無宗教な自分が辛い
タイトルは無宗教を嘆いているが、前半パートは「自分が死んでしまった後、自分自身の有意味性が確認できなくなる不安」が優勢に感じられた。
しばしば宗教は、「死後の世界」や「輪廻転生」を説く。あるいは教理に含む。だから、死後の問題や死への恐れを和らげる“手段”として宗教を求めるのはわかるような気がするし、間違ってもいないのだろう。
でも、宗教に片足 or 両足を突っ込んでいるからといって、「死後の世界」「輪廻転生」「西方浄土」を信じられるものだろうか?
例えば私は仏教を信奉しているつもりだし、浄土真宗に親しんで育ったほうだとも思う。じゃあ、私が西方浄土を信じているかというと、そんなに信じていない。「もし、信じざるを得ない境遇に追い詰められたら」すがりつくつもりでいるけれども、普段は意識していない。輪廻についても同じ。そういう考え方があるのは知っているけれども、じゃあ、本腰を入れて信じられますかと言われたら、まだわからない。
仏教の思想体系のなかに、浄土や輪廻といった発想が含まれているのはもちろん知っている*1。知っているけれども、浄土や輪廻は、生前の私には観測できない。科学的手法を用いても観測できない。観測できないうえに、死ねば肉体や精神機能が無くなることが分かっている以上、「死ねば自分は消える」を私はとりあえず否定できない。
ひょっとしたら、いやひょっとしなくても、これは単に“信心が足りない”だけなのかもしれない。けれどもさしあたって私は、「死んだら何も残らず何も観測できなくなり、やがて忘れられる」を現世の前提とせずにはいられない。仏教を信奉しているつもりだけれども、死後の問題については判断を留保するしかない。
たとえ死後の安心は得られなくても
それでも、私の死生観のある部分は仏教に助けられている、と感じる。
つまり、自分視点からだと、自分が死ぬと、その瞬間世界は消えて無くなり、「全てが無かったこと」になる。全てが消えていく仮初めの世である。その「1人の人生」という壮大な物語が数十年語、あるいは場合によっては今すぐにでも気軽に消えてしまうようなあまりにあっけなく、脆い物語に対して、1つの視点や答え、仮説を提示し、安心と生きるための行動基準を定義するのが宗教だと考えている。
http://anond.hatelabo.jp/20150330001506
こういう、リンク先の後半パートのテーマについて、現代の個人主義的・資本主義的な思考法は納得のいく回答を与えてくれない。どこかの偉い人は「神は死んだ」と言ったらしいけれども、個人ひとりひとりが不死身になったわけではないし、合理的で納得のいく人生を過ごせるわけでもない。
個人の命なんてものは、本当は、無意味に生まれて無意味に死んでいくものなんだと私は思う。自分自身の所有物だと思っている人生にしても、あまり舵取りがきかないまま、いつの間にか捻じ曲げられてしまうのが常で、実際どこまで自分自身のものなのか、甚だ怪しい*2。だというのに、現代人は自分自身の自意識というものをセカイと等価でもあるかのように大切にし、それが自由にアレンジできるものだと期待し、あまつさえ、過剰な意味を読み取りたがっている。
でも、仏教の根底にある無常や縁起の考え方は、そういう自分自身への過剰な思い入れを戒めてやまない。「そんな事したって、いつかは死ぬんですよ、いつかは老いるんですよ、自意識に永遠なんて無いんですよ」と教えてくれる。私は現代人だから自己執着を捨てることなんてできないけれども、心のなかで自己執着に仏教がブレーキをかけてくれているところは確かにあって、例えば、「良い結果は自分の成果・悪い結果は他人の責任」的な妄執を遠ざけてくれている。
それと、無常や縁起の考え方が染み着いているからこそ、自分というのもの不完全さと儚さを知り、転じて、たまたま自分が健康で良い判断を下せた瞬間を貴重に思うことができる。明日には自分は死んでいるかもしれないし、そこまでいかなくても健康や判断力や立場を失っているかもしれない。だからこそ、今、こうして生きている一瞬間がありがたく、現状でベストを尽くすとは一体何なのか考えたくもなる。
私が聴いたかぎりの仏教観的には、もし私が良い状態で何かを成している*3としたら、それは私の判断に基づく部分もちょっぴりあるけれども、事前に多くの行いや出来事が堆積してきた結果によるものだと思う。と同時に、将来誰かが何かを成したり成さなかったりする一要因として、現在の私(とその行い)は堆積していくのだろうとも思う。そうした堆積は私が死ぬまで続くのだから、生前の行いは私が死んだ後の世界の準備材料としてひたすら堆積していく。もちろん私が生きている限り、私自身の生前の状況にも、そうした堆積のひとつひとつが結果のひとつひとつに関わり続けるはずだ。
だから、私が聴いたかぎりの仏教観的には、生前/死後いずれにせよ良い結果を招きよせる一助として、あるいは自分周辺で織りなされる縁起のバトンリレーをマシなものにする一助として、とりあえず出来るだけマシな生を成していくしかないんじゃないか、と思う。ここでいう「マシな生」とは人それぞれで、ある人にとって沢山の人に救いの手を差し伸べるぐらいが「マシな生」であることもあれば、どうにか犯罪を犯さずスレスレの人生を過ごしていくことが「マシな生」である場合もあるだろう――そのあたりは人それぞれの立場や因縁によって異なるのだろうけれども、具体的な度合いは人智で計り知れるものではない。
自意識なんて、夢みたいなものじゃないでしょうか
そんなわけで、私の場合、仏教によって死後の安寧を保障されていないかわりに、毎日の行いをできるだけ積み重ねるようには動機づけられている。それと、行いのひとつひとつの有意味性の根拠が仏教的世界観によって与えられている――なにしろ行いのひとつひとつが(死を迎えるまでの自分自身の境遇も含めた)未来の世界を構成する材料として堆積するのだから、とりあえず生きている限り、できるだけマシに生き、できるだけ娑婆世界にマシな堆積を残していければ、それで自分の人生は“オーケー”なのだと思う。なにをもって“オーケー”とするかは人間の浅知恵では計り知れないけれども、さしあたって最善は尽くさずにいられない。
私が死んでも、行いは蓄積する。世界は無限の行いの集積によってどんどん再構成されていく。死後の私はそれを確かめることは出来ないけれども、とりあえず、変わりゆく世界は生き残った他者によって観測され、引き継がれ、記録されていくのだろう。それで十分であり、そのためにも私は限られた生を、できるだけよいものとして生ききりたいと願う*4。
日頃、私はブログ上で自意識自意識とやたら騒いでいるけれども、ほんとうは、この自意識なるものに束縛され続けるのは利口ではなく、道理にも適っていないのではないかと疑っていたりする。近代的な価値観が浸透したことによって、誰もが強い自意識を持ち、それこそ「私らしく」みたいな題目に夢中になっているけれども、「私」とは、これまた随分と儚い意識じゃあないですか。そしてその「私」なる意識も、親から引き継いだ諸々によって形成され、社会や流行によって引っ張られ、加齢によってしなびていく走馬灯みたいなものなんだから、「私」を特定のかたちにしようと頑張り過ぎてもくたびれもうけになってしまうのがおちではないかと思う。「死後の自分」ってやつも同様で、そんなの、いつか忘れられていくに決まっているのだから、そこだけに拘るのでなく、世界という名の大河を構成するたった一粒の水滴のごとき自分自身をどうするのか、どう生きていくのか、そういう事にも思いを馳せて、実践していくのが適当だと思う。その一助として、諸宗教はあれこれの考え方を提供してくれるんじゃないかと思う。
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[関連]:再び「信じるとは選択から始まるんじゃないかな」と「存在が存在するって奇蹟的だけど観測者か証明者が欲しいよね」について - カッコつけるのは、もうヤメだ。ダラダラと生存報告。(仮)