シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

いま、精神分析に意味があるとしたらそれは何か

 

 
同業の人が学会に集まろうとしている季節に、「いま、精神分析に意味があるとしたらそれは何か」などというお題をネットのopenな領域に投げるのは蛮勇すぎるのですが、ある集まりで「今、精神分析に意味はあるの?」という問いをいただき、持ち時間100分ぐらいで今の自分が何を思いつくのか書いてみたくなったので、えいっ! と随筆してみる。
 
なお、これは私に問いを与えてくれた人に応えるという体裁でやっていることだとエクスキューズさせてください。各方面の精神分析に造詣のある人は、ある程度これに同意してくださるかもしれないけれども、全面的に同意してくださるとは思えない。また、私がなんやかや言っても(精神医療の実地において)標準的治療と治療ガイドラインと精神行動科学的な研究をリスペクトしていることにも引っ張られている部分があると思う。そのあたりを気にしない人が読んでくれると想像しながら、以下を記す。
 
 

本題に入る前に (本題に入りたい人は読み飛ばしてください)

 
でもその前に、精神分析だの無意識だの、ひいては「こころ」だのを云々してどうすんのよ? ほかにすることはないのですか? 的なビジョンもをあえて挙げてみたい。読みたくない人は、次の見出しまで飛ばしていただいても構わない。
 

「人の心という曖昧なものに頼っているから、ネルフは先のような暴走を許すんですよ。」
『新世紀エヴァンゲリオン 第七話 人のつくりしもの』より

 
精神分析が心 psyche*1に焦点を向け、自我超自我イドをはじめ、さまざまに心をモデリングして議論するものである限り、心という直接観測できない曖昧なブラックボックスを取り扱っている、という感はどうしてもぬぐえない。
 
精神分析に意味はあるのでしょうか、という問いはあと少しの変奏で「こころを云々することに意味はあるのでしょうか」という問いに化ける。直接観測不可能なブラックボックスを云々するより、第三者にも観測可能で、エビデンスを集積できるものを取り扱い、操作や管理の対象にしたほうが科学的知見が集積しやすく、再現性のある治療技法が生み出せるんじゃないだろうか?
 
そこで、「こころ」より「行動」ですよ!
 
行動なら、第三者にも観測できるし大規模に記録することだってできる。精神分析というプロセスを介して心をうんたらかんたらするより、行動のほうがずっと観測・記録を集積させやすい。エビデンスが集まりやすい、ってわけよ。心そのものはわからないままでも、(症状も含めた)人間の行動を統計的に分析し、確率的に管理できるなら、その行動にまつわるリスクは管理できる。治療者側にとってはそれでもう十分有意味なのだ。
 
少なくともなんらかの行動上の障害や症状を管理する点では、クライアントの心をうんたらかんたらするより、行動に注目して操作や管理を試みたほうがエビデンスベースドなことができるはずだし、それは時代の要請にも適っている。
 
でもって、最近の大学精神医学教室のなかには「精神行動科学」を名乗っている教室が結構あって、私は潔いと感じている。こころという曖昧なものではなく、精神行動を研究している、という実直さが感じられて。
 
問題点がないわけではないとしても、こうした行動を科学する向きは今日の精神医学、精神医療の主流をなしているし、私はそれが妥当だと思っている。20世紀中頃、アメリカでは精神分析的精神医学が栄え、日本でも精神分析のプレゼンスは20世紀末ぐらいまでかなり大きかったけれども、効率性の面でも再現性の面でもエビデンスに基づいた精神医学、認知や行動を対象とする精神医学にとってかわられた。
 
私は精神分析には今でも意味や意義があると思っているけれども、今日日の精神医学の主流派がやっていることも好きだ。実臨床では後者のお世話になっている度合いが高い。だからどっちも大事に思っていることは断っておく。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味1 リベラルアーツ、教養として

 
ここから本題。
勘違いがあるかもだけど、書いてみる。
 
今、精神分析を学ぶ意味のひとつに、人文科学領域の広範囲を理解する補助線になるよ、というのがある。芸術や社会科学領域を理解する補助線としてもまあまあ現役じゃないだろうか。
 
フロイトが発見・提唱・拡散した無意識という概念は、近代社会における特異点のような何かで、影響はさまざまな分野に及んだ。いろいろな分野の人がフロイトから影響を受けたし、そうでなくてもフロイトと同じ時代を生き、同じ思想の渦のなかで考えた。だから20世紀の人文科学~芸術~社会科学には、フロイトとその後継の精神分析諸派の考え方があっちこっちに登場する。そして、当時の読者に向かって書いているからか、しばしば、無意識とその構造──超自我、自我、イドといったような──をある程度は知っているという前提で記されていたりする。
 

 
千葉雅也さんが書いた、哲学入門の本としてはすごく売れている『現代思想入門』にも、フロイトやラカンの説明が登場している。というのも、ポスト構造主義(や構造主義)を理解するにあたって、フロイトやラカンとの接点が無視できないからだ。もちろん千葉雅也さんは21世紀の哲学者なので、この入門書を読むにあたってフロイトやラカンを諳んじている必要はない。けれども「入門」の書籍にもそれらが登場してざっくり説明されている程度には、ポスト構造主義や構造主義を理解する補助線として精神分析は無視できない。
 
あるいは、アドラーやマズローといった、いまどきの経営者と労働者のモチベーションにゆかりの深い人たちの書籍と向かい合う際にも、精神分析を知らないよりは知っていたほうが面白い。彼らは精神分析の正統後継者ではないかもしれないが、精神分析の分家か傍流だ。ユングも分家で、人文科学領域では思い出したように登場する。そして面白いことに、進化生物学や進化心理学の書籍にも、フロイトをはじめとする精神分析諸派の考え方がさまざまに登場したりもする。
 
こんな風に、精神分析とその言葉はかなり広い領域で流通しているので、知っておくとそのかなり広い領域の書籍の読みやすさが向上する。20世紀に書かれた書籍では特にそうだし、21世紀に書かれた書籍ですら、ときにはそうだ。精神分析はリベラルアーツだと言われていた時期があった(今でもいわれている?)が、実際、かなり広い領域の本を理解しやすくしてくれるという意味では、確かにリベラルアーツであり、教養として機能する。
 
なお、徒手空拳でいきなりフロイトやラカンを読もうとしてもしんどいだけで得るものは少ないんじゃないだろうか。私はフロイトやラカンをいきなり読むより、まず、自分が出会った書籍のなかでなるべくわかろうとしてみてみるか、自分が出会った領域の書籍の解説書や入門書に書いてあるフロイト理解なりラカン理解なりを読んでみるのがいいと思う。かくいう私もラカンは今でもあまりわからないし、インストール済みの進化生物学と戦争状態が続いている。フロイトにしても、面白い・スゲーと思うようになったのはフロイト以外がフロイトについてあれこれ言っているのを読んでから。特別に講義してくれる先生と抄読会を組むのでない限り、いきなりフロイトを最初から読もうとするのは難しいんじゃないかな、と私は思う。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味2 DSM以前の疾患概念や精神医学史、パーソナリティ障害を理解する補助線として

 
次の項目は精神科医とその周辺が今、精神分析を学ぶ意味について。
これも自信ないけど書いてみる。
それと精神科医以外はここは飛ばしていいかも。
わかりにくいし、わかってもらおうって配慮があまりできなかった。
 
精神分析というからには、精神医学とその周辺を理解する際にも、一定程度は役に立つ。というか、知っていないと疾患概念がわかりにくかったり、カンファレンスの時に年配の先生がしゃべっていることが呪文みたいに聞こえる事態が発生するかもしれない。
 
たとえば病態水準とか原始防衛機制とか、そういった言葉には精神分析の考え方のフレーバーが宿っている。ロールシャッハテストやバウムテストといった投影法の心理テストの読み筋にもだ。
 
神経症、という疾患概念については特にそうだと言える。DSM*2の時代になり、そういった言葉は影が薄くなっているし、DSMからは神経症という言葉そのものが消えた。けれども「ストレスを被った時に、人がどのように反応するのか(または、どのように症状を呈するのか)」の原因と結果の関係を考える際や、「その人の生い立ちや生物学的要因によって、ほぼ同じストレスを被っても反応や症状が大きく違うのはなぜか」を考える際のツールとして、これらが引っ張り出されてくることはまだある。DSMが栄えているのに、なぜこれらが引っ張り出されてくるのか?
 
それはたぶん、DSMやそれに連なる現代精神医学が、「その人の生い立ちや生物学的要因によって、ほぼ同じストレスを被っても反応や症状が大きく違うのはなぜか」について神経症の完全上位互換といえる理解の道筋を提供しているわけじゃないからだと思う。DSMらは、神経症に代わる理解の道筋を提供するのでなく、理解の道筋を、放棄した。もちろん統計的傾向についてはDSMらはさまざまなことを教えてくれる。統合失調症や躁うつ病になりやすい統計的傾向とか、ほぼ同じ症状の人でも治療がうまくいきやすい人といきにくい人はどう違うのかの統計的傾向とか、そういうものはたくさん提供してくれている。だけどそれは神経症の完全上位互換ではない。目の付けどころや研究の姿勢が違っているのだ。
 
しぶとく繰り返すが、現代精神医学は良いものだ。けれども目のつけどころや研究の姿勢が違っているからこそ、神経症との互換性にかなりの問題がある。そして今でも日米の精神医学のテキストブックや学会のお題から精神分析や神経症といった言葉が消えきっていないことが暗に示しているように、時々、昔の考えや昔の疾患概念を思い出して考えたくなる場面はある。
 
あとはパーソナリティ障害か。
パーソナリティ障害は、DSM-5ではかろうじて残ったけれども臨床的にはそれほど診断されなくなっている(発達障害圏のスペクトラムや双極性障害圏のスペクトラムでしゃべったほうが今風な場合が多いと思う)。
けれども、いざ、境界性パーソナリティー障害を理解しようと思ったら、やっぱり精神分析の弟子筋であるカーンバーグは避けられない。
 
いまどきはもう、カーンバーグを一生懸命に勉強しようって精神科医は少ないのかもしれないが、それでも境界性パーソナリティー障害を学ぶこと自体がカーンバーグを追想するようなところがある。ひょっとしたら境界性パーソナリティー障害を学ぶこと自体、今後はあまり意味を持たなくなるのかもしれないし、実際、DSMと双璧をなすICD(国際疾病分類)の新版ではパーソナリティーはディメンジョナルな分類へ分解されると聞いている。けれども、そのディメンジョナルな分類じたいも境界性パーソナリティー障害から議論を継承している部分があるので、ただ運用するだけでなく、もっと詳しく知りたいと思ったらたちまち、20世紀以前の議論を思い出さなければならなくなる。
 
だから、ここでも精神分析はリベラルアーツや教養的な意味合いとして生きている。ある診断や疾患概念について議論を遡ると、しばしば精神分析的なものにひょっこり出会う。それは、精神分析がアメリカ大陸の精神医学にすごく大きな影響を及ぼしていた一時代があったからでもあり、ドイツやイギリスやフランス、ひいては日本においても精神分析が精神医学に影響を及ぼしてきたからでもある。ある診断や疾患概念について、今この瞬間だけでなく、過去から現在、そして未来へ至る流れのようなものを知る一助として、精神分析とそのプロダクツを知ることには意味があると思う。こうした場合、カーンバーグやコフート、アンナフロイト、ウィニコットやメラニー・クラインといった人々が遭遇しやすい出会いと思うけれどもいかがでしょうか。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味3 自分自身の盲点やこだわりを知る一助になる(かもしれない)

 
ここからますます怪しくなる。
ちょっと恥ずかしいかもだけど、えい、書ききってしまおう。
 
精神分析は、クライアントのこころについて知ったり治したりするものって思われているかもしれないし、精神分析の治療者の仕事はそうなのかもしれない。ちなみに私はそうではない。精神科医だが精神分析を精神分析として患者さんに実行することはない。それは正規の教育分析を経た精神分析のひとがやることだろう。
 
とはいえ私も精神分析に関心があったし、お互いの病理を指摘しあい、防衛機制について云々する空間でキャリアの最初期を過ごす幸運を得た。ほんのさわりながら、スーパーバイズの機会まで頂戴した。そうした自分自身の見聞と先輩がたの言葉から、精神分析には、クライアントのこころをどうこうする前段階として自分自身のこころについて考えさせられる部分がきわめて大きい、と私は感じ取った。
 
もし精神分析的にクライアントとかかわる際に、治療者が自分自身のこころの性質や自分自身の盲点について自覚的でなかったら、精神分析のことばのひとつひとつは、クライアントのこころについてそのまま反映したものではなく、治療者自身のこころの性質や盲点の色彩を帯びているのに気づかないものになりはしないだろうか。だから精神分析でクライアントのこころについてあーだこーだする(または考える)前に、そのクライアントのこころについてあーだこーだしたり考えたりする自分自身の性質についてできるだけ知って、その治療者自身に由来するバイアスについてできるだけ知っておかないとまずいはずだ。
 
私が好きな精神分析の一派である、コフートの自己心理学という派では、「治療者自身に由来するバイアスを真っ白にするってちょっとあり得ない。バイアス込みでやっていくしかないよね」的で、治療者自身を真っ白漂白しろ、みたいなことは言わない。でもって、他派は治療者自身を真っ白漂白するべきって言いすぎじゃね? みたいなことも言っていた。この、治療者自身を真っ白に漂白すべきかどうかという問題はここでは於いておこう。しかし、コフートの自己心理学でもそうじゃない精神分析の諸々でも、治療者とクライアントのやりとりに際し、治療者自身の性質や盲点について知っておかなければならないし、教育分析がそれを知るための過程でもある点は共通している。
 
だから精神分析は、他人のこころをズバリ考えるためのものである前に、自分自身のこころについて考えたり、突っ込まれたり、ウヘエって思ったりするものなのだと私は思う。そして精神分析的に他人のこころについてあーだこーだと考えるとは、他人のこころと自分のこころの相互関係について(真っ白漂白か、そうでないかはさておき)考え続けることに他ならないと思う。そういう相互関係について考えなきゃいけないと直観させてくれる、力動精神医学とか精神力動論といった言葉が私は好きだ。精神分析、という言葉に比べたら世間に知られていないけれども。
 

(※うちにあるのはこれより版の古いやつ)
 
ところで、精神分析を学べば、かならず自分自身の盲点やこだわりはわかるものだろうか?
 
私は、わかることもあればわからないこともあるのが本当じゃないかと思っている。
わかるよう努めるのが精神分析の治療者のあるべき姿だし、そこまでいかなくても、精神分析が好きなら自分自身をいつも顧み、他人のこころと自分のこころの相互関係について考え続けるってものだろう。
でも、努めることとできることはイコールじゃない。
なかにはぜんぜんできない人もいるだろう。
いや、いる。
っていうか、できるできないのバラツキが大きいから、結局精神分析って廃れたんじゃなかったっけ?
 
教育分析という、時間もお金もめちゃかかる過程を潜り抜けたら全員スーパー精神分析治療者になれるなら、きっと精神分析はもっと栄えているはずだ。でも、実際はそうなっていない。なぜか。それは時間もお金もめっちゃかかる過程なのに、全員がスーパー精神分析治療者になれるわけじゃない、からではないだろうか。
 
その点、DSMは優れている。エビデンスに裏打ちされた診断体系と治療ガイドラインさえきちんと守っていれば、精神科医の卵だってエビデンスにあるとおりの治療成績を出すことができる。できる人、できない人のバラツキも最小化できる。将来的には、生身の精神科医である必要すらなくなってくるかもしれない。アメリカにおいて、DSMが精神分析から主導権を奪えたいきさつは書き始めると長くなるけれども、誰が治療者でもアウトプットが安定している点、再現性が高い点は重要なポイントのひとつだった。
 
自分自身の盲点やこだわりを知る一助になる(かもしれない)と、わざわざ書いたのは、そういうところがあるからだ。精神分析に触れて自分のことがわかるかどうか、わかるとしたらどの程度わかるのかは、人によるとしかここでは言えない。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味4 他人のこころを推測する一助になる(かもしれない)

 
……ということはだ、精神分析をとおしてクライアントの、ひいては他人全般の行動を推測するとは、どの程度できると言えるものだろうか?
 
精神分析なんて知らない人にも、他人のこころが読める・丸見えだと思わずにいられない場面はある。
 
たとえば自分自身のコンプレックスをモチベーションとして、異様にがんばっちゃっている人が、周囲の人からは「あの人は、自分のコンプレックスがモチベーションになってあんなに躍起になっている」と読み取られることは、よくあることだ。でもって、当人はそのことに無自覚で、そうだと指摘されても躍起になって否定することもよくあることだ。当人にとって完全な盲点になっているような防衛機制は、だいたい他人にはおそろしいほど丸見えである。
 
でも、そういう極端な場合を除けば、精神分析をよく学んだからといって他人のこころが読める・他人のモチベーションの源が読める、ものだろうか。あるいは、たまたま他人のこころがわかった・読めたと思ったそれが精神分析を学んだおかげだと言い切れるものだろうか。
 
そういうこともあるかもしれない。だけど慎み深く考える場合、「自分は精神分析をマスターしたから他人のこころがわかるようになった」とはなかなか言えまい。まあそもそも精神分析がクライアントに提供するのは、きっとそういうことじゃないのだと思う。こころのwikipediaを読み上げ、「うん、わかった」「理解した」と言って終わらせるようなものではないはずなのだ。
 
……精神分析を学ぶ意味について書いていたはずが、他人のこころを推測するって段になったら私はちょっとしり込みしている。
それは私が不勉強を恥じているからかもしれないし、他人のこころをわかる、という表現や状況を安易に使ってはいけないと感じているからかもしれない。
 
だからここまでを読んで「なあんだ、精神分析を学んだって一流のメンタリストになれそうにないな」なんて思った人もいるかもしれない。そうかもしれない。けれどもここまでこうして書いてきたのは、私のなかに精神分析に触れる機会があって本当に良かったという思いと、それでも精神分析を学ぶこと・知ることには意義があるという思いを捨てきれないからだったはずなのだ。
 
長い文章になってしまった。
長い文章であること、それ自体は精神分析を学ぶ意味の大きさを必ずしも示さない。
ただ、この長い文章をとおして、私は自分自身が精神分析をとおして何を得たのか、それとどんな姿勢を獲得したのかを振り返ったような気がした。
「今、精神分析に意味はあるの?」という問いをはじめに与えてくれた人への直接回答になっていないけれども、私個人の精神分析観をこのように振り返った。
 

*1:精神分析における精神、とも訳されるけれども、ハインツ・コフートの自己心理学ではpsycheに心と宛て字してあるのでここではそれに倣う

*2:アメリカ精神医学医学会の診断のマニュアル。統計的なエビデンスが圧倒的で、精神疾患の診断と治療を統計的にまとめあげ、分類した大部のものだ。このDSMの大きなマニュアルじたいが読み物として優れていて、ときどき読むと勉強になるし精神科医はしばしば面白いとも思うはずだ。なお、ここでいう大きなマニュアルとは、ポケットサイズのあいつのことではない。殴って人が殺せそうな青色の分厚いやつのことだ。精神分析とはだいぶ遠いけれども、あれは、いいものだ。

「点の成功」と「線の成功」の話

  
人生のある時点で最高・最強だからといって、長い人生が最高・最強とは限らない。
 
多くの場合、人生のある時点で最高・最強だった人は、その前は劣悪な環境でもがいていたり、精彩を欠いていたりする。一時代に栄華をきわめた人のかなりの割合も、一時代に栄華をきわめていた、まさにそのことによって、干支が1~2周した後に衰微や破滅を招くことも多い。例外がいないわけではないとしても、一時代に栄華をきわめ過ぎた人物は、その栄華によってしばしば足を掬われる。
 
「塞翁が馬」とはよく言うけれども、人間の栄枯盛衰は本当にわからない。
 個人それぞれの未来は読みきれない。
 
だから「勝って兜の緒を締めよ」というのはその通りだし、停滞しているからといって人生を諦めてしまうと思い込むのも、人生にネタバレがあると思い込んでしまうことも、厳に慎まなければならないのだろう。
 
 

「点の成功」と「線の成功」

 
そうしたわけで、人生の成否をある時点の成功や失敗だけをもってつべこべ言うのは巧くない。。「人生のなかの"点"を成功の基準にしてはいけない」と言い換えるべきか。
 
大学入試。
就職。
結婚。
 
これらは「点の成功」の最たるもので、それらの達成目標にし、それらを栄華の現れとするような生き方はたぶん危ない。大学に入ってから、就職してから、結婚してからの果てしなく長い時間がむしろ重要で、スタートやピリオドといった節目はそこに様式を与えるようなものに過ぎない。長い時間という「"線"の成功」を意識も前提もしない「点の成功」にはたいした意味は無いし、成功の持続力も乏しい。様式にとらわれている人は、ここのところが往々にしてわかっていない。
 
 さきに述べたように、人間はいつ死んだり病んだりするかわからないから、持続力のある成功を意識しても実を結ぶとは限らない。というか、どれほど恵まれた人生でさえ、泥濘を這う時期もあれば、アクシデントによる中断も起こるだろう。それでも人は「点の成功」だけでは生きていけない。もっと長いスパンでみた、浮き沈みや悲喜こもごもを大前提とした目線でなければ見えないものがたくさんある。でもってその見えないものが見えないと、人生は形骸化・形式化してしまうようにも思える。
 
 無数無限の「点の成功」の集まりによって人生を成り立たせれば良い、という人もいるかもしれない。もちろんその考え方でも構わないと思う。ただし、無限無数の「点の成功」を連ねるような生き方とは、結局のところ毎日のひとつひとつの出来事を大切にし、丁寧に生きるような、結果として「線の成功」を意識している人とあまり変わらないものになるようには思う。
 
 毎日をできるだけ丁寧に。
 うれしいことがあっても悲しいことがあっても為すべきことをして生きる。
 
 こうしたことは簡単のようで簡単ではないから、無限無数の「点の成功」を連ねる生き方、または「線の成功」に忠実な生き方をやってのける人はそれほど多くはない。また、すべての人生がこうであるべきと強弁するつもりもない。「点の成功」を目指し、そこで燃え尽きるという考え方も、本来尊重されるべきだろう。
 
 ところが現代社会は人にさんざん「点の成功」を煽っておきながら、産卵後の鮭や初夏のカゲロウのように人が燃え尽きることを許してはくれない。それなら、表向きは「点の成功」を目指しつつも脳裏には「線の成功」を思い描けたほうが現実的、ということになりそうだ。
 
 この話のすぐ先には「面の成功」とでもいうべき、他人の線の成功との繋がりあいや折り合いの話があるのだけど、あまりブログを書いている暇がないので今日はこのへんで。
 
 

努力しているか否かでなく、努力でアタリを引ける確率・努力できる回数が問題ではなかったか

 
blog.tinect.jp
 
恵まれているか、恵まれていないか。
命がけといえるほど努力しているか、努力していないか。
努力するポテンシャルがあるか、努力するポテンシャルがないのか。
 
これらは相対的で、総論的すぎて、細やかさを欠いた比較ではある。
 
とはいえ親の年収や文化資本の多寡、心理的サポートや社会的サポートの有利不利の総合として、恵まれた環境で育ったと言える人・恵まれない環境で育ったと言える人はいるだろうし、その差異、その競争上の不平等を巡って不満や苛立ちの声があがるのも自然なことだと思う。
 
 

恵まれた環境で育った人が努力してないと思っている人は、そんなに多くないのでは

 
上掲リンク先によれば、スタンフォード大学に入り、かつ書籍を出版した人に関して、(今は消去されている)Amazonのコメントがトリガーとなってブーイングがネットに木霊したという。
 
そうしたブーイングのなかにも「努力しているとは言えない」という声があったかもしれない。
しかし多数派だっただろうか?
違うだろう。
 
とにかくもスタンフォード大学への切符を手に入れた人間が努力していないとは、なかなか思えないものである。でもって実際、くだんの人は人一倍努力をして切符を手にしたのだろう。ブーイングの声の多くも「努力していない」ではなく「逆境を克服してスタンフォード大学に入ったようで、実はそうじゃなかった」的な向きが多かったようにみえた。
 
つまり、恵まれた環境で育って切符を手に入れたのか、恵まれていない環境で育って切符を手に入れたのか、が焦点になっていたようにもみえた。
 
で、くだんの徳島スタンフォードの人は確かな社会的地位のある親元で育ち、周囲からの支援も受けながら切符を手に入れていたのだった(にもかかわらず、自分は逆境にあったと表明してもいたのだった。)。スタンフォード大学の入学生のなかでは、くだんの人とて逆境の部類だったのかもしれない。しかし日本全体の水準でみれば恵まれた環境で育ったように見えただろうし、そのせいで逆境と騙ったと思われやすかっただろう。
 
逆境を超えて難関大学に合格したと言った時、ほとんどの日本人が想像するのは、たとえば貧困家庭で育ったとか、まったく文化資本の乏しい家庭で育ったとか、DVや虐待の絶えない家庭で育ったとか、そういった環境ではなかっただろうか。
 
 

みんな努力している。じゃ、恵まれた環境であることは何が問題なのか。

 
冒頭リンク先で強調されているとおり、恵まれた環境に生まれ育った人だって努力をしている。稀に、そうでない人がいるのかもしれないがおそらく努力をしている人が大半だし、死線をさまようような努力などザラだろう。現代の能力主義社会に疑問を投げかけたマイケル・サンデル『実力も運のうち』にも、以下のようなくだりが登場する。
 

 能力の戦場で勝利を収める者は、勝ち誇ってはいるものの、傷だらけだ。それは私の教え子たちにも言える。まるでサーカスの輪くぐりのように、目の前の目標に必死で挑む習性は、なかなか変えられない。多くの学生がいまだに競争に駆り立てられていると感じている。そのせいで、自分が何者であるか、大切にする価値があるのは何かについて思索し、探求し、批判的に考察する時間として学生時代を利用する気になれない。心の健康に問題を抱えている学生の多さは、危機感を覚えるほどだ。
マイケル・サンデル『実力も運のうち』

これを読み、高学歴に邁進するサラブレッドたちが努力していないと思う人はあまりいないはずだ。こうした努力をさせてもらえること自体が恵まれていると思う人でさえ、いまどきの英才教育が努力を不要にしていると思う人は稀だろう。このあたり、上掲リンク先で高須賀さんが強調している話には迫真みが宿っている。
 
だから、努力しているかどうかは(本当は)たいした問題ではないのだ。まあみんな、だいたい努力している。その結果として一定割合で死線をさまようことにもなる。思うに社会適応とは、そのようなものではないだろうか。野生動物はもちろん、人間たちも基本的には自分の環境で最善を尽くしていて、多かれ少なかれ「のるかそるか」をやっているものである。上昇志向を伴うなら尚更だ。努力できること、それ自体が才能であり環境の所産であるという意見もあるが、ここでは於こう。努力できる人ならば、だいたい人はぎりぎりまで努力している。
 
じゃあ、皆が努力しているなかで、恵まれている人と恵まれていない人は何が違うのか?
 
あえて単純化するなら、恵まれているか否かの違いは、「努力ガチャの質と量の違い」で比喩できるように思う。
 
たとえば10代後半に努力し、結果を求めるトライアル全般を、ガチャを回す行為になぞらえて考えていただきたい。
 
恵まれた環境にいる人が回す努力ガチャには、アタリがふんだんに含まれている。アタリの名前は、そうですね、東京大学入学とかスポーツ選手とか、人脈と言えるような縁を獲得するとか、そういったものをあてがっていただきたい。
 
ひとことで努力と言っても、恵まれた環境にいる人の努力はこのようなものだ:効率的だったり目的に適ったメソッドを伴っていたり、複数の目標にリーチできる多様性や多弾頭性を伴っていたりする。だから努力という名のガチャを回した時、本命のアタリを引く確率が高いばかりだけでなく、アタリの種類も多かったりする。
 
逆に恵まれない環境にいる人が引く努力ガチャには、アタリが少ししか含まれていない。絶無、という場合だってあるだろう。努力をしているのは事実としても、賽の河原に石を積むような努力、シベリアで木の数を数えるような努力、そんなアセスメントのだめな努力をやってしまっている・やらざるを得なくなっている場合も多い。努力家できる素養に恵まれている場合でさえ、アセスメントが弱くて東京大学入学までは難しい・地元国立大学に入るのが精一杯ということも多い。スポーツ選手になるにしても、親がそれを応援できる度合いが低ければアタリを引く確率はどうしても下がってしまう。人脈に関しては、人脈と言えるような縁を獲得する確率が下がるだけでなく、なんなら、腐れ縁に巻き込まれてしまう確率すらあるかもしれない。
 
だから同等クラスの努力をやったといっても、恵まれた環境にいる人とそうでない人では、アタリを引ける確率も、アタリの上限も、だいぶ違っていると言わざるを得ない。そのことは、恵まれない環境にいる人ほど自覚しているように思う。
 
 
そのうえ、努力ガチャを引ける数自体、環境の良し悪しによって変わってくる。
 
恵まれた環境にいる人にとって、努力という名のガチャ、なかでもアタリの混じっているガチャを回すチャンスは親元を離れるまで全般だ。
 
努力はしているだろう。苦労もしているだろう。しかし恵まれた環境にいればいるほど、その努力・その苦労は未来に資するような、アタリ含みのガチャと言えるような、そういう性質を帯びやすい。中学受験。高校受験。大学受験。そして大学受験に落ちれば当然のように大学受験浪人を「させてもらえる」。
 
大学受験浪人とは嫌なものかもしれない。が、浪人させてもらう猶予の無い環境で育った者からみれば、それは「努力ガチャの敗者復活戦」であり、「自分には絶対回せない二回目の努力ガチャ」とうつる。尤も、これも相対的な話ではある。大学受験じたいをさせてもらえない環境で生まれ育った者からみれば、一度でも大学を受験させてもらえるだけで、恵まれた環境とうつる。
 
中学時代にどれぐらい勉強やレクリエーションに没頭できたか、大学時代にどれぐらい授業料や家賃のために苦学生をしなければならなかったか、そういった違いによっても努力ガチャの数は実質的に変わる。若いうちに自分自身に資する努力に集中できればできるほど、その人は多くガチャを回していることになる。逆に、自分自身に資する努力に集中する猶予を与えられない人は、たとえ難関大学に入ったとしても、努力ガチャの数は実質的に減ってしまうし、ひょっとしたら、大学卒業以降のアタリを引く確率さえ下がってしまうかもしれない。
 
そして恵まれない環境にいればいるほど、努力ガチャ、なかでもアタリのふんだんに混じっているガチャを引く回数は少なくなる。
 
たとえば大学受験の機会が一度きり、という高校生は、大学受験浪人をさせてもらえる高校生に比べてガチャを回せる挑戦回数が少ない。そして回数が少ないからこそ安全マージンを意識しながら大学受験せざるを得なくなり、そのため、選択肢は狭くなってしまう。
 
のみならず、自分自身に資する努力をする猶予が少ないほど、アタリのふんだんに混じっているガチャを人生のなかで引ける回数が減ってしまうのだ。たとえば若いうちから親の介護を引き受けなければならない人、いわゆるヤングケアラーが問題になっているが、ヤングケアラーなどは、まさにアタリの混じっているガチャを引く機会から遠ざけられている。親の介護に時間や体力をとられてしまっては、自分自身に資する努力ができなくなるか、少なくなってしまうからだ。そうした人が努力をしていない・苦労をしていない・努力不足だなどとどうして言えるだろう? いずれにせよ、そうした若者が恵まれた環境にいる人と対等に競争し、見事にアタリを引いてみせるのは至極困難だ。
 
(もうちょっとソーシャルゲームの好きな人向けに言い直すなら、恵まれた環境にいる人は、目当てのSSRが出る確率が10%、目当てではないSSRが出る確率が20%ぐらいのガチャを人生のなかで10回引けるようなものだ。)
(一方、恵まれない環境にいる人は、目当てのSSRが出る確率も目当てでないSSRが出る確率も、それよりずっと少ないガチャを引かざるを得ない──たとえば目当てのSSRが出る確率が1%で、目当てでないSSRが出る確率が2%であるような。そしてガチャを人生のなかで引ける回数自体も少ない。)
 
 

努力ガチャのアタリの割合と、引ける回数が違っている

 
だから問題にすべきだし、実際、問題とみなされているのは、「努力しているか努力していないか」という問題系ではない。少なくとも私の目にはそのようにみえる。
 
問題とみなされている問題系は、アタリのふんだんに混じったガチャに比喩できるような努力へのアクセシビリティの差である。または、努力をアタリへと導くアセスメントの差でもある。そして今回の騒動の場合、アクセシビリティやアセスメントが相当に優れた環境にいるはずの人が、そうではないと騙った(ように見えた)ことが火種となり、ネット上の大火に発展したのだと思う。
 
しつこく繰り返すが、恵まれた環境か否かとは相対的な問題に過ぎない。それこそ徳島からスタンフォード大学に入り込むのは、針の孔を通すような、恵まれない環境にいる人が東京大学に入学するようなトライアルだったのかもしれない。少なくともアメリカのエスタブリッシュメントの子息がそうしようとするのに比べれば逆境と言えるだろうし、当人が逆境を克服したと胸を張りたくなるのもわかる気がする。
 
とはいえ、そもそもスタンフォード大学に挑むという発想じたい、その環境が質・量ともに最高クラスのものだったことを暗に示している。恵まれない環境で呻吟している若者は、東京大学に挑む努力ガチャまではぎりぎり想像可能かもしれないが、スタンフォード大学に挑む努力ガチャなんて想像すらできないのだから。でもって、実際、国内有数の環境のなかでトライアルがなされたことが後付け的に判明したのだから、そこで「逆境を克服した」と言われても納得できない人が現れるのも、これまたわかる気がする。
 
「努力は身を助ける」というけれども、その努力の質、その努力の試行回数、そのアセスメントのクオリティにはあまりに大きな差がある。これが、「努力は身を助ける」というフレーズに大きな影を落としているさまを、本件はよく炙りだしているよう私には思われたし、そのような社会状況を恵まれない環境から見上げている人が虚無感を持つのは避けられないだろうとも思う。
 
にも関わらず、資本主義が、社会が、家庭が、内面化された規範が、努力せよ、アチーブせよと迫ってくる。恵まれた環境の人だけでなく、恵まれない環境の人にまでもだ。その、努力という名の一見公正にみえるガチャとその強制が、実は、ものすごい格差を孕んでいることを高所大所から告発したのがサンデルの『実力も運のうち』の一面だった、と私は思った。同書の帯に書かれている、”「努力と才能で、人は誰でも成功できる」この考え方に潜む問題が見抜けますか?” という問いは、今日的で切実なものではないだろうか。
 

 
 

石川県、浄土真宗、黒川仏壇店のCMのある風景

 
私は石川県の出身で、たぶんいろいろな大乗仏教、特に当地で大きな割合を占めている浄土真宗の影響下で育った。それでもって、無意識のうちにその宗教観や宗教文化をプリインストールされてきた、のだと思う。仏教なんて、浄土真宗なんて、と思う人もいるかもしれないし、私より若い世代では、当地でもそうしたプリインストールは弱くなっていることだろう。でも、私の世代ぐらいまではいろいろな筋道をとおして大乗仏教観が内面化される余地があった。そのあたりについて、急に書きたくなったので書いておく。
 
 

テレビCM、特に黒川仏壇店

 
「テレビCMの影響なんて」と思うかもしれないけれども、毎日毎日、CMを入れられて刷り込まれるものはあったはずで、特に家庭や地域行事と矛盾しないかたちで流れてくるCMの影響はバカにならなかったと思う。
 
・一休さんの米永
 

www.youtube.com
 
この「一休さん一休さん……ともしびともす心、一休さんの○○」というCMは、○○を他のお店に変えたバージョンが他県にもあることがわかっている。で、石川県の場合はそれが米永仏壇店で、ことあるごとにこの仏壇のCMを見ていた。
 
 
・黒川仏壇店のCM
 

www.youtube.com
 
自分的に一番インパクトがあったのが、この、黒川仏壇店のCMだ。この黒川仏壇店のCM、アニメの再放送の時間帯に放送されることが多くて、見かける機会がすごく多かった。自分の記憶では、『Zガンダム』か『ガンダムZZ』の時にもこのCMが流れていて、VHSビデオで再生するたびにこれが流れた。「心に、仏様」「あの子たちにもわかる日が来る」というフレーズは忘れがたく、子ども心には「わかんねーよ」という気持ちを沸かせ、年を取ってからは「自分の子どもにもわかる日が来るんだろうか」といった気持ちを沸かせた。
 
上掲Youtubeの、古いほうのバージョンが記憶にこびりついているやつだ。たかがCMとはいえ、仏壇をまつり、祈るという習慣が当然のように引き継がれていく前提の、石川県らしいTVCMだと思う。それを私は何百回も刷り込まれた。
 
 

地域からの影響

 
子ども時代には、近所のお寺の日常行事に参加する機会があった。たとえば報恩講という浄土真宗の行事など。子ども時代の認識として、お年寄りに連れられお寺に集合して、お年寄りは何か難しいお話をしていて、子どもはおやつをもらう日、そこらで遊ぶ日といった認識だった。ともあれ、よくわからないながらにお寺に出かける行事がときどきあった。地域の有線放送は、こうした仏教行事のたびにアナウンスをしていて、「ご近所お誘いあわせのうえお出かけください」と言っていた。
 
それとお葬式。近所で誰かが亡くなったと有線放送が告げるたび、祖父母や両親がお葬式に出向いていた。今から思うとその頻度はなかなかのもので、いわゆる家族葬ではまったく無かったことが思い出される。子どもである私がそうしたお葬式の場についていくことは少なかったけれども、たまに自分もお葬式に参列させられ、お経を聞いて座っているように言われたり、別室に用意されたおやつを子ども同士で食べていたりすることがあった。子ども心に、浄土真宗系の葬儀と真言宗の葬儀の違いに驚いて、宗派の違いの片鱗を意識させられたのも覚えている。
 
昭和の終わり頃に祖父が亡くなった時も、葬儀は地元のお寺で執り行われ、地域の人などが大勢お寺に来ていた。私はまだ小学生だったので葬儀の手伝いをするといいながらも、お寺に泊まるという体験、お寺のなかで過ごすという体験をどこか楽しんでいた。とはいえ葬儀も終わり頃を迎えると、それが別離の式であることが痛感され、納骨の前後、初めて耳にするメロディラインの念仏を耳にしたことを鮮明におぼえている。
 
あと、近くの集落に「お寺さんに通う子ども」というのがいた。寺子屋の末裔みたいなものだったのか? お寺さんに通う子どもたちは、そこで習字をやったり、学校の勉強を習ったり、お経を学んだりしていた。習っているお経は浄土真宗のものなので、浄土三部経だったと思う。学校でお経を暗唱してみせる同級生が恰好良かったので、これも私にとっては仏縁の一部になった。なぜなら、後に私はやたら写経したりお経を覚えにかかったりしたからだ。
 
 

日常のお勤めとお坊様(ごぼさま)

 
そうした仏縁のなかで一番影響があったのは、なんといっても、日常、というか自宅でのお勤めの風景とお坊様(これを、北陸地方の浄土真宗の家ではごぼさまと呼ぶ)によるお参りだったように思う。
 
祖父が死去してからというもの、我が家の仏壇は毎日のように開かれ、灯りがともされ、祖母がお経を読んでいた。それを補強するように、相当長い期間にわたって地元のお寺のごぼさまがいらして、お経をあげ、お説法をしていったのだった。月命日、というやつだ。
 
私は黒川仏壇店のCMを見て過ごしたせいか、祖母がお経を読む場面に同席することも多く、ごぼさまが月命日にお経をあげ、お説法をしていく時にもたびたび同席していた。
 
ごぼさまのお説法は、概ね、阿弥陀様のありがたさ、仏様のありがたさ、死にゆく運命の向こうに西方浄土があるといったお話で、それらは、小さい頃から私に刷り込まれた浄土真宗の雰囲気とも矛盾しなかった。幾つかのお説法は今でも記憶に残っていて、今でいう認知症のご老人が死去の数日前に突然シャキっとして、「私は間もなく浄土に旅立つということ、阿弥陀様が迎えに来てくれることを知りました」と述べたエピソードが特に忘れられない。そのエピソードを踏まえて、ごぼさまは、阿弥陀様が最後には迎えに来るんだ、的に話を締めくくったのだった。
 
こうしたお説法はほとんどが昼間に行われるもので、学校や会社に行っている人は耳にしないものだったはずなのだけど、不登校時代には毎回のようにお説法を耳にした。お説法を聞いているのは私と祖母の二人だけだったけれども、ごぼさまは実にさまざまなバリエーションのお説法を語り、法話のネタは無限にあるようだった。そのたび祖母がお茶とお茶菓子を出すのだけど、ごぼさまはお茶は必ず飲み、お茶菓子は袈裟の袖に入れることのほうが多かった。無理もあるまい。毎日何軒も訪問し、そのたびにお茶とお茶菓子を出されるのだから、全部食べて回っては糖尿病になってしまうだろう。
 
あるとき、祖母が用事で出かけなければならず、私が一人でごぼさまの御接待を任されたことがあった。ごぼさまはいつものように座り、いつものようにお経を読んだ。それが終わった後、私はちょっと緊張しながら祖母が用意してくれたお茶菓子、お茶、ぽち袋を差し出すと、ごぼさまはお説法をするのでなく、いつもと違い、私自身を気遣う言葉をかけてくれた。その言葉は失念してしまったが、そのまなざしは今でもよく覚えている。そして祖母のいる次の月命日からは再び、いつものようにお説法をしたのだった。
 
 

真言宗から浄土真宗に帰りつく

 
そんな具合に、私は石川県の大乗仏教、とりわけ浄土真宗を空気のように呼吸し、その雰囲気のなかで育てられてきた。石川県を離れ、大学に出てからはそうした雰囲気から切り離されてしまったけれども、縁というのはどこかで繋がっているもので、その後、私はさまざまなところから仏縁フラグを回収して、20代の頃は仏教全体の見晴らしを見て回ることに夢中になった。そして俗世で一生懸命に生きていくための宗教として、たぶん真言宗とその周辺宗派が良いのだなと自分自身で思うようになった。その名残りは今も残っていて、ときどき護摩を焚いてもらったりしているし、機会があれば、四国八十八か所を自分の足で踏破してみたいとも願っている。
 
けれども年を取るにつれて、そういえば、浄土真宗っていいもんだな、としみじみ思い返すことが増えてきた。それは、ごぼさまのお説法を一緒に聞いていた祖母が亡くなったせいかもしれないし、浄土真宗の僧侶であった母方祖父が亡くなったせいかもしれない。そのたびに私が目にし、耳にしたのは浄土真宗の葬儀であり、お経だった。耳慣れたお経。見慣れた仏壇。そしていつの間にか随分年を取っていた自分自身と、親族たち。
 
いちばん浄土真宗から遠ざかり、奈良仏教~平安仏教にいちばん近づいていた頃の私は、将来の私自身について「やがて自分自身で道を切り開くことに疲れた時、結局、浄土真宗に帰って阿弥陀様の救いを待ち望むようになるだろう」と予測していた。ただ、それが起こるのは60代に入ってからか、病を得て死期が見えるようになってからだと思い込んでいた。ところが実際にはそれよりずっと早く、私は南無阿弥陀仏に回帰しかかっている。
 
南無阿弥陀仏と唱える以外にもいろいろあるし、いろいろ大乗仏教したっていいじゃないという思いは今でもある。そして相変わらずキリスト教文化とその思想の末裔にも、しばしば胸を打たれてしまう。しかしそれはそれ、これはこれ。郷土の宗派に対する思いが日に日に高まっているのを感じる。まさに、三つ子の魂百までだ。
 
今、仏壇に向かって浄土三部経をあげているのは祖母ではなく、母だ。それほど遠くない未来、墓や仏壇の形態が今とは異なった何かに変わることがあるかもしれない。だとしても、信仰と様式と祈りの精神はなんらかのかたちで私が継承していくのだろう。
 
こうして、黒川仏壇店の「心に、仏様」「あの子たちにもわかる日が来る」は、私の内において実現した。南無阿弥陀仏は、阿弥陀様が浄土まで來迎してくれるという浄土真宗的な約束の言葉であると同時に、その信仰を後発世代へと伝えていくキーワードでもある。そうした約束とキーワードのなかで育ったことを、私はありがたく思う。
 

ロボットやアリとして「現代人らしく生きる」ということ

 
 
 
 
 
anond.hatelabo.jp
 
冒頭リンク先の文章は、結婚や子育てをするでなく、仕事→給料→趣味という生活のうちに自己実現が欠如している、その実存的悩みを吐露したものだ。
 
文中から察するに、結婚や子育てが自己実現の一環をなし、実存的な悩みを解決してくれるような期待が仄見えるし、それは結婚や子育てをしていない人に起こりやすい期待かもしれない。その一方、世の中には結婚や子育てが自己実現の一環をなさず、承認欲求や所属欲求を獲得する糸口にすらならず、重荷になっている人もいる。
 
だからこの文章の重心は自己実現とその欠如、自分のためにでなく誰かのために生きざるを得ない(または生かされている)ことの虚しさや交換可能っぽさやBOTっぽさ、なのだろうと受け取った。
 
こうした問いかけに、ポジティブな回答を提供するのも不可能ではない。実際、ついているはてなブックマークコメントをみれば様々な考えが述べられていて興味深い。たくさんの人が、さまざまな方法でこの問いの答えらしきものを書いている。なかには実践できるものもあるように思う。
 
でも、今日の私はそういう気分ではなく、逆に、私たちのBOTっぽさのぬぐいがたさ、脱出不能っぽさを強調したい。
自己実現などマズローの蜃気楼でしかなく、私たちは茫漠とした肉BOTの世界を生きて、生きさせられて、生産させられて、多少の境遇差はあっても大同小異の域を出ないのではないか、と私は言いたがっているらしい。仕方ないじゃないか、という思いと、それでいいんだよ、それがいいんだよ、という思いもある。否定したい思いと、肯定したい思いが相半ばするような気持ちを、まとめられないものだろうか。
 
 

自己実現は馬を走らせる幻の人参ではないか

 
まず自己実現、という言葉の定義について。マズローは自己実現について厳密な定義づけはしていないが、おおよそ、以下のような理解で良いのではないかと思われる。
 

 自己実現した人の定義はいぜんとして曖昧であったが、マズローは大まかに次のように記述した。
「自己実現とは、才能・能力・可能性の使用と開発である。そのような人々は、自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる」。
 消極的な基準としては、心理的問題・神経症あるいは精神病への傾向をもたないことがあげられた。自己実現した人は、人類の中の最良の見本、マズローが後に「成長している先端」と名付けられるようになったものの典型である。
『マズローの心理学』より

 
この成長している先端とは、たとえば研究やスポーツなどといったなんらかの分野で先端的技能や先端的業績に辿りつき、さらなる高みを目指している人がそれにあたると思われる。まず、これが難しく、達成したとしても人の一生のなかで先端に居続けること自体が難しい。稀にそうした人生もあるかもしれないが、おおよそ、凡夫が目指せる境地ではない。各方面の秀才ですら、たいていは一時的にしか達成できない状態だろう。
 
"自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる"、というフレーズも厄介だ。この条件を満たすためには、他人と比較して嫉妬するようなキョロキョロしたところがあってはいけない。本当は自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のこととしてしがないサラリーマンをしている人でも、他人と比較して嫉妬してしまい、自分はもっと伸びたのではないか、などと羨んでいてはこの条件には該当しなくなってしまう。*1
 
まあそれでも一時的にしても自己実現にたどり着いたとしよう。
で、置き換え可能なBOT感がなくなったと本当に言えるのだろうか?
 
自己実現について考えた時、私は、マズローの心理学が産業界に受け入れられ、例の、マズローの欲求段階説ピラミッドが今日でもまだ引用されていることに思わずにいられない。欲求段階説のピラミッドが古い古いと誹りを受けてもなお、繰り返し引用されているのは、産業界との親和性が高いこと、労働者や実業家が生産効率を向上させていくのに都合の良い言説だったからでもある。ドラッカーなどもそうだが、産業界がたびたび引っ張ってくる啓発的な言説は、どれほど人間の可能性を謳っているようにみえても、それは資本主義に適合する詩であり、生産性や効率性に貢献する社畜の歌である。ここでいう社畜とは、文字通り会社の家畜という意味だけでなく、社会の家畜という意味を含んでいると付言しておく。労働者は会社の家畜をとおして社会の家畜をやっているし、資本家や経営者はもっと大きな規模で社会の家畜をやっている。いずれにせよ、マズローやドラッカーのいざなう理想には、資本主義のユニバーサルタグがついている。
 
自己実現。至高体験。
しないよりはしてみたいかもしれない。だけど、それらもまた、生産性や効率性を至上命題とする資本主義の、そして現代社会の掌の上でのワンシーンに過ぎず、レアで、一過性に過ぎないものでしかない。なにより、そうした自己実現や至高体験は、ちょっと深く考えてみれば、別に自分がそうならなくっても構わないことでもあったはずなのだ。たとえば蒸気機関のワットやiPhoneのジョブズはそれぞれにたいした人だとは思うけれども、ワットやジョブズがいなくても蒸気機関やiPhoneに相当するものはやはり世の中に現れただろう。よほどの例外を除いて、偉人や有名人すら置き換え可能なBOTではなかったか。椅子取りゲームのユニットではなかったか。芸能人や研究者はどこまで唯一無二だろう。世の中には、自分自身のことを唯一無二だと思い込めている幸福な人もいる。が、その人がいないならいないで、ほんの少しだけ運の悪かった同僚やほんの少しだけ間に合わなかった後輩がその位置を占めていたはずなのだ。
 

自己実現できていない会社員って置き換え可能なbotでしかないわなぁ。むなしくなる。
無私な毎日だわな、ほんと。宇宙人が見たら、あまりの規則性に驚くと思う。人間がアリの習性に驚くように。

 
だから、かりに自己実現したとしても、そんなのは、ちょっと珍しい役割を引き受けた働きアリの一匹でしかないのではないだろうか。
今日の発明発見や創作の相当広い領域は、大局的にみれば、一人で作っているというよりみんなでつくっているのであり、時代がつくっているのでもあり、自分がやらなくても誰かが似たようなものを創りだす可能性が高い、そんな何かだ。そのうえグループによる研究や創作もあるわけだから、自分、というものに拘って発明発見や創作を見つめるのは、自己愛を充たすには適していても、事実からは遠い。そうした諸々を承知のうえで、それでも何かに挑む、何かを創るという行為には喜びが、フロー体験が伴うとは言える。文脈によっては、私はそのフロー体験をありがたがってみることもあるのだけど、今日はそういう気分じゃない。脳汁が出てるだけじゃねえか。ずっと出ているわけでもなし。唯一無二の脳汁であるわけでもなし。
 
自己実現も含め、希少で、ありがたいものを夢見て、結局、目の前にぶら下げられた幻想の人参に向かってダッシュし、生産性や効率性を搾り取られて社会のネズミ車を回しているのが私たちなのだから、どこまで行っても社会の掌の上でしかない。そして社会の内部において私たちは常に群体であり、その生態は、ギトギトの個人主義者が思い込んでいるほど個人主義にそぐうものではない、と私なら思う。
 
 

アリの一匹として、社会の細胞のひとつとして、ただ生きる

 
それらを踏まえたうえで、私たちが生きて暮らすとは、一体どういうことなのか見つめ直してみる。
 
私たちはしばしば、取り換え不可能な社会関係やかけがえのない活動をとおして、実存を、自分が生きる意味や生きがいを見出す。
承認欲求や所属欲求を馬鹿にしつつも、それらを心の支えに生きていたりもする。
きっと、そのほうがメンタルヘルスにも良いだろうし、個人主義的イデオロギーにも、資本主義的要請にもかなっていよう。
だからそういう思い込みが可能で、しかもメンテナンスできる人はとても幸せな人ではある。冒頭のはてな匿名ダイアリーを書いた人が夢見ている正解とは、結局、こういった「実存があると思い込めて、承認や所属の欲求にももたれかかっていられて、しかも、それをメンテナンスできる人」なのかもしれない。
 
が、本当じゃないな、とも思う。
 
人はもっとバラバラで、思い通りにならず、家族や子どもをとおして獲得できるアイデンティティとて一過性でしかない。自己実現だのフロー体験だのは、なおさらだ。賢者タイムみたいなもの。それか、衰退の約束された有頂天のようなものだ。
 
そうやって心細く、思い通りにならない生に生まれてしまって、管理のなかで生きて、管理を内面化して、よく学びよく働きよく年を取っていく世のならいを漫然と受け入れながら、それでも生きていく、生きざるを得ないのが人間の実態であると今日の私は特に思う。「そういう一面が人間の生にはついてまわる」と、トーンを下げて言い直すべきかもしれないが。
 
人間は生きている限り苦しく、空しく、なんのために生きているのかよくわからない境地にあり、思いつきと思い込みと偶発的才能によって時々自己実現や実存を幻想することはできても、それらも無常でしかないので結局ダラダラ生きて生かされているのだと思う。じゃあ安楽死? それを決めるのも社会であり制度であり、たぶん、資本主義も含めた体制ですよね。我々が決めていいものじゃない。でもって体制はたぶん、ロボットのように働けちゃう私たちに容易く安楽死の門はくぐらせないだろうし、安楽死しようよではなく、もっと楽しく生きようよとか、もっとポジティブに生きようよとか、もっとあなたらしく生きようよとか、声をかけ、支援を促すだろう。言い換えれば、ロボットのように働けちゃう私たちはもっと楽しく生きなければならないし、もっとポジティブに生きなければならないし、もっとあなたらしく生きなければならない、のだと思う。少なくとも、そういう読み換えは可能だ。
 
だから本当はアリのように、社会の細胞のひとつとして生きなければならない私たちにせいぜいできることは、せいぜい趣味や余暇を楽しんだり、家族や友人も含めた社会関係などをとおして実存を幻想したり、それぐらいのものだと思う。それぐらいのものだ、と書いたらたいしたことないように思えるかもしれないけれども、一匹一匹のアリである私たちにとって、案外それが重要だったりする。くだらないことに入れ込んだり、お笑い芸人に楽しませてもらったり、プロ野球やプロサッカーの結果に一喜一憂する、そういうひとつひとつだって、案外生きることの肝心な要素たり得るのではないだろうか。
 
と同時に、私たちにせいぜいできることは、私たちがせいぜいできなければならないことでもある。趣味や余暇は、仕事と同じく、ロボットとしての人間やアリとしての人間ができなければならないこと、そう言って語弊があるなら、できていることが望ましいことだ。私たちが社会に趣味や余暇を求めると同時に、社会は私たちに趣味や余暇を求めている。そういうものとして、私たちは、生きて、生産して、消費しなければならない。こう書くと人間はなにやら悲惨で悲観的で重たいもののように感じられるかもしれない。けれども体も心もよく訓練された現代人は、こうしたことを空気を吸うようにやってみせる。そして私には生きがいがあります、実存がありますと進んで証言してくれたりもする。よくできた現代人とは、そのようなものかもしれない。
 
オーライ(なにが?)。
冒頭リンク先の筆者のように、それか今日の私の気分のように、人はときに迷ったり嘆いたりする。ロボットのような生、アリのような生、社会から期待され資本主義的体制に最適化された生に対して、ふと、素面になってしまう瞬間がある。幻想の人参を取り戻さなければならない。ロボットのような生やアリのような生に実存の覆いをかぶせ、現代人らしく生きてみせるのだ。本当によくできたBOTは、実存について悩んだりはしない。
 
 

*1:マズローは、持論の適用できる範囲から神経症~精神病の傾向を持つ人を外しているので、他人と比較して嫉視するようなところのある人間は適用外、ということになるのかもしれない。ちなみにここでいう神経症にしても、マズローのいうそれはICD-10のF4圏などと比較すれば広範囲をカバーしており、精神科や心療内科を受診していない者が広く含まれると想定すべきだろう。マズローは神経症かどうかの判定を概ねホーナイに委ねているので、ホーナイの神経症的人間、神経症的人格が参照先となり、ならば、明らかにサブクリニカルな層を含んでいる。で、話は戻るが、SNSの時代、あまりにも他人が見えてしまう現代において、ここでいう神経症的人間にならずに生きるとは……どれぐらい簡単だろうか? 今日の生育環境で神経症的人間たらずに済む与件とはどのようなものだろう? 結構難しそうに思える。