シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

あのとき推していた人は、今もここで生きている

 
ここから書くことは『「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド』よりも未来の出来事、「推し」の最盛期から時間が流れた後のことや、「推し」に相当する人と別れた後についてです。
 
先日、拙著について相次いで感想をいただきました。ありがとうございます。まずは、大橋彩香さんを推してらっしゃる soitanさんの感想です。
 
【感想】「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド - Soitan’s life
 
そのなかに、私が過去に書いた惣流アスカラングレーの文章や「推しを自分の心の神棚に祀って社会適応する」文章について書かれていて、懐かしく思いました。
 
私が一番キャラクターを「推し」ていたのは、いえ失礼、一番キャラクターに「萌え」ていたのは20~30代の頃でした。惣流アスカラングレーとその眷属(と私が呼んでいる共通点のあるキャラクターたち)を私は好いていただけでなく、人生の目標、自分自身のフラッグとして掲げてきました。「たかが『萌え』」「たかが『推し』」と私が考えないのは、自分にとってかけがえのないキャラクターたちが自分にとっての理想や目標や希望を牽引してくれ、そのキャラクターたちの良い部分や好ましい部分を自分自身にも取り込みたいと念じて、実際に私の行動パターンや考え方や人生が次第に変わってきた、と感じられるからです。
 
もちろん「推し」や「萌え」にも問題点や難しいところはあり、それらが現実逃避的なニュアンスでしかない場合もあるでしょう。けれどもキャラクターへの「推し」や「萌え」をとおして自分自身の人生が変わり得る・心象風景が変わり得るってのは私自身、体験済みなので、そこに可能性もあると思わずにいられません。
 
ディスプレイの向こう側のキャラクターは架空の存在ですが、その架空の存在をリスペクトし、あこがれ、牽引してもらえる可能性を、過小評価すべきではないと思います*1
 
キャラクターを推すこと・キャラクターに萌えることが人生の痛みを緩和するための麻酔薬でしかないとは、私は思わないし、思えないんですよ。
 
それでも、「推し」や「萌え」の対象は歳月とともに少しずつ遠ざかっていきます。私にしても、『新世紀エヴァンゲリオン』当時や『涼宮ハルヒの憂鬱』当時の心境からは随分と遠ざかりました。過去に出会ったキャラクターたちの余熱はまだ残っていますが、昔のように推したり萌えたりすることはできません。
 
キャラクターではない「推し」の場合、別れはもっと衝撃を伴っています。
「推し」という言葉より理想化自己対象と呼んだほうが適切かもしれませんが、私にはリスペクトしていた師が何人かいましたが、寄る年波に勝てなかったり、病を得たりして亡くなりました。生身の「推し」が亡くなるのは堪えるものですね。『「推し」で心はみたされる?』にも書きましたが、高齢者は、そういう体験を何度も経験するのでしょう。
 

高齢者には自己対象の喪失体験がついてまわります──友人の死、伴侶の死、恩師の死は、自分にとって大切だった自己対象の死に他ならず、自己対象の死とは、自分自身のナルシシズムの生態系の一部の喪失とも言えます。親しい人の死とは、亡くなった人の死を悼むに加えて、自分自身にとって必要不可欠だったはずの自己対象の喪失をも悼まなければならない体験です。
━━『「推し」で心はみたされる?』より 

自分にとって親しく感じられる人の死は、親しい人の死であると同時に、自分自身のナルシシズムの生態系の一部が永久に失われる事態でもあります。長年連れ添った伴侶の死など、それが顕著でしょう。高齢になればそうしたことが次第に増えてくるでしょうね。自分のことを好いてくれた人も、自分が好きだった人も、自分が推した人も、いつかは亡くなる日が来る。二次元のキャラクターたちへの余熱がゆっくりと冷めていくのに比べると、生身の「推し」の喪失は唐突です。
 
 

それでも「推し」からもらったものは消えない

 
次第に冷えて遠ざかっていく二次元の「推し」や「萌え」も、恩師や尊敬する人の死去も、哀しみが伴うのは避けられない気がします。それでも「推し」からいただいたものは残るので、それは大切にしていきたいですね。
 
今では遠くなってしまったキャラクターたちのことを私は懐かしく思い出しますし、そうしたキャラクターが人生のフラッグになってくれたおかげで今の自分の境遇があることを常に感謝しています。惣流アスカラングレーに関しては、私は「彼女は1997年7月19日に死んだ」が最もフォーマルな理解になっているので、本当はあの映画から惣流アスカラングレーという人はいません。案外、死んじゃったから私の人生のフラッグになってくれたのかもしれませんね。彼女を忘れてはならないし、あれを無駄死ににするつもりはないし、その魂を私がもらい受けることにしたわけですから。もらい受けた後の彼女は私とともに成長し、今ではおばさんです。そういうことになっています*2
 
それは多かれ少なかれ他のキャラクターたちにも言えることで、かつて慕ったキャラクター、かつて憧れたキャラクターたちの残影や残響は私の心のなかで生きています。もう一人、感想を送ってくださった modern-clothesさんもそう思いますか?
 
何かを尊く思うこと −−熊代亨『「推し」で心はみたされる?』感想 - 残響の足りない部屋
 
上掲のブログ記事には、

 私はCCさくら世界やラブひな世界、こみっくパーティー世界やKanon世界に逃避することで、ハードな色彩に感じていた現実からの癒やしを得ていました。あの世界(たち)には本当に感謝しています。あの世界とキャラは本当に素晴らしかった…私の「推し」は素晴らしかった。

と書いてあって、加えて、現実逃避的だったとも記されています。確かに現実逃避的な側面はあったのかもしれません。でも、そのとき確かに「推し」を推していた時間があって、何かを受け取って記憶しているのなら、それは単なる過去形では済まされない、現在をかたちづくる一端となった出来事だったと私なら思います。
 
「推し」や「萌え」が社会適応にどれだけ役に立つのか、役に立たないのかという議論を、いうまでもなく私は意識します。でも、そういうのを抜きにしても「推し」や「萌え」から受け取ったものは無かったことにはなりません。少なくとも、自分自身が積極的に捨て去らない限りはなくならないでしょう。そこも、大切なところでしょう。
 
生身の「推し」については尚更です。
私の師たちは亡くなってしまったけれども、彼らから継承した知識、技能、言葉、身振りといったものは私のなかに残っています。思い出も。もう二度と彼らに会うことはできないけれども、敬意や敬愛をとおして彼らからもらったもの・盗んだものはまだここにあって、私のなかで生きています。私もすっかり中年なので、、これからは私の知識、技能、言葉、身振りを誰かにさしあげられたらいいのですけど。
 
『「推し」で心はみたされる?』では、「推し」はコフートの言葉に基づいて理想化自己対象体験とまとめられていますが、理想化自己対象体験は単なる心理的充足の経路ではなく、知識、技能、言葉、身振りの伝承経路でもあります。案外、それは生身の自己対象だけでなく、二次元の自己対象でも起こり得ることかもしれません。そうして継承されるもの・譲り受けるものがある限り、「推し」からもらったものは消えないし、自分の代からもっと後の代に継承させることさえできるかもしれません。
 
「推し活」にも色々あって、刹那的で、後に何も残らないような「推し活」もあるのでしょうね。でも、たいていの「推し活」は何かが残るし、何かが継承されるし、いつか別れの時が来ても受け取ったものは手許に残ると私は考えています。「推し」なんてむなしいことでしかない、とは考えたくないですね。二次元でも三次元でも、良い「推し」に出会ったなら、より良く推していきたいですね。拙著が、そういう推しとのお付き合いのヒントになったとするなら、私は嬉しいです。引用させていただいたふたつのブログそれぞれの筆者さん、感想、ありがとうございました。
 

阿佐ヶ谷ロフトで2月25日の昼間におしゃべりをする予定です。よろしかったらおでかけください。
 
 

*1:それをどこまで「計画的に人生のなかで利用しようと目論む」のかはまた別の問題です。あまり計算高くなってはうまくいかないように私は思いますが

*2:この「私にとってこのキャラクターは私のなかではこうなっている」がAさんもBさんもCさんもそれぞれ持って構わないという含意があの頃の「萌え」には間違いなくあり、それも私に味方しました

東京スカイツリーというパノプティコン(一望監視装置)

 


 
今朝、通勤中にX(旧twitter)をチラ見したら上のポストが表示されて「わかるわかる! 東京スカイツリーって、おれらのことを見てるよね」と思ったので少しだけ。
 
東京都、とりわけ台東区や墨田区のあたりを歩いていると、どこの路地からも東京スカイツリーの姿がみえる。近くに行くと、こうやって見上げなければならないほどスカイツリーは大きい。
 

 
『ブラタモリ』によれば、スカイツリーは一帯のなかでも少し高い土地に立っているというから、ただでさえ高いスカイツリーが一層目立つのだろう。そのうえ周辺にはあまり高層の建物がない。だからか、東京の東のほうを街歩きしていると、いつも同じ顔つきのスカイツリーがこちらを見つめているような気がする。それが私にはなんだか落ち着かない。いつもスカイツリーがこちらを監視しているような思い込みに駆られてしまう。
 
これではまるで、スカイツリーは墨田区のパノプティコンではないか!
 

 
パノプティコン(一望監視装置)は、ベンサムが考案したとされる、中央にもうけられた監視ポストから360度の囚人を監視できる監視装置だ。中央の監視ポストで監視員が実際に監視しているかどうかは、問題にはならない。いつでも監視され得ること・監視員が監視している「かもしれない」ことが重要で、それが囚人に品行方正な行動を促していく。囚人を更生させる装置としてのパノプティコンは理解できるけど、あまり気持ちの良い装置には見えない。
 
くだんの標語を考えた人は、この、パノプティコンという気味の悪い機構を知らなかったのではないだろうか。もし知っていたら、タバコをポイ捨てする人だけでなく、墨田区や台東区の人々ぜんたいが監視されているように思えて標語にしたくなくなるんじゃないかと思う。
 
東京スカイツリーに、実際にそのような監視の機能があるとは思えない。が、地表の人々が監視されているのかどうかは、問題にはならない。いつでも監視され得ること・高みから覗き得ることが問題だ。スカイツリー並みの巨大構築物を建てた人々がパノプティコンのことを知らないとは思えないから、案外、電波塔ついでにパノプティコン的な「まなざされているかもしれない感覚と、それによる人々の行動の変容」をちょっとぐらいは期待していたのではないか、などと深読みしたくなってしまう。少なくとも私のような人間には、いつでもどこでもスカイツリーが顔を覗かせるあの一帯にいると、背筋を伸ばさなければならないような気分が沸いてくる。
 
 

ほかのタワーと比較してみる

 
しようもない話ついでに、他のタワーについても少しだけ。
 

 
京都の南側からは京都タワーが見える場所が多い。とはいえ、京都タワーからパノプティコンみを感じたことはほとんど無い。「京都駅の近くの巨大なローソク」と思い込んでしまっているからかもしれない。京都タワーだって、けっこう南のほうからでも見えるものなのだけど。
 

 
それ以上にたいしたことがないのが東京タワーで、増上寺や芝公園ではともかく、ちょっと遠くに離れるとたちまちビルの谷間に埋もれてしまう。昭和の観光名所として、訪れ甲斐のあるスポットではあるのだけど、地面にへばりつく民衆を監視しちゃうぞって迫力はない。
 

 
それから台北101観景台。
このタワーもかなり遠くから見えて、あちこちの路地からニョキニョキと姿をみせる。でも、周囲にビルが乱立しているせいか、東京スカイツリーに比べればパノプティコンみが少ない。
 
こうして比較してみると、東京スカイツリーのパノプティコンみが頭一つ抜けているので、見張られている感覚を満喫(?)したい人は、台東区や墨田区で街歩きするといいんじゃないかと思います。
 
 

『「推し」で心はみたされる?』についてのアジコさんへの手紙

 
 
orangestar2.hatenadiary.com
 
アジコさんこんにちは。
このたびは『「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド』をお読みいただき、ありがとうございました。
 
ブログの文章、拝見しました。
読み、アジコさんが慣れ親しんでいる「推し」や「推し活」のニュアンスと私が想定する「推し」や「推し活」のニュアンスの違いなど、色々なことがわかって大変面白かったです。そうした相違は私とアジコさんの間にある、人間や社会を見つめる視線の違い・価値観の違い・人生観の違いを反映しているものかもしれません。その違いを噛みしめながらも、共通する考えもあると感じました。
 
 

アジコさんのおっしゃる「ハレのものとしての推し」と「ケーキのようなものとしての推し」

 
アジコさんの「推し」のなかで重要で、それ自体、キー概念になっていて面白いと思ったのは「ハレのものとしての推し」と「ケーキのようなものとしての推し」です。
 

自分にとっての『推し』というものの取り扱いについて。自分にとって推しというものは『特別な物、ハレのモノ』と認識されています。『ハレのモノ』というのは、日常の辛さやマイナス、どうしようもない辛さをリセット、および忘れさせてくれるためのもので、けして日常使いするものではないと思うのです。そういうことをしていると、いつか日常の澱がたまって泥になってしまう、そんな風に思います。
(中略)
そもそも、なぜ、人生において『ハレのモノ』が必要なのか。
でも、だからこそ、人生において『ハレのモノ』は必要なのです。ハレのものは、血を吐きながら続けるマラソンの給水ポイントであり、水泳の息継ぎです。辛い日常のよすがであり、希望であり、今日は辛くても次の『ハレのモノ』まで頑張ろうと思って毎日を暮らしていくためのエネルギー源です。滅多にないし、得難いものであるからこそ価値がある。それが『ハレのモノ』です。

このくだりは、「ハレのとしての推し」だけでなく、ハレそのものの必要性の説明にもなっています。カーニバル・お祭り・ライブ・普段は会えない人とのオフ会、等々もハレに相当しそうですね。「推し」に限らず、ハレの日に体験する諸々は本来辛いものであるはずの人生に息継ぎを与えるでしょう。
 
その少し後にアジコさんは、「ケーキのような推し」についても述べています。これも興味深かったので引用します。

『パンがなければケーキを食べればいいのに(実際にパンはなく、但しケーキはふんだんに売るほどある)』ということを言っている本だと思いました。社会の変化が起こり、今までの普通にあったナルシシズムを成長させてくれるような環境(パン)はもう身近にない。だから、ケーキ(推し)を食べて、栄養としていこう、という提案をしているように思います。ただ、ケーキは、パン(かつてのような濃密な社会)とくらべて、成長に必要な要素(適切な対象に対しての幻滅など)が全て詰まっているわけではない、だから、自分で工夫して、適切に学び取っていかないといけない。というようなことだと思いました。

パンがなければケーキをお食べ。
拙著『「推し」で心はみたされる?』で記したように、ナルシシズムの充足と成長にかかわる人間関係 (ナルシシズムに関連した言葉でいえば、お互いが自己対象として体験されるような人間関係) は希薄になってしまいました。コフートは著書『自己の修復』のなかで、社会は自己対象として体験される人間関係が過剰だった時代から過小な時代に変化した、それは家庭の構造や社会の構造の変化による、と述べました。他方、ここでいうケーキのような「推し」、ひいてはケーキのような人間関係やそれに類する体験は増えていると私は本のなかで書きました。
 
つまりSNSの向こう側のインフルエンサーを推す体験・商業化されたタレントやグループを推す体験・二次元のキャラクターを推す体験、などですね。従来の人間関係と比べて、それらは純度の高い推し体験になりやすく、と同時に推したい気持ちが裏切られた時にいきなり全否定になってしまいやすい*1、そのような人間関係です。そうした「推し」純度の高いさまは、確かに、ケーキに比喩できると思います。ケーキは見栄えが良く、甘くておいしく、精錬された砂糖をふんだんに使っていて、楽しませてくれる。辛い人生の息継ぎにもなりやすいでしょう。「推し」に関して好き嫌いのうるさい人でもケーキのような「推し」なら摂取できる、なんてこともあるかもしれません。
 
でも、ケーキだけではカロリーは取れても栄養が偏って成長しづらいのに似て、そういったいまどきの「ケーキのような推し」体験だけではナルシシズムの成長は期待できません。「パンや家庭料理に相当する推し」、コフートや拙著に引き寄せて言えば「パンや家庭料理に相当する自己対象体験」がなければナルシシズムの成長は期待しがたいのです。2020年代はネットメディアを介したコミュニケーションや自己対象体験の割合が20世紀以前よりずっと多く、「ケーキのような推し」に相当する自己対象体験に耽溺するのが簡単な時代です。そうした時代のなかでどのように血肉になるような「推し」体験を積み重ねてナルシシズムの成長を図り、ひいては人間関係をつくっていくのかを書いたのが『「推し」で心はみたされる?』の重要なセールスポイントになっているかと思います。
 
で、アジコさんのおっしゃる「ハレとしての推し」と「ケーキのような推し」を私なりに翻案し考えるに、アジコさんのおっしゃる「推し」に含まれないけれども私が想定する「推し」に含まれる部分の「推し」が、たぶん肝心ってことになるんですよね──少なくともナルシシズムの成長や人間関係の充実などには。
 
アジコさんが想定せず私が想定する「推し」とは、「ケとしての推し」や「ケーキよりも家庭料理に比喩すべき推し」です。
 
それは従来型の人間関係だったり、親子の範疇的な関係だったりするものです。ケーキに比べて純度が低く、雑穀のように消化に負荷が伴い、飾り気も少ないような、そんな「推し」、ひいては自己対象体験。それが必要なんです。アジコさんは、"「ハレとしての推し」を日常使いしていると、いつか日常の澱がたまって泥になってしまう"、と述べていますが、これは私も同感です。ハレの推し・ハレの自己対象に頼りきりでケの推し・ケの自己対象がおざなりでは、人の間で生きるのはとても大変なんです。完全にひきこもってインターネット上のインフルエンサーや二次元キャラクターだけ推している状態の人が辛くなってくるのもそう。それだけでは日常の澱をうまく処理できないし、ナルシシズムの成長が止まるだけでなく、ナルシシズムの歯車がおかしくなって、尊大と自己卑下の谷間に落ちて、李徴の虎みたいな境遇が避けられないでしょう。
 
上掲リンク先でアジコさんが定義する「ハレとしての推し」や「ケーキのような推し」は、私が書籍のなかで書いている「推し」と定義は違っています。が、それらだけではうまく回らないとご指摘されている点も含めて、結論は案外近いのではないかと思いました。純度の高い理想化自己対象として体験可能な、メディアの向こう側の「推し」やキラキラし過ぎている「推し」ばかり推し活していると、人間はうまく回らなくなる。それはそうだと思います。
 
 

『「推し」で心はみたされる?』は自己啓発本か 

 
ああ、それからアジコさんのおっしゃるこれ。
 

そして、ちょっと意地の悪い要約をすると、
「推しという感情を使って、人に迷惑をかけずに効率よく生きていきましょう、社会適応をして、自分の利益や成長を最大化しましょう」
という本です。自己啓発本ぽくもあります。

アジコさんはこれを意地の悪い要約とおっしゃいましたが、私は自己啓発本ととらえてくださって感謝しています。
 
『「推し」で心はみたされる?』は正真正銘の自己啓発本です。そうでない本を作った覚えはありません。
 
00年代のはてなダイアリー周辺では、なにやら自己啓発本を下にみる傾向があったかもしれず、アジコさんは今でも下にみているのかもしれません。私も、あまり良い風に思っていなかった時期がありました。でも、自己啓発本には自己啓発本の役割があり、社会のなかの居場所があります。ニーズもあるでしょうし、得意なこともあるでしょう。
 
「推し」や「いいね」も含めた自己対象体験を、2020年代におけるナルシシズムの成長や社会適応に生かすための本を作りたい──そのような本をつくるにあたってコフートは他の精神病理学の重たい精神分析の考えやDSM的な精神医学よりずっと向いていると私は考えてきました。コフートの理論は病的なナルシシズムをどうこうするにはそれほど向いていなくて、むしろ、ある程度健康といって良い状態にある人のナルシシズムについて考えるのに適した理論です。書籍のなかでもお断りしておきましたが、たとえば、うつ病や双極症や統合失調症といった典型的な精神疾患の病期にある状態の人のお役に立つとは思えませんし、ましてや、治療効果があるとは夢にも思っていません。
 
アジコさんの文章のなかには、"『「推し」で心はみたされる?』は人間的な余裕の乏しい人には向いていない"ってくだりがありましたが、これもそのとおりだと思います。マズローとそれに関連した書籍と同じく、コフートとそれに関連した書籍も、状態があまりにも悪い人には向いていません。それを承知のうえで私は『「推し」で心はみたされる?』を書きました。ですから、あの本を作成するにあたって想定していた中核的読者はメンタルヘルスに障害を呈している人ではなく、これからビジネスマンになっていく人・これから上司になっていく人・これから家庭を持っていく人・現在の手札をもっと豊かにしていきたい人です。そういう本を作るなら、コフートだと思うんです。コフートが診ていたクライアントが、自費でカウンセリングが受けられるような境地の人だったことは、そのままコフートの理論にも、コフートが得意とする領域にも反映されているでしょう。
 

 
ですから意地の悪い要約も何も、この本は自己啓発本であって、病者への処方箋ではないと私は認識しています。実際、編集者さんにも私の考えはある程度汲み取っていただき、上掲のように表紙がポップな感じなのもそれを反映してのものだと思います。
 
 

人生は、苦か、苦でしかないか

 
さて、アジコさんは冒頭リンク先で「人生は苦である」といったことを盛んに述べてらっしゃいました。私は日本の在家の大乗仏教徒のなので、生老病死を苦とみなす考えには親しんでいるつもりです。アジコさんはそうではないと思っていたので、意外だな、などと思ってしまいました。
 
さておき、人間が社会適応していくためには「ケのものとしての推し」も含めた、地べたをはいずるような人間関係や自己対象体験が必要で、そうやって人は育ち、人に育てられ、生きていくものでしょう。たとえば丁稚奉公する小僧さんがサバイブしていくにあたっては、承認欲求だけで心をみたすでなく、奉公先や番頭さんを「ケのものとしての推し」にできていないとやってられなかったでしょう。丁稚奉公の時代が遠ざかった2020年代でも、そういう「ケのものとしての推し」を持つこと・持てることは日常を支え、技能習得のうえでも重要です*2
 
が、それはそれとして、ままならない日常を補填するものとして「ハレのものとしての推し」も必要だったのは確かにそうだと思います。昔だったらそれは、収穫祭だったり、お伊勢参りだったり、旅芸人の芝居だったりしたでしょう。「ケーキのような推し」もそうです。昔はSNSも二次元キャラクターもなかったから「ケーキのような推し」に相当するものは限られていました。でも、たとえばマリア様や観音様などはその対象に相当したのではなかったでしょうか。
 
そうした過去を振り返れば、「ハレとしての推し」や「ケーキのような推し」にも歴史があり、社会のなかで居場所があったはずです。いや、きわめて重要だったと言えそうです。推しの対象としての神仏のいいところは、現実には救いの見出せない人でも推せるところです。いや、危険な宗教が危険であるのも、このためなのですが。拙著でも、苦しい時に二次元キャラクターなどへの推しは役に立つし、それ否定する向きには賛同できない、みたいなことを書きました。必要な時、必要な人のもとに届く「推し」って、確かに尊いですよね。そして二次元や神仏のいいところは、どれだけ推してもそれを受け止めてくれることです。生身の人間ではとうてい無理なことも、神仏や二次元なら黙って聞いてくださる(願いかなえてくださるかはまた別)。
 
人生は苦、でしょうか。私は苦だと答えます。では、苦でしかないのか? 思案のしどころです。私は有性生殖生物の末裔として生を享け、今を生きています。人生は苦ですが、それだけに「ハレとしての推し」や「ケーキのような推し」は甘美です。と同時に、私には「ケのものとしての推し」や「家庭料理的な推し」も滋味深いと感じています。職場や学校や日常生活の領域にいる人と人とが敬意を持ちあったり、お互いに一目置きあったりするのは幸福なことではありませんか。そうしたものが皆無で、「ハレとしての推し」や「ケーキのような推し」に依存するしかない境地なら、生きることの辛さに拍車がかかるだろうとは思います。でも、その限りでないなら人生にはほどほどに楽しい瞬間やほどほどに敬意を交換できる瞬間もあり、それらを縫い合わせて人生という織物をなしていくのもまた人間だ、と私は思っています。これは理想論でしかないのかもしれませんが、その理想に近づきたいとあがきながら、年を取っていきたいものですね。
 
私の祖父は浄土真宗の僧職でした。最後にしっかりと交わせた会話のなかで祖父は、「それでも人生とは苦にほかならない」と述べました。それから間もなく、祖父は病院で点滴につながれなければならなくなり、亡くなりました。祖父が言い残したことは正しかったと思いますし、私の末路も祖父と同じもの、またはそれより悲惨なものでしょう。それでも私は生きています。生きる限り私は生きていきます。だって生きているんですもの。『新世紀エヴァンゲリオン』のなかで碇ユイもそう言っていたように思います。生きられるだけ、生きていたいですね。だって生きているんですもの。どうせなら、いろんな人に推したり推されたりしながら生きられたらとも思います。『「推し」で心はみたされる?』は、そういう私の年来の願いと実践が反映された本でもあります。渡世のための自己啓発本です。確かにそれは、アジコさんの通奏低音とは噛み合わないものかもしれない。
 
気づいたら自著の宣伝になっていました。
浅ましいことですね。
でも、ちょっとぐらい浅ましくても人間関係をうまくやっていきたい人向けの本だとも思います。もっとうまく世渡りしたいって気持ちに燃えている人には、特におすすめです。
 
 

 
阿佐ヶ谷ロフトで2月25日(日)におしゃべりすることになりました。よろしければお出かけください。
 
 

*1:または、関係修復の機序が働きにくく、推す-推されるの関係が一方向的になりがちな

*2:アジコさんは、リンク先で「他者に対して敬意をもって生きるということは実はすごく難しいことです。そして、誰かから、それを与えられるというのも、また、得難いことであります。」と書いています。これは誰でも・いつの時代もそうなのですか? 少なくとも一時代はある程度そうだったのかもしれませんね。20世紀後半から21世紀初頭にかけて、日本では所属欲求や理想化自己対象ベースの心理的充足が軽視されていました。「ケのものとしての推し」が思いっきり軽視された一時代だったと言えますし、それに適した人間関係や社会関係も軽視されていました。アジコさんに限らず、インターネットの普及期にテキストサイトやブログをやっていた人々も、そういうものを軽視していたかもしれませんね。でも、コフート以前の時代はそうではなかったのではないでしょうか。20世紀後半から21世紀初頭の、個人主義的で承認欲求や鏡映自己対象ベースの心理的充足にものすごく偏っていた一時代は、私には異様な時代とうつりました。それがロスジェネ世代の歯車を狂わせた一面もあったのではありませんか? 私は、当時そのような風潮を牽引していた人たちにもフォロワーたちにも違和感をおぼえていましたし、そうした風潮が「推し」ブームに象徴されるように変化してきていることを、嬉しく思っています。

教養としての『ダンジョンズアンドドラゴンズ(D&D)』

 
 
 

はじめに

 

 
アニメ『ダンジョン飯』が人気ですね。
 
ダンジョンで飯を食うという非常識がグルメにもギャグにもなっていて、いちおうシリアスな話も進行していく『ダンジョン飯』。今日のお題は、そのインスパイア元っぽいRPG『ウィザードリィ』のさらにご先祖様の『ダンジョンズアンドドラゴンズ』(以下『D&D』と表記)です。
 
今、『D&D』の雰囲気をいちばん簡単・忠実に味わえる作品といえば『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』でしょうか。
  
『アウトローたちの誇り』は、種族も性格も技能も違うキャラクターたちが喧嘩したり協力しながら旅を続ける物語ですが、TRPGゲームとしての『ダンジョンズアンドドラゴンズ』らしさがあちこちに見受けられます。こうした『D&D』の雰囲気は『ウィザードリィ』に限らず、孫やひ孫や玄孫に相当するような作品にまで受け継がれています。
  
たとえば『ファイナルファンタジー』シリーズの魔法体系や魔法システム、モンスターの名称なども、相当『D&D』から輸入していますし、オープンワールドRPGの名作『Skyrim』をプレイした時も、『D&D』の世界が具現化したみたいだったので驚きました。web小説に登場する"異世界"にしても、その先祖を遡っていけば『D&D』にぶち当たるのは避けられません。
 
そもそも『D&D』は『指輪物語』などと並んで今日のRPGゲーム、ひいてはRPG風作品のご先祖様みたいな立ち位置にあるので、影響を受けていないと言える作品のほうが少ないかもしれません。だとしたら、ゲームカルチャーやRPGゲームやファンタジー小説を楽しむにあたって、『D&D』は教養になる一面があったりしないでしょうか。
 
 

モノ書きは『D&D』をしばしば知っている

 
「教養としての『D&D』」と言う時、私は2つの可能性を思い描きます。
 
1.ひとつはD&DをとおしてゲームやRPG風の物語を楽しむ際に元ネタを思い出したりしやすいこと。なにしろRPGやいわゆるファンタジー風の世界の根っこのほうに位置しているので、『D&D』を知っていることで作中の魔法や武器やモンスターや職業にニヤリとできる場面は増えるかと思います。漫画もアニメも大人気の『葬送のフリーレン』にもそういう場面はあって、たとえば一級魔法使い試験編に登場するユーベルは、『D&D』のスペルキャスターのなかで言えばウィザードではなくソーサラーですよね。
 
察するに、ゲームやRPGやRPG風の作品を創っている人は『D&D』やその子孫たちのことをよく知っているのではないでしょうか。実際、2023年の奈須きのこさんのインタビューにも「『D&D』をプレイしていた」という記述があったりしますし、web小説を読んでいても「この著者、『D&D』を思い出しながら書いてるな」と思える瞬間はしばしばあったりします。そういうことを知っていることでゲームや漫画やアニメや小説を楽しむ足しになる一面はあると思います。
 
 
2.もうひとつは、会話や文中に直接登場する『D&D』についてのくだりを理解できることです。
 
たとえば『万物の黎明』『ブルシット・ジョブ』などの書籍を記したグレーバーという学者は、著書のなかで『D&D』について熱く語っています(以下の引用文はそんなに真面目に読まなくてもいいと思います)

 熱烈なファンいうところのD&D(ダンジョンズ&ドラゴンズの略称)は、あるレベルでは、想像しうるかぎりでもっとも自由な形式のゲームである。というのも、キャラクターたちは、ダンジョンマスターの創作した制約、すなわち、書物、地図、テーブル、そして、町、城、ダンジョンズ、そして自然領域などのようなプリセットされた空間の内部で、いさいの自由を許されているからである。多くの点で、それは実際にまったくアナーキーである。というのも、軍隊に命令をくだす古典的な戦争ゲームとは異なり、そこにみられるのは、アナキストが「アフィニティ・グループ」と呼ぶもの、すなわち、能力を補い合って(ファイター[戦士]、クレリック[僧侶、聖職者]、ウィザード[魔法使い]、ローグ[盗賊]などなど)共通の目的にむかって協働するが、はっきりとした命令の連鎖はない、個人からなる一団であるからである。それゆえ、社会的諸関係は非人格的な官僚制的ヒエラルキーとは真っ向から対立しているのだ。しかしながら、別の意味では、D&Dは、反官僚制的ファンタジーの究極の官僚制化を表現してもいる。そこには、あらゆるもののカタログがある。たとえば、さまざまなタイプのモンスターがいて(ストーンジャイアンツ、アイスジャイアンツ、ファイアジャイアンツ……)、詳細な一覧表であらわされたパワー(殺すことの困難度を示す)と、ヒットポイントの平均数をそなえている。そして、人間の能力のタイプ(筋力、知力、判断力、敏捷力、耐久力……)、さまざまな能力のレベルに応じて利用可能な呪術のリスト(マジックミサイル、ファイアーボール、パスウォール……)、神々やデーモンたちのタイプ、さまざまな種類の防具や武器の効力、モラル上の属性までも(ひとは、秩序にして中立でありうるし、混沌にして中立でもありうる。あるいは、中立にして善でもありうるし、中立にして悪でもありうる。これらを組み合わせて、九つの基本的な道徳的性格が生成する)が存在している。書物は中世の動物寓話集や魔術の書を彷彿させる。しかしそれらも大部分が統計からなっている。すべての重要な特性は数に還元されうるのである。
『官僚制のユートピア』P268-269

グレーバー先生、熱くなりすぎて『D&D』を語っているのでしょうか。それとも自分の本を読んでくれる人なら『D&D』を知っているという前提で語っているのでしょうか。どちらにしても、『D&D』を知っていたほうが『官僚制のユートピア』のこのパートは読みやすいでしょう。
 
 
小説からも『D&D』に出会う瞬間をひとつ。
映画化された近未来SF小説『火星の人』には、水不足に悩む主人公が『D&D』の魔法「クリエイト・ウォーター」について思い出してグチグチ言う場面が登場します。

 ぼくは高校時代、ずいぶんダンジョンズ&ドラゴンズをやった。(この植物学者/メカニカル・エンジニアがちょっとオタクの高校生だったとは思わなかったかもしれないが、じつはそうでした。)キャラクターはクレリックで、使える魔法のなかに"水をつくる"というのがあった。最初からずっとアホくさい魔法だと思っていたから、一度も使わなかった。あーあ、いま現実の人生でそれができるなら、なにをさしだしても惜しくはないのに。

 
『官僚制のユートピア』や『火星の人』は『D&D』のことを知らなくても読めないわけではありません。でも、知っていればニヤリとできるし、著者の伝えたいことがよりよくわかるでしょう。本や小説を読みやすくする・著者の主張の解像度を高めるという点でも、『D&D』が教養として機能する場面はあるように思います。
 
 

今、『D&D』を知る・プレイするのは大変だが

 
いまどきのゲームや小説やアニメを観る際にも、それ以外に際しても教養として役立つかもしれない『D&D』ですが、どうやって『D&D』について知れば良いでしょうか。
 
残念ながら、『D&D』そのものをプレイするとなると、結構大変です(追記:やりやすくなっているとご指摘いただきました)。
 

 
これは我が家にある『D&D』のプレイヤーズハンドブックですが、なかなか大判で分厚く、値段も安くありません。第3.5版、というバージョンが示すように『D&D』は繰り返しバージョンアップを遂げていて、その内容も微妙に違っています。……ということは、『D&D』を友達とプレイしようと思ったら、全員が同じバージョンの『D&D』を持っていて、知っていなければなりません*1。そのうえ現行の『D&D』は20世紀のバージョンに比べてルールが厳格で、適当に遊んでみるにはあまり向いていません(注:いろいろな方からの情報によれば、最新のバージョンは適当に遊んでみるのに向いているのだそうです。情報をくださった方、ありがとうございました)。
 
そのうえ『D&D』そのものについての知識やノウハウにアクセスしやすい時代は過ぎてしまいました。
 
1980~90年代にかけての日本では、『D&D』も含めたテーブルトークRPGが流行し、プレイしやすい環境ができあがっていました。田舎の小中学校ですら『D&D』を教わるチャンスがあったぐらいです。そうした流行のなかで、『D&D』についてのガイドブックや『D&D』に基づいて描かれたファンタジー小説なども目に留まりやすかったのでした。その例が、『D&Dがよくわかる本』*2や『アイテムコレクション』、『ドラゴンランス戦記』などです。
 

 
『D&D』に関連したガイドブックや物語は『D&D』本体よりもずっと安価だったので、直接プレイする前に雰囲気をイメージするには最適でした。ですが、テーブルトークRPGの盛期を過ぎた今では、『D&D』そのものにアクセスしたくなる機会は当時に比べて少ないでしょう。
 
『D&D』の血が流れる子孫たちが大繁栄している一方で、源流に位置する『D&D』そのものを体験するためには、ちょっと頑張らなければならない時代なのだと私は考えています。
 
そのかわりと言ってはなんですが、『D&D』の血潮を感じられる作品へのアクセスは悪くない、といえます。
  
そうしたなかで一番お勧めなのは、なんといっても『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』です。誰が見ても楽しめるように作られているし、それでいて剣と魔法と知恵と勇気と正義と小悪党と大悪党が活躍する『D&D』の世界にとても忠実です。
 
完全には『D&D』に忠実でなく、固有の要素を含んでいることを承知なら、『ダンジョン飯』だって悪くないと思います。『ダンジョン飯』は『D&D』の直系子孫である『ウィザードリィ』っぽさも濃厚な作品で、どこまで『D&D』っぽくてでどこから『ウィザードリィ』っぽいか判断に迷う感じですが、その『ウィザードリィ』自体がもともと『D&D』の血が濃いので、あるていど参考にはなると思います。『ダンジョン飯』の世界観が気に入った人が『アウトローたちの誇り』を見れば、なんらか、『D&D』について掴めるものがあるんじゃないでしょうか。
 
『D&D』を「教養として履修しなければならない」なんてことは決してありませんが、触れておくと色々と理解がはかどったり他作品が一層楽しめたりすることはきっとあると思うので、『ダンジョン飯』が楽しかった人には『アウトローたちの誇り』をご覧になっていただきたいし、『D&D』のことも記憶にとどめて欲しい、と思ったりするのでこれを書きました。
 
 

*1:加えて「プレイヤー同士で集まらなければならない」という大きな問題がありますが、これはwebの普及によって緩和されました

*2:ちゃんと新しい版に合わせたバージョンが後日発売されていたことを今知りました

『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造』が出版されます

 
 
 

 
 
先日、大和書房さんから『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』が発売されたばかりですが、今度は早川書房さんから『
人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』という書籍を発売していただくことになりました。
 
私がつくる書籍には2つのタイプがあって、ひとつは、現代人が心理的にも社会的にもうまく適応していくためのメソッドに重心を置いたもので、1月に発売された『「推し」で心はみたされる?』はその典型です。もうひとつは、現代社会という巨大なシステムがどんな構造や歴史的経緯から成り立っていて、私たちにどんな課題が課せられ、どういった現代特有の生きづらさを生み出しているのかを考えるタイプの書籍で、2月21日発売予定の『人間はどこまで家畜か』は後者のタイプにあたります。
 
同じような書籍として、2020年にイーストプレスさんから『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を出版していただき、ありがたいことに現在まで続くロングセラーとなりました。しかしながら、私としては幾つかの点で書き足りない部分があったと自覚していました。というのも、『健康的で清潔で、道徳的な~』は現状の記述と考察にとどまり、未来についての考察が欠けていたように思われるからです。それから同書には生物学的知見にまつわる記述が不足していました。
 
今回はそうではありません。
進化生物学で語られるところの「家畜化症候群」、さらに、進化の過程で犬やネコや人間に起こってきたとされる「自己家畜化」という進化生物学上のトピックをキーワードに、加速しつづける社会と加速しきれない私たち自身の生物学的なメカニズムについてまとめたいと思い、かねがね準備してきました。準備が可能になったのは2010年代に相次いで翻訳された自己家畜化についての書籍たちのおかげだったり、スティーブン・ピンカーやジョセフ・ヘンリックといった進化心理学のビッグネームのおかげだったりします。それと、私の関心領域が雑食的だからってのもあるでしょう。私よりも精神医学・進化心理学・人文社会科学のそれぞれに詳しい人間は幾らでもいるでしょうが、それら三つの全部に私と同じぐらい愛情を傾けている人は日本にはあまりいないように思います。こういっては何ですが、『人間はどこまで家畜か』のような書籍を書ける人間は日本には私以外にいないのではないでしょうか。
 
私は精神医療の現場をとおして、加速しつづける社会についていけなくなっている人、不適応を呈している人にたくさん出会ってきました。そうした今どきの不適応として発達障害(神経発達症)を連想する人も多いでしょうけど、実際にはそれだけではないですよね? たとえば種々の不安症などもそうで、地下鉄にどうしても乗れない・大勢の人がいる場所で動悸がしてしまう等々は東京のような都市空間で生活するうえでハンディだと言えます。ですが、こうした症状が精神疾患として問題視されなければならないのは、当人の生物学的な性質のためだけでなく、地下鉄が張り巡らされたり大勢の人が集まったりしている現代の都市空間、現代の文化や環境がこのようにできあがっているためでもあります。
 
2024年現在、その文化や環境は今もなお変わり続けています──もっと能率的な方向へ・もっと生産的な方向へ・もっとホワイトでコンプライアンスにかなった方向へ。資本主義や個人主義や社会契約や功利主義に妥当する方向に変わり続けている、とも言えるでしょう。この本の前半では、人間が進化の過程でみずから起こしてきた自己家畜化という(生物学的な)変化・進化について解説しますし、それこそが人間を地球の覇者たらしめた生物学的な鍵ではあるでしょう。とはいえ、自己家畜化を遂げた人間といえども、誰もが・どんな文化や環境にも適応できるわけではありません。文化や環境の変化がもっともっと加速していくとしたら、より多くの・より新しい不適応が私たちを待ち受け、将来の私たちを疎外するのではないでしょうか。
 
過去に起こった自己家畜化という生物学的な進化と、ますます加速していく文化や環境を見比べた時、どんな未来が見えてくるでしょうか。そのうえで私たちは、どんな未来を歓迎すべきでどんな未来を回避すべきでしょうか?
 
もとより簡単に結論の出せる問題ではありません。しかしまずは現状をよく認識したうえで未来について考え、語ってみなければ始まりません。そうした議論のたたき台になる本を作りたいと願って私はこの本を作りました。以下に、各章のタイトルを紹介します。
 
 
はじめに
序章:動物としての人間
第一章:自己家畜化とは何か──進化生物学の最前線
第二章:私たちはいつまで野蛮で、いつから文明的なのか──自己家畜化の歴史
第三章:内面化される家畜精神──人生はコスパか?
第四章:「家畜」になれない者たち
第五章:これからの生、これからの家畜人
あとがき──人間の未来を思う、未来を取り戻す
※最新の情報に貼り換えました
 
 
最後に。この本の優劣や可否についてはお読みになった方が決めることで、私は何とも言えません。ですがこの本の参考文献として登場する進化生物学・進化心理学・精神医学・社会学・歴史学・倫理学etcの書籍はどれもエキサイティングで、読むに値するものだったと思っています。この本は新書、それもハヤカワ新書というフォーマットから発売されるわけですから、より詳しい書籍に読者の方を案内するのも役割の一部だと私は考えています。この本をお読みになった方が、進化生物学や進化心理学や精神医学、さらに社会学や歴史学をはじめとする人文社会科学領域に興味を持ってくださったらなお嬉しいです。そのうえで是非、未来についてのあなたの意見、あなたの展望を語ってみていただけたらと願います。