シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人間行動のメカニズムへの接近は、「意味」を失わせるものではない。

 
 なんか、ヘンテコで読者そっちのけのやりとりがid:fromdusktildawnさんとの間で続いています。この一連のやりとりは、「みんなで楽しむ娯楽ブログ」には全く向いていないでしょうが、考える材料、または「いつか書かなきゃいけなかった事を渋々書く」契機としては有り難いものです。ありがとうございます。
 
 はてなグループ
 「利己的行動」その方法では生きていけない。 - 卓上洗濯機
 
 といったリアクションも、今までうっすらとは匂わせていたけれどもハッキリ書かざるを得ない幾つかのポイントをはっきりさせてくれました。「人間の行動は何らかの利己的動機・インセンティブによって選択される」を採用すると、生きる意味がなくなるんではないか、というような疑問を持つ方がいそうですね。また、それ故に「そんなの採用できるかよ」って思う人もいるようですね。それらの心配、または誤解に対して、私は二つの反論を呈示することが出来ます。
 
 このテキストでは一つめを挙げます。私の近似式が十分に正しいものとして、その式を運用するとニヒリズムに取り憑かれて「イヤになっちゃうのか」という事に関して。
 
 私がしばしば不思議に思うのは、私の構築するモデルが十分に確からしいということが分かったとき、例えば私は「俺、無意味死んでもいいじゃん」とニヒリズムの虜になっちゃうしかないのかな?という事です。仮に、人間の行動が全部近似計算出来るとしとして、その事が生きる意味なり喜びなりの有無が等号で結ばれる理由がさっぱり分かりません。私にとって別個の命題なんですが、どうやら、そうでない人が多いようですね。別にそれはそれで構わないことですし、そういう考えの人からみれば私の考えはうざったいものには違いないでしょう。
 
 喩えてみると、それって「温泉が気持ち良いメカニズムが分かったら、温泉を楽しめなくなる」ってのと同じ杞憂なんじゃないですかね。或いは、モテる方法がわかったら女の子に欲情しなくなるっていうのと同じ心配なんじゃないですかね。薔薇が咲くメカニズムが分かったとて、薔薇はやはり綺麗です。一年に一度花を咲かせる事が分かっていても、散り行く桜は名残惜しく美しいものです。同様に、人間の行動メカニズムが解明できたとて、恋はやはり甘いでしょうし、子どもをかわいいと思う親の気持ちは本物のままでしょう。もし、あなたが、メカニズムを知っただけで温泉に入るのがすっかりつまらなくなったり、桜の開花に関する研究を進めたら花見に行く気にならないような人なら、やはり大いに心配すべきでしょうが、私はそういう人間ではないので、人間行動に関するメカニズムに関する力学法則を知ったところで、私の人生が灰色の世界になっちゃうなんて事は無いでしょう。
 
 むしろ、僕は聞いてみたいことがある。どうして、メカニズムの解明が、あなた達の言うところの「意味」を「無意味」化するようなものとみなされるのか?違った言葉で質問し直すなら、何故あなた達は「メカニズムの解明」すると「生は無意味!」と考えちゃのか。うーん足りないな、もうちょっと意地悪に聞けば、あなた達のいう「意味」って何なのさ?って事ですかね。ここで、私の考えに似ているっぽいid:fromdusktildawnさんの記事を引用してみますね。
 

上記のPhenomenon氏の記事は、それについて、まず最初に抱かれがちな疑問だと思われるからです。

偽悪的な表現はともかく、要は、それって、石が落ちる「仕組み」を説明しているだけで、「石が落ちる「意味」」とは、違うもの何じゃないの?ってことです。

 
 私がおかしいよと思うのはここです。私が(この場合に)主要な議論対象としているのは、「石が落ちる「意味」」でもなければ「恋人にパフェをおごたい気分になる「意味」」でもありません。「石が落ちるメカニズム」であって「恋人にパフェをおごりたい気分になるメカニズム」です。id:Phenomenonさんの仰る、「そんなことは初めから知っているし、その上であえて<意味>と<価値>を作り出すのが人間」という言葉のなかの、初めから知っていると仰るソコの所をもっともっと解剖してみたいわけなんですよね。後続のテキストで書きますが、ここの解剖だけでも、随分と工学的なメリットがあると思いますし、事実メリットに与っています。fromさんが仰るように、それらは別個の命題として取り扱うのが適当なんじゃないか、と。
 
 ああそう、ついでにちょっと突っ込ませていただきますね。「あえて<意味>と<価値>を創り出すのが人間」という表現、どうなのかな、とは私思いますけどね。じゃあそれが創り出せないヤツの生は無意味で肯定する価値も無いものみたいに聞こえますから。ははぁ、頭が良くて心清くて強い人間だけが意味があるってわけなのかな?いや、そんな事をid:Phenomenonさんが目論んでいるとは考えたくないですが、なんとなく知的優越感を感じたくなるようなコメントかな、ととる事も出来ます。id:Phenomenonさんがそう思って無くても、そう勘違いしちゃう人が出てきそうな。
 
 仮の「あなた」に対して語りかけてみますね。
 なんか、“俺は路傍のコウロギになりたくない”“人間的な意味がある”という願望でも隠れてるんじゃないですか?“「利己的行動」その方法では生きていけない。”なんて言うけれど、それって単に、あなたが「あなたの言うところの意味」とやらに執着しながら生きているから、であって、私はあなたの言う「意味」とやらが無くても多分飯喰って糞して生きていけると思うんだ。ついでに、そんな事を考えたり求めたりする事のないコウロギやミミズ達すら、生きていけると思っていますよ。もっと言えば、コウロギとしての一生やミミズの如き一生を無意味として退けるのは凄くまずいと思うなぁ。コウロギは生きているよ、立派に生きて、精一杯鳴いて、凍えて死んでいく。私がもし一介のコウロギ(それも大脳新皮質を持ったコウロギ)だったとしても、意味が無い意味が無いとかダダこねて自殺することは絶対に無いと思う。なんで、無意味になるんだろ。なんで、絶望しなきゃいけなくなるんだろ。あなた達のいう「意味」とやらは、コウロギの生存には不要なモノだと思うし、コウロギの一生を彩るのに必須のものでもないと思う。そんな「意味」とやらの有無によって、何故生が頓挫したり摩耗したりするのかな?そんな「意味」の云々を追い求めるのは、あなた達が飢えているからであって、それが生物の、人間の生に必須のアミノ酸だからというわけではないと思うんですがどうですか。
 
 それに、あなた達の言う「意味」とやらで生を云々すると、頭が良くて偉大な学者の生が最高で、次にあなた達の生がexcellentで、良識的な人の生がgoodで、DQNの生がfine、それでそれでそれで……発展途上国でのたれ死にする子どもの生は無意味無価値で、チンパンジーの交尾は見るに堪えないもので、ミジンコの生は考えるだに無駄なもの、という事になりそうでちょっとイヤだなぁ。むしろ私は、人間もミジンコものたれ死にする子どもも、同じように無意味で、同じように有意味だというモノサシでモノを眺めたいと思うんですけど*1。例えば私がこの先栄華を誇ったとて、子どもを245人つくったとて、エロゲーしかやらない人生だったとて、四日後に交通事故で死んだとて、私の生が急に有意味になったり無意味になったりするとは私は思わない…あなたは思うかもしれないけれど。「意味がある」とか「意味が無い」ってぇのは、わけわかんないヒエラルキーなんじゃないの?私は、生きとし生けるものの「意味」なんてものを天秤にかけて有無や多少を計る勇気は無い、というかそんな得体の知れない天秤は不気味だと思うのが私だ。敢えて言うなら、諸行無常のこの世界では、全ては無意味だし、全ては有意味なんじゃないの?そんななかで私は、『全ては有意味、十分有意味、少なくとも絶対無意味じゃない』、という意見を採用している。私は悪魔のように狡猾な人間で、ずるくて、弱虫で、身勝手な人間だが、それでも自分の生を肯定出来る。もう一回り弱くても、同様だろう。また、ケモノのように生きる人や、書斎に引きこもって本に埋もれてヒステリーを起こしている人の生だって肯定せざるを得ないと思っている*2
 
 こんな私なので、ついつい「意味」だの何だのを拝みまくって「生きる為に意味が要る!要る!」と言っている人達がどうしてそう言い続けるのか怪しいなぁと思っちゃう今日このごろです。まるで、「成功」とか「知的優越」とか「倫理」とかいった憑き物のある人が有意味で、それらが無い人や動物たちは無意味、っていうような傾斜を勘ぐってしまう以上はね。例えば私のような「悪いやつ」の生を、「よいやつ」の生より有意味だって即断するような人には、こういう疑惑を勘ぐっちゃうなぁ。そりゃあね、そういう「意味」は保持していると気持ちいいよ、楽しいよ、何か、自己実現出来た気分になれるよ、だけどその「意味」とやらを背負ったり保有したりした気分になる事が「有意味の兆候」なのか、僕には分からない。「気分をご機嫌にする為のツール」としてなら有用性を認めるから、そりゃあ私もそういうのを内服することはあるけれどもね。でも、そんなのエロゲーとかビタミン剤とかと同列に扱うべきサプリメントぐらいの気持ちで取り扱っている。しかも大量服薬したら中毒になりそうな、ちょっと危ないサプリメントね。
 

 最後に、灰色の世界について付け足しを。
 

 灰色一色にぬりつぶされたのっぺらぼうの世界に逆戻りだ。だれももう一度線を引き直さないからですが

 私はその灰色の世界を生きている。この灰色の世界を、私は娑婆世界、って私は呼んでますけどね。多分、ニーなんとかさんも、世界が灰色だって事はとっくに気付いていたんじゃないかなぁ。だけども、私はその灰色の世界で恋をして、灰色の世界で歌を歌って、灰色の世界で酒を呑んでいる。恋は甘く、歌は楽しく、酒は旨い。私は、この娑婆で執着にまみれながらも、その執着がメカニズムに誘導されたものと自覚しつつも、でも楽しく苦しく精一杯生きている。ゲームのルールにちょっと詳しくなったからって、麻雀がつまらなくなる筈が無いのと同様、娑婆が灰色という事を知ったとて、個人としての私は顔を赤くしたり青くしたりしながらやっとるわけですよ。確かに時々灰色の空に憂鬱になる事はありますよ?でもそれは大抵、ネットをやっていたり本を読んでいたりメタ視点でいい気になっている時で、一生懸命何かに取り組んでいる最中はそんな事を視ている暇が無くなっちゃいます。
 
 んで線を引き直す?ははぁ、そりゃ無理でしょう。娑婆は常に灰色だから、線を引き直す事は決して出来ない。ただ、虹色の天幕をあなたの周りに張り巡らせることで、娑婆の道理から目を逸らせることは出来ると思う。私はあまり奨めないけれども、それがあなたの適応を向上させる良い手段だとすれば、虹色の天幕を貼り付けたり、あまつさえ他の人達に渡して回ったりするのも良いと思う。そんな人がいるのも、また娑婆だというのが私の理解なので。
 

*1:もうちょっと言えば、生きとし生きるものの生は全部因果関係で繋がっている…途上国でいっぱいのたれ死にしている子ども達も、外で泣いているアブラゼミも、みんな繋がっている…から意味の有無を云々しようがしまいが、全部有意味で全部無意味、という視点もあるけど、ここは深入りしないでおく。まだ私が不勉強だからっていうのと、今回の議論からはズレた話になりそうだからだ。とにかく、私が学んでいるところの仏教は、全部儚くてもニヒリズムに至るのはどうよ、と教えてくれています

*2:私個人の気分としては、そいつらに×印をつけたくなるけれども、真面目な考察のうえでは彼らの生を有害とか無意味とする事は出来ない