シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

50代がさっぱりわからない

 
ゆうべ、文章をなにも書かなくなった夢を見た。無気力な、何をすればいいのかわからなくなった未来の自分が、消極的に、もっと本業に取り組むかと呟いているのが物悲しかった。もちろんこんなのは本業に精力的に取り組む人々には当てはまらない、私の文脈内部にしか当てはまらない物悲しさだ。私は人生の半分以上、文章を書きながら生きてきた。だからなにも書かなくなった自分とは、人生の荷物の大事な部分を落としてきた自分のように思える。
 
年を取るということがわからなくて、年を取るということを少しでも知って、うまく立ち回りたくて、不安を軽減させたくて、私は努めてきたつもりだった。だというのに今の私は書くことがわからず、年を取ることもわからなくなっている。精神疾患になっているとは思わないが、いつ頃からか、迷いの季節に突入したな、と思う。
 
思えば30代後半〜40代前半は、自分の立ち位置と立ち回りのうえで便利な時期だった。もう中年だけどまだ若手だし、まだ若手だけどそこそこ世慣れてもいる。その両面を、如意棒のように振り回して社会適応できるのがその頃だった。知識とバイタリティと好奇心のバランスも良かった。
 
ところが40代も後半に入り、そのような社会適応が早くも成立困難になってきた。中年だけど若手、という立ち位置を他人に対して成立させられなくなって、中年オブ中年とでもいうべき新境地が現れてきた。自分を若手のように見せかけても、周囲、とりわけ年下はそのように見てはくれないだろう。社会的加齢は、自分の一存だけで決められるものではない。
 
すると、コミュニケーションも微妙に変わってくる。たとえば、20代の異性と20代のうちに恋愛するには20代のうちでなければならない。わざわざトートロジーめいたことを書くのは、かりに40代が20代の異性と恋愛できたとしても、それは40代が大幅に年下の異性と恋愛するのであって、20代の異性と20代のうちに恋愛するのとは随分ちがっているからだ。
 
世の中には、若い異性を金で殴ってなびかせ、侍らせる中年もいると聞く。そういった行為にも固有の意味はあろうけれども、若かりし日を取り戻せないのだけは間違いない。
 
同じことがオフ会などにも言える。どこかの新しいオフ会に出かけるとなったら、参加時点で私は最年長である可能性が高い。若かった頃と異なった役割を期待されるわけで、立ち回りを変えなければならなくなっている。それ自体、うまくやってのけたとしても、そこから汲み取る経験は以前と同質ではない。
 
そして体力気力集中力の衰え。
自分が書くということへの(しばらく忘れていた)疑問。
好奇心が膨らむより先に首をもたげがちな、「それって以前に見たことあるよね」という先入観。
 
自分は書き続けられるのか?
続けたとして自他に有意味なものをつくり続けられるのか?
 
そうした疑問は数年前からうっすらあったが、2020年代に入って少しずつ高まり、今、自分はわけのわからないゾーンにいる。もともと『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を書いた時に大事な何かが抜けていった気はしていたのだけど、そこから同じものを再充填できたとは言い切れず、参考文献の山のなかで私は遭難している。
 
じゃあ、書くのをやめてしまえばスッキリした50代を始められるのか? といったらこれもわからない。たぶん無理だろう。より正確には「今はまだ、無理な気がする」。
 
こうして今、アイデンティティの寄る辺がわからない中年になってみると、カネとか、筋肉とか、老年まで持ち越せそうな諸価値に執着したくなる気持ちが少しわかった気がする。でもって案外、そうやってカネや筋肉に執着する人は程度が良いのかもしれない。いやどうだろう? 隣の庭の芝が青く見えるだけかもしれない。カネや筋肉に執着する中年の心境など、わかったようで結局私にはよくわかっていないのだ。
 
「そういう時、ロールモデルの生き方を参考にするのだ」、と人はいうかもしれない。わかっている。私だってできればそうするさ! しかし私の視界内にいた数歳年上の書き手たちは、ほとんど全員、50代になって書くのをやめてしまったか、書く勢いを失ってしまったか、なんだかわけのわからないtwitter論者になってしまった。結局私のエイジングの道は自分自身で切り拓いていくしかなさそうだけど、今は先行きがまったく見えなくて、途方に暮れてしまっている。
 
……で、こういうことをブログにたたきつけるように書く、その身振りも信じて良いのかわからない。
 
インターネットは第一に、願望と思い込みのシミュラークルの鏡地獄なのであって、誰かに何かを伝えるボトルメールとしての機能はもう期待できないように思われるから。この私の戸惑いも、誰かに届くより先に、そういう鏡面が欲しかった人の鏡となり、そういう中年を非難したかった誰かの酒の肴になるばかりなのだろう。しょうもないことだ。そのしょうもない鏡面世界のなかで、こんなこと書いたってなんにもなりやしないんじゃないか。
 

『三体X』のジェンダー観の懐かしさ

 
※この文章はSF小説『三体』の抽象度の高いネタバレを一部含み、その二次創作的位置づけの『三体X 観想之宙』についてはほぼネタバレは含まないと思います。ご承知おきください。※
 
 
SF小説が無性に読みたくなるのはだいたい疲れている時だ。で、先週末はとても疲れていたので、頑張った私へのご褒美として『三体』の二次創作的作品を読んでみることにした。
 

 
この『三体』の二次創作は、二次創作とはいっても後にプロとして活躍する作家さんの手によるもので、版元が原作と同じところであることからも、厚遇された二次創作であることがわかる。
 
で、ネタバレをできるだけ避けて書くと、これもとても面白かった。現在のインターネットでは、こうした作品のネタバレにセンシティブな風潮があるので、ここでそのSFっぽい面白さを詳らかにすることはできない。
 
しいて書くなら、原作がなにかと「物理」で殴って事態が進んでいく作品だったのに対して、この二次創作は「  」で殴って、というより「  」を巡ってSFっぽさが広がっていく感覚だろうか。私は原作の「物理」で殴る感覚にすっかり虜になってしまったけれども、こちらもこちらでなかなか雄大だ。
 
それでも個人的には『三体』原作のテイストのほうが私は好きだ。二次創作だから特に比べやすいのかもしれないが、原作『三体』の、文鎮のごとき重厚さは原作ならではだったのだと再確認できた。『三体X』にも、漢詩や聖書の引用がバッチリ決まっている場面などはあるけれど、それでも原作『三体』のほうが重たさに巧さがあるよう感じられた。
 
 

その懐かしいジェンダー観

 
作品そのものについてはこれ以上おしゃべりできなさそうなので、作品の枝葉について、ここでは女性の描かれ方、男女の描かれ方について印象に残ったことを書く。
 
原作『三体』でうっすらと感じ、この『三体 X』ではっきり感じたのは、女性の描かれ方がなんだか古いSFや古い男子向けエンタメ作品っぽいこと、それに伴って男性役割や女性役割といったジェンダーっぽい表現でまとめられそうな役回りが古風であることだった。
 
作中にも名前が出てくるので比較すると、『三体』シリーズに出てくる女性の描かれ方や役割は、『銀河英雄伝説』に登場するアンネローゼやフレデリカ・グリーンヒル、カリンの役割に似ている、と感じた。もちろんこれらの女性キャラクターも『銀河英雄伝説』の作中ではそれなり活躍しているのだけど、それでも物語全体を主導するのは男たちだった。
 

 
『銀河英雄伝説』が男たちの英雄譚であるのに似て、『三体』もまた、男たちに主導される物語と感じる。女性キャラクターが活躍する場面が皆無なわけではないが、その度合いは、『銀河英雄伝説』に出てくる女性キャラクターぐらいの比率のように感じられた。
 
だから『三体』が駄目だと言いたいわけではない。
とはいえ歳月は感じる。
 
『銀河英雄伝説』と『三体』の間には二十年かそこらの歳月が横たわっている。その間に日本社会は変わり、日本社会のジェンダーに対する感覚も、諸ジャンルで描かれる女性キャラクターの役割も変わった。だから『三体』『三体 X』で『銀河英雄伝説』を連想させるジェンダー観に出会った時、あたかも20世紀の作品のような感触をおぼえ、けれども内容的には21世紀のSF作品なのでえもいわれぬタイムスリップ感が伴う。
 
外伝である『三体 X』においては、原作『三体』以上にそうしたタイムスリップ感が強く感じられ、男性性と女性性が素朴に描かれていると感じた。まるで、めしべとおしべは必然的にくっつくかのようじゃないか、とも思った。人によってはそれを批判的に捉え、「遅れている」「押しつけがましい」だなんて言うのかもしれない。私には、それらが性や性欲に対する信頼の篤さのようにもみえた。
 
なお、私がこう感じた理由は、直近で見てきた作品の印象が残っているせいもあると思う。この直前に読んだSF作品の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』や『われらはレギオン』は、ジェンダーやセクシャリティの面で淡泊だった(そしてその淡泊さが私には心地よかった)。
  
これらの作品からは20世紀のジェンダー観は想起されない。そのことも、『三体 X』の印象にいくらか影響していた可能性は、ある。
 
 

『三体』や『三体 X』がそうなのか、中国SFがそうなのか、中国社会がそうなのか

 
ところで、この、『三体』や『三体 X』から感じたジェンダーの20世紀っぽさは、これらの作品に特異的なものなのだろうか?
 
それとも中国のSFの書き手や読み手のジェンダー観がだいたいそんな感じなのか? ひいては中国社会のジェンダー観がだいたいそんな感じなのか?
 
中国は日本ではない。もちろんアメリカやカナダとも違っている。そしてジェンダー観にしても家族観にしても、欧米化のスピードには 欧米ー日本ー中国 の間にズレがあり、中国の人々の通念や慣習は、きっと日本より遅くから欧米化し、けれども日本より急速に欧米化しているのだろう。その、欧米化の圧縮具合とスピード具合のあらわれの一端が、東アジアでは少子高齢化を促している部分もある。
 
ある面では間違いなく21世紀の最先端をゆく中国社会が、にも関わらず、ジェンダー観も含めた通念や慣習の欧米化の面で20年ぐらい日本とタイムラグがあり、いってみれば、当地の人々の心は20世紀末ぐらいを生きているのだとしたら、彼らには2022年はどのように見えているのだろう? そして日本やアメリカのジェンダー観をどのよう眺めているのだろう?

韓国小説『82年生まれ キム・ジヨン』に出会ってしまった時ほどではないにせよ、『三体 X』の読後感の一部分として、中国の人たちがどのような時の流れのなかで男女を捉え、どのような心の布置のなかで生きているのか知ってみたくなった。その興味を膨らませてくれた点でも、『三体 X』は私にとってありがたい作品だった。やがて私は、その手の中国の小説を読むことになるのだろう。
 

 
 

形骸と形式になり果てた夏でも、夏は夏だ

 
 

 
 
ニイニイゼミがおそるおそる鳴き始めて、2022年の夏が幕を開けた。
 
梅雨が本当に明けたのか半信半疑だし、いきなり猛暑なので、20世紀の思い出の夏とはだいぶ違う。そんな夏でも夏は夏だ。私は夏が好きだ。透明すぎる直射日光と深緑の山。そして青い海と生き物のような入道雲。
 
西暦2000年頃にオタクをやっていた者の一人として、夏が来るたび『Air』のことを思い出す。『Air』は800年の夏の物語だった。それでいて、夏の終わりを迎える物語でもあった。出会ってから20年以上経ち、歳を取っても不思議と思い出される。今年も例外ではない。
 
酷暑に負けそうな今年は、あと何度、この夏を迎えられるんだろうか、と思う。
 
人生の先輩がたを見ていると、平均的にことが進むなら、私はあと30~40回ぐらいは夏を迎えられるってことになる。けれども平均とは、統計的な期待値を示しているにすぎず、個別の運命を予言するものではない。そして平均が最も正しく読めるのは過去に向かってであって、未来に向かってではないのだ。
 
かりそめの豊かさ、かりそめの平和が崩れてしまえば、日本人の平均寿命なんて簡単に縮む。天災や人災にまみえることもあろうし、個人的に健康を害することだってあるだろう。だから、たとえば私があと何度の夏を迎えられるのかなんて本当は誰にもわからない。 
 
行儀がよくないので、これを打ちながらスパークリングウォーターを飲み、キュウリと茗荷の和え物をかじっている。エアコンをつけても室内は蒸し暑い。昔は扇風機だけで良かったのに、今はエアコン+扇風機でちょうど良いぐらいだ。こんなバカみたいな夏があるか、とも思う。
 
そういえば故郷の海も、昔は牡蠣がたくさんとれていた岩場にムール貝が生えて、水質がすっかり悪くなってしまった。さらに遡って昭和の頃と比べれば、私の知っている故郷の海も変わってしまった後のものだそうで、年長の人の話によれば、昔は少し泳ぐだけでイワシの大群に当たり前のように出会えたという。
 
そうやって夏そのものが変質していくと同時に私自身も変質していく。今年、『Air』がニンテンドースイッチでリリースされると聞くが、それをやっている猶予は中年の自分には無い。やったとして、往時の感動が蘇るとも思えない。あれは2000年に20代前半の私が出会ったから感動したのであって、『Air』をやったことのない40代が感動を共有できるとは考えられない。『Air』をやったことのない20代がやったとしても、時代が違うので違ったものを受け取ることになるだろう。
 
だとしたら、私にとって本当に肝心な夏は過去のものになっていて、今はその形骸と形式を毎年繰り返しているだけなのかもしれない。そうやってスイカも高校野球も花火の音もリピートしているだけなのかもしれない。もちろん、若い誰かにとっては2022年の夏こそが本当に肝心な夏である、というのは肌でわかる。
 
で、そうやって若い誰かが胸を弾ませながら浴衣姿で夏祭りに集まる風景。それらを見ているだけで案外うれしく、胸が弾むものでもある。形骸と形式のリピートといえども、それでも夏はいい。この夏を、いいものとして来年も受け取るために、濁りの度合いを増していくおのれの命にしがみつき、生きたいとあがくのは私には自然なことに感じられる。過ぎた自分の盛期を思い出すのも、森や海や若者の盛期を感じ取るのも、とても幸福なことだ。あまりにも日差しが強くなって人間も蝉もイワシも生存不能にでもならない限り、変わってしまった夏でも私は夏としてそれを受け取るだろう。そして夏が終わるたびに名残惜しく思うのだろう。
 
こうやって私が夏を惜しく思うように、人は皆、何かを惜しいと思いながら、何かに執着を寄せながら、齢を重ねて死という事象の終わりに近づいていく。私は輪廻という概念をいちおう知っている大乗仏教徒だが本当は死は事象の終わりだとも想像しているので、私の終わりは夏の終わりで、夏の終わりは私の終わりだと疑っている。『Air』の作中描写ように、それでも何かは引き継がれていくに違いない。けれども私自身の夏はいつか命数を使い果たす。悲しいことだ。いやしかし、それでも2022年の夏を夏として今は受け取っておこう。汗を流し、スイカをかじり、空を見上げて、夜の散歩のにおいを嗅ごう。
 
 

リングフィットアドベンチャー無しでは保てない身体になっている

 
例年、本格的な夏の頃には体重が落ちてくるのだけど、今年はなかなか落ちてこない。なぜだろう? と思って生活を振り返ったら、リングフィットアドベンチャーをやっていなかったことに気が付いた。
 

 
私は怠惰なので、リングフィットアドベンチャーをやるといっても、せいぜい週2回、カロリー数にして合計80kcalぐらいのものだ。あとは散歩やジョギングをいくらか。フィットネスジムに通って毎週200も300もカロリーを使ってくる人々の、あの勤勉さは不可能だと私はあきらめていた。
 
そうしたなか、リングフィットアドベンチャーは怠惰な私にも定着したほうだった。ゲームとして遊んでいたのは過去のことで、今では体調を整えるための手段として、カスタムモードのオリジナルメニューを定期でこなすだけになっている。普段、なかなか動かせない筋肉を動かすと気持ちが良い。身体という機械の動作確認をやっている感覚もある。
 
それが、学会などで生活リズムが乱れて以来、三週間ほどほったらかしになっていたのだった。なんとなく肩が重い・足が重い・調子悪いな……と思っていたものが、リングフィットアドベンチャーを再開したらだんだん解消された。気分もなんだか良い。
 
 

筋トレは一度始めたらやめられないのではないか

 
筋トレは、身体の調子を整えてくれ、過度でなければメンタルにもたぶんプラスになる。気晴らしにだってなるかもしれない。
けれども怠惰な私からみた筋トレは、どこか悪魔の契約じみている。
 
筋トレをとおして健康な身体をつくったりカロリーを消費したりすれば、健康な身体をつくることができる。それは事実だ。しかるべき場所でしかるべきトレーニングをしている人なら、私よりもっともっと健康な身体を手に入れられるに違いない。
 
けれどもリングフィットアドベンチャーを三週間ほど止めて痛感したことがある──これって、やっぱり永遠にやめられないんじゃないか?
 
筋肉をつけ、代謝を促進し、関節の動きも含めた運動機能を保つ。そういったことに種々のトレーニングが有用なのはわかる。でも、やめたらとたんにその恩恵は失われてしまう。のみならず、食生活と代謝のバランスの問題などから、太ってしまう人だっているかもしれない。私のように、リングフィットアドベンチャーを少々やる程度の人ならともかく、がっつり筋トレをやっている人がある日それをやめてしまったら、反動で、加速度的にメタボリックになってしまうのではないか?
 
筋トレの神、フィットネスジムの神、リングフィットアドベンチャーの神はおそろしい。ひとたび契約すれば身体の動きが向上し、代謝が促進され、マッチョなボディやすらりとした身体が手に入るのかもしれない。けれども契約は本当は永遠のもので、やめればたちまち体型が乱れ、代謝が悪化し、ぶよぶよの身体になってしまう。
 
現代人のライフスタイルでは、使う筋肉が限定されやすいので、ダイエットや筋肉美を抜きにしても、普段使わない筋肉に血肉を通わせることには意味があると思う。五十肩などを防ぐうえでも有用に違いない。それでも、筋トレの、やめたらやめる前よりもひどいことになるかもしれないからやめられない性質には恐ろしさを感じる。それは単にめんどくさい・疲れる以上のものだ。継続する意志のない人にどこまでお勧めしていいものやら、ちょっと考えてしまう。
 
 

健康促進という名の未来への投資、その前提

 
健康のために空腹でもドーナツを食べるのを我慢する。
身体を定期的に動かし、カロリーも消費する。
平均余命が延び、70歳どころか80歳まで働かなければならない現代人にとって、健康促進は好ましいとみなされている。そして健康リスクをかわさないこと、寿命や健康寿命を短縮させる選択は、悪とか愚とみなされがちだ。
 
社会常識を度外視して素になって考えてみれば、不思議なことでもある。
明日には死んでいるかもしれないのに、今日のドーナツを我慢し、ふかふかのソファに身を埋めてコーラを飲みながらAmazonPrimeを視聴するのを我慢し、明後日の、いや、数十年後の未来のために健康リスクを回避し健康を積み立てていくのである。
 
子どもの賢さや自制心を評価するテストとして、マシュマロを我慢できるかどうかのテストをやる、あれも、本当は不思議である。まあ、マシュマロテストを子どもに試行する場合、テスト後に死んでしまってマシュマロが手に入らない心配なんて度外視してもいいのかもしれない。けれども、たとえば内戦中のアフリカで育った子どもの場合、マシュマロテストで自制する子よりも自制しない子のほうが賢くて生存率が高いかもしれないと私などは思う。
 
してみれば、マシュマロテストとは厳密には子どもの賢さや自制心を評価するテストではなく、マシュマロを我慢することが生存率の高さに寄与するような社会環境において子どもの賢さや自制心とみなされがちな傾向を推定するテスト、と言い直したほうが適切なのだと思う*1
 
そのマシュマロテストと比べても、数十年後の健康のために健康リスクを回避し健康を積み立てる態度は、その社会環境にすごく依拠したものだ。すなわち、数十年後まで自分が生きていること、数十年後まで社会がおおむね同じ状態を保っていること、そういったことに未来志向な健康増進は依拠している。
 
1999年にノストラダムスの予言を期待していた人が裏切られた教訓が示すように*2、未来にカタストロフを期待するのは愚かなことではある。しかし同様に、たとえば2100年までの道のりが第二次世界大戦後の先進国と同じものであると自明視するのも、本当は利口ではないように思える。2050年まで自分の人生が無事平穏であると自明視するのもだ。たとえ平均寿命が伸びても、自分の人生はわからない。だから我慢すべきドーナツがあるのと同じぐらい、我慢すべきでないドーナツがあるはずだと私は思う。しかし今日の健康増進の姿勢は、まさにそのような自明視を大前提とし、それに支えられていやしないだろうか。
  
いつまでも続く平和と、いつまでも続く「体制」。それらを自明視したうえで、私たちは果てどない健康増進に注意と時間を費やし、タバコをやめ、ドーナツを我慢し、未来においても生産年齢人口の一翼たれるよう、社会からの要請に応えられるよう、精進を重ねる。そして自分が死ぬまでの収入や支出を注意深く検討する。だとしたら、今日の健康増進と健康リスク回避の態度は、さまざまな次元で資本主義のいまどきの仕組みと切っても切れない態度であり、いつまでもビジネスができる・いつまでもビジネスしなければならないブルジョワの夢と結合したディシプリンであるようにも思う。でもって、そうしたディシプリンは今や旧来からの経営者や起業家だけに期待されるものではなく、万民に期待されるものとなっている──。
 
さる本のなかで、健康は活力資産の一翼とみなされていた。もちろんそうだろう。容姿や礼儀作法や人間関係までもが資本としてカウントされる社会で、健康が資本としてカウントされないほうがおかしい。労働者は労働して賃金を得るものだから、80歳まで生きるつもりの労働者は健康に敏感でなければならない。常識的にみて、その敏感さは身を助けるもののように思える。
 
でもその常識的な見方は、今の平和と「体制」がずっと続くという前提に依拠していることは、特に今年のような年回りには思い出しておいていいのだと思う。まあ、思い出すだけではあるし、だからといって路線変更はしがたいのだけど。
 
私はもう、リングフィットアドベンチャー無しでは保てない身体になってしまっている。これを読んだ人達だって、大同小異だろう。明後日の健康のためにトレーニングを。数十年後の健康のためにタバコやアルコールを控え、ドーナツを我慢しよう。均整の取れた身体。生涯現役の精神。終わりなきトレーニング。
 
 

*1:そうでなくても、マシュマロテストにはいろいろ批判もあり、詳しくは、事情を知っていそうな人に聞いてください

*2:ノストラダムスの大予言を本気で信じていた人は少なかったように思う。でも、信じてはいなくても期待していた人は往時にあってもまあまあいたのではないか。

日本人にかかる性淘汰圧と、その行方を想像する

 
はてな匿名ダイアリーと一部のtwitter界隈で、「現代の恋愛は、告白すれば告ハラ扱いされ、付き合う前に口説こうとすればセクハラやストーカー扱いされる」、という文章が注目されていた。関連して、「ぬいぐるみペニス(略してぬいペニ)」というネットスラングについても、はてなブックマークやnoteで目にした。

現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?
[B! 増田] 現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?
「ぬいペニ」問題について|しの。|note
 
 

現状認識:交際までの曖昧なプロセスは難しくなっている

 
これらに対する反応はさまざまだった。恋愛や結婚の経験のある人々は「恋愛を理解していない」「告ハラなんて言われたところで無視すればいいしセクハラほどの誘い方なんてするほうが変」「まずは異性の友達作れ」などと書いていた。
 
1990年代的だと思うし、だからといって間違いだとも言いづらい。実際、マッチングアプリ等を使わず、既存の社会関係のなかで異性と巡り合いたいと思うのなら、ゆっくりと関係性を積み上げて、だんだんに親しくなっていくしかないだろうからだ。
 
しかし冒頭の増田に同意している人々は、まさにその、異性と関係性を積み上げていくためのハードルが高くなり、足切り基準も厳しくなっていることを指摘している。
 

『現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?』へのコメント

いきなり告白はありえない→時間をかけた友達からのアプローチはぬいペニなので無理、というのはハメ技っぽい。/はてなの人々、恋愛・結婚というイシューだと途端にネオリベ万歳のマッチョ自己責任論者になるのは何

2022/06/15 12:27
b.hatena.ne.jp
 
上掲はてなブックマークを私なりに読み取ると。
 
いきなりの告白は告ハラであり、論外である。だからといって少しずつ関係性を積み上げていくアプローチの場合、たとえば食事に誘ったとか、たとえば映画に誘ったとかいった段階で「ぬいぐるみペニス」だと思われてしまう。つまり無害でニュートラルな男性だから許容されていたものが、好意を持っていると知られた段階で気持ち悪いと思われ、嫌悪されてしまう。なら、どちらを選んでも結局駄目で詰んでいる。
 
そうした状況への疑念や苛立ちが、はてなブックマークのあちこちから立ち上っているよう、私には感じられた。
 
こう書けば、「でも、今の世の中でも学校や職場で恋愛している男女はいる。特に学校はまだできるほうだ」とコメントする人もいるだろう。まあ確かに。男女が手を繋いで登下校する様子は、令和でもそこまで珍しくはない。
 
しかしそれは、学校という今でも関係性の枠組みが曖昧な空間のおかげだったり、学生がまだ未熟で社会に出る途上だからできること、ではないかとも思う。社会に出て、利害や役割に基づいた振る舞いを期待されるようになった男女が、いまどきオフィスラブをどこまでやって良いのか・やれるのか。
 
オフィスラブ、普通に昔よりハレンチでインモラルとみなされるリスクが高くなってないだろうか。
 
今はまだ、オフィスラブだって不可能ではない。けれども職場の利害や役割を逸脱したコミュニケーションをトラブルなくやってのけるのは至難のわざだ。少なくともセクハラという概念が浸透した今、男女関係を誘う兆候に不快感や嫌悪感を感じた側はそれをクレームすることができる。誘いたいと思う側は、セクハラというイエローカードを警戒しながらことを進めなければならない。
 
リスク管理に敏感な若者なら、そのようなリスクは是非とも避けたいところだろう。
 
統計上はどうなっているだろうか。
 
株式会社パートナーエージェントによる「幼馴染み婚・同級生婚」に関するアンケート調査によれば、既婚者が出会った場所が職場であるパーセンテージは、かつての35%以上から2010年代には20%まで低下している。そのぶん、婚活やインターネットでの出会いや、学生時代の付き合いがそのまま結婚する割合が高まっている(グラフ・表)。
 

この調査は7年前のものだ。ここ3年はコロナ禍によって出会いの場としての職場機能は弱くなったから、グラフや表の傾向は加速しているだろう。昭和~平成時代の感覚で職場の出会いを考えている人は、こうしたトレンド変化を過小評価していると思う。
 
逆に、こうした逆境下でも職場で出会いを獲得できる人は、いったいどんな人なのか。
 
少し前のインターネットスラングに「ただし、イケメンに限る(略してただイケ)」というのがあった。ここでいうイケメンとは、容姿や身のこなし、話術、関係性の調節能力、経済力などを総合的に評価して、「この人になら誘いがあっても悪い感じがしない」と女性が思いやすい男性のことを指していると思われる。
 
同時代に「壁ドン」というネットスラングもあった*1。「壁ドン」とは、令和から思い出すとどうあれセクハラかパワハラではないかと思われるのだけれど、平成後半になってもまだ「壁ドン」がポジティブワードとして流通するぐらいには、男女の間柄は委縮していないかったし、NGとみなされるラインに違いがあった。
 
こうした「ただイケ」や「壁ドン」といった一世代前のネットスラングが教えてくれるのは、当時、
 
・女性が好むような男性には、学校や職場で特権的なアプローチが許容される余地があり、
・女性のなかにも、そのような男性に限れば特権的なアプローチを期待している向きがあり、
・社会風潮はまだ、令和に比べればそうしたアプローチを許容していて、
・もちろん女性が嫌悪するような男性には、そうしたアプローチは許容されるものではなかった
 
といったことだ。もちろん個人差はあるだろうが、それでも10年ぐらい前は現在よりそうしたアプローチが許される余地があったのだろう。
 
今日のコミュニケーションは、職場であれ趣味の集まりであれ、目的志向で、効率重視で、その必然としてノイズや遠回りや腐れ縁を避けたがるものになっている。21世紀だけを眺めるならそう思わないかもしれないが、20世紀と比較すればその傾向は明瞭である。
 
たとえば平成はじめまでの飲みニケーションや社員旅行のたぐいは、仕事以外のさまざまな接点を与えるものであると同時に、目的志向的ではなく、曖昧で、腐れ縁的で、なんとなればノイズやハラスメントのようなコミュニケーションだった。そういったものを避けることがスマートとみなされ、正しいとみなされ、効率的とみなされ、健康だとさえみなされていく大きな流れのなかで、いい歳した大人が職場や趣味の場で男女の間柄を構築しようと思ったら、まさに、特権的存在でなければ難しく、甚だ危険でもあるだろう。
 
こうした変化の影絵として、婚活、ひいてはマッチングアプリが台頭してきている。
 
職場で出会えないし出会うべきでないなら、婚活やマッチングアプリをとおして、効率的に出会うしかない。
 
よく、婚活やマッチングアプリは新自由主義的だ、資本主義的だ、疎外だ、といった声を聴く。なるほど私もそう思う。しかしだ、そういった不平の声をあげる当人だって、案外、目的志向的ではないコミュニケーションや非効率なコミュニケーションを嫌悪し、ノイズやハラスメントのようなコミュニケーションを排除してきたのではなかっただろうか?
 
学校でも職場でも趣味の場でさえも、目的志向的で効率的なコミュニケーションを求め、ノイズやハラスメントを嫌悪してきた人が、こと、男女の間柄に限ってその精髄ともいえる婚活やマッチングアプリを忌避するのは、ダブルスタンダードではないだろうか。いや、私は古い人間だからダブルスタンダードだと言いたくない気持ちにシンパシーを覚えるのだけど。
 
しかし、経済的にも社会関係的にもコスパを求めて当然という顔をしている人、商取引のようなコミュニケーションを当たり前にしすぎている人が、マッチングアプリをとおして自分自身に値札が貼られていると気付く段になって鼻白むのは、ちょっとおかしいというか、効率主義的資本主義社会の尖兵としての自覚が足りない。そういう人は、粛々と神の見えざる手に自分自身を委ねるのがお似合いであるよう思われるのだ。
 
 

では、日本人はどのように選別され、どのように変わってゆくのか

 
こうしたことを踏まえて、これからの日本人の性淘汰(生殖できるかできないかによって、後世に残る遺伝形質がふるいにかけられ、ひいては進化が進んでゆくプロセス)について考えてみたい。
 
もちろん性淘汰を介した進化は、たかだか数十年、たかだか数世代ではそこまで進みそうにない。だからこれは放談漫談のたぐいで、事実を述べようと努めているものではないことはここで断っておく。
 
これから生殖し、子孫を残す第一のタイプは、高校や大学で恋愛できるか、社会人になってからのリスキーな環境下でもなお恋愛ができるか、どちらかの人々だ。 
 
第一のタイプの人は、容姿や性格も含めたコミュニケーション能力が高い人で、「ただしイケメンに限る」的な人々だ。女性も事情はそう変わらない。年上のおっさんに金や承認を求めて接近するならともかく、同級生婚に結び付くような恋愛を高校・大学在学中にやってのけ、続けてみせるのは簡単ではないからだ。
 
よりリスキーになったオフィスラブなどをやってのける人も同様である。学生時代とはまた異なったかたちで、容姿、そつのなさ、性格のうまさなどが問われるだろう。
 
第二のタイプは、婚活やマッチングアプリといった、男女に値札をつけて互いを選別する仕組みのなかで勝ち抜き、選ばれるタイプだ。この場合も、容姿やコミュニケーション能力といった、誰に対しても魅力として働く素養が有利となり、特に男性の場合は、高い経済力、とそれを支える認知機能等々が選好されやすいだろう。
 
この二つのタイプが子孫を残す確率が高く、そうでない人が子孫を残す確率が低いと考えるなら、将来の日本人は、
 
・容姿は、ますます好まれる方向に変わり続ける。第一のタイプ第二のタイプ双方において、男女を問わず容姿が期待されるのだから、性淘汰の選別因子として、容姿は今後も猛威をふるう。
 
・容姿以外のコミュニケーション能力、そのさまざまな構成要素も求められるが、学校で恋愛し長続きする学生に求められるものと、マッチングアプリ経由で出会う社会人に求められるものはそれなりに違う。
 とはいえ、両者には共通するTPOもある。TPOは後天的に身に付けられるが、その習得コストや精度には個人差があるため、身に付けにくい人、身に付けられない人はそのぶん子孫を残す確率が低くなってしまう。
 
・第二のタイプでは経済力が問題となるので、その経済力を獲得するのに適した資質、たとえば学力を得やすい素質も後世に残りやすいかもしれない。しかし容姿や汎用性の高いコミュニケーション能力に比べると、どのような能力が未来社会で高く評価されるのかが想像しにくい。
 
 
ざっくりまとめると、日本人は、このような性淘汰を経て、ますます容姿に優れコミュニケーションにそつのない、そういう集団になっていくと想像される。20世紀後半からの傾向とあまり変わらないといえば変わらないが、世代から世代へと続く性淘汰競争を経て、日本人の平均的な容姿、コミュニケーション能力、TPOの卓越性はますますハイレベルとなり、その高い基準に基づいて次世代の競争が行われるだろう。
 
こうした趨勢は、はてなブックマークで何人かが指摘しているとおり、直接的には障碍者を排除しないが、個人の自由な選別と選択の結果として、おのずとそれに近い結果を招くと思われる。
 
では、平均がハイレベルになった未来の日本社会から、今日でいう発達障碍のような位置付けになる人々がいなくなるかといったら、たぶん、そうではないと思う。平均が高まったぶん、人々に求められる能力や素養も高くなる。TPOも、認知機能も、容姿もだ。そうしたなかで、生きづらさとは、障碍とは、非モテとは……といったことが云々されるのだろう。
 
そうやって、外見も機能も内面も高度な資本主義社会に適応した人間が彫琢されていく。
 
 
なお、ここまでの放談はこれまでの日本社会が(緩やかに衰退しながらも)持続した場合を想定した話なので、戦乱や内乱などによって国家がひっくり返ったらこの限りではないので悪しからず。
 
でもって世の中の雰囲気をみるに、そうなってしまう可能性がゼロとは思えない。娑婆はいつも諸行無常なので。
 

*1:ただし、ここから書く「壁ドン」の定義は、本来のマイナー意味が失われ、現在でもよく知られているメジャーな意味に塗り替えられたいきさつがある。が、略する。