シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

A.口ずさむようにブログが書けない B.ブログになら書けることがある

 
 
【A面】
 
「ブログは何を書いたって構わない、自分だけのスペースだ」みたいな言葉を信じていたのに、きっと今の私はそうなっていないし、そういう自由なブログを信念にしていたブロガーたちは去ってしまった。口ずさむようにブログを書くことなんて、もうできない。
 
 

何者かになると口ずさむようにブログが書けなくなる

 
口ずさむようにブログが書けなくなったのは、年を取ったせい、人生の残り時間が意識されるせいもある。ブログを口ずさむ時間があったら、人生の残り時間を費やすに値すること・タイパ的に有意味とわかっているものに時間を費やしたほうがいい、などと考えている自分がいる。ほんとうは、それほど単純ではない。たとえば商業企画の原稿やそのための文献読みなどに時間を振り分け過ぎると、それ自体、作業効率を低下させる。ときには口ずさむように文章を書く時間をもうけたほうが作業効率は上がるし、案外、そういう隙間の時間から面白いアイデアが飛び出してきたりするからだ。
 
加えて、ブログが書けなくなった理由のひとつには、いわば、私が何者かになってしまったから、というのもある。
 

何者かになりたい

何者かになりたい

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人はときに、何者かになりたいと願う。そうはっきり願望していない人でさえ、有望なキャリア、収入や影響力の期待できるポジション、好ましい人間関係、自分の人生を体現している趣味生活といったかたちで、自分自身についてなんらかのビジョンを思い浮かべるものである。まだ若く、可能性にあふれている年頃の人は、そうやって前を向き、上を向き、今とは違った自分に向かって歩いていこうとする。なかには複数の可能性を維持しながらソロリソロリと人生の匍匐前進をやってのける人もいる。そういう人のブログやツイッターや動画には、固有のエネルギーがあり、まぶしく思う。
 
じゃあ、今の私はどうかといったら、そんなエネルギーもまぶしさもとうの昔に枯れ果てて。
 
私の人生・私のなすべきこと、そういったことは概ね決まってしまった。収入や影響力の上限もみえているだろう。いやいや、隣の庭を覗くようなことはグチグチ言うまい。ともあれ私は私としてしなければならないことが確定してしまった。私はトライアンドエラーなどしていられなくなってしまったし、既定路線を大きく逸脱することも難しくなった。私は私のレールを敷いてしまったし、そのレールを進んでいくことができる。自分で自分のレールを敷けたのはかけがえのないことだが、それだけに、自分で敷いたレールの外にはみ出ることは難しくなってしまった。賽はもう、投げられてしまったのだ。
 
「そのトピックスは自分の戦場じゃない。」
 
ネット上で何かを読み、ブログやツイッターに何か書いてやろうと思った直後に思いとどまる時の私の決まり文句がそれだ。放言や問題発言を避ける以上に、自分にとって重要性の低い話題、関心のうすい話題で時間や精神力を消耗しないための処世術。そのかわり口ずさむように・口笛を吹くようにブログを書くことは難しくなってしまった。
 
インターネット上で、いわば口ずさんだり口笛を吹いたりしているうちに何者かになった人たちが、自分の戦場に専心していく過程を何度も見てきた。それらも処世術として利口で、効率的だ。しかしブログを書く者、ツイッターをなす者としてみるなら、自分の戦場にひきこもってしまい、声域が狭くなってしまったようにもみえる。しつこく繰り返すが、それは処世術として合理的なものだ。だが、そうやっていわば「インターネットを仕事化」していくと、自分の戦場に即したステートメントばかりさえずるようになってしまって、口笛を吹くようにブログやツイッターに投稿できなくなってしまうだろう。
 
ま、そんなものでしょ、と言う人もいるだろう。特にはじめからインターネットが仕事化していた人にとって、仕事の投稿しかしないのは当たり前ってのはあるかもしれない。インターネットはインフラなんだから、インターネットで遊ぶとは、水道の蛇口をひねって水遊びをする悪ガキのようなもの、とも指摘されるかもしれない。まあでも、そうやってインターネットを遊んでいた時代、口ずさむようにブログを書き、酔っ払いの歌のようにツイッターを書いていた時代があったのでした。このブログの文章じたい、久しぶりに口ずさむようにブログを書いてみたものだ。営利のためにインターネットをやらなければならない、目的のために人生を遂行しなければならないという、巨大な歯車に逆らってみたい気持ちになったので。
 
 
【B面】
 
営利だの人生のレールだのといった肩ひじ貼った視点でブログについて考えると、【A面】で書いたような窮屈さに辿りついてしまう。けれども書くという行為の自由さで言ったら、やっぱりブログは捨てがたくて、少なくともこの『シロクマの屑籠』は自分にとってかけがえのないアウトプットの場だという気持ちもある。
 
こうして自分のブログを書き、ときどき自分の書いたアーカイブを読み返して思うこと。それは、「ブログでなければ表現できないことは確かにある」ということだ。
 
たぶんnoteでしか表現できないこともあり、ツイッターでしか表現できないこともあり、同様に、このはてなブログでしか表現できないこともあるのだろう、と思う。「メディアとはメッセージである」とはマクルーハンの言葉だが、そういう意味では、ブログとはメッセージであり、ブログというハコでなければ表現しづらいことがあり、ブログというハコでこそ表現しやすいことがあるはずだ。
 
現在の私には、商業媒体で何かを書かせていただく機会もあり、それはそれで貴重だ。いまどきは、グルリと回ってブログやツイッターよりも商業媒体で書かせていただくほうがかえって自由、なんて側面もあり、一番尖ったことを深堀りするなら商業媒体で書かせていただく機会が最高だと思う。しかも商業媒体の射程距離はなかなか長く、はるか遠くの未知の読者さんの手許にリーチすることだってある。それら全部をひっくるめて私は「商業媒体って面白い」と今は思っていて、機会がいただける限り挑戦したいなと願っている。
 
じゃあ、そうした商業媒体でこのブログに書いてあるようなことが書けるか・表現できるかといったら……Noだ。
断然、Noだといえる。
やっぱりブログじゃなきゃ書けないことはたくさんある。たとえばアニメの感想、ゲームの感想、日常の細々とした所感、そういったものをアーカイブ化しておく場所として、ブログはかけがえのないハコだ。
 
ブログはハコに喩えられるような媒体であり、単なるチラシの裏ではない点が私には重要だ。チラシの裏に書くのと誰かが読むかもしれないと前提して書くのでは、同じ感想文でもモチベーションが変わり、書き方が変わる。実は、私は(紙の)チラシの裏にもいろんなことを書き残しているのだけど、自分で後で読み返したくなる感想がちゃんと書けるのはブログのほうだ。私はブログに書くことで読者のかたに何かを届けると同時に、未来の私にアーカイブを手渡すことにも成功している。私はお調子者のナルシストなので、ゲーセンでハイスコアを狙っている時も、ここでこうしてブログを書いている時も、誰かが見ていてくれている時のほうが調子が出るらしい。ほんの数人、いや、誰か一人でも私のアウトプットを受け取ってくれる人がいる限り、私はお調子者になってブログに興じることができるだろう。そしてブログに書いたアーカイブは誰も覗かないチラシの裏に書いたアーカイブより読みやすく、いつでも検索して取り出せる状態になる。
 
かつて、ブログに新規参入が相次いだ時代があり、やがてそうした人々が動画配信へと去っていった時代があった。現在はその動画配信でも「儲け」が出なくなっていると聞く。そうした現況において、遠くまで自分のステートメントを行き渡らせる手段としては、ブログは最適ではないかもしれない(しかし、今、遠くまで自分のステートメントを行き渡らせる手段って、インターネット上にどれだけあるものだろう?)。けれども射程距離が短くて構わず、比較的少人数でもいいから誰かがアウトプットを受け取ってくれる場所で書きたいと思った時、ブログは今でもちょうど良いハコで、ここでしか書けないことはまだあると感じる。
 
【A面】で書いたような諸問題はあるにせよ、ブログはやっぱりブログで、かけがえない個人用メディアだ。そしてこの『シロクマの屑籠』ははてなブログで記されていて、だから書けることがあり、だから伝えられることがまだある。これからも楽しんでいきたいと思う。
 
 

「リツイートしあうも他生の縁」

 
 
インターネットをとおして私はいったい何人と縁を結び、やがて別れていったろうか。
 
人生の半分以上を、インターネットと共に生きてきた。
 
いまどき、人生の半分以上がインターネットと共にあるなど珍しいことでもあるまい。が、四半世紀以上をインターネットと共に歩いてきた人は、いぜん少数派だろう。
 
手の甲に静脈が浮かびやすくなり、うるおいを失い、腱鞘炎になりやすい手でキーボードを叩きながら、過去に出会ってきた人たちのハンドルネームやアイコンを思い出す。あるいはオフ会で出会った記憶を。
 
パソコン通信や個人ウェブサイト時代に出会った人のなかには年上が多かった。彼らは昭和から平成初期の男性の振る舞いを身に付けていたり、古式ゆかしい「おたく」であったりした。古式ゆかしい「おたく」でも案外妻子持ちが多かった時代でもある。そうした年上のオタクから様々な古事や古典を教わったりもした。
 
テキストサイト時代に出会った人には同世代が多かった。まだ若く、社会的ポジションもアイデンティティも不確かな、けれども表現やプロダクツをとおして何かをやりたい人たちの集まっている場所の隅っこに私も加えてもらっていた。そうしたなか、素早く頭角をあらわす人、才能を輝かせる人もいた。人並みにそうした人たちを羨んだりリスペクトしたりしていた。
 
ブログの時代、特にはてなダイアリー周辺が「はてな村」などと呼ばれていた時代になって、ちょっと年下が増えてきたなと感じた。ここでもたくさんの出会いがあり、別れがあった。私も周囲も血気盛んで、稚気があり、当時のブログ界隈のコミュニケーション作法はそれらを正当化することこそあれ、妨げるものではなかった。それを不毛と呼ぶか、遠慮のないやりとりが可能だったと呼ぶかは人によるだろう。
 
それからSNSの時代がやって来て、そのSNSのコミュニケーションのルールや流行廃りも10年ぐらいの間に変わり続けた。SNSの時代になって以来、いったい何人と言葉をかわしたのか見当もつかない。お互いにリツイートをしあうぐらいの距離、同じような意見に共感をおぼえたような距離の人は100人や200人ではきかない。もう、顔もアイコンも覚えきれないほどの人と出会って、たぶん別れてきた。そうした出会いと別れのすべてを記憶することなど、もはや不可能だろう。
 
「袖振り合うも他生の縁」というが、「リツイートしあうも他生の縁」、だと思う。インターネットの縁の大半は、儚い。しかしそのリツイートがとりもつ程度の縁でも、出会いには相応の必然性があり、たかがリツイートといえどもコミュニケーションがあったのだろう。インターネットが無かった頃の出会いやコミュニケーションに比べて簡易で、安易で、はかないものだとしても、それも人の縁には違いない。リツイートをとおして私たちは気持ちを共有したり、なにごとかをコミュニケートしたり、ひとまとまりになったりする。そして次の瞬間、リツイートで繋がった者同士はもう別々のネットライフに立ち戻っていく。
 
 

もうしばらく、こうして人の間にいてみたい

 
そうした無数の出会いと別れを振り返ると気が遠くなってくる。なかには十~二十年以上にわたって交流が続いている人がいて、そうした人たちは私の思想や人格、人生に大きな影響を与えてきた。そこまでいかなくても、5年ほどインターネットを共有していればおのずと影響は受けているし、そういう人だけでも無数にいる。ありがたいことだ。
 
他方、それよりずっと多くの人と別れもしてきた。別れた人のなかには、直接のコミュニケーションこそしなくなったにせよ、あちこちの第一線で活躍している人もいて、活躍を耳にするたび嬉しく思う人もいる。かと思えば、いつしかアカウントもなかの人も行方が知れなくなった人、鬼籍に入ってしまった人もいる。何か言葉をかけたいと思いながら、結局別れ別れになってしまった人もいる。
 
縁というのは、人間には計り知れないところがあるから、私はそうした出会いと別れのひとつひとつがどれぐらい役立っているのか、どれぐらい害となってきたのかを判断できない。縁を利得というモノサシで考えすぎることには抵抗もある。それでも縁があったことだけは確かだ。その縁をとおして私がなんらか影響を受け、きっと相手のひともなんらか影響を受けた、そんな出来事が過去に積み重なったことだけは確かだ。縁をとおして人と人は出会い、なにごとかを受け取って未来に向かって歩いていく。あとどれぐらい、そんなことが続けていられるのかわからないけれども、もうしばらく、こうしてインターネットの人の間にいてみたいと私は願望する。
 
 

均一であるよう人間に圧がかかっている現状と、多様性という言葉

 
今日の内容はブレストなので根拠・引用を引いてくることはなく、自分自身に向けて書いた内容だ。それでも覗きたいって人以外は回れ右してください。
 
私は多様性という言葉にいつも引っかかりを覚えている。生物多様性、文化的多様性、そういったものを大切にしなさいと聞いてきた。多様性は大切なものなのだろう、生物学的にも、資本主義的にも、個人主義的にも、正当性を伴った統治を執り行ううえでも。
 
他方で精神医療やってると、なんだよ、多様性って本当にやる気ってあんのかよ、という現実も目に飛び込んでくる。落ち着きのない人、不注意な人、対人コミュニケーションに特有の性質のある人、大勢の前でしゃべるのが苦手な人、等々。そうした人たちにさまざまな診断を行い治療や援助を行うのは大切な仕事だ。自分の仕事が患者さんに貢献できていると感じられる。
 
でも、そこで治療や援助を行って患者さんが「良くなる」「生きやすくなる」って、多様性とは違うようにみえる。もともとは多様だった人間の多様な性質を、診断や治療の必要がない、比較的多くみられるタイプの人々*1へと「寄せる」のが治療や援助の内実のようにみえる。社会のマジョリティのほうに寄せきれない場合、ハンディキャップがあるとして支援を受けながらの社会参加をしていただくよう手伝うことも多い。繰り返すが、個々人に対してはそれでいいんだと思う。だって困っている人がいて、それを困らなくするよう相談を受けているのだから。
 
でも、それって多様性じゃないよね。落ち着きのない人や不注意な人を落ち着いて注意力の豊かな人に改造する、大勢の前でしゃべるとドキドキしてしまう人をそうでない人に改造する、それは多様性というより均一性だ。多様であるはずの人間を均一化する。社会のマジョリティという鋳型、それか現代社会のルールや仕組みに適合しやすい個人という鋳型に入れ込む。こんなの多様性って言っちゃって本当にいいの? こういうことをやって守られる多様性とは、いったいどんな多様性なの? ともよく思う。
 
生物多様性が大切というなら、人間だって生物で、人間だって多様で、その多様な人間が織りなしてきたのが人類史だったはずだ。そうした多様な人間がそれそのままで社会に存在し、存在して構わない状態こそ「多様性が尊重されている状態」だと、私なら思いたくなる。
 


 
精神医療の場で診断と治療をとおして提供されていることは、生物としての人間の多様性をそれそのままに肯定することとは違うんじゃないだろうか。個人の援助というミクロな営為をとおして、結果として、社会というマクロなフィールドの均一性を押し上げてさえいるかもしれない。医療は第一に個人のほうを向いているべきだから、それはそれでいいだろう。でも、家族や会社や学校から「あなたのその性質をなんとかしてください、だから病院に行ってみてはどうですか」と言われるような流れがあるとしたら(実際あるだろう)、本当はみんな、生物としての人間の多様性なんて望んでいないし、尊重したいとも思っていないんじゃないかとも思う。なるべく均一で、社会のどこでも働けて、摩擦やあつれきのないなめらかな人間。それが無理としても、なるべくなめらかな人間であって欲しい、あるべきだという圧力を感じることはありませんか。
 
 
で、効率的な人間のマスプロダクションをベストとしつつもそれが叶わないから、ベターとしてミクロな個人の悩みに診断と治療というソリューションが提供され、ある程度まで人間のマスプロダクションに近づけるか、近づけ切らない場合にはハンディキャップがあるという前提で(たとえば)障害者雇用のようなかたちをとる──もちろんこれは精神医療の見方としては一面的で、もっと他にいろいろあるじゃないかという指摘はあるだろう。逆に言うと、一面としてはそういう切り取り方ができちゃうようにも、やはり思える。
 
人間界の文化的多様性は尊重されているという。実際には、そうでもなさそうなバッシングや偏見や発禁が洋の東西を問わず存在するようにもみえるけれども、ここでは秩序に従い、人間界の文化的多様性は尊重されているってことにしよう。でも、その足元で人間自身の多様性が社会のマジョリティという鋳型へ、それか現代の産業社会構造や道徳性といった鋳型へ嵌め込まれ、実質的には矯正を余儀なくされているとしたら、その文化的多様性とはいったいどのようなものだろうか。それって「花屋の多様性」でしかないんじゃないだろうか──花屋にはさまざまな花が売られているけれど、どれも一定の規格をクリアした商品ばかりで、野花がそのまま売られているわけでも、規格外の花が売られているわけでもない。稀に規格外の花が売られることがあっても、それは規格外だからものすごく安く売られることになる──。花屋に並べられた美しい花々は、色とりどりでも均一な規格品だ。
 
だとしたらだ。
実際に社会のなかで期待されているのは、文化的多様性なる商品としての多様性でしかなく、商品としての私たちは均一な品質のマスプロダクションモデルでしかないんだろうか。プログラマも漫画家もコンビニ店長も裁判官も、職業というアプリは多様でも同じOSで同じハードウェアで、互換性の高い人間であるよう期待されているんじゃないだろうか。
 
で、更にだとしたらだ。
それって人間やめろって言ってるようなものじゃないの? とも思うわけだ。
人間は有性生殖する動物なので、有性生殖するからには、毎世代ごとに人間の形質(行動や考えや能力の性質など)にはばらつきが生じる。そうしたばらつきは、環境が大きく変わってしまった時にも誰かがうまく適応するという意味では(種や集団レベルでみれば)保険のように働き、有性生殖という世代交代ガチャならではの恩恵をもたらす。そのかわり現環境に最適でない人間が必ず一定割合で生まれてきてしまい、たぶん、そういう人間は生きづらくなってしまうという問題を生み出し続けている。してみれば有性生殖をとおして生み出される形質のばらつきは反出生主義者でなくとも苦の源ではないか、と思いたくなるところがあり、それをなくした世代交代のほうが苦を減じられて良い、と思いたくもなるかもしれない。有性生殖する自然な人間なんてくそくらえだ、というわけだ。
 
でもそれって優生主義的だし、人間の本来の性質とは乖離しているし、環境の変化に対して脆弱になるのは避けられないだろう。感染症にだってきっと弱くなる。形質のばらつきは人間らしさの一部でもある。国家が、そのようなばらつきを均一化するようトップダウンで指示する事態は、優生主義という概念が広まっているからたぶんないだろうけれど、企業が、産業システムが、資本主義の需要と供給が、家庭が、個人がそれを望むとしたら結局はなし崩しに是認されるかもしれない。少なくともそれを予感させる兆候はある(たとえば精子バンクとか、たとえば出生前診断とか)。
 
反出生主義者だけが苦を減らしたいと願っているわけではなく、新しい命を望んでいる人だって苦を減らしたいと願っているものだ。個人の幸福と苦の回避を目指す限りにおいて、人間を均一性の方向へ、現代社会によく馴染む方向へと改変し、矯正することは正当化され得る。げんにそれはさまざまなかたちで実施されていて、正当化されているからその実施を悪いことだと思う人はあまりおらず、結果、社会はますます人間が均一化する方向に傾き、社会に適応するために越えなければならないハードルの数は増えているようにも思える。その是非をここで考えたいとは思わない。ただ、こうした現象に多様性という言葉をあてがうことに違和感はおぼえるし、この潮流の行き着く先には有性生殖の否定が待っているかもしれないとは、いったんメモしておく。後日、資料を集めてみたいところだ。
 
 

*1:定型発達、という行儀の良い言葉が流行っているが、結局念頭にあるのは「正常」という言葉に近い何者かで、現在の人間のなかで最も多くみられるタイプの形質が「正常」として念頭に置かれやすい。それは悪しきことかもしれない。他方でスペクトラムという概念に基づいて精神機能を考えた時、「定型発達」や「正常」が統計的な平均値や中央値付近のそれとして捉えられるのは、統計に基づいて健康不健康を判断する現在のパラダイム全体には案外馴染むことではないか、と思わなくもない。

自由で平和な日本の脱ー社会的作品『お兄ちゃんはおしまい!』

かつて、アニメやゲームは大人のカルチャーではなく子どものカルチャーであり、メジャーではなくマイナーなカルチャーでもあった。
 
それが今や、明るく正しい青少年も楽しむカルチャーとみなされ、「大人のためのアニメ」「大人のためのゲーム」といった言葉も飛び交ったりしている。おめでとう! しかしそのせいか、アニメやゲームはマジョリティの言葉で記され、マジョリティのための内容でなければならないと思う人も増えてきた。残念! しかし捨てる神あれば拾う神あり。思うに、『お兄ちゃんはおしまい!』はそんな作品だ。
 

 
『お兄ちゃんはおしまい!』は、ダメヒッキーニートなお兄ちゃんであるまひろが、妹のみはりが作った怪しい薬によって女体化し、女子中学生として新生活とアイデンティティを獲得していく物語だ。こう書くと、荒唐無稽な設定の主人公が更生していく物語と聞こえるかもしれない。が、全体としてはやはり荒唐無稽なアニメだ。
 
明るすぎ、それでいて慣れてくるとクセになる色彩、性転換にまつわる制度上の仔細を省く作風、等々がこの作品のリアリティの水準があまり高くないことを示唆している。そもそも第一話冒頭のみはりのセリフからして、
 

「お兄ちゃん、ひとつ、いいことを教えてあげる。女の子の快感ってね、男子の百倍すごいんだって。もし、今のお兄ちゃんがそんなの急に体験しちゃったら、ショックで頭がこわれてパーになっちゃうからね。」 『お兄ちゃんはおしまい!』より

といった調子なのだから、リアル路線で眺めるものではあるまい。
 
そうしたわけで、まひろが女の子になった後の「女の子ってこんなに大変なんだぞ」という学びも、生真面目に受け取っていいのか迷うところである。生理の驚き。髪のメンテナンスに膨大な時間がかかる気づき。女子が集まった時の姦しさ。これらは女性について無知な男性視聴者を啓蒙する光だろうか? それとも無知な男性視聴者に空想上の女の子の空想上のリアリティを提供し、作品世界に耽溺するよう促すためのフックだろうか? 私には後者に見えてならない。リアルな女性像を視聴者に啓蒙するものではなく、ボードリヤールが語ったところのシミュラークルやシミュレーションとしての生理・髪のメンテナンス・姦しさ。都合の良いハイパーリアルとしての『お兄ちゃんはおしまい!』。あー女の子も大変なんだなーという enjoyable な把握。女体化したお兄ちゃん、ヤバい妹、ギャル、そういった属性を持ったキャラクターたちから東浩紀『動物化するポストモダン』でいうデータベース消費を思い出す人もなかにはいるかもしれない。
 

 
で、こうした特徴を挙げて私はこの作品を批判したいのか?
 
とんでもない! 逆だ。
 
ここまで書いてきたことはすべて、この作品の長所だと思っている。リアルな問題がとぐろを巻き、現実的な問題が噴出し、何かの役に立つこと・何かに値することが大切だといわれる今の世の中に、この作品は逆行してみせている。原作者やアニメ制作陣の思惑はわからないが、結果としてこの作品は反ー社会的な、いや、脱ー社会的な作品になっていると思う。それだけが取り柄なわけでもない。2023年の優れたアニメ作品としてできあがっていることが素晴らしいし、まひろとみはりの掛け合いをはじめ、会話はしばしば気が利いている。女体化したお兄ちゃん、ヤバい妹、ギャルといった属性は目立つにせよ、その属性に頼り切ったキャラクター造形ではなく、登場人物たちは作り込まれていて丁寧だ。
 
いや本当にいい作品なんだ『お兄ちゃんはおしまい!』は。
これを見て憤慨する人がいるに違いないとしても。
 
 

2023年の世界の都合というものを無視し、中指を立てているかのようだ

 
そもそも「ダメヒッキーニートが女体化する」というモチーフじたい、なんとも古めかしい。主題歌が往年のエロゲソング的である点も含め、本作品のモチーフ自体は2010年代風、いや、2000年代風とさえいえる。
 
ところが本作品は2023年のアニメ制作陣によってつくられている。現代の技術で磨き抜かれた「萌え」アニメがここにある! 本作の美質のひとつはこの点で、単なるアナクロニズムには留まっていない。いにしえのテーマ、いにしえの「萌え」を現代の技術で作り込むとこうなるわけか!
 
そのうえ本作品は案外ギリギリのボールを投げてくる。つまり第二話では生理が登場し、第三話で失禁が登場し、さらに失禁が繰り返される。その筋の人にはたまらないだろう。ちなみにAmazon primeのレーティングはノンレーティングだったり7歳以上だったり13歳以上だったりまちまちだが、これって見る人が見たら絶対に「けしからんアニメ」だよね……。
 
そういったわけで、この作品はたいへんに脱ー社会的で、脱ー規範的である。ここでいう脱ー社会的とは、社会秩序に公然と逆らうものでないが社会からの要請、たとえば男性のジェンダー的規範から退却するさまを楽園風に描くような、そういうものだ。アメリカでつくられたゲームがしばしば反-社会的な内容を含むのに対し、日本でつくられたゲームはしばしば脱ー社会的な内容を含んでいる。その延長線で考えると『お兄ちゃんはおしまい!』はすぐれて脱ー社会的な作品だ。中国当局などはこの作品を絶対に妙齢の男子に見せたがらないだろうし、欧米諸国のマジョリティも、この作品をクソミソにけなすに違いない。たぶん、いかなる社会においても、本作品を一生懸命に視聴する男性オタクは良い風にみられないだろう。でも、そういう男性オタクのための作品がこうして丁寧につくられているのって素晴らしいことだ。ああ、自由な日本社会!
 
2023年現在、世界は再び髭の生えた男たちのパワーゲームの舞台になりつつある。そうしたなか、この、社会的には何の役にも立たず、2023年の世界の都合というものも弁えず、いにしえの男性オタクのプレジャーをまっすぐ求道している『お兄ちゃんはおしまい!』がオンエアーされているのだ。 (社会的には)クソだな! (カルチャーとしては)最高だな! 欧米のポリティカル・コレクトネスの枠組みから考えても、この作品は逸脱や異端とみなされるだろう。こうした作品がちゃんと作られている日本社会の現状と、こうしたアニメをこうしたクオリティでみせてくれる制作陣に感謝したい。
 
『お兄ちゃんはおしまい!』のような作品がこれからも楽しめることを私は望むが、未来がどうなるのかとても心配だ。同じく心配な人は、焚書の対象にならないうちにご視聴を。
 
たぶんだけど、世界の都合は本作品を排斥する言葉をこれから増やしていくと想像され、本作品を弁護する言葉をいよいよ失っていくだろうとも想像される。このような作品がつくられ流通している日本はとても自由で平和な国で、この状況は財産といえるものだったと今の私は思う。してみれば、平和だった日本の守るべき自由な表現とはこのようなものではなかったかとも思うし、2023年現在、その自由は一応保たれている。このような社会が乱世において持続可能とは信じにくいが、戦前の日本文化の豊かさとして、忘れずに記憶しておきたい。
 
 

「遊び」がもたらしてくれる曖昧なものと、それを許さない残り時間と

 
今日は、いぬじんさん(id:inujin さん)への返信という体裁で自分が書きたいことが湧いてきたので書きます。書きなぐりなので、「ですます」調はここだけなのであしからず。
 
最短で最小の労力で確実に最大の成果を得なければいけない時代に、求められていること。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
バカバカしい!!オレはいまあそぶぞ!!! - 犬だって言いたいことがあるのだ。
 
いぬじんさんのおっしゃる「遊び」を私は失おうとしている。
 
「遊び」は後背地だった。「仕事」や「生活」のフロントラインのはるか後方に位置していて、やるかやられるかのドンパチとは無関係に自分何かをもたらしている諸活動。それは、00年代の私においては進化生物学だったりゲームだったり精神分析だったりブログだったりした。うまく言えないんだけど、豊かだったと思うし、それで翌朝眠い目をこする羽目になったりもしたものだった。
 
思うに、「遊び」って私たち人間にとってのディープラーニングな何かだと思う。ゲームやアニメやライトノベルの話でいうと、ストレートに通人ぶろうと思って名作巡りとかしているのは「遊び」っぽくない。「遊び」というからには、そういうゆとりのない、コスパやタイパを意識した営みは違うだろう。「遊び」っていうからには遊びがなければそれっぽくない。
 
実際、ゲーム*1をわかるということ・アニメをわかるということは、大作志向・傑作志向にとどまらない、もっとすそ野の広いところまで寝転びながら楽しむようなものでないと「遊び」っぽくないし、そこから吸収されるエッセンスも偏ってしまうんじゃないかと思う。いまどきは、どんなジャンルでもコンテンツやプロダクツが溢れすぎているため、全部を巡ることは不可能となっているから一定の選別・選好は必要だし、ジャンルの歴史全体を語るのに最適なパースペクティブに愛好家がたどり着くのはとても難しくなっている。だからといって、ジャンル全体を見渡そうとか、通人ぶろうとか、そういう(古い俗語で恐縮だけど)キョロ充的な志向性とコスパ・タイパ志向が結びついた結果として得られるものは、貧困でしかないと思う。「遊び」にその人ならではのオリジナリティ、その人ならではの年輪が反映されきらないとも思う。だめだめ、そんなのは「遊び」とは言えないよね。
 
だから「遊び」たるもの、その人ならではのオリジナリティや来歴がそのままその人のアイデンティティやパーソナリティと接続したものでなきゃ嘘だと私は思う。そういう「遊び」にはディープラーニング性も伴っていて、くっだらないアニメを見ることや三流のゲームを遊んでみることは、傑作アニメの視聴や超一流のゲームのプレイを支えると確信している。
 
ワイン趣味だってそうだ。ワインは、安物をひたすら飲んでいるだけでは高級どころの凄さが理解しにくいジャンルだ。それでも安物や裾物のワインを飲む経験が、高級ワインや一級や特級と名付けられたワインを理解する助けにもなっている。標高何千メートルの高峰の高きをわかるためには、標高数百メートルの間近な山の低さ、気安さをも知らなければならない。
 
で、そうやって趣味のあれこれを知ったり、趣味をとおして色んな人と出会ったりするうちに「遊び」が自分自身に何かをもたらす。何をもたらすかはわからないけれども、とにかく、それが自分の不可欠な一部になって自分というものができあがっていく。いろいろな領域のえらい人が「『遊び』が大事、『遊び』が芸のこやしになるんだよ」という時の「遊び」には、この化学変化が暗に期待されているはずで、でも、暗に期待されてはいても「遊び」である以上、エビデンスに基づいたエクソサイズとは違って「遊び」がもたらす結果には幅があり、センスが問われるところだろう。そして若者は「遊び」をとおして試行錯誤し、どうあれ成長し、とはいえそのなかの1割か2割ぐらいの人は「遊び」をとおして身上を潰したりセンスが壊滅的だったりしたのだろうな、とも思う。
 
そうして振り返ると、いまどきは「遊び」って難しそうだ。
第一に社会全体として。
第二に私自身として。
 
社会全体として難しいとは、「人生のコスパやタイパがまことしやかに語られる今日日において、そんなセンスに左右されやすくエビデンスのない、結果のよくわからないものにリソースを割いていられるのか?」 ということだ。国も個人もカツカツで、思想のうえでも効率至上主義っぽくなっている現代社会において、効果も期待値も定かではない「遊び」なるディープラーニングをやっていられる暇は一体誰に・どこまであるんだろうか。
 
たとえば大学生などを見ていても、いまどきの大学生は忙しくなっているようにみえる。90年代において、大学生は「遊び」をやるに好都合な膨大な時間を持ち、金銭的にも今の大学生より多くの仕送り額をもらって、社会風潮としても大学生とはそういうものだと理解されていた。そんな調子だったから当時の学生は不揃いで、成長も不確かで、現代の学生のほうが粒ぞろいで成長が確かのだと思う。
 
このことが示すように、「遊び」をとおした成長はバラつく。エビデンシャルじゃない。コスパやタイパにも劣り、遠回りだ。いまどきの若い人がいまどきの膨大なコンテンツと選択肢の大海で戦略的に成長しようと思ったら、「遊び」は「遊び」ではいられず、プラクティスになったり履修対象になったりする気がする。シラバス的な「遊び」。ウゲー。そんなわけあるか。今の若者にだって「遊び」をやっている人はいるはずだ。でも「遊び」を成り立たせ、かつ、それを成長と結びつけるための与件は厳しかろうとは思うし、コスパやタイパといった時代精神に抗してそれをやるにはポリシーが必要だろう。
 
まして、その「遊び」をとおして戦略的成長を推し進めるサラブレッドと互角に戦えるものなのか、よくわからない。で、こうした問題の全景が若者にだって可視化されているだろうなという予感も加わって尚更きつい。
 
それと私自身の「遊び」の困難性について。
私が「遊び」が困難になったといった時、その中身はふたつある。ひとつは、過去に私の「遊び」だったものたちが私の仕事や生活のフロントラインの最前線に出張ってきて、「遊び」なのか「仕事」なのか区別がだんだんつきにくくなってきたこと。
 


 
上掲ツイートにもあるように、私は自分自身の活動に「遊び」の内容がフィードバックされていて、いわば芸のこやしになってきたと自覚している。精神医学の知識だけが現在の私を支えているわけでない。2010年代まで私の「遊び」だったブログやゲームやアニメやワインが私の諸活動を支えていると感じているわけだ。一般に、それはめでたいことだと思うけれど、結果として従来「遊び」であったそれらが「仕事」や「生活」寄りの活動になってしまった感も否めない。「遊び」としての命脈を絶たれるほどではないけれども、「遊び」に夾雑物が混じりこんでしまった。まあ私は雑食動物で夾雑物には慣れているので、それでも何とか遊びとおせるとは思うのだけど。
 
もうひとつは私の人生の残り時間が少なくなってきて、コスパやタイパを意識せずにはいられなくなってしまったことだ。私は四十代の後半に差し掛かっていて、これは、自分が心技体がいちばんいい状態でアウトプットができる時期の後半だと思っている。なかには六十代になってから開花する人もいるのだろうけど、私はそういうのは当てにしない。ワインだって飲んでるし、当直業務だってやっているし。
 
だから生物学的にはとっくに盛りを過ぎている私に残された時間は少ないと見積もったほうが無難だろう。中年老いやすく芸成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。じゃ、遊んでいる暇なんてないでしょう? 自分がくずれ落ちていく前にやるしかない。
 
こうして私は、今の手持ち戦力と、その手持ち戦力を支えるためのコスパやタイパを意識したインプットをとおして「仕事」や「生活」をやっている。残り時間が少ないと考えるなら最適かもしれない一方で、「遊び」をとおしたディープラーニングの効果を軽視し、人格や人生の余剰エリアを切り詰めるような選択で、ぶっちゃけ、貧しいことをやってるなと思う。そうは言っても、限られた時間のなかで脳内から出たがっているものを無事に出そうと思った時、あてどなく遊ぶのと目的志向でインプットするの、どちらがニーズを解決する手段として信頼できそうかといったら、後者になってしまう。
 
そうだ「遊び」は可能性で、例えるなら山に伏せてあるカードを引いてくる行為なのだった。対してタイパやコスパを意識した直線的なインプットは、手持ちのカードを強化するような行為だ。向こう5年だけ考えるなら「遊び」を切り詰めたほうがアウトプットの効率は高くなるだが、向こう20年まで考えるなら「遊び」を維持したほうがアウトプットの効率は高くなりそうだ。で、私は20年先、ひょっとしたら10年先には自分がアウトプットできなくなっていると想定しているわけか。悲しいことを書いているな。けれども今は20年先を考えず、今できるすべてのことをやってみたい。
 
これを書き始めた時、私は若い時分に自分を育ててくれた「遊び」の重要性と、それが困難になってしまったわが身を比較して嘆いちゃおうと思っていたのだけど、ここまで書いてみて、いや、私はいいんだ、これでいくんだなという気持ちになってきた。「遊び」のすり減ったアラフィフに私はなっていく。目の前の「仕事」や「生活」をやっていく。それは悲しいことだし自分自身の可能性を毀損している気がしなくもないけれども、今の私は走ってみたい気持ちが勝っているので、走ってみる。もし倒れるなら、前に向かって倒れたいものだ。
 
[追記]:4年前にも、結局似たことをいぬじんさんに返信していたのを思い出した。私は同じ場所をまだぐるぐるしているのかもしれない。
 
それでも私は、「いま」を越えて海王星に辿り着きたい - シロクマの屑籠
 

*1:ここではコンピュータゲームを念頭に置いている。為念。