現実主義と、現実追認主義と - REVの日記 @はてな
非難されているのは現実主義ではなく現状追認主義 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか
もし、現実に寄り添う度合いの高低によって、現実追認と呼ぶ呼ばないが決定づけられるとしたら、または現実問題に屈服したと看做されるか看做されないかが評価づけられるとしたら、ずいぶんとぞんざいな事になってしまいそうだ。また逆に、「理想」と呼びえるモノに向かってアプローチする営為が無価値・無意味であるとし、あまつさえ何でもかんでもポルポト呼ばわりするのも頭が弱そうな振る舞いにみえる。ここはやっぱり、D-Amonさんが仰ることに近いかもしれないけれど、現実を見据えたうえで理想にアプローチするのが良いという、陳腐ないつもの結論に辿り着くしかないだろう。しかし陳腐だから簡単かというと、これはとんでもない!理想の見取り図を描くのはとてもしんどい事で、私などは尻込みせずにはいられない。
まず、理想に「アプローチ」という所が既に無茶苦茶に難しい。理想に萌えると、理想を肯定するあまり、理想に跳躍したい気持ちに駆られたり、現実を悪しきものとみなす執着に囚われてしまいがちだ。この囚われから逃れることが出来ない人は、現実遊離競争に突っ走ってしまうか、理想という鋳型に現実を当てはめる為なら手段を選ばないアレな人になってしまう。何らかの理想を胸に抱いた時、理想に向かって漸近的アプローチを試みるのではなく無理な跳躍を行おうとすると、無理な跳躍が祟った形でしか理想に向かうことが出来ず、概ねそのような理想は失敗した外科手術に終わってしまう、と私は思っている。でも掲げた理想の頂が現実から遠いところにあればあるほど、アプローチの道のりは長く険しい。意志が弱ければ安易な跳躍に流れてしまう願望は抑え難いことだろう。理想追及者はみな、「現実との連続性を保持した漸近的アプローチを放棄して机の上に脚を乗っける誘惑」と戦わなければならず、この戦いを放棄した人は 漸近放棄→跳躍→着地失敗 というおっかない危険を抱え込むことになる*1。
また、或る理想に照準をつけてそこにアプローチしていくには、D-Amonさんの仰るように「現実を視たうえで」理想の図面を書かなければならないわけだけど、理想という名の図面の精度や強度は、「どのぐらい現実を視たうえで描かれたか」に大きく左右されるということも一大問題になる。空想ではなく現実を踏まえて理想を構築したいと考える人は、娑婆世界をまなざす視力の強弱や、歪みの大小を常に問われることになる。例えば視力が弱かったり、視界が狭かったりすれば、それ相応に図面は脆弱なものになってしまうだろう。どれだけ現実をまなざしきれるのかを(せめて)己のうちに厳しく問い続ける意図と能力の無い人には、理想を語ることは激しくお勧めできない。まして、遠く高い理想であればあるほどそれを下支えする視力も強くあらねばならない事を考える時、とりわけ大きな理想という図面を書くことには怖さすら覚えるのではないかと思う。
少なくとも私は、理想を語ることを怖いと感じる。躊躇してしまいがちだ*2。自分自身の能力の範囲内においても、まだ娑婆世界をまなざす余地が残っているのではないか?残っているとしたら、もっと視てから理想を思い描いても遅くはないのではないか?故に、理想を描いてみる前にもっと世間や社会のことを私は知りたいと思ってしまうし、そういった手続きを迂回せずにどこまで視ることが出来るのか、己の限界を試したいと思ってしまう。それでもし、理想をいつか語ることが出来るとしたら、素敵なことだな、と願望している。その日が来るかどうかは分からないし、理想の射程距離も極近距離になっちゃいそうだけどね。
[補足:アイデンティティゲットだぜ!]
尤も、「現実主義者は現実に妥協することしか知らない馬鹿である。そしてあいつらは現実側だから悪者だ!多数派だ!」とdisって眠れない午前二時を超えたいと思っている“理想主義者”の皆様や、「理想主義者は全員、空理空論に憑かれた妄想屋。あいつらは負け犬だから塵芥だ!少数派だ!」とdisって葉巻煙草をスパスパやりたいと思っている“現実主義者”の皆様におかれましては、アプローチも視力も二の次のことと思います。僕が正義で君は悪。俺が利口でおまえ馬鹿。理想や現実という言葉をこき使って、アイデンティティゲットだぜ!という世界が眼前に広がります。この蛇の足な出来事も、もちろん直視しないわけにはいかない、理想の見取り図を描くうえで計算に入れておかなければならない変数なのでしょう。