http://d.hatena.ne.jp/RPM/20090917/doryoku
私なりに上記リンク先を要約すると、【努力とは、成果が認められてから事後的に認定されるもの・語られるものであって、成果が認められる事前には認定されない・語られえないものである】ということらしい。
なるほど、努力をこのように再定義するなら“成功者ばかりが努力を語り、成功していない者は努力を語らない”という現象が説明しやすそうにみえる。けれども、この見方を突き詰めて考えているうちに、なんともいえない推測に辿り着いてしまった。
それは、
「成果を成果と見抜けないような、目が節穴の人間ほど、努力を嫌いになっていくんじゃないか?」
という推測だ。
目が節穴の人には、成果・成功がみえにくい
リンク先の努力の定義について、念のため確認しておこう。
良くいわれる「努力の正体が何なのかわからない」というのは、「現在進行形でおこなっている行為は、成功しない限り第三者から努力とは認定されないから」だろう。努力とは元々「後付けで成功原因を説明するためのメソッドだった」というのが個人的なまとめ。
http://d.hatena.ne.jp/RPM/20090917/doryoku
この定義でいくと、「成功が観測された後、成功に至るプロセスが事後的に努力と認定される」わけだ。成功が大きければ大きいほど、事後的に努力が事後的に認定されやすかろうし、例えばイチロー選手や浅田真央選手クラスであれば全会一致で努力認定されそうである。
しかし、この定義を突き詰めて考えるなら、成果を成果として認識するための目が曇っていればいるほど、その人は成果をそもそも観測できず、努力を努力として認定できる機会も少なくなるということになる。ということは「努力を努力と認める」にあたっては、
・なしとげた成果の大きさ・見えやすさ加減(成果の観測しやすさ)
だけではなく、
・成果を成果として認定する側の、認識できる感度の良し悪し(成果を観測する側の感度)
も同じぐらい問題にしなければならない。
例えば天体観測の場合、夜空の星が見えるか見えないかは、星そのものの明るさだけでなく、星を観測する側の視力にも左右される。視力の良い人であれば六等星まで目視できるが、視力が悪い人は二等星でもよく見えない。
同様に、成果をまなざす際にも、成果をまなざす眼力の強い人であれば極小の成果まで観測でき、成果をまなざす眼力が極度に弱い人の場合、期末テスト校内順位二位ぐらいの成果さえ観測できないということが有り得るんじゃないだろうか。
私個人は、自分の眼力では観測できないものも含めて、娑婆世界には有形無形のたくさんの努力と、その努力によって生まれた成果が満ち満ちていると推定している。夜空に無数の星がまたたくが如く、スーパースターのように輝度の強い成果 〜 六等星みたいな観測の難しい成果まで、さまざまな成果と、その源としての努力があるだろうと思っている。しかし、成果を観測する眼力の乏しい人にはそれらの大半が見えず、“一等星”や“二等星”ぐらいでなければ観測できないかもしれない。そして「努力が報われるやつなんて、滅多にいない」「幾ら努力しても、俺は成果が出せない」と呟くかもしれない。
成果と、成果に至るまでのプロセスとしての努力は、眼力が乏しければ乏しいほど観測できない。「成果によって報われる努力なんてろくにありません」と嘯いている人をみかけたら、まず、その人の眼力に注目してみよう。はたして彼は、娑婆世界にまたたく成果のうち、何等星までが目に映る人だろうか?
成果・成功を見る目が無い人は、やがて努力に背を向けるようになる
さてそうなると、成果・成功が見抜ける観測範囲には、著しい個人差があると考えざるを得ない。実際、成果がとてもよく見える人〜“一等星”“二等星”のような成果しか見えない人まで、娑婆世界にはさまざまな人が存在している。
では、世の中のあちこちに転がっている小さな成果が日頃からよく見えている人と、“一等星”のような成果しか目に映らない人では、どちらが成果に向かってプロセスを積み上げやすいだろうか?
思うに、“一等星”のような成果しか目に映らない人というのは、頑張りを維持しにくいんじゃないか。ほんの少しの成果でも目に映る人や、トライアルのスタート時点では思いもつかなかったような成果に気付ける人と、(例えば)学力テスト校内順位1番以外はいっさい成果とは認めない人を比べた時、長期間にわたってモチベーションを維持しやすいのはどちらだろうか?あるいは気持ちが折れてしまいやすいのはどちらだろうか?答えは明白だろう。一等星のような成果しか目に映らない人というのは、頑張りに対する心的報酬が得られにくく、頑張りが報われなかったという徒労感を抱きやすい。逆に、成果の観測範囲の広い人であれば、自分の頑張りに対するフィードバックに見出しやすいぶん、その頑張りに対する心的報酬が得られやすく、何らかの形で報われたという気付きを抱きやすい……つまり、「頑張ってよかった」という気持ちに到達しやすい。
この差は、小さいようで大きい。ボウリングに喩えるなら、前者はストライクだけを得点認定するゲームをやっているようなもので、後者はストライク以外も得点になるようなゲームをやっているようなものである。どちらのほうがモチベーションを保ちやすいゲームになるのかは、明らかである。
なので、成果の観測範囲が狭い人ほど、いつか頑張りのことが嫌いになって、努力や頑張りから背を向けるようになりやすい、と私は推定する。成果の観測範囲が狭い人間は、ド真ん中の成果・成功以外はすべて「努力しても報われなかった」と落胆するわけだから、いつか嫌になって、頑張るのをやめてしまうことだろう。ストライク以外は得点としてカウントしないボウリングのような、マゾヒスティックなゲームをいつまでも好きでいられる人間は、そう滅多にいないのだから。
まとめ
結論を書こう。
- 成果*1が目に映るか否かは、成果の大小だけでなくまなざす側の眼力にも左右される。目が節穴のような人間には、“一等星”のような成果しか目に映らない。
- 成果が観測できる範囲が小さい人ほど、頑張りに対するフィードバックが観測しにくく「努力が報われた」と体感できる確率が低くなる。このため、そういう人は頑張りを嫌う人間になっていく可能性が高い。
以上を踏まえると、「頑張り」「努力」について議論するにあたって、成果の規模の大小だけに着眼するのは片手落ちと言わざるを得ない。成果をまなざす人間の眼力にもきちんと着眼する必要がある。そして、“一等星”のような成果しか目に映らないような人々が語る「頑張っても報われない」という言葉にどれほどの真実味があるのか、吟味して欲しい。
*1:と、そこに至るまでの努力