シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「怒鳴り声に無神経な年長者と繊細な年少者」問題について

 
togetter.com
 
この話は私の見聞きしている状況、特に我が家の子どもが感じていることとも一致していると感じた。
「自分が怒鳴られているわけでなくても、誰かが怒鳴っているのを見るだけでストレスがきつい」、という話だ。
 
このtogetterに対して、たくさんの人が「それは昔からストレスだったものだ」と述べている。確かにそうだろう。怒鳴り声は交感神経を亢進させるシグナルであって副交感神経を亢進させるシグナルではない。交感神経の亢進を他人に伝染させるシグナルですらあったかもしれない。
 
元々、怒鳴り声はそのようにできていて、そのように流通してきたのだから、怒鳴り声を聞いてリラックスする人は太古の人間社会にもいなかったはずである。
 
問題なのは「1.それが昔からストレスだったかどうか」ではなく「2.そうしたストレスがありふれた性格のものだったのか、それとも大きなストレスとして受け取られる性格のものだったか」であり、それか、「3.そうは言っても耐えられるものだったのか、耐え難い苦痛として受け取られるものなのか」のほうだ。
 
2.3.の問題意識に基づいて「怒鳴り声」について考えるなら、昭和時代以前などと比較して、明確な差異があるように思う。
怒鳴り声、いや、泣き声や悪態などもそうだが、こうした交感神経を亢進させるシグナル、ひいてはストレスと感じられるシグナルは、昔はもっとありふれていた。誰かが怒鳴ることも、誰かが泣くことも、悪態をつくことも、学校でも、街でも、家庭でも、日常茶飯事だったのではないか。
 
関連して拳骨、平手打ち、どつき、等々が忌むべき暴力としてではなくメッセージの一種としてまかり通ってもいた。繰り返すが、もちろんそれらはストレスだっただろう。だが、ありふれたストレスであり、ありふれていることに疑問を感じることの難しいストレスではあった。
 
令和の進歩した状況から「昭和以前のストレス環境は間違っていた」と言ってのけるのでなく、その時代の渦中において「こうしたストレスがありふれているのは社会が間違っている」と声を張り上げることができた人は、少なかったのではないか。
 
つまり「怒鳴り声がストレスかどうか」ではなく「怒鳴り声がどれぐらい許容されてしかるべきストレスかどうか」という観点でみれば、やはり昭和以前と令和では違いがあり、違いがあるからこそ、怒鳴り声を耳にするという事態が許容されなくなっていった経緯と、ストレスとしてクローズアップされる現況には注目する意義があるように思う。
 
 

怒鳴り声においても「デュルケームの僧院」が起こっている

 
この、怒鳴り声とそのストレスに対する受け止め方の変化に関して、私は、社会学者のデュルケームが言っていた僧院の話を思い出す。
 

 
 それが完璧に模範的な僧院だとする。いわゆる犯罪[もしくは逸脱]というものはそこでは起こらないであろう。しかし、俗人にとっては何のことはないさまざまな過ちが、普通の法律違反が俗世界の意識に呼び起こすようなスキャンダルと同じように解釈されて、そこでは生じることになるだろう。したがって、もし、その社会が裁判と処罰の権力を持っているならば、それらの行為は犯罪[もしくは逸脱]的とされ、そのようなものとして扱われるに違いない
 デュルケーム『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)』

何が犯罪や逸脱に相当するのか、何が許容されない行動とみなされるのかは、社会や環境によって違う。このくだりでデュルケームは、「完璧に模範的な僧院のような、一般的な犯罪や逸脱がきわめて少なくなった環境では、俗世界ではとるにたらないとされる問題までもが犯罪や逸脱、許容されない行動とみなされ、処罰などの対象として取り扱われる」、と述べている。
 
つまり、社会が変われば逸脱とみなされる行動も許容されない行動も変わり、私たちが何をいけないこととみなすのかも変わるわけだ。
 
そのうえで上掲のセンテンスの"犯罪や逸脱"を"怒鳴り声とそのストレス"に入れ替えて考えると、令和社会はここでいう「完璧に模範的な僧院」に近く、昭和以前の社会はここでいう「俗世界」に近い。昭和から令和にかけては犯罪発生率が低下しただけでなく、ハラスメントの撲滅やコンプライアンス遵守がうたわれ、実際そのように社会は変わった。DVやいじめを防ぐための取り組みも加速している。そうしたなか、たとえば学校で児童生徒にふるわれる体罰の頻度と程度も減り、児童生徒間の暴力や争いごとも少なくなった。
 
いじめの「認知件数」を見ていると、いじめは少なくなったとは言えないように見えるかもしれないが、これは、いじめが増加したというより児童生徒間の暴力や争いごとに大人たちがセンシティブになったこと、ひいては児童生徒間の暴力や争いが許容される度合いが低下し、許容されず事例化する度合いが高まったことの反映とみるほうが実態にかなっているだろう。
 
たとえば昭和の小学校にありふれていた拳骨やからかいや冷やかしは、令和の小学校ではいじめとして事例化する。逆に、昭和以前の学校においてそれらのほとんどは大人たちが取るに足らないとしてスルーしていた。確か、ピンカー『暴力の人類史』にも、"いじめは少年時代の試練"といった風に20世紀のアメリカ人たちが捉えていた様子が記されている。
 
また、ストレスに対しても、私たちはセンシティブになっているかもしれない。私たちはストレスを避けようとし、ストレスから回復しようともする。そのための方法論は昭和以前よりも向上している。ただ、そのためだろうか、私たちは幾つかの種類のストレスをストレスとして受け止めることに不慣れになり、そのひとつひとつのその重さに呻吟している。
 
社会は、怒鳴り声をはじめとするストレス源に対して全体的にセンシティブになり、そうした事態に個々人が直面しないで済むように変わってきた。それは進歩と言って構わない変化だっただろう。そのかわり、センシティブになった私たちはひとつひとつのストレスに不慣れになり、それらを些末なストレスでしかないと感じることが難しくなってしまった。
 
だから私は、ストレスの方面でも日本社会は昭和から令和にかけてデュルケームのいう俗世界から模範的な僧院へと変わっていった、とみたくなる。かつては取るに足らないストレスと感じられていたものまでが、重大なストレスと感じられるように、なってしまったのではないだろうか。
 
 

高齢者たちは耐え難く無頓着・無神経に見え、若年者たちはどうしようもなく繊細・脆弱にみえる

 
とはいえ、社会規範や物事の判断基準は幼少期にインストールされる割合が大きいため、昭和前半に育った世代、昭和後半に育った世代、平成に育った世代、令和に育った世代のそれぞれにおいて、インストールされた社会規範はちょっとずつ違っている。
 
先ほどから挙げている「デュルケームの僧院」の構図は、社会全体がそのように変わっていくものだが、他方で、その構図を内面化している程度は世代ごとに異なっている。「これぐらいなら怒鳴って構わないだろう」と思う基準も、「これぐらいなら怒鳴る場面に出くわしても我慢の対象だろう」と感じる基準も世代ごとに(個人差はさておきその平均は)違ってくる。
 
そうしたわけで、全体としては年上の人ほど怒鳴る・怒鳴られることに無頓着・無神経で、年下の人ほどそうしたことに繊細、ひいては脆弱であるようにみえる。「怒鳴り声はストレスの源である」というそこのところは今も昔も変わらないが、そのストレス源たりえる怒鳴り声をどのように受け取り、どのように社会規範のなかに位置づけ、取り扱っているのかには世代間のギャップが(時代のギャップとともに)存在する。
 
結果、若年者から見た高齢者はしばしば耐えがたく無頓着・無神経に感じられ、と同時に高齢者から見た若年者がどうしようもなく繊細・脆弱にみえたりする。
 
こうした世代間ギャップは別に令和時代特有のものではなく、平成時代にも、昭和後期にもみられた。少なくとも戦後、日本社会は一貫して穏やかで繊細な方向へと変わり、人も穏やかで繊細であるよう期待されるようになったために、いつの時代にも年上が粗野にみえ、年下が繊細にみえる。そうした社会の変遷と、人に求められる行動の変遷については『人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』や『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』に書いたし、『ないものとされた世代のわたしたち』でも触れたところだし、それこそアナール学派が中世まで遡って教えてくれるところでもある。
 
目下、こうした社会全体の穏健化と繊細化は止まっておらず、功利主義や危害原理に基づいて推進すらされているので、順当にいけば数十年後の日本人はもっと怒鳴らなくなり、と同時に怒鳴り声に対して繊細・脆弱になっていると推測される。そのとき、怒鳴り声はドラゴンシャウト*1のように人を害するものとみられているかもしれないし、その反映として、怒鳴り声をあげた人は傷害罪に問われるようになるかもしれない。もちろんこれは極端な推測だが、社会を徹底的に穏やかで低ストレスなものに改変していく未来とは、とどのつまりそういうものではなかっただろうか。
 

*1:ドラゴンシャウト:ゲーム『skyrim』に登場する、声の使い手だけが使いこなせる、人を害せるほどの威力を持った吠え声

推しと宗教はどこまで同じで、どこから同じでないか

 
 
www.4gamer.net
 
 
少し前に、推しと宗教の共通性について宗教学の先生がお話している文章を読んだ。私はそれを読んである程度は納得できると同時にある程度からは納得できないものだった。ただし、くだんの先生は、私を説得するために「推しと宗教の共通性」についてしゃべっていたわけではない。それに、確かに私たちは推しに「尊さ」を見出しているから、間違ったことを述べていたって印象はなかった。
 
が、私も推しについては関心は持っているし、私なりに推しと宗教の異同について書いてみたくなったので、やってみることにする。
 
 

推しと宗教、共通しているところ

 
推しと宗教の共通点は、既にリンク先で宗教学の先生がおっしゃっていた。推しに「神聖さ」を見出しているご指摘は、巷でいう「推しが『尊い』」という言い回しとも一致しているし、推しに対してファンがある程度脳内補完したイメージを消費しているさまを福音派の話とダブらせているのはなるほどと思った。
 
それはそれとして、私の好きな領域に引き寄せて推しと宗教の共通点を書いてみたい:それは、どちらも自己像や自意識のほうを向いていない心のはたらきである点、それでいて心理的充足をはじめとする効果が生じる点だ。
 
現代人は、とかく自分というものに執着しやすい。つまり、自分がもっと立派になること、自己評価が高まること、自分自身が承認されること、等々にいつも心をくだいていて、たとえば「何者かになりたい」などと願望したりする。
 
それが悪いと言いたいわけではない。いわゆる承認欲求、またはコフート風にいう鏡映自己対象体験を求める気持ちは、人を頑張らせるモチベーション源となる。「みんなに認められたいと思って頑張った」「『いいね』をもらえるのが嬉しいと感じているうちに腕が磨かれた」といった人はそんなに珍しいものではないだろう。もっと狭い範囲からの承認、たとえば特定の友人に自分のゲームの腕前を認められたいとか、パートナーにちょっと良いところをみせたいといった気持ちが人を飛躍させることもある。だから承認欲求に相当する心のはたらきは、原則としてはポジティブに受け取って良いものだと思う。
 
しかし、人の心のはたらきは承認欲求だけから成っているわけではない。心の宛先が自己像や自意識のほうではなく、別の誰かや何かを向いていてもモチベーション源として機能する場合が往々にしてある。それが、推しや宗教が提供してくれる機能で、承認欲求と並んで語られる所属欲求がこれに相当する。
 
人が誰かを熱心に推している時や、熱心に信心をしている時、人は自己像や自意識を省みていない。そうした自己像や自意識を目当てとして推しや宗教をやる場合も絶無ではないが、「自己像や自意識を目当てとした道具として」推しや宗教を利用する意識は原理的ではなく、おそらくオーソドックスでもないだろう。
 
だから推しや宗教には、「自己像や自意識に執着してならない自分自身から、ちょっと距離を置ける」点も共通している。推しや宗教に心を向けている間は、自分自身に意識を向け過ぎてしまう状態を脱することができる。加えて、推しや宗教は、その対象が多かれ少なかれ理想化されることをとおして、ロールモデルとしてモチベーション源になる──この場合、ならうべき理想や向かうべき理想として人を引っ張ってくれる──こともある。対象が理想やロールモデルとして体験され、それが心理的充足を提供したりモチベーション源として機能するさまは、コフートのいう理想化自己対象体験にほかならないが、推しや宗教の対象は、まさにこの理想化自己対象に相当する。
 
自己像や自意識に執着してばかりの人にとって、この、理想化自己対象をとおしてのモチベーション獲得や心理的充足の獲得はちょっとわかりにくいものかもしれない。それだけに、自分自身にとらわれすぎずにモチベーションを獲得する新しい経路として値打ちある活動たり得るかもしれない。
 
ちなみに世の中には自分自身になかなか執着できず、推しや宗教ばかり追いかけてしまう人もいる。こういう人は、推しを見つけたり宗教を信奉したり、またはコミュニティやジャンルの成員の一人として活躍したりはしやすいかもしれない。反面、自分自身にこだわって頑張ることにあまり慣れていない。そういう人の場合、後述する問題もあるため、推しや宗教にばかり心理的充足やモチベーション源を見出すのでなく、承認欲求もモチベーションの経路として活用できるほうが、心のはたらきのバランスはとりやすいだろう。
 
 

推しと宗教に共通する問題点

 
で、さきほど書いた「推しと宗教に共通する問題点」について。
それは、「どちらも理想が高くなり過ぎてしまうとどこまでも理想が高くなって、だいたい面倒なことになってしまう」点だ。
 
まず推しについてだが、推しに対して求める理想が高くなると、人はしばしば推しについてあれこれうるさく言いたくなり、満足よりも不満を感じやすくなる。
 
たとえば推しの演技やメンションが自分が理想視していたイメージからちょっと外れていただけで口うるさく批判してみたり、こうあるべきだと主張してみたりする。他のファンにもきついことを言い始めるかもしれない。そうなったらすっかり厄介ファンである。
 
宗教にもこういった危険性はある。日本で有名なのはオウム真理教だろうか。宗教も、初詣にお参りするぐらいならご本尊や宗派に対して口うるさくなることは少なく、理想視する度合いも小さいが、熱心に信奉すれば信奉するほど、熱心になるだけでなく、排他的になってしまうことがあり得る。
 
宗教には全能性という問題もある。全能の神、全能の指導者といった理想のイメージを宗教はしばしば信徒に提供する。これは、理想が高すぎる人(それこそ、全能でなければあらゆるものは無能無意味と断を下してしまうような人)でさえ信仰できる可能性を提供しているとは言える。実際、コフートの弟子の本には、カウンセラーでは引き受けきれない理想化自己対象の役割を宗教や宗教者が引き受ける可能性にわざわざ言及してあるページもある。
 
なら、宗教はみんなの理想も引き受けてくれて天晴じゃないか、と思うかもしれないが、良いことばかりではない。そのような全能性を期待する信者は、しばしば全能性を気取る宗教指導者に引き寄せられて集まる。全能性を期待する信者たちが全能性を気取る宗教指導者のもとに寄り集まったら何が起こるのか? 何が起こったのか? それは周知のとおりである。
 
ところで、オウム真理教においては、発泡スチロールでつくられたシヴァ神が祀られていた、という報道がされていたが、これは、宗教や推しを理想化する人の心のはたらきを理解するうえで示唆的なことだと思うので少し書いてみる。
 
コフートは、理想を引き受けてくれ、推しなどの対象になってくれる対象のことを理想化自己対象と言ったが、彼の解説する理想化自己対象とは、発泡スチロールのシヴァ神そのものや教祖・麻原彰晃そのもの で は な い。
 
そうではなく、理想化自己対象とは理想視しているイメージのなかの発泡スチロールのシヴァ神や麻原彰晃なのであって、実物ではないのである。
 
これは推しを理想化自己対象としている時にも言えることだ。たとえば『ぼっち・ざ・ろっく!』の山田リョウを熱心に推している人にとっての理想化自己対象は、ローソンで入手したクリアファイルそのものでも、ディスプレイのなかでベースを弾いている山田リョウそのものでもない。それらすべてをとおしてできあがった理想のイメージとしての山田リョウが、理想化自己対象ということになる(この話は、冒頭リンクで語られている「リアリティを自分で作って,そこに没入していく」という話と符合している)。
 
これは、実在のアイドルや役者さんを推している場合にもある程度まで言えることで、生身のアイドルや役者さんと、推しの対象としてファンが受け取っているイメージには多かれ少なかれのギャップがある。たとえば、その理想のイメージと実在のアイドルや役者さんのギャップが暴露された時、理想が高すぎる人は裏切られたと感じたり憤激したりすることになる。
 
推しも宗教も、理想を高く持ち、その対象のイメージを理想化すればするほど「難しいファンや理想が高すぎる信者」でも推せたり信奉できたりする反面、実態から乖離した理想像を追いかけ、勝手なリアリティを現実だと思い込んでしまった挙句、カルトなことになってしまったり、いざ理想像が崩れてしまった時に深く傷ついたり憤激したりする可能性が高まったりする。
 
だから推しも宗教も、どちらも付き合い方が良ければ心理的充足やモチベーション源の一端として生活を潤わせる反面、それが人生のすべてであるかのようにのめりこんだり、それが全知全能の神であるかのように拝み倒したりすると、狂信に根ざしたトラブルが起こるかもしれないと心得ておかなければならない。
 
こうした推しや宗教の狂信可能性は、ほとんどのファンや信者にとってそんなに心配する必要のないものではある。しかし、特定の心理的・社会的状況に置かれている人はこの限りではない。狂信に至りやすい個人もいれば、狂信に至りやすい状況や社会や時代もあるだろう。たとえば推しの行き着く先がアドルフ・ヒトラーに国全体が熱狂したナチスのような境遇……といった可能性も一応ゼロではない。
 
 

推しと宗教、いちばん大きく違っていると感じるのは

 
もう少し、推しと宗教の異なっているところを挙げてみる。
それを一行にまとめるなら、組織性の有無、戒律の有無、葬祭機能の有無、歴史性の有無、あたりだろうか。
 
このうち、組織性については相違点としてあてにならないかもしれない。狩猟採集社会のクランが信奉しているアニミズムなどは、組織という点ではごく小規模だ。いっぽう推しも、背景にメディアミックスを企画している企業の働きがあるわけだから、組織性が伴っていると言えないわけではない。
 
次いで戒律について。
宗教には、「これをしなさい」「これはしないようにしなさい」と命じるところがあり、信者はそれを守るよう期待されている。こうした宗教の戒律の面白いところは、忠実に守らなくても影響がないわけではない点だ。たとえば信者の側は戒律を破れないわけではないが、その場合も「自分は戒律を破っている」という気持ちからは自由にはなれない。もし、その気持ちから自由になるためには、棄教しなければならない。
 
宗教には超自我を司る機能が備わっている、とも言い換えられるだろうか。これは、一神教の宗教に限らず、日本の大乗仏教にだってある程度までは言えることだ。神道もそうかもしれない。
 
対して、推しが戒律を言いつけ、超自我を司ることはどこまであるだろう?
例外がないわけではないが、推し活をしている人が推しから戒律的なものを受け取っている様子はあまりみられない。宗教の場合、熱狂的な信仰は高確率で厳格な戒律の遵守を伴うが、推しに関してはそうとも限らない。
 
葬祭機能の有無に関しては、言わずもがなである。
宗教は、小さなものから大きなものまで、生と死を司り葬祭を取り計らう機能がある。同様に、生誕に関連した儀式をも取り計らうだろう。関連して、宗教は世代から世代へと受け継がれ、信者とその家族が歴史を紡ぐサポート役をつとめる。してみれば、宗教には死生観を司る機能がある、と書いたほうが似合いなのかもしれない。
 
この、死生観を司る機能が、今のところ推しにはほとんどない。もし、推しが冠婚葬祭を司るようになったら、きっと非常に宗教っぽく見えるようになるだろう。逆に言うと、推しの対象になっているキャラクターが冠婚葬祭を司ったり、死生観を引き受けたりするようになるまでは、推しと宗教の間にはごまかしようのない一線が残ることになる。

こうして考えると、冠婚葬祭や死生観や超自我を司る機能の有無によって、推しと宗教の間にはかなり大きな相違点がある、と私なら言いたくなる。推しも宗教も人の理想を引き受け、心理的充足やモチベーション源といった心理的な機能を果たすけれども、人の生死や世代の継承といった問題にコミットするのは宗教で、推しはそうした問題にコミットしない。ここはすごく大きな相違点だと思う。
 
もちろんこれは相違点を強く意識した着眼であって、相似点を強く意識するなら話は変わってくるだろう。そろそろ次の原稿に取り掛からなければならないので、今日のブログはここまでにさせてもらいます。
 
推しについての私の既刊はこちらです→「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド
 
 

『ないものとされた世代のわたしたち』が出版されます

 

題 名:『ないものとされた世代のわたしたち』
発 売:2024年10月4日
社 名:イースト・プレス
リンク:https://amzn.asia/d/gtdLcAr

 
このたび、イーストプレスさんから『ないものとされた世代のわたしたち』という書籍を出していただくことになりましたのでお知らせします。
 
本のカバーに描かれた青々とした氷河とクレバス、タイトルから就職氷河期世代が連想されるでしょうし、実際、この本の第二章はバブル崩壊~リーマンショックの時代が中心に記されています。著者である私が当該世代で、この本が過去の思い出話から成っているので、特に就職氷河期世代に訴えたい……というのが版元さんの狙いなのかもしれません。
 
が、就職氷河期に限らず、この本は私の思い出話からなっています。50歳を前にして半生を思い出話にするってのは恥ずかしいものですが、イーストプレスの編集さんから「書いてみましょうよ」と誘われて書いてみました。思い出話は、以下のように年代別・テーマ別に語られています。
 
 
第1章 途上国の面影のこる地方社会 1975年~
第2章 ないものとされた世代のわたしたち 1980年~
第3章 犯罪者予備軍と呼ばれたオタク 1990年~
第4章 診断され、支援され、囲われていく人々 2000年~
第5章 インターネットにみた夢と現実 2010年~
第6章 やってきたのは「意識低い」ポストモダンだった 2020年~
 
私にとって、この約半世紀は、途上国の面影の残る石川県の片田舎から始まり、思春期にはバブル景気の終わりから"失われた30年"への突入という時代のターニングポイントに遭遇しました。ユースカルチャーの領域では、オタクバッシングが盛んな時期からオタクの大衆化が起こっていった時期にあたり、精神医療の世界では精神分析をはじめとする"心"についてのナラティブの全盛期から退潮期を経験することになりました。インターネットに関しても、研究者やナードやギークやオタクのパジャマパーティーの場だったものが、誰もが利用するパブリックスペースに変貌しました。
 
それからポスト近代(ポストモダン)について。ポスト近代論なんて時代遅れじゃないか、とおっしゃる人もいるでしょうけど、私にとっては現役です。むしろニューアカなどが流行していた20世紀後半より、今のほうがずっとポスト近代みがあるのではないでしょうか。
 
それでも、東京の最も進歩的な圏域にはポスト近代はいまだ訪れていないか、"近代を徹底されたものとしてのポスト近代"が到来した、と体感されているかもしれません。でも地方、たとえば片田舎のロードサイドで、イオンモールなどが生活の生命線になっているような圏域ではどうでしょう? 第6章の"「意識低い」ポストモダン"には、東京からではなく片田舎からポスト近代について考えた、私の随想が綴られています。東京でポスト近代を研究している学者さんから見ればラクガキでしかないでしょうけど、でも、そういう学者さん、片田舎からポスト近代について考えてくれてる気配がないんですよね。そもそも、そういうフォーマルな学者さんは近代のディシプリンをしっかり身に付いておられて、近代をキチンと内面化した、その座標からポスト近代についてお考えになっていないでしょうか。私はそうではないので、そうではない私がグシャグシャとポスト近代について書き殴ったのが第6章で、これが本書をまとめるパートともなっています。
 
第1章から第5章については好きな順番から読んでもたぶん大丈夫ですが、第6章は全部読み終わってからお読みになったほうが良いと思います。私たちが生きた1970年代後半~2020年代までを思い起こす随想に、よろしければ付き合ってやってください。
 
 

2024年三部作の「過去」にあたる本

 
ところで、すでに私は2024年に2冊の本を出版していただいています。
 

 
それぞれの本は内容があまり重複しておらず、それぞれ、私にとって「未来」「現在」「過去」を記したものだと自認しています。つまり、『人間はどこまで家畜か』は未来についての本で、『「推し」で心はみたされる?』は現在についての本、そして今回の『ないものとされた世代のわたしたち』が過去についての本です。内容こそ大きく異なりますが、私のなかでは"2024年三部作"という兄弟みたいな出版企画で、これが全て出版にこぎ着けたことは私にとって大きな喜びです。熊代亨、2024年三部作の完成ってことになります*1
 
この、三部作の「過去」にあたる本を書いていて思ったのは、未来を予測することの難しさ、そして今がどのような時代なのかを現在進行形で把握することの難しさです。就職氷河期の時も、インターネットが普及しようとしている時も、その渦中にあって状況を正確に洞察できていた人はどれぐらいいたでしょうか。国際情勢についてもそうかもしれません。2020年代の国際情勢についての私たちの理解と、30年後から見た2020年代の国際情勢の理解は、きっと違ったものになっているでしょう。だから未来について考えるべきではない、とも言いませんし、IoT化や少子高齢化のように、大筋として当たった未来予測だってあります。ともあれ時は流れ、時代は巡り、私たちはいつも変化の渦中にあります。読者の方におかれては、そういうことにも思いを馳せていただけたらと思います。
 
 

*1:ついでに言えば、私にとって『人間はどこまで家畜か』は社会と生物の本で『「推し」で心はみたされる?』は心理の本で『ないものとされた世代のわたしたち』は追憶の本かもしれない

『人間はどこまで家畜か』関連の講演が松本市であります

 

 
『人間はどこまで家畜か』というテーマにふさわしいポスターをつくっていただきました。この拙著に沿った講演を信州自遊塾さんからご依頼いただき、お引き受けした次第です。
 
日時:2024年8月31日(土) 14:00-16:30(開場13:30)
松本市中央公民館 一般500円 (※信州自遊塾会員・大学生以下は無料)
 
松本市なので近隣の方以外は来れないかと思いますが、長野県、特に中信地方の方で「人間の生物学的進化について、それと文化の発展と人間の社会適応について」ご関心ある方がいらっしゃいましたら、来場いただけたら嬉しいです。
 
ついでに近況を。
と に か く 、忙しいです。間もなくもう一冊、新しい書籍が刊行されるその準備に加えて、この信州自遊塾をはじめ、いろいろなところにお邪魔し、いろいろなお話をする機会をいただいております。最近では、小原ブラスさんと奥津マリリさんのやってらっしゃるポッドキャスト番組「B-side talk」にお招きいただいたこと、TRPGのディズムさんのやってらっしゃる「カタシロ」に参加させていただいたことが特に印象に残っています。
 
こうしたことから、『人間はどこまで家畜か』の問題をもっと広く追いかけるプロセスが少し遅延していますが、それでも『WEIRED』の面白さにはすっかりやられてしまっています。
 

 
人間、特に近代人が穏やかな心性を獲得していく過程を考えるうえで無視できない視点を提供してくれています。WEIRD、すなわち(Western, Educated, Industrialized, Rich and Democratic)な人々がどうしてこんなに発展したのか、また人類全体からみてWEIRDはどれぐらい標準的で、どれぐらい変わっているのか、そもそもWEIRDはどうやって生まれたのかを考えると、人間の生物学的な自己家畜化と、いわゆる"文化的な自己家畜化"のギャップについて、そのギャップの受け入れやすさと受け入れにくさの地域差について色々と考えさせられそうな内容です。
 
それから、文化や宗教といったミームの"自然選択"について書かれているのも面白いですね。進化心理学の好きな人や人間の文化について考えたい人、それから自己家畜化に関心のある人にはお勧めできる感じです。関連して
  
ダンバーのこの本も買ってあるのですが、まだ読めていません。
 
松本での講演では、上掲の『WEIRD』の内容にも少し触れる……かもしれません。が、基本的には拙著『人間はどこまで家畜か』の内容をよりわかりやすく・より細かく・より楽しくお話できたらいいなと思っております。
  
 

Xのスケールの大きさと、ファクト・秩序・平穏の生産過程について思うこと

 
fujipon.hatenablog.com
 
「四十代最後の夏が終わろうとしている」というブログ記事を書くつもりでしたが、fujiponさんの上掲記事を読んで、何か鳴き声をあげたくなったのでクマーとさけぶことにしました。
 
fujiponさんが上掲記事でおっしゃっているように、SNSを介して色々なことが起こるようになりました。その「色々なこと」のなかには良いこともあれば悪いこともあり、ふさぎ込んでいる時など、悪いことのほうに心が引っ張られがちだと感じます。
 
しかし、現行のSNS、特にXについてはスケールメリット、それか、スケールデメリットとでもいうべきものが一番大きいのではないかと私は思います。
 
既に色々な人が述べているとおり、Xは極端な言葉ばかりになっており、インターネットの最悪が詰まっている感がありますが、他方でインターネットが「便所の落書き」とみなされていた時代においても、極端な言葉はこだましていたものです。2ちゃんねる然り、旧はてなダイアリー然り、現在も含めたはてなブックマーク然りです。極端な言葉を避けたければ、インターネットをやめてNHKのニュース番組あたりを見ているのが一番良いし、そうするしかないのだと思います。
 
そうした色々なインターネットのなかでXを特徴づけているのは、マスボリュームとかスケールメリット(そしてスケールデメリット)です。Xは情報源や話題提供の場所として日本で最も大きなコミュニケーション圏になっているので、極端な言葉が最もよく響き、極端な言葉の影響力も最も目立ちます。極端な言葉が病みつきになって毎日のように魂を汚し続けている人にとって、これほど好都合なSNSはないでしょう。
 
日本で最も大きなコミュニケーション圏だから、美徳も悪徳も──それこそ七つの大罪さえ──最も増幅されるのがXだと言って構わないのではないでしょうか。たとえばはてなブックマークにおいては、ひとつの失言がもたらすペナルティも、ひとつの扇動の言葉がもたらす影響力も、本当にたかがしれています。
 

角田大河騎手、川口ゆりさん、フワちゃん、相変わらずSNSは不穏だ。 - いつか電池がきれるまで

もう𝕏はおしまいです。はてぶが𝕏ならもうとっくに全員粛清されてるよ怖い怖い。はてぶならこのように無料で叩きたい放題お気持ち表明し放題。𝕏で溜まった100文字の憎悪を振りまいてけ!おいでよはてぶ。

2024/08/15 11:25
b.hatena.ne.jp
 
マストドンや5ちゃんねるにおいても同様でしょう。しかしスケールが大きいXでは、たったいひとつの失言でも大きなペナルティになり得るし、泡沫アカウントの扇動の言葉にも雲霞のようなリポストが連なる可能性があったりします。
 
SNSに限らず、古来よりインターネットのコミュニケーション圏ではどこでも、不穏な言葉や不埒な言葉が流れていたものです。それでも比較的大きな騒ぎが起きにくかった要因は色々思いつきますが、たぶんそのなかで最も大きな要因は「コミュニケーション圏としてスケールの小ささ」だと現在の私は考えています。や、他にも本当は「インターネットの位置づけの変化、特にイリーガル→リーガルな変化やインフォーマル→フォーマルな変化」も重要だと思っていますよ? でも、なんといってもXの破壊力をいや増しているのはマスボリュームの大きさでしょう。
 
さながら、バベルの塔のようですねXは。
あまりに大勢の人が束ねられたために、もうバラバラになるしかないというか、バラバラになりながら各人が囀っているわけですから。よく、「人間にはインターネットは早すぎた」みたいな言葉を見聞きしますが、早すぎたのはXなのであって、もっと小規模のコミュニケーション圏やコミュニケーションアプリは人間には早すぎたわけではないと思います。
 
「ダンバー数」という言葉もありました。
ダンバー数は、「人間が安定的にコミュニケーションできる&認知できる人数は300人を下回るぐらい」といった目安ですが、たぶんダンバー数を下回るコミュニティなら、今日のXのような猛悪さにはならないでしょう*1。とにかく、ダンバー数をはるかに上回るコミュニケーション圏で日常的にインプットとアウトプットを繰り返していることこそ、人間には早すぎるのだと思います。
 
人間の認知だけでなく、情動や情緒の限界だって超えてますよね。だから恨み節も塵も積もれば山となって人を押しつぶしてしまい、「いいね」にあてられて報酬系がおかしくなってしまう人も出てきてしまう。人間は、何万人も相手取ってコミュニケーションするようにはできていないんです。稀に、できているように見える人がいたりしますが、それが人間のデフォルトだと考えるべきではないでしょう。
 
関連して、00年代の頃のはてなブックマークにおいて、私はインターネットの醍醐味のひとつは「たった一人の"鶴の一声"で、何十人何百人に支配的だった考えをひっくり返すことができること」「単騎で群衆の意見に対抗できること」だと思っていました。ですがこれはコミュニケーション圏が小さく、はてなブックマークのユーザーが顔見知りである割合が多かったから言えたことでした。
 
何万何十万ものが集い得るXで同じことをやるのは無謀です。どれほど練達のネットユーザーやインフルエンサーでも、津波のように押し寄せるユーザーに正面からぶつかっていけば無傷で済まないでしょう。そのような時には、逃げるにしくはありません。
 
 

Xでは本当のことがわからない→本当のことの生産過程について思うこと

 
 
それから、スケールの大きさがもたらしているもののもう一つが、

 ただ、ネットに書かれていることが、本当に事実、真実なのかはわからないし、真偽がどんどんわかりにくくなってきている、とも思うのだ。
 だから、自衛のためには、感情を揺さぶられるポストやネットニュースに対して、「反応しない練習」をしておいたほうがいい。
 安易に炎上の尻馬には乗らないほうがいい。

ここでfujiponさんがお書きになっている「真偽のわからなさ」だと思います。
 
Xでは何が本当のことなのかよくわかりません。それは「ウソをウソと見抜けない人には(インターネットは)難しい」といった個人のリテラシーの問題以上に、Xという場がファクトとフェイクの区別がつけづらい場、本当のことが生産されにくく、本当ではないことが生産されやすい(かつ、跋扈しやすい)場であるためだと個人的には考えています。
 
Xというバベルの塔がバラバラにしてしまったのは思想信条だけではありません。何がファクトで何がフェイクなのか、それを認定し、それを伝達し、それが浸透する過程も同様だったのではないでしょうか。
 
と同時に、Xの今日の風景から逆算してこうも思うのです。
Xや他のSNSが台頭してくる前の段階において、ファクトはどのように認定され、伝達され、浸透していったのか?
もっといえば、過去においてファクトの生産過程とはどういうものだったのか?
 
ファクトの生産過程は、ほとんどそのまま秩序の生産過程でもあったでしょうし、平穏・平安の生産過程でもあったでしょう。
 
もちろんファクトのなかでも手堅いものは手堅く、たとえば三平方の定理に当てはまらない三角形は地球上には存在しないはずだし、地球はおおむね球状の惑星で、太陽のまわりを公転しているはずです。しかし、世の中にはもっと曖昧な領域のファクトもあって(特に人文社会科学領域)、そうしたファクトに関しては、ファクトの認定・伝達・浸透過程がグラつけばたちまち複数のファクトらしきものが林立するような事態が起こってしまいます。
 
でもって、曖昧な領域のファクトが曖昧になりやすいことをいいことに、人は、自分の信じたいファクトらしきものを信じたり、流行らせたいファクトらしきものを流行らせたりするわけですよね。とりわけXは、そうしたファクトらしきものが林立しやすい環境になっているように思いますし、そのことを理解したうえで怪しげなファクトらしきものを流布しようとしている人たちの姿を日常的に見かけます。
 
このあたりも、人間には早すぎた感のあるところなのですが、じゃあ……早すぎない、人間にとってちょうど良いファクトの認定・伝達・浸透過程ってなんだったんでしょうか。
 
それは、近代以前のファクトの生産過程だと思います。
かつて、ファクトの生産過程は知識人や政府や大手マスメディアに掌握されていて、ファクトはXのような大鍋でつくられるわけではありませんでした。ファクトはもっと特権的な領域で認定され、伝達や浸透過程も大手マスメディアや政府が差配していたわけです*2
こう書くと「そんな時代のファクトの生産過程は、恣意的で、不自由だ」「まさにその知識人や政府や大手マスメディアが過ちを繰り返してきたんじゃないか!」とツッコミが入るでしょう。私もそのとおりだと思いますし、近代以前のファクトの寡頭制的な生産過程を賛美すべきでもないのはわかっているつもりです。しかし、たぶんそれぐらいが人間にはちょうど良く、手に負える生産過程だったとも思えるのです。
 
そうした近代以前のファクトの生産過程があったうえで、近代以前の秩序、近代以前の平安・平穏も構築されていたわけですが、これが壊れちゃったのがSNS登場以後、西暦にして2010年代あたりからの出来事ではなかったかと思います。壊れた後の今、どのような秩序と平安・平穏が成立可能なのかは、たぶんまだ誰も知りません。一番簡単な回答は「近代に帰って」「寡頭制的な生産過程を取り戻せ」ですが、それってつまりSNSにおける諸々の自由を制限しろとか、デモクラティックな言論の生成過程をやめさせろとか、そういうやつだと思うので、100点がもらえる回答だとは思えません。
 
じゃあ、どうなるのかって話は正直私にはわからないのですが、個人レベルの対策としては「Xをはじめとする新たにコミュニケーション圏として台頭してきた諸々を軽々には信じるな」が手堅く、具体的には「インターネットは一日1時間までにしておく」あたりが最もシンプルで効果的な対策たり得るのではないかと思っています。
 
冒頭リンク先のfujiponさんにおかれては、こうしたことも重々承知かとは思われますが、今日の私は共鳴したかったので、(この問題に関する)私の鳴き声をブログにアップロードしてみた次第です。Xなど、どだい人の手には負えない代物なのですから、ちょっと距離感のあるお付き合いをしていきたいものです。
 
 

*1:そのかわり、小さなコミュニケーション圏特有の問題が生じますが、それは於きます

*2:ちなみにプレ近代では、この過程から大手マスメディアというアクターがなくなり、政府や権威の出張る割合が高まります