適応の末に - 行乞記 - 断片部
「適応の末に」という言葉からは、適応に終わりや目的や到達点があるような印象を受けずにはいられない。まるで、適応が既に達成されたものであるかのような、達成してもむなしいかのような、そういう雰囲気を文章から感じました。尤も、適応やら脱オタやら脱非コミュやらを眺めやる他の多くの人達もまた、似たような誤解を抱いていそうだな、とも思う。
例えば脱オタ。「脱オタの末に」というと、周りの女の子に小馬鹿にされるようなまなざしから脱することが出来ただとか、キモがられずに済むようになっただとか、彼女が出来ただとか、を一定の到達点ととるような見方だ。実際、脱オタ症例検討(汎適所属)などは、まさにその形をとっている。彼らは見かけ上、達成点に辿り着いたような印象を受けるし、そこまで到達して多かれ少なかれの満足を得ている人が多いとは思う。
ただ、適応の末に*1、という言葉を使う人達に対しては、ちょっと検討して貰いたいことがある。以下の二点について検討したうえで、なおも適応の末、なるものが想定できるだろうか。
1.ゴールは本当に適応なのか
「適応の末」と騙られるゴールとしては、例えば「コミュニケーション巧者になって、多文化ニッチ間のあらゆる人とのコミュニケーションが闊達になって、プライベートでもビジネスでも技術的に十分に立ち回れる状態」を夢見る人が多そうではある。でも、脱オタ施行者が望んでいるゴールは「適応」なのだろうか?違うと思う。その一歩向こうにあるような気がする。
彼らが実際に渇望しているのは、「幸せな感じ」「不満の少ない状態」「充足したアイデンティティ」といった抽象的にしか表現できない何かであって、コミュニケーション巧者になること・人間関係を向上させることetcは、あくまで手段や方便として望まれているだけに過ぎないんじゃないだろうか。確かに、現代社会において充足するためには、あるいはせめて生き延びていくためには、コミュニケーション能力や汎用性、等等が要請されがちではある。だけど、コミュニケーション能力さえを手に入れれば後はどうなっても構わないとは思う人はあまりいないだろう。もっと言うなら、コミュニケーション能力も汎用性もなしに「幸せな感じ」「不満の少ない状態」「充足したアイデンティティ」なるものをゲット出来る見通しが十分立つなら、わざわざ苦労してまでコミュニケーション巧者にはならない。先天的にgiftedな人達を除くと、やむにやまれず、社会で生き残る為の方便として、技術なり経験なりをマスターしていく部分が大きいのではないだろうか(そしてそういう時代なのではないだろうか)。
ここのところを勘違いしすぎちゃって、技術の獲得をゴールとすることが本末転倒な事態を招くことだってあると思う。過剰適応、と俗に呼ばれる人達などはその典型で、八方美人で、恋人もいて、会社でも信頼されている、けれども心の隙間風を感じずにはいられないという、コミュニケーション亡者のような人達。極端な場合は(過食嘔吐やリストカットも含めた)精神科的諸問題に遭遇してしまうような人達さえみられるような、ある種の本末転倒。世渡りの必要に駆られて意図的・後天的にコミュニケーションを研磨した人なら誰でも、過剰適応の人達にシンパシーを感じることがあると思う。生きる為に必要といえど、技術の獲得と運用だけに全てを捧げ過ぎた人はメンタルがもたない。
ここまで来れば、適応技術と呼ぶもののなかに「メンタリティの充足」「心的ホメオスタシスの維持」というものが含まれなければならないと気づかざるを得ない。少なくともそういったものを疎外しすぎてはまずい、というところまでは誰もが認めてくれると思う。でもこれは簡単じゃないし、だからこそ躓いてしまう人が後を絶たない。躓いた後に立ち直る技法も、躓くことを未然に防ぐ疫学的メソッドも、まだまだ不十分だと思う。本一冊読めば誰でもリスク回避できるというぐらいに簡便な技法を、僕はまだ知りません*2。新書一冊でマスター、なんて甘いものではありえない。
もし将来、メンタリティの充足、心的ホメオスタシスの維持、といったものが技術として十分に普及可能な状況になった時、それでもなお人は内実的な充足感の欠乏に脅かされるだろうか?技術的メソッドとして可視化されたらつまんなくなっちゃうだろうか。僕は、そんなことはないと思う。「技術によって心的ホメオスタシスが維持されている」というメタ視点を持った人だとしても、メンタリティの充足がある限りにおいてはその人はメタ視点を通して自らの充足を確認するだけ、だと思う*3。例えば僕は、職業柄、自分自身のメンタリティの充実や心的ホメオスタシスの維持をメタ視点からモニタリングすることに神経質なほうだし、それを手持ちの技術で促進しようとする事にも熱心なほうだと思うけど、だからと言って一つ一つの達成や振る舞いが生気を失ったりすることは無い*4。
もしそんな事が可能だとすれば、だが、僕はメンタリティの充足や心的ホメオスタシスの維持に関する技術書を読んでみたいか、書いてみたいと思う。とはいえ、その充足という境地への道のりを、テクノロジーという概念に合致した形で記述することは甚だ困難で、人の身には記述し尽くすことが出来ないんじゃないか、とさえ思えてくるけれども。
2.死ぬまで適応
もう一点考えてもらいたいのは、個人の適応に終わりがあるとしたら、それは個人の死に他ならないんじゃないんですか、という話だ。結婚式までが適応だとか、童貞喪失までが適応だとかいった考え方の人がいたとしても、人生はそこでゴールインじゃなく、その人は死ぬまで何かに執着しつづけることだろう。結婚式までが適応だと思い込んでいる人など、ただ直近の執着に眼を奪われて視野狭窄を起こしているだけの話で、願望が叶えられるや否や、たちどころに他の執着に心奪われることを僕は知っている。死ぬまで続く、執着・緊張・満足・弛緩の連続体のなかで、人は、いつまでも惑い、いつまでも願望し続ける存在の筈だ。任意の状況において、苦しい状態や楽な状態、というのはあるかもしれないが、楽な状態が「適応の達成」を意味するとは思えないし、ましてや「死ぬまでの適応を保証する」ものでもありえない。
こうした、人生の流れに関する視点のある限り、死ぬまでは「俺は適応しきったぜ!」とは言えない筈です。臨終の瞬間に走馬灯が走って「自分の適応に思いを馳せる」ことはあるかもしれませんが、臨終するまで適応に終わりは無い。現在この瞬間の適応達成が未来の状況の材料になる限り、適応の終わりは死のステージまで続くことになります*5。急性心筋梗塞で、心機能が低下して最後の心拍を記録するその瞬間まで、人体の循環機能がホメオスタシス維持に最善を尽くすが如く、臨終の瞬間まで、人は社会的・生物学的・心理的に最善のホメオスタシスを維持せんともがく筈です。また、未来の適応を少しでも望ましい状態にすべく、布石を怠らない筈です。
こういった諸々を考えた時、適応の末、なるものを見通すのは極めて困難な、そして無意味なことのように思えてきませんか。また、一つ二つのハードルを飛び越えたことをもって、人生が終わるわけでもなければ未来の適応が保証されるわけでもない。あるのはただ、死ぬまで終わりの無い適応レースであり、有意味だの無意味だのに関係なく湧き起こる、ホメオスタシスや安寧に対する強い執着だけだ。そういった、「終わりのない適応の連続」「生きる為のもがき」に有意味だの無意味だのといった議論を仕掛けることを、私は好まない。有意味か無意味かの論争に関係なく、私は執着し、私はその赴くままに生きていくだろう。何かのプロセスを通過したぐらいで白けたり絶望したりする暇など、この時の流れのなかでどこにあるというのか。
自分の心臓が止まるまで、私は退屈もせずにあがききってやるつもりです。またあがかざるを得ません。
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