シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人間の適応に関する方程式を創ることは、工学的であって、哲学的ではない

 
「人間の行動は何らかの利己的動機・インセンティブによって選択される」を採用すると、生きる意味がなくなるんではないか、というような疑問を持つ方に、そりゃ違うよというもう一つの意見を提出してみます。
 
 (このテキストは、人間行動のメカニズムへの接近は、「意味」を失わせるものではない。 - シロクマの屑籠の続きです。読んでみたいという酔狂な方は、そちらを先にご覧下さい)
 
 「人間の行動は何らかの利己的動機・インセンティブによって選択される」という視点は、何よりもまず私にとって道具なんです。技術なんです。実践に供される道具であって、包丁や眼鏡やインターネットと同じような、「あると日常生活を便利に出来るアイテム」だからという事です。アイテムの獲得が世界を有意味/無意味にするわけではありませんし、アイテムの不保持が世界を有意味/無意味にするわけでは無いでしょう。万有引力の法則の発見前/発見後で世界が変わったわけでもないし、フロイトが防衛機制を主張した前と後で世界が変わったわけでもない*1。一つまえのテキストで書いたような、小難しい話をする以前に、まず私は、自分の包丁をこうやって研いでいる、というのが私のスタンスです。思想的にどうこうだなんて、大それた話だと思ってます。
 
 ところが、私の議論が「いつでも包丁として実践に供されるツールで、常に研ぎ続けていなければならない大切なモノ」って事をどうしても読者の人は信じてくださらない。まぁ、私の仕事仲間に語ってみせても「頭おかしいんじゃねーの?」って言われるのがオチだと思うので、ネット以外の付き合いのでは本当に親しい人にしかこの妄想体系を私は開陳していません。「そんなの実践出来るわけねーじゃん」「お前の机上の空論だ」って言われるに決まってると思うので。狂ってるって思われるのがオチだし、実際狂ってるかもしれないし(笑)。このはてなダイアリーで書き残した私のナマに近い考えをみている人達も、きっとそうなんだろうなぁ。これが理念じゃなくて実践用のツールって言っても、信じてくれなさそうだし、そもそもネットで書く事が実践である筈がないっていうスキーマ持ってる人もいそうだしなぁ。私が語っているのはむしろ工学的なものだと思っているんだけど*2、どうも伝わらないっぽい。
 
 私は昔から深く考えるのが苦手で、各方面の比較的浅いモノを組み合わせて、それでガタゴト動くマシーンを創るのが大好きな人間だ。例えば楽天が運営するポータルサイト : 【インフォシーク】Infoseekでやってた事なんかも、あまり深く考えなくても既存のモジュールを組み合わせればガタゴト動いたからこそ組み上げたわけで。自分に哲学やら理学やらを究極的に問いつめる素養は、無いと思う。それを第三者がどう思うかはともかく、私は工学的に自分の適応近似式を構築し、現実世界における対人コミュニケーションの場を通して何度も何度もデバッグし続けるだけだ。
 
 だから私には、まず自分が包丁を研いでいるという自覚しかない。包丁を研いで、その包丁でリアル世界の人間関係を自分にとって最も都合良く、気分良く、長期的に安定した状態にするように企むだけだ。私の議論を難しく考えて「生きる意味がどうこう」と考える人もいるだろうし、たまには私もそういう考えを思いつくことはあるが、実際のところ、包丁一本で揺れる意味なんて(あるいはもうちょっと拡張して、本一冊で揺れる意味なんて)なんなのさ、という考えのほうがずっと優勢です。それよりも、自分の適応方程式の切れ味がリアル人間関係を斬るにあたってどれぐらいの切れ味を持っているのか――つまりツールとしてどこまで機能しているのか――のほうがよっぽど興味深い。だって、ツールとしての切れ味が良いか悪いかは、そのツールにおんぶにだっこなの私の適応や予後を左右する、最重要ファクターなんですから。私はもっとこのツールを道具として洗練させたい。そうすれば、私は道具を使ってもっと適応を向上できるかも知れません。あと、道具が人に売れる程度の精度まで成長したらウッハウハでしょうから、欲深な私はそうなったら有頂天になれるでしょう*3
 
 こんな風に、私はまず工学的に「汎用適応技術研究」を追求していく所存です。思想的な話は他の人に任せておくか、少なくとも自分から積極的にしたいとは思いませんね。私は自分のツールをツールとしてまず鍛え上げることを至上命題としています。このツールから想起される思想やら哲学的思弁やらは、二の次三の次ですし、少なくとも今の私は必要としていないようです。私は、包丁やら三平方の定理やらwindowsXPやらを、まず道具として活用したい。だって、それらの哲学的思弁を幾ら行ったところで、鰺は捌けないしピラミッドは建たないしエロゲーも遊べない。だけど、それらのツールの使い方さえ詳しく知れば、鰺の刺身を食ったり建物建てたりエロゲーを動かしたり出来るんですよ!僕は、理論を突き詰めたり哲学的意義を問いかけたりするよりも、実際に旨いモン食ったり気球に乗ったりエロゲーを遊んだりしたいんです。
 
 「みんなも、難しいこと考えている暇があったら、包丁で鰺をおろして、食べちゃえば?意味とか何とか考えてるのが馬鹿馬鹿しくなるんじゃない?鰺っておいしいからさぁ。」
 
 意味とか何とか考えて高尚な月旅行に出かけるよりも、僕は包丁で鰺をさばいて刺身にして食ってしまいたい。多分そのほうがニコニコしていられるし、友達や家族を喜ばせるにも向いていると思うから。
 

*1:世界の「捉え方」は人によっては変わったかもしれない。しかしケルン大聖堂や薔薇の花や空の色が変わったとは、思わない。

*2:そういえば、脱オタについても私は常に実践に供する技術論を好んだにも関わらず、思想面がクローズアップされる事が多かったなぁ。ネットって、そういう所なのかな?かな?

*3:でも実際は防衛機制の読み取りをも含むツールだから、仮に精度が高くなっても普及は無理でしょうかねぇ、どうなんでしょ。