確かにソレは安っぽい演台かもしれないし、目には見えない、無視して生きる事も可能な枠組みには違いない。だが、この枠組みはビールケースより遙かに持ち上げにくく、壊れにくく、殴ったら一時的に凹んで暫くしたら元の形に戻ってしまうような、そういう性質のものなんじゃないかと思う。つまり、社会的生物としてのホモ・サピエンスの性質に縛られまくった娑婆世界の有り様こそが、yugyuさんがビールケースに喩えたソレの本態なんじゃないのかと思う。とても、ビールケースに喩えられるものではない。マジョリティの価値観の根本となっているところの人間達の娑婆世界を覆う道理は、榛名山よりも持ち上げにくく、チタン合金よりも頑強で、たたき壊すことは何人にも適わないだろう。だから、「マジョリティの価値観を変えれば良い」とか「マジョリティの価値観がいけないんだから、変更すべきだ」という議論は、個人の適応を論じるうえで空想的なものとして私は退けるので、そのつもりで。
 

 【これで質問終了】
 
 以上、適応技術研究者/実践者として、自称非モテの短期〜長期的適応に関してアイデアを具申したうえで疑問を投げかけてみた。最初はMasao_hateさんとyugyuさんへのメッセージのつもりで書いていたが、書いているうちに、本当に疑問が湧いてきたので質問の形をとることに。
 
 自称非モテ達はマジョリティの価値観ヒエラルキーをまなざしつつも、1.その中で這い上がる(脱オタ)でもなく、2.価値観から距離をとる(オタ道、など)でもなく、3.だめ人間コンテストに優越感を見出す(劣等感ゲーム)でもなく、その場で藻掻いている。そして1.2.3.どれも選ばないというのなら、第四の方策があるということなのだろうか?そしてその第四の方策を選ぶとしたら、どういう道があり得るのだろうか?これには大いに興味がある。もし、何らかの巧い方法を知っている方がいらっしゃったら、自称非モテの適応を維持・向上させる為の第四の道を教えてください。できれば、実践に耐えたやつが嬉しいです。
 

*1:なお、等身大の自分の範囲で最善を模索するという行為に際しての比較対象は、過去の自分であったほうが良く、現在の他人を比較にすることは精神衛生上も技術蓄積の面でも極めて愚劣である。喩えるならそれは、MMOにおいて自分のキャラの成長を楽しまずに常に他人のキャラよりレベルが低い事を嘆く新規参入者と同じくらい愚劣で、無意味で、楽しみを奪う処世と言える。もう一度繰り返す。自分のキャラ成長をろくに顧みずに他キャラとの比較で優劣を比較して鬱々とする処世は、MMOの楽しみ方としては殆どの観点からみて鬱々としやすい道筋だと思うし、それはMMOに限らず、“リアルワールドオンライン”という娑婆においても同様に違いないと私は推測する。

*2:なお、脱オタの遂行はマクロレベルではkiyaさんの指摘・脱オタ(→本家で清書) - シロクマの屑籠に書かれたような副作用を惹起する可能性があるが、己自身の適応だけを指向したミクロのレベルにおける技術論としては、このような問題はゼロに近似する事がいまだ可能である

*3:言い換えれば、マジョリティの価値観にヒエラルキーの重力から逃れられないけれども、本当は重力圏から脱出したい人

*4:注:他人の価値体系のなかで、ではない!

*5:なお、完全にイコールではないが、同人誌『奇刊クリルタイ』でid:kiya2014さんが呈示したテキストには、こういう視点に似たエッセンスが盛り込まれていると思う。こちらをどうぞ→http://d.hatena.ne.jp/kiya2014/19871002