シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

丸善京都の熊代亨選書フェア@はてなブログ編

 

・丸善京都本店、『人間はどこまで家畜か』刊行記念・熊代亨選書フェア
 
ご好評いただいている『人間はどこまで家畜か』にまつわる本や問題意識が近い本を集めたフェアを、丸善京都本店さんで開催していただいています(ありがとうございます!)。そちらで紹介されている本については、京都丸善本店さんで実際に手に取ってみていただければと思います。
 
このブログでは、ぎりぎり選外になった本や、値段が高すぎたり難易度が高かったりして紹介をためらった本、諸事情から選外に漏れた本などをまとめて紹介したいと思います。
 
 

1.ちょっと重たいかもと思って紹介しなかった本

 
ヘンリック『文化がヒトを進化させた』

ハーバード大学の進化生物学教授が書いた刺激的な本。ヒトの進化が文化を創りだしたのは昔から言われていることですが、この本では、文化がヒトの進化に影響を及ぼした一面が広く論じています。ヘンリックの考えを私なりにまとめるなら「ヒトの文化と進化は共振している」となるでしょうか。ヒトの自己家畜化についても参考になることがたくさん書いてあり、たくさん参照させていただきました。
 
 
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史(上)(下)』
スティーブン・ピンカーによる大著。発売された頃は「第二次世界大戦やホロコーストの惨劇を計算に入れてもなお、歴史的に一貫して人類の暴力は少なくなっている」という主旨について、論争が起こったように記憶しています。上下巻からなる分厚い本で読むには相応の覚悟が必要ですが、準備ができている人には大変エキサイティングな本のはずです。拙著『人間はどこまで家畜か』で一番引用している本はこれかもしれません。
 
 
ミシェル・フーコー『知への意志』
フーコーの参考書ではなく、フーコー自身の本の入口として入りやすいのは『監獄の誕生』ですし、規律訓練型権力についてはそれで良いのですが、生政治については『知への意志』でしょう。後半パートの生政治についての記述は、参考書を読んだ後ならわかりやすいかもしれません。でも、フーコーの本って色々なところに昆布出汁みたいに旨味がしみ込んでいて、読んでいるうちに「あれはそういうことだったのか!」と納得するフラグがいっぱい埋め込まれているので、はじめは参考書頼みに後半パートだけ読み、余裕出てきたら他も読んでみると良いように思います。
 
 
『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第三版』 
これ、すごく良い教科書だと思うんです。DSMは最近、DSM-5からDSM5-TRになったので、これが最新ってわけではありません。でも、新しいことから古いことまでひととおりのことが書いてあって、少なくとも精神科医である私には読み物としても楽しめるので、暇な時にパラパラめくっています。とはいえ分厚いし、専門書だし、丸善京都さんで扱ってもらうわけにも……ということで選外になりました。
 
 

2.ぎりぎり選外&取り扱い等の理由から選外

 
テンニース『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト(上)(下)』

『人間はどこまで家畜か』には、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという言葉が何度か登場しますが、これらはテンニースからの引用です。社会契約や資本主義について考える補助線として良いですし、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念を知っていると地域社会/社会契約について別の本を読む際にはわかりやすくなると思うので、地域社会や社会契約に関心がある人は一度は読んでおいたほうが良いと思います。
 
 
ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史:起源・拡大・現在』
タイトルのとおり資本主義の歴史を記した本で、資本主義のシステムと思想がどのように発展して現代の資本主義にまで至っているのかが(この手の本にしては)簡潔にまとめられています。類書のなかではこれが一番オススメかなぁと思っていたりします。
 
 
ジェリー・Z・ミュラー『資本主義の思想史:市場をめぐる近代ヨーロッパ300年の知の系譜』
上の『資本主義の歴史』よりも分厚く、もうちょっと思想史っぽい顔つきをした本ですが、それだけに、資本主義をそれぞれの時代の思想家たちがどのように受け取っていたのかを見せてくれるのが面白くて、それらをとおして資本主義の辿ってきた足跡も透けてみえてくる、そんな本です。
 
 
吉川徹『ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち: 子どもが社会から孤立しないために (子どものこころの発達を知るシリーズ 10) 』
ネット依存・ゲーム症については吉川先生から受けている影響が大きいのでこの本も選書にしようかと思いましたが、あまりに医療寄りな本なので最終的に選外としました。
 
 
佐々木俊尚『web3とメタバースは人間を自由にするか』
私なら「web3とメタバースは人間を透明な檻に閉じ込める!」と言いたくなりますが、利便性だって大きいわけで。佐々木俊尚さんのこの本は、私よりも冷静な筆致でIoT化が進んだ未来について論じています。
 
 
オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
この手の作品のなかでは『ハーモニー』と『ある島の可能性』が選に残り、『すばらしい新世界』が選から外れました。ディストピア管理社会SFとしては『1984』と双璧をなしていますが、ディストピアとユートピアの紙一重っぷりを味わうならこちらでしょう。
 
 
沼正三『家畜人ヤプー』
タイトル的に『人間はどこまで家畜か』に一番近いのはこのSF作品。ですが、まあ、その、色々と事情をかんがみて外しました。以前に書いたヤプー評はこちらを。ヤプーに働いている生政治&規律訓練型権力と現代の私たちに働いている生権力の共通点を読んでいくと、「現代人はどこまでヤプーか」を考えながらの読書体験になるので良いですよ。
 
 
アニメ版『PSYCHO-PASS』
アニメのDVDという理由で選外になりました。作品のメインストーリーはおおむね刑事物語ですし、それはそれで面白いですが、厚生省に統治された管理社会がアニメとして映像化しているのが素晴らしすぎます。登場人物もそれぞれ味があって世界観とうまくマッチしています。私としては、榊原良子さんが声を当てている厚生省公安局局長を推したいです。
 
 

3.間に合わなかった本

 
グレーバー『万物の黎明』

ピンカーのライバル的存在のグレーバーによる大著。グレーバーはアナーキストで、そのアナーキストのグレーバーにとって、中央集権国家の役割を重視するピンカーの記述は批判の対象になるはず。だからピンカーを読むならグレーバーのこれも読むべきだと思うのだけど、そのグレーバーが書いた『官僚制のユートピア』を読んだ時に、ちょっと強引にアナーキズムに寄せすぎだと感じたので、読むのを後回しにしました。論の当否はともかく、面白い本だと予測しています。
 
 
ジョセフ・ヘンリック『WEIRD(ウィアード) 「現代人」の奇妙な心理 上:経済的繁栄、民主制、個人主義の起源』
心理学や進化心理学の好きな人にとって、WEIRDという言葉の意味はわかるはず。つまり「Western, Educated, Industrialized, Rich, and Democratic」な環境とそこで暮らす人々のことです。この本は、WEIRDな人間心理がどこまで普遍的なのか、WEIRDな環境や文化が人間にどう作用するのかを論じていて、刺激に事欠きません。テストステロンと男性の行動について等々、『人間はどこまで家畜か』で引用したかった記述もたくさんあります。でも、2023年12月発売だったので間に合いませんでした。
 
 

本と本を繋げる手がかりにしてください

 
これらの本は、私の頭のなかで繋がりあっているので、他の人においてもそうなる可能性があるかなと思っています。よろしければ本と本を繋ぐ手がかりにしてください。
 
 

反出生主義という人類滅亡のミーム

 
※この文章は、黄金頭さんへの返信のかたちをとった、私なりの反出生主義についての考えをまとめた文章です※
 
blog.tinect.jp
 
こんにちは黄金頭さん、p_shirokumaです。拙著『人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』をお読みくださり、ありがとうございました。今回私は、どうしてもこの本を読んでもらいたいブロガーさん数名におそれながら献本させていただきました。受け取ってくださったうえ、ご見解まで書いてくださり大変うれしかったです。
 
『人間はどこまで家畜か』を黄金頭さんに献本したかった理由は2つあります。
 
ひとつは、黄金頭さんが書いたこのブログ記事のおかげで『リベラル優生主義と正義』に出会えたからです。
 

 
今は8000円台で推移していますが、一時期、この本には30000円ぐらいのプレミアがついていました。この本は図書館で借りて十分な本ではなく、いつでも利用可能な状態にしておくべき本だと私は思いました。黄金頭さんのおかげでプレミアがつく前に購入でき、たくさん読めて助かりました。
 
もうひとつは、黄金頭さんが日頃から反出生主義的なメンションを書いておられたからです。
 
実は、執筆段階の『人間はどこまで家畜か』には反出生主義とその目標が現実的にありえる未来として記されていました。ところが125000字の原稿を90000字の新書に折り畳むためには、反出生主義についての記述を削除するしかなかったのです。私は、反出生主義を人間を滅亡させ得る思想のひとつ、危険な文化的ミームのひとつとみなしています。
 

 思想の進展には最終目的地はありません(例外は反出生主義で、これには生物の絶滅という壮大な最終目的地があります)。思想の世界には自然主義的誤謬という言葉があります──生物学的な事実があるからといって、そのとおりに振る舞う「べき」とみなしてはいけないと戒める言葉です。たとえば人間には反応的攻撃性や能動的攻撃性がありますが、だからといって暴力や殺人が肯定される理由にはなりません。
 一方、その逆は成立しません。自然主義的誤謬ならぬ思想的誤謬という言葉はないのです。思想は思想以外に対しては無謬であり、無敵であり、特権的な地位にあるため、思想を否定したり修正したりし得るのは、人間の生物学的特徴ではなく、思想自身だけです。たとえば反出生主義が思想として完全に定着した時、それを道徳的判断や価値判断からひっくり返せるのは当の思想だけで、生物学者が何を言おうとも哲学者や倫理学者のつくる未来を覆すことは許されないでしょう。その意味において、加速主義やハラリのビジョン、反出生主義にも荒唐無稽と切って捨てられない怖さがあります。思想のゆくえは真・家畜人たる私たちのゆくえであり、それは絶滅のゆくえでもあるのかもしれないのです。
━『人間はどこまで家畜か』ボツパートより

たかが思想だ、それもマイナーな思想だと反出生主義を軽んじるべきではありません。
 
拙著で述べてきたように、思想は文化の中核をなすミームで、たとえば今日の社会は資本主義・個人主義・功利主義といった思想に沿ってできあがっています。思想は都市空間のアーキテクチャとなって具現化しますし、私たち自身の超自我や価値観となって内面化もされます。だから思想なんてたいしたことがない、と思うのはとんでもない間違いです。思想が都市をつくり、社会をつくり、時代時代の人間をかたどり、値踏みすらするのです。
 
と同時に、21世紀においてメジャーな思想たちも、かつてはマイナーでした。(信用取引や流通貨幣の起源は別として)今日の資本主義のシステムや思想を育てたのは西洋のブルジョワ階級でしたが、はじめから彼らとその思想がメジャーだったわけではありません。たとえば今日では当たり前のものになっているコスパ/タイパ意識も、20世紀初頭には一部の人のものでしたし、いわゆる上昇志向もそこまで強かったわけではありません。でもって、ブルジョワ階級は「第三身分」と呼ばれ「第一身分」や「第二身分」ではなかったのでした。
 

 
『第三身分とは何か』が書かれたのはフランス革命期。現代人の雛型ともいえるブルジョワ階級も、当時はまだ新興勢力でした。資本主義をよく内面化し、そのとおりに生きている人はせいぜいアーリーアダプターまでだったと言えそうです。
 
個人主義や社会契約や功利主義にしてもそうです。それらのたたき台を作った偉人たちはイノベーターで、はじめから偉人たちの思想がメジャーだったわけではありません。だとしたら、今日ではマイナーで異端視されがちな反出生主義も、やがて社会や時代に浸透し、常識になったっておかしくないのではないでしょうか。
 
上掲ボツ原稿に書いたように、思想は思想以外に対して無謬であり、無敵であり、特権的な地位にあります。反出生主義という思想の是非について口出しできるのは当の思想だけで、生物学をはじめとする自然科学には口出しができません。そのうえ、「すべての生の苦をなくす」という発想において、反出生主義にはある種の功利主義的な「正しさ」があります。思想と思想がぶつかり合う際には、「正しさ」は非常に強いカードです。反出生主義という文化的ミームが「正しさ」という武器を携え、西洋哲学の論理という甲冑を身にまとっている点には注意が必要です。
 
である以上、この思想がイノベーターの夢で終わらず、アーリーアダプターからアーリーマジョリティのものへ、ひいてはレイトマジョリティやラガードまで巻き込む思想になっていく可能性は否定できません。
 
のみならず、現代社会は文化が(中央集権国家とその制度を介したかたちで)強力な力をふるう社会です。今日でさえ、資本主義や個人主義や功利主義といった思想の外側で考え、思想を逸脱して生きるのは簡単ではないのですから、もっと文化の力が強まり、その文化に人間がいっそう飼いならされるようになった未来に反出生主義が流行したら、その思想のあぎとから逃れるのはほとんど不可能ではないでしょうか。
 
 

反出生主義は病原菌よりも猛なり?

 
古来より、流行りものは人間をたくさん減らしてきました。ペストしかり、天然痘しかり、インフルエンザや新型コロナウイルスしかり。それらは細菌やウイルスといった生物学的ミームで、交易網に乗って広がり、大暴れしたのでした。

一方、今日ではそうした生物学的ミームよりもずっと多くの文化的ミームが、テレビや教育制度やインターネットをとおして広がっています。これまで、文化的ミームが人間を滅ぼす様子はないように……みえました。でも、それはいつまで本当でしょうか? たとえば資本主義や個人主義や功利主義が人間を滅ぼすまではいかなくても、人間を大幅に減らしてしまう未来はあり得るのではないでしょうか? いえいえ、案外それは既に起こっていることのようにもみえます。
 
そのうえで、反出生主義のような、より直接的に人間を滅ぼす文化的ミームが大流行し、本当に人間を滅ぼす、ひいては全生物すら滅ぼす未来は絶対に来ないと言えるでしょうか。
 
苦を避けることを至上命題とする反出生主義は、人間を滅ぼすだけでなく、たとえば自然界の食物連鎖、野生動物の生の在り方をも標的とするでしょう。人間の滅亡も全生物の滅亡も、思想として正しければ肯定され得て、その思想に対して生物学をはじめとする自然科学は何も言えません。そうして考えてみると、反出生主義は荒唐無稽な人類滅亡ストーリーではなく、文化をとおして人間が絶滅する現実的な導火線のひとつと思えるのです。
 
でもって、もし反出生主義が人類や生物を滅亡に追いやった時、その思想は、その善や正義を誇るでしょう。
 
伊藤計劃のSF小説に『虐殺器官』という作品があって、その世界では虐殺の文法なるものが登場し、そのミームが世界じゅうに争いを起こすさまが描かれていました。虐殺の文法というミームが人文社会科学の産物だとしたら、虐殺の文法もまた、文化的ミームの一種と言えます。
 

 
虐殺の文法は、争いを生むとげとげしい文化的ミームでした。反出生主義はそうではないでしょう。生まれてこないこと・極端な功利主義に基づいて緩慢に滅ぼすことをとおして人間や生物に終わりをもたらす文化的ミームとして、釈迦の真似事のような顔つきをして私たちの前に現れるでしょう。反出生主義は功利主義のバリアントのひとつ、苦を避けて命に対して慈悲深い、(フーコーっぽく言えば)生政治的なミームであるでしょう。でもそれがもたらす帰結は虐殺の文法と実はあまり変わりません。いいえ、もっと苛烈で、もっと徹底していると言えますし、逃れようがありません。
 
メディアやインターネットをとおして文化的ミームがはげしく往来する今だからこそ、人間に災厄をもたらすミームは細菌やウイルスといった生物学的ミームだけでなく、思想やイデオロギーといった文化的ミームである可能性は大きくなっていると私は読みます。そのような視点から『人間はどこまで家畜か』をお読みいただき、人間が文化に飼いならされようとしていて、その文化にそぐわない個人を治療・矯正しているさまを想像してみてください──ひとたび反出生主義が文化的ミームのヘゲモニーを握ったら、それにそぐわない個人もまた、治療・矯正の対象とみなされるでしょう。そのとき、治療や矯正に携わる人々は白い手袋をしていて、やさしく微笑んで、できるだけ苦の少ない生と平安を約束すると思います。
 
それって恐ろしい未来だと私なら思います。びっくりするほどディストピアですよ。
でも、反出生主義を奉じる黄金頭さんには喜ばしい未来、ユートピアとうつるのかもしれません。
 
どちらにせよ、未来について考え、未来について語るのは楽しいものです。
人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』は、未来について考えたい人には特におすすめです。
  
 

裏日本出身者から見た東海道新幹線の車窓風景

 
裏日本出身者から見た東海道新幹線の車窓風景の感想を一言でまとめると、「どこも豊かですね」となる。
 
 

  
ビジネスで大阪と東京の間を行ったり来たりしている人にとって、東海道新幹線の車窓風景なんて一生懸命に眺めるものではあるまい。ありふれた風景がどこまでも続く、退屈きわまりないものだろう。
 
が、それは表日本の出身者にとってのこと。裏日本出身者から見た東海道新幹線の車窓は、いろいろ刺激的だ。率直に言って、うらやましい景色でもある。人口の集中、鉱工業の発展、肥沃な耕作地と温暖な気候、そして富士山をはじめとする風光明媚な景観。
  
同じ日本でも、裏日本と表日本には風景に違いがある。そういう違いを前提に、東海道新幹線の車窓風景についてちょっとだけ。
 
 

静岡、浜松、大津にのぞみは止まらない

 
東海道新幹線に乗る人には当たり前すぎることだけど、静岡、浜松、大津にはのぞみは止まらない。そもそも滋賀県には県庁所在地に新幹線の駅が無いのだ。遠距離を結ぶ新幹線であるのぞみが、東京に比較的近い静岡県の大都市に停まらないのは当たり前といえば当たり前かもしれないが、それでもすごみのあることだ。裏日本の県庁所在地よりずっと人口規模の大きな都市を、のぞみは何食わぬ顔で通過していく。
 
でもって、東海道新幹線の車窓の風景は、とにかく、家、家、家、だ。
 
今にもゴジラが上陸してきて踏み荒らしそうな神奈川県の景色をはじめ、東海道新幹線の沿線の景色にはほとんど常に、家々が連なっていて例外は少ない。北陸新幹線・上越新幹線・東北新幹線の沿線に比べると、圧倒的過疎地をみかけることがほとんどない。
 
そして人が寄り集まっているエリアの大部分が平地から成り、特に大都市周辺では丘陵地帯までもが宅地になっている。どこにゴジラが上陸しても破壊するものには事欠かないだろう。人口規模と人口密度が裏日本と比べて圧倒的に高い。
 

 

肥沃にして風光明媚

 
そうした平地の豊かさを象徴するように、東海道新幹線では何度となく大河川を通過する。淀川、揖斐川、長良川、揖斐木曾川、天竜川、大井川、富士川、等々。北陸、特に富山県には大河川があるとみなされているけれども、実際にはそれほど大した河川があるわけではない。信濃川を例外として、びびるほど大きな川は裏日本では見かけない。
 
治水には大変な苦労があっただろう。けれども、そうした河川と広大な平野部が大きな人口を養ったのだろうし、裏日本と比べて温暖で雪の少ない土地は過ごしやすかっただろうなとも思う。
 
じゃあ、住宅地や耕作地ばかり多いのかと言ったら、そうでもないのが東海道新幹線の沿線風景。
 
この文章のはじめに貼ったように、神奈川県から静岡県に入ると富士山の威容が目に入る。清水市の街並みを背に凄む感じの富士山も、富士市あたりから望む稜線のなだらかな富士山も素晴らしい。外国人観光客たちが、一生懸命に富士山を撮影していたりする。
 
浜松市を通過すると今度は浜名湖だ。
 

 
でかい。広い。浜名湖ボートレース場を通過するのも趣深い。そうしてしばらくすると今度は大名古屋だ。
 

 
名古屋を、大きな地方都市と呼ぶ人がいる。名古屋駅から大阪方面に向かう際には、割とすぐに田園風景が見えてくるから、なるほどそうかもと思える。でも、名古屋から東京に向かう際には「名古屋の都市圏ってでかいなぁ」って気持ちになる。少なくとも裏日本の都市圏のレベルじゃない。地下鉄や名鉄を乗り回して名古屋じゅうをうろつくと、裏日本者を圧倒するぐらいの都会感はある。
 
濃尾平野を横切り、ちょっと景色に飽きてきたかと思った頃に、今度は関ケ原、近江連山、琵琶湖などが見えてくる。京都を過ぎると、淀川の手前と向こう側の住宅街が途方もない広がりをみせ、時折、JR西日本や関西私鉄の列車が視線を横切っていく。すべて、東海道新幹線の車窓を見慣れている人にはどうってことはない景色でも、裏日本出身者には楽しくうつる。
 
 

確かに表日本、裏日本、なのだと思う

 
この文章のタイトルを「日本海側出身者~」とせず「裏日本出身者~」としたのは、東海道新幹線の車窓から見える太平洋側の風景が、どう考えても日本海側よりも豊かで、人がたくさんいて、発展しているからだ。その豊かさ・その繁栄っぷりを日本海側のそれと比べたら、太平洋側を表日本、日本海側を裏日本と評した人の気持ちがわかる気がする。そのうえ太平洋側は温暖で冬も晴れていることが多い、日本海側の冬はひたすら曇っているか雪が降っている。
 
「北陸地方もそれなり豊かだ」と指摘する人もいるだろうし、ある程度までわかる話ではある。だけど、それでも東海道の風景と北陸道の風景、東海道新幹線の風景と北陸新幹線の風景を見比べれば、どちらが日本の表で、どちらが裏であるかがいやがおうにも思い知らされる。
 
だからどうした、という話ではあるのだけど、日本海側の人間には、東海道新幹線の車窓の風景は退屈しない・見どころの多いものだと思うので、ぜひお楽しみくださいと今日は書きたかったので書きました。
 
 

私たちは、自己家畜化をこえて"社畜"になる

 
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
続き。
 
いつの世にも苦しみや悩みはあるし、その社会・その時代に最適な人もそうでない人もいるでしょう。アフリカの狩猟採集社会に最適な人と、幕末の日本の農村に最適な人と、2024年の東京に最適な人はそれぞれ違っています。
  
ただ、精神医療の受診者の右肩上がりな増加が現代特有の生きづらさをなにかしら映し出しているとみるのは、それほど見当違いではないのではないでしょうか。
 
近代以前の社会にも、それぞれの時代の生きづらさがあり、適応するための課題があり、落伍者がいました。と同時に、その時代ならではの生きやすさがあり、その時代だからこそ活躍できた人もいたでしょう。逆に、いつの時代でも落伍しやすく、不幸になりやすい人もいたかもしれません。
 
対して、今日の先進国では医療や福祉が行き届き、人権思想も浸透しているため、近代以前の生きづらさ、特に生存の難しさのかなりの部分が克服されました。飢餓や疫病が減り、平均寿命が高くなったこと等々を挙げていけば、両手の指ではおさまらないほど現代社会の恩恵を数えあげられるでしょう。
 
でも、それらを根拠として今日の社会を留保なく肯定し、とめどもない進歩を諸手で歓迎して良いのでしょうか?
昨日の文章にも書きましたし、拙著『人間はどこまで家畜か』でも書きましたが、進歩は否定されるべきではありません。ただ、進歩が速足になり、その速足な進歩がますます累積した時、進歩した社会が私たちに課すハードルもますます高くなるでしょう。高くなっていますよね? 支援や治療を受けることなく社会のなかで生きていく難易度で比べるなら、今日の社会のほうが過去の社会より難しいはずです。それを反映して、精神医療が対象とし得る人の範囲は過去の社会より広がっているはずです。
 
この調子でいくと、全人口の5%どころではなく、10%、20%、40%の人が精神医療による治療や福祉の支援が必要な未来が待っているかもしれません。「治療や支援があれば、そうした人も長く生きられて良いじゃないか」とおっしゃる人もいるかもしれませんし、私も、そういう視点に基づいて議論する場合はあります。けれども社会の成員の何割もが常に精神医療の治療や支援を必要とする社会ってどんな社会でしょうか。それは良い社会だと言えますか? 私は精神科医なのでそのほうが食いっぱぐれないかもしれませんが、その方向に社会が向かっていくとして、本当に祝賀すべきでしょうか?
 

ますます進歩する文化や環境に適応するために精神刺激薬やSSRIでエンハンスする人と、ますます管理されゆく学校環境に適応させるためにADHDと診断され精神刺激薬で治療される子どもの絶対的基準はあるでしょうか? 榊原の論説を踏まえるなら、進歩する文化や環境に適応するためにエンハンスメントを用いること自体は否定できないように思われます。そのとき精神科医は、病者を治すというより社会適応を包括的にメンテナンスしコーディネートする職業、聖書によってではなく向精神薬やIoTの技術をとおして人々の心を統治する司牧的権力、と位置づけられるかもしれません。
人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』より抜粋

いつか、誰もが精神医療による治療や支援を、いやエンハンスメントやメンテナンスを受けるのが当然の未来がやって来るかもしれません。それは、便利なことである以上に、高度な社会に私たちが適応するために必須なことで、もっと高度化した社会を成立させるために必要になることかもしれません。IoT化に関しては、その兆しは私たちに忍び寄っています──肌身離さずスマホやを所持している人やスマートウォッチを身に付けている人は、サイボーグ化・サイバネティクス化への一歩を踏み出していると言えます。
 
 

子どもは野生のホモ・サピエンスとして生まれてくる

 
それからうひとつ、過去の社会についていけなかった人の条件と今日の社会についていけない人の条件を比較すると、前者のほうが人間の生物学的な仕様に近い問題点がネックになり、後者のほうが人間の生物学的な仕様から遠い問題点がネックになっているようにみえます。
 
たとえば狩猟採集民のメンバーにも集団から落伍する人、その社会・その共同体に適応できない人がいたに違いありません。当時の社会や共同体に適応するために必要だったものは、ヒトの(生物学的・進化的な)行動形質からあまり遠くなかったでしょう。喜怒哀楽をまじえたコミュニケーションができること、共同体とうまく折り合えること、身体的に健康であること、五感をとおして危険を察知できること、等々は何万年も前からヒトが適応していくうえで重要な課題でした。火のある環境に馴染めることも重要だったでしょう。現代社会では焚火がこわくてもあまり困りませんが、狩猟採集民の社会では生存困難だったに違いありません。
 
対照的に、今日、現代社会に適応するための課題には、何万年も前からヒトが適応するべきではなかったものが色々と含まれています。人口密度の高い場所に集まって過ごすこと、座学やデスクワークを何時間もこなすこと、晴天の日も雨天の日も変わらないパフォーマンスを発揮すること、喜怒哀楽を控えめにしつつ黙って働くこと、等々はヒトの行動形質ができあがってきた過去の環境で問われてきた課題ではありません。
 
ヒトの行動形質ができあがってきた過去の環境と比較した時、現代ってのはなかなか特殊な環境です。昔ならとっくに死んでいたはずの人でも生きられるようになった半面、狩猟採集社会や中世ヨーロッパ社会だったら活躍できていたかもしれない人が生きづらくなったり、なんとなれば精神疾患に該当するとされる環境です。子どもから高齢者までがひとりひとり大切にされるようになった半面、子育てのためにクリアしなければならないハードルが色々と増え、子ども自身も、昔に比べて高度な社会に小さい年齢から適応しなければならなくなりました。昭和時代よりも静かで粒ぞろいで暴力の少なくなった令和時代の学校教室は、昭和時代よりホワイトには違いありませんが、そのぶん、子ども自身もホワイトであるよう求められます。
 
より小さい年齢からホワイト化した社会に適応しなければならない兆候は、文科省のデータからもうかがわれます。
 

 
文科省の暴力行為発生件数/いじめの認知件数のグラフをみると、暴力やいじめが増えているような印象を受けるかもしれません。しかしそれらの増加がグラフが波線で区切られている箇所から急に増えている様子がわかるように、これは、暴力やいじめの定義がその年に変更され、事例として認知される条件も変更されたことを反映しています。実際、警察庁「犯罪白書」をみる限りでは、同時期に校内暴力で検挙・補導された児童生徒の数は減っているのです。
 
ですから、上掲のグラフが示しているのは、学校環境が年を追うごとにホワイト志向&高コンプライアンス志向になり、、かつては大人たちに見過ごされて認知の対象にならなかったより小さな暴力やいじめまでもが摘発や矯正の対象となったことを示しています。
 
子どもははじめからホワイトに生まれてくるわけではありません。
社会がいくら高度になろうとも、子どもは必ず野生のホモ・サピエンスとして出生してきます。その子どもに、昔よりもホワイトな行動が期待されて、それができなければ治療や支援の対象とみなされなければならなくなっているとしたら、それってどこまで良いことなんでしょうか。今の子どもは昔よりもずっと早くから・ずっと強力な「ホワイト化した高度な社会に、より早くから馴染め」という圧を受けながら育ち、親も、ホワイト化した高度な社会にみあった振る舞いを身に付けさせるよう努めなければなりません。子どもの安全を期するためにも、子どもが社会の他のメンバーに迷惑をかけないためにも、それは必要な措置ではあります。でも、これは育てる側にも育てられる側にも厳しい課題です。でもその厳しい課題をクリアしなければ、ホワイトな学校・ホワイトな学級の一員でいるのは難しくなってしまうでしょう。
 
 
 

「生物学的な自己家畜化」で身に付けた形質と、「ホワイトな社会の社畜」とのギャップ

 
『人間はどこまで家畜か』の第一章では、進化の過程でヒトがヒトとしてできあがっていった、自己家畜化という生物学的変化を紹介しています。人間同士が協同すること・交易すること・人口密度の高い状態でも平和裏に暮らすことは、この自己家畜化という生物学的変化に多くを依っていて*1、自己家畜化こそが人間を地表の支配者たらしめた最後の鍵であるよう、私には思われます。
 
しかし、自己家畜化を経て穏やかな環境になじみやすくなったとはいえ、私たちが社会の進歩に無限についていけるとも思えません。たまたま脳内セロトニンに恵まれまくり、たまたま穏やかで、たまたま座学にもよく馴染める人なら、そんなホワイトな社会や環境にもなんなく適応できるでしょうが、誰しもがそうであるわけではありません。そして社会の進歩が加速し、私たちにますますホワイトたれと命じるとしたら、そこから逸脱してしまう人の割合は増えてしまうだろうし、そこに適応するために必要とされる努力も増えてしまうのではないでしょうか。
 
私たちは今、生物学的な自己家畜化をとおして身に付けてきた形質よりもずっと向こうの、ホワイトな社会の社畜たれと社会に期待されているのだと思います。文化や環境はそのようにホワイト化し、すでに私たちを覆いつくしています。少なくとも日本国内において、そうしたホワイト化していく社会の機構から逃れるすべはありません。社会の機構から逃れているようにみえる者は、すみやかに治療を要する者や福祉的支援を必要とする者、または矯正が必要な者とみなされ、それぞれふさわしいかたちで社会の機構に回収されていくでしょう。
 
昔に比べて生きやすくなった部分があるのは重々承知していますし、そうした恩恵を否定するべきではありません。だからといって、そのために昔に比べて生きづらくなった部分があることを見逃すことはできないし、なかったことにするわけにもいきません。本当に人間にやさしい未来を目指すなら、たとえ今は無理だとしても、そうした現代ならではの生きづらさを見なかったことにして済ませるのでなく、正面から見据え、「ここに現代社会ならではの問題があって、解決を待っているよ」とちゃんと指さし確認しておくべきで、未来において解決すべきプロブレムリストのなかに入れておくべきだと思います。
 
私はそういう問題意識を持ちながら、『人間はどこまで家畜か』という本を書きました。
 
 

*1:たとえば自己家畜化が起こると脳内で利用可能なセロトニンの量が増える

高度な社会の一員になれていますか。これからもなれますか

 
  
「高度な社会は、それにふさわしい高度な人間を要請する」
 
それが言い過ぎだとしたら、「高度な社会に適応するためには相応の能力や特性が求められ、足りなければ支援や治療の対象になる」と言い直すべきでしょうか。
 
少し前に「SNS上では境界知能という言葉が悪口的に用いられている」といった話が盛り上がったようですね。
 
president.jp
 
リンク先で述べられているように、知能指数はその人の生きづらさを探る手がかりとして用いられるもので、そうして算出された境界知能も、支援の見立てに用いるための語彙なのでしょう。そしてリンク先では、境界知能という言葉を時代遅れにする動向にも触れられています。どんな言葉にも全人的な否定のニュアンスをとりつけたがりなインターネット民の挙動を見ていると、境界知能という語彙を消すべきだとする人々の考えにも同意したくなります。
 
そうした語彙の汚染問題はさておき、境界知能や知的発達症のような、知能指数が平均を下回っている人の生きづらさそのものは実際に高まっているのではないでしょうか。
 


 
上掲ツイートには、境界知能どころか、IQが100ぐらいでも現代社会に適応するのはしんどいのではないか、といったことが述べられています。現代社会に適応するのが厳しいボーダーラインが、IQ75なのか、IQ85なのか、IQ95なのかはここでは論じません。ただ間違いなさそうなのは、SNSに氾濫する情報の真贋を見極めたり、複雑な契約や制度を理解したうえで主体者として必要十分に振舞ったりするには、それ相応の知識・知恵・判断力などが求められるだろうってことです。
 
たとえば最近、iDeCoやNISAによる投資が政府によって奨励されていますし、政府が推奨するということはそうした制度を運用できることが国民に暗に期待されているようです。では、それらの制度をまがりなりにも理解し、運用するのに(またはよく考えて運用しないという判断をする際に)必要とされる知能指数とは一体どれぐらいでしょうか? あるいはますます高度な人材の育成が期待され、誰もが大学生相当の学歴を要する社会で必要とされる知能指数は一体どれぐらいでしょうか?
 
資産運用や学歴を抜きにしても、相応の知識・知恵・判断力を要する場面は少なくないでしょう。何が危険物なのか。危険物だとしてどのように対応すれば安全なのか。なぜ、それが危険になり得るのか? こうしたことを知識として覚え、理屈まで理解するにあたって、知能指数が低いことはハンディたり得るでしょう。危険は化学薬品のようなものかもしれないし、SNSやアプリに潜在するものかもしれないし、繁華街に遍在するものかもしれません。高度化した社会において、リスクは五感で察知できるものではなく、しばしば直感に反するかたちをとっています。伝承や物語をとおして子ども時代に自然に暗記させられるものでもないでしょう。高度化した社会のリスクのかなりの部分は、学校の授業に代表される座学をとおして、またはメディアをとおして学ばなければならないものです。
 
そのうえ、そうした知識はアップデートさせていかなければなりません。ハンディのある人でも、時間と経験さえ積めばSNSやアプリの危険を暗記すること自体は可能です。ところが高度化した社会のアップデートの速度はとても速いので、ハンディのある人がSNSやアプリの危険をどうにか覚えた頃には、それらはアップデートされていて、危険の側もアップデートされているでしょう。
 
アップデートというのは面倒で負荷のかかるものです。にもかかわらず、高度化した社会は情け容赦なくアップデートを続けていきます。知識の把握や学習や判断にハンディのある人にとって、情け容赦のないアップデートは大変なものであるはずです。
 
 

大変なのは、知的発達症や境界知能だけじゃない

 
 
アップデートをとおして難しくなっているのは、知能指数にまつわる領域だけではありません。
気分や感情、情緒を巡る領域でも、社会はアップデートしています。
 
たとえば近年はコンプライアンスを遵守したホワイトな職場が理想視され、ちゃんとした企業ほどそのような体制を整えようと努めています。ホワイトな職場といえば、誰もが心地よく働ける職場、といったイメージをお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
 


 
ですが、本当にそれだけでしょうか。
コンプライアンスにかなったホワイトな職場には、剣呑な人間や、泣いたり騒いだり怒ったりする人間はいてはいけません。そうした人間がそうした振る舞いをみせていては、ホワイトな職場はホワイトではなくなってしまうからです。ホワイトな職場は、ホワイトな人間だけで構成されなければなりません。そのためにもアンガーマネジメントが推薦され、ストレスチェックのような制度も浸透してきています。それらは福利厚生の一端であると同時に、ホワイトな職場を維持するための管理と統治の一端、社員をホワイトに漂白し、2020年代にふさわしい"社畜"を彫琢するための統治のシステムともなっていませんか。でもって、そうした統治のシステムがあってもなお、ホワイトな職場の枠組みにおさまりきらない人、いわばホワイトな社畜になりきれない人は、いったいどこへ行くのでしょうか?
 
こうした社会のホワイト化とでもいうべき事態は、職場以外でも起こっているよう、私にはみえます。家庭でも学校でも公園でも、私たちは怒り過ぎてはいけないし、泣きすぎてはいけないし、悲嘆に暮れすぎてはいけません。はしゃぎすぎてもいけないでしょう。
 
ホワイトな社会は、まるでホワイトな人間だけで構成されなければならないかのようです。それが言い過ぎだとしても、「この高度化した社会は、最もホワイトな人間を基準点としてつくられているのではないか?」、と疑問を投げかけることはできるでしょう。さきほどの知能指数の話まで含めるなら、「知的機能が一定水準を上回り、気分・感情・衝動が安定していることが高度化した社会の人間の基準」という不文律が存在しているかのようにみえませんか。そうした状況のなかで語られる多様性とは、いったいどんな多様性なのでしょう?
 
話が逸れかけました。
ともあれ、ホワイトな社会とその不文律に苦もなく適応できる人にとって、ここまで書いてきた高度な社会はハラスメントやストレスが少なく効率的な、たいへん好ましい社会なのかもしれず、もっともっと社会は高度化して欲しい・高度化すべきだと主張しうるものかもしれません。でも、その高度化・ホワイト化する一途の社会に誰もが苦もなく適応できているわけではありません。ついていくのに人一倍の努力が必要な人、ついていけないために治療や支援を必要とし、活動の場が実質的には制限されている人も少なくないのです。
 
 

治療と支援をとおして高度化する社会の一員になれる、とはいうものの

 
より高度な知識や知恵や判断力を成員に求め、気分や感情や衝動の平穏さを成員に求め、ますますのホワイト化とコンプライアンスの遵守を指向する社会。この高度な社会につつがなく適応するには、高い知能と情緒の安定性が求められるでしょう。
 
そういう社会についていけない人のために(たとえば精神医療による)診断と治療、さらに福祉的支援があるのは知っていますし、それらが個々人の役に立っていることも知っています。それでも、診断と治療と福祉的支援を受けている人がホワイトな社会に馴染みきっているとは言いがたい部分もあります。幸運にもそうなっている人もいる反面、不幸にして部分的にしか社会に馴染めず、社会参加が制限されている人も珍しくないのが現状です。
 
そもそも、診断と治療と福祉的支援さえあれば、いくらでも社会が高度になって、その高度な社会についていく難易度が高くなって構わないものでしょうか? 社会・文化・環境の進歩は必要なのは言うまでもありません。だとしても、そうした進歩がますます加速し、結果、診断と治療と福祉的支援をまったく受けなくて済む人の割合が減っていくとしたら、それってどうなんでしょうね?
 
このように考えながら振り返る精神医療を受ける人の数のグラフは、見ていて気持ちの良いものではありません。
 

 
厚生労働省「患者調査」を見返すと、精神疾患で医療機関にかかる人の数は右肩上がりに増大し続けています。令和2年の段階では614万人に達していて、平成14年の2倍以上、日本人の約20人に一人が精神疾患の治療を現在進行形で受けていることになります。
 
好意的にみる人は、このグラフは精神疾患についての啓蒙が行き届き、早期発見・早期治療が実現した反映とみるでしょうし、悪意をもってみる人は、精神医療が今まで以上に広範囲を医療の対象とし、社会のなかでプレゼンスを稼いできた反映とみるかもしれません。
 
私なら……このグラフは社会が高度化し社会適応がより難しくなって、精神医療や福祉による支援が必要な人の割合が増大したせいじゃないの? と考えます。精神医療が"顧客を開拓した"側面は確かにあるでしょう。でも、ニーズのないものを開拓しても"顧客"は増えません。そして実際に診ている限り、こうも思うのです:精神科を受診する人の数が増え、なにやら"うつ病や統合失調症の軽症化"なるものが語られているからといって、受診する人の悩みや生きづらさが切実なものではなくなったようにはみえないのです。
 
現代社会は、数十年前に比べて高度化してきました。それ自体は良かったとしても、高度な社会に適応するためのハードルまで高くなってしまっているとしたら、それはそれで何とかしなければならない課題のはずです。が、今日では、そうした課題は社会の問題ではなく精神医療と福祉の問題、ひいては患者さんやクライアントの個人的な資質や性質の問題ってことになっています。これは、問題の矮小化ではないでしょうか。
 
加えて私は未来のことが心配です。
これまでの数十年がそうだったように、これから数十年で社会はもっと高度化するでしょう。では、数十年後の社会において、いったい何割の人が診断と治療と福祉的支援なしに社会適応できるでしょうか。その数十年後の未来において、たとえば私は(その未来における)ホワイトな職場・ホワイトな社会にそれそのままでいられるのでしょうか。私は心配でなりません。私自身だけでなく、子々孫々がどうなるのかも気になります。
 
あなたは、この高度な社会の一員に、なれていますか。
のみならず、これから先もますます高度化していく社会についていき、そこでも一員になれていると思いますか。
 
私は、たぶん自分はそんなに高度化した社会についていけないと思うので、社会の高度化に警戒感をもっていますし、留保なく社会の高度化を推し進めようとする人々や、ついていけない者のブルースを聞かなかったことにして時計の針を進めようとする人々に警戒感を持っています。進歩、それ自体は否定できないとしても、それについていけない人々のことを、もっと社会全体の問題として見つめていただきたいし、進歩に対して配慮を期待したい。あるいは、配慮が無理だというのなら、せめてついていけない人々のブルースに耳を傾け、その苦悩、その生きづらさをなかったことにしないでいただきたい。最近のインターネットの話題を眺めていて、そのように私は感じました。
 

※こうした問題について、2月21日に新著『人間はどこまで家畜か』が発売されます。社会と社会適応とそれらの未来に関心のある人なら、お楽しみいただけるのではないかと思います。おすすめです。
 
 
 
※以上でブログ記事はおしまいです。以下は『人間はどこまで家畜か』を作っていた頃にまつわる小話で、サブスクしている常連さん向けです。

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