ゆうべ、ふと星座が観たくなって空を見上げた。垂れ込めた雨雲に邪魔されてほとんど見えなかったけれども、一瞬、雲の合間に星がまたたいたのは印象深かった。
それにあてられて、『ぼっち・ざ・ろっく!』の「星座になれたら」という曲、それからインターネットで星座だった自分たちについて思い出した。
ボーカルの喜多郁代は「君と集まって星座になれたら」と歌う。星座を織りなす星々はずっと同じ場所にいるようで、実はそれぞれバラバラに動いている。天文学的な時間軸でみれば星座をなしているのは一瞬でしかない。それと同じように、ひとつのバンド・ひとつのコミュニティ・ひとつの集まりも、それぞれバラバラに動いている人間が、たまさか、同じ場所で巡り合って同じことをしているに過ぎない。バンドやコミュニティや集まりを星座にたとえる時、その寿命はあまりにも短く、儚い。
しかし喜多郁代は、その星座の儚さを悲観するより、そう理解したうえで星座になれたらと歌う。人が集まって星座をなす時、誰もが光り輝く一等星になれるわけではない。でも、人々が星座をなす時には一等星になれなくたって構わない。それでも一等星と一緒に星座をなすことはできようし、みんなでひとまとまりの星座になれるだろう。そしてひとまとまりの星座には、ひとまとまりの物語、出来事、思い出が伴う。
永遠でなくてもいい:ここでいう星座のような現象がかけがえないと知っている人なら、「星座になれたら」の歌詞はよくわかるだろうし、それが『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品に登場して喜多郁代が歌い上げていることの意義もわかるだろうと思う。
かつて、ここには「はてな村」という星座があった
そうしたうえで我が身を振り返る。
私も、いろいろなコミュニティで「星座」の星のひとつだったと思う。いろいろな星座に混ぜていただいた。このブログを書いている「はてなブログ」「はてなダイアリー」にしてもそうだ。2005年頃から2015年頃あたりまで、はてなブログ(はてなダイアリー)には「はてな村」というローカルコミュニティが存在していた。それは、(株)はてな が公認するような性質のものではなく、コミュニティに属している人、コミュニティを観測している人だけが認識するような、そういうローカルコミュニティだった。
この「はてな村」という星座を観測し、同人誌にまとめた人がいる。まとめたのは、最近『不動産斜路の冒険』の連載が始まった漫画家の小島アジコさんで、まとめた同人誌は『はてな村奇譚』と呼ばれている。
この『はてな村奇譚』を2025年に見知らぬ人に見せても、ちんぷんかんぷんに違いない。そりゃそうだ、ローカルコミュニティの内輪の話・内輪ネタなんで誰も食わない。一方、このローカルコミュニティについて知っている人、そこで「はてな村」という星座の一端をなしていた人々にとっては、こんなに思い出深いアーカイブもまたないだろう。
「はてな村」というコミュニティは認識困難になり、そこで星座をなしていた人々も散り散りになってしまった。だからといって、コミュニティが存在しなかったわけではないし、小さな星から大きな星まで、みんなが織りなすことで「はてな村」という星座、そして共同幻想が成立していた。それはまさに喜多郁代が歌ったところの「消えていく残像」や「真夜中のプリズム」でもあったと思う。
同じことはtwitter(現X)のコミュニティにだって言える。twitterにおいて、コミュニティやクラスタは流動的で不安定だ。ある時期・ある時間を共有したはずの“同志”が、数年後にはいがみ合うことだってあるだろう。
twitterを眺めていて、『あんなに一緒だったのに』を思い出すことが一体どれだけあっただろうか。今日の友は、明日の敵かもしれない。そんなtwitterのなかでコミュニティを幻視するのは、「はてな村」以上に難しいことだと思う。
それでも人々は、twitterですら星座をなす。さまざまなフォロワー数の人々が集まって、たった一瞬の願い事が、絵空事がオンラインに浮かび上がる。それを軽蔑する人もいるだろうが、私は貴重な現象だと思うし、そういう時間があったこと、そういう時間を共有してきた人たちに感謝している。そういう瞬間があって、そういう星座の一角に自分がいられたことも嬉しく思う。
数年後、十数年後にも私は当時のことを思い出すだろう。もちろん、2025年現在にtwitterやはてなブログをとおして繋がっている人々となしている星座についてもだ。そういう星座をなすことも、星座を記憶することも、星座を思い出すこともインターネットの醍醐味だと思う。願わくは、良い星座の夢を。
こんなことを私が書きたくなったのは、ゆうべ、梅雨前線に阻まれて夜空があまり見えなかったせいだろうし、私自身が、ブログでもtwitterでもそれ以外のインターネットコミュニティでも自分自身にひきこもってしまって、ひとりきりになってしまったと感じているからだろう。もっとインターネットしようぜ私、もっと星座をやっていこうぜ私、と今日は思う。たとえ、昔と同じ星座には二度と戻れなくてもだ。