シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

朝日新聞『耕論』にて「ほどよい距離感」についてお話しました

 

 
夜になってしまい宣伝になっていませんが、1月8日の朝日新聞『耕論』にて、いまどきの距離感についてインタビューいただいたものを掲載していただきました。文化人類学者の小川さやかさん、芸人の土屋伸之さんのインタビューと一緒に読むと着眼点がいろいろで楽しいのではないかと思います。朝日新聞朝刊をお取りのかたは、ぜひご覧いただけたらと思います。
 
さておき、人と人とのほどよい距離感は環境やコミュニケーションメディアが変われば変わります。メンタルヘルスに望ましい距離感を維持するためのテクニックも変わるでしょう。
 
たとえば人と人のコミュニケーションが居酒屋や職場でしか起こらなかった時代・普及したての携帯電話でメールを送りあっていた時代・いつでもどこでも動画を送受信できる時代では、コミュニケーションも、そのための方法論も違います。LINEやSNSが登場してからは「いかに返信しないか」「どのタイミングで返信するか」がますますテクニックとして重要になりましたね。
 
そして今、新型コロナウイルスが広まり、zoomの普及や仕事のリモートワーク化が加速しましたから、コミュニケーションも、心地よい距離感を維持するためのテクニックも変化の真っ最中にあるのだと思っています。
 

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
マクルーハンやメイロウィッツといったメディアの預言者を真に受けるなら、たぶん、これで新型コロナウイルスが克服されたとしてもコミュニケーションとその距離感は変わってしまうのでしょう。衛生上の問題もあって、つばが飛ぶような距離で密にコミュニケーションする機会が減って、それより疎な、お互いのみたいところだけ見て見せたくないところは隠しあうコミュニケーションが増えると思われます。そのほうがお互いに迷惑をかけあうこともありませんから。
 
と同時に、(これはいままでの延長線上の変化ですが)文章でのアウトプットやインプット、写真や動画でのアウトプットやインプットが社会適応の要件として重要性を増し、そのような能力に優れた人が優位を得やすくもなるでしょう。
 
ただし、それでface to faceなコミュニケーションの重要性がどこまで下がるかは、わかりません。オンラインのコミュニケーションは、現時点では、偶発的な双方向的コミュニケーションにあまり向いていない、控えめに言っても盛り場やイベントでの偶発的なコミュニケーションに勝るほどに双方的なコミュニケーションの導線として優れているとは思えません。言い換えれば、オンラインのコミュニケーションは、既に知り合った相手と知り合ったコミュニケーションには向いていても、偶然の出会いという点で迫力が足りません。
 
このため、(繰り返しますが現時点では)「すでに顔見知りでコネがあること」「face to faceな、つばが飛ぶような距離でのコミュニケーションとそのための場」が一種の希少性と特権性を帯びているようにも思います。ホモ・サピエンスはもともとface to faceなコミュニケーションをしてきたことを思うにつけても、face to faceなコミュニケーションが完全に廃れてしまうとは思えません。
 
ただ、face to faceなコミュニケーション無しで済ませる場面が増えれば、そういった旧来のコミュニケーションに慣れる機会は減るでしょうし、それは子育てや精神的成長や配偶に影を落とすのではないかとも思います。長いスパンで考えれば、子育ても夫婦も家族もなくなるのかもしれませんし、こうした仕組みに慣れた人類は衰退してそうでない人類にとってかわられるのかもしれませんが、短いスパンで考えれば、メンタルヘルスや流行、社会問題への影響をいろいろ考えたくなります。
 
とはいえなにも悪いことばかりとは限らず、自動車や電車の普及が人々の運動不足を招く一方でつちふまず偏平足を身体障害でなくしたのと同じように、何かの不足を招来するだけでなく、何かの障害をチャラにすることもあるでしょう。そうしたプラスの影響も見定めてみたいものです。
 
最後に拙著の宣伝も。
今回のインタビューは、拙著『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の第六章に近い内容なので、ご関心のある方は読んでみていただけたらと思います。この書籍は、このたび「紀伊國屋じんぶん大賞 2021」の4位に選ばれましたので、本屋さん、特に紀伊國屋書店さんの系列などに置いていただいていると思います。
 
今後ともどうかよろしくお願いいたします。
 
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 

多様な社会と、他説を否定したい私達の矛盾がわからない

 
新年あけましておめでとうございます。
年をまたいでも元気が出ないので手短に。
 
1月3日、映画『天気の子』が地上波初放送された。
 

天気の子

天気の子

  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: Prime Video
 
予想どおり、twitterにはいろいろな意見や感想が充満していて賑やかになっていた。『天気の子』のような作品にいろいろな意見や感想が出てくるのは似つかわしいことだと思う。いろいろな意見や感想が出てくるのは、視聴者がさまざまな考えを持っていることの反映に違いないからだ。
 
が、自分の意見や感想を良しとするだけでなく、他人の意見や感想を否定したい人、殲滅しようとしている人も見かけた。そういう人の割合は全体の1割もいたかどうか。が、割合の高低はともかく、そういう人が存在したことははっきりと思い出せる。
 
『天気の子』のような作品に対していろいろな意見や感想が出てくる社会は、ひとつの意見や感想だけが出てくる社会──たとえその意見や感想が"正しい"としても──よりもよほど健全であると私は思う。ひとつの娯楽作品に対し、いろいろな意見や感想が出てくるのはいいことだ。
 
ところが実際には、一定の割合で他人の意見や感想を否定したい人・殲滅したい人が出てくるのである。
 
『天気の子』では他人の意見や感想を否定しない人でも、自分が関心を持っている別の領域では否定や殲滅を望む人もいる。たとえば芸術家の誰それ、小説家の誰それについて、他人の意見や感想を否定したい人などいくらでもいる。ことが政治や思想、利害に関連した問題になれば、他人の意見や感想を否定するのがもっと当たり前になってくる。多様な社会において、ひとりの人物、ひとつのイシューにいろいろな意見や感想が出てくる社会は、そうでない社会よりもよほど健全であるはずだけど、現実にはその一方で、その多様性には言論の殺し合いというか、単なる自説の肯定だけにとどまらない、他説の否定が伴っている。
 
「多様な意見や感想が存在することと」「他説の否定や殲滅は同時に成り立つことだ」と突っ込みを入れる人もいるかもしれない。そのとおり。多様な意見や感想が存在しつつ、その意見や感想が言説空間で鍔迫り合いを続けているのだからそれでOK、という見方もできる。政治や思想や利害をゼロサムゲームととらえるなら、猶更そのとおりかもしれない。そしてアメリカ大統領選挙で候補者同士がお互いのネガティブな要素をことさら指摘することが示すように、それはメソッドとして有効なのだろう。
 
だけど、そういうゼロサムゲームを続けていては、言説空間のパイの取り合いが続いてしまう。それどころか、お互いをわかりあったり妥協を形成したりすることはどんどん難しくなるし、その、難しさがほとんど極まったのがここ何年かのインターネットの言説空間ではなかっただろうか。
 
それに、多様な意見や感想の存在が、否定や殲滅の平衡状態に依存しているとしたら、どちらかの意見や感想がマジョリティを占めるようになってしまったらマイノリティとなった意見や感想はどんどん否定され、文字どおり殲滅されてしまう。少なくとも、人前では言えない・匿名のネット空間でしか存在できないぐらいまでは殲滅され得る。
 
私たちは、個人の意見や感想を重視する国に住んでいるということになっているし、インターネットの言説空間をみる限り、実際、そうした自由は今のところ保たれていると思う。
 
他方で、その自由のなかで私たちはしばしば、他人の意見や感想を否定し殲滅しようとする。結果、ときにはひとつの意見や感想が退場を余儀なくされることもある。それが、どこまで望ましい意思決定のプロセスと言えて、どこから望ましくない意思決定のプロセスと言えるのか、私はいまもってよくわからない。それとも「これでいいのだ」と言ってしまえばいいのだろうか。
 
というよりここ数年、考えれば考えるほど、他人の意見や感想を否定し殲滅しようと振舞うことが当たり前の言説空間のなかで、多様性を重んじる社会なるものと、個別の個人やグループが他人の意見や感想を否定し殲滅しようと振舞うことの矛盾がどのような整合性を持っているのか、自分がよくわかっていないということに気づいてしまった。
 
粗雑な類推をすれば、なんらかの大義名分を背負っている時、人は、他人の意見や感想を否定したり殲滅したりすることに正当性を獲得するのかもしれない。だから大人はその正当性を巡って争い、逆に言えば、正当性が浮かび上がってくるまでコンセンサスができあがらない(または政局と呼ぶに値するものが訪れない)のかもしれない。
 
いやいや、私はそんな「この整合性のよくわからない状況のなかで具体的に勝つ方法」に関心があるわけじゃない。「だから、もっと人殺しの顔をしろ」とここで蒸し返したい気分なわけでもない。
 
それ以前の問題として、めいめいが他人の意見や感想に not for me と言うに飽き足らず、実際には否定欲や殲滅インセンティブを持っていて、今にも他説を視界から締め出そうとしていて、たぶんそれが政治的にも有効だから実際そうせずにいられない一方で、多様な社会という不思議な看板に一定の尊重を払っている(ことになっている)この状況に一種の浮遊感をおぼえて、自分が地に足がついているのか、そうでないのかわからなくなっていると多分私は言いたいのだと思う。
 
……去年の後半から「わからなくなっていると私は言いたい」ばかりブログに書いている気がするな。そして私が今、わからなくなっていることを、わかっていることらしきものに変換するには時間も本代もたっぷりかかりそうな予感がする。わけがわからないまま変なことを言い出し、言葉の世界で遭難してしまう怖さも感じる。それか、ずっとわからないままなのかもしれないし、わかってはいけないのかもしれない。
 
人々が、多様な社会というものをなんとなく良いものとみなしながら、それでいて他説の否定や殲滅、排斥にせっせと励んでいるのは(または、励んでも構わないことになっているのは)、ダブルスタンダードのようにみえてダブルスタンダードではないのだろう。というか、そんなものがダブルスタンダードと言えてしまうなら、あの政治家もあの評論家もツイッターやはてなブックマークの人々もダブルスタンダードで矛盾しているということになる。
 
ダブルスタンダードがダブルスタンダードではなく、矛盾が矛盾でないとしたら、そこには筋の通った何か、道理と呼ぶに値する何かがあってしかるべきだろう。『シロクマの屑籠』は、そういうことがわからなくなってしまったp_shirokumaの書く、益体もないブログですが、それでもよろしければどうか今年もよろしくお付き合いください。
 
 

「適切なプレゼント=コミュニケーション能力」と考えていたら世の中も自分もわからなくなった

 
ご飯(30代独身会社員女性) on Twitter: "………………本当に…………頂いた身で……こんなこと…アレですが……………………………(30歳)… "
 
今年は新型コロナウイルスのためか、街はまったくクリスマスらしさが無かったが、twitterは久々にクリスマスらしい話題で賑わっていた。「30代女性に贈られた4℃のプレゼント」を巡って、喧々諤々の意見が交わされていたのだった。
 
4℃のプレゼントを巡っては、4年前に議論というには感情的な言葉がやりとりされていた。
 
4℃で喜ぶ女はチョロいのか - トイアンナのぐだぐだ
トイアンナ氏の呪詛は、クリスマスに対してあまりに無力だ
 
このとき私はおなかがいっぱいになったので、今回は黙っておこうと思っていたのだけど、
 


 
婚活を主導する立場のかたが、このように力強いことをおっしゃっていたので反応してしまった。
 
 
曰く、女性へのプレゼントは、贈って良いものと悪いものが憲法で決まっているらしい。では一体どこに、その憲法とやらの条文があるのだろう?
 
もし、本当に憲法や法律に「女性にプレゼントして構わないのはこれこれで、そうでないものは禁じる」と書かれていたら、プレゼントをもらう側も贈る側も苦労はするまい。だが現実にはそんな決まりは存在しない。存在しないからこそプレゼントの授受には難しさが伴い、センスや相性やそのほか色々なものが問われるのだけど、女性の側から「贈ってはならないと憲法で決まっている」と明言されてしまうと、私などは委縮せずにいられなくなってしまう。
 

 
これは、我が家にある4℃のシャンパングラスだ。
高級なシャンパングラスとは比べるべくもないけれど、このシャンパングラスには、人の思いが込められている。だから時々、こうして登板させている。
 
コミュニケーションの一現象としてのプレゼントは、贈る側と受け取る側のコンテキストにも左右される。一般論として、この年齢・この性別・このコンテキストで授受に適しているものとそうでないものは想定できるとしても、「贈ってはならないと憲法で決まっている」などということはあってはならないと思う。
 
だから上掲ツイートも、ひょっとしたら「婚活というコンテキストのなかで」という条件付きの発言なのかもしれない。婚活する年頃の男性のプレゼントとして適していなさそうだと、私にだって思えたからだ。
 
 

「年齢やコンテキストにあわせてプレゼントを選ぶ」というコミュニケーション能力

 
私はいま、"婚活する年頃の男性のプレゼントとして適していなさそうだと、私にだって思えた"と書いた。
 
私がこのように書けるのは、40代の半ばを迎え、さんざん今までにプレゼントで失敗をしてきたからの話で、昔の私はそうは思わなかったに違いない。げんに私の嫁さんは、過去にロクシタンのハンドクリームなど快く貰ってくださっている。これは、私のプレゼント選びがマトモだったからではなく、嫁さんの度量、または嗜好のおかげでしかない。
 
そして現在の私は私で、年下に贈るプレゼントは何が適当か、糖尿病の人に贈るお歳暮はどれが好ましいのか、まだ迷っている。20代や30代の頃に比べればマシになったつもりでも、すぐ自信を失ってしまう。いったいいつになったらプレゼント上手になれるのだろう、と思ったりする。いや、たぶんそんな日は来ない。私が60代になれたとしても、プレゼント選びには苦労しているだろう。
 
そうやって私がウンウン悩んでいる一方で、プレゼントの上手い人というのはやっぱりいて、そういう人々は若い頃からズバリズバリとプレゼントを選んでのける。相手が欲しそうにしているもの・相手にとって必要なもの・コミュニケーションのコンテキストからみて妥当と思えるものを探し出す素養と経験には、やっぱり個人差がある。
 
プレゼントという行為は、その授受をとおして渡す側と受け取る側がなんらかの影響を受けるわけだから、これはコミュニケーションのひとつで、だからプレゼントを選ぶ能力はコミュニケーション能力の一部とみなければならない。もっと普通っぽい言い方をするなら、「プレゼントの選び方次第で、相手に好かれることもあれば嫌われることもありますよ」となるだろうか。
 
贈る相手の事情やニーズ、そのプレゼントを渡す際のコンテキストをどれだけ的確に把握できるかによって、プレゼントを贈った結果は大成功から大失敗まであり得る。プレゼントが必ずまごころを伝えるなんてのはお伽噺の世界のことでしかない。世渡りの手段としてのプレゼントは多分にテクニカルで、夢が無い。
 
そしてプレゼントを受け取るのもまた、コミュニケーション能力のひとつだ。
 
ひろゆき, Hiroyuki Nishimura on Twitter: "他人から好意で貰ったものをネットにあげて批判する下品な人を避けられるので、数千円のプレゼントを渡して、反応を見るという高度なテクニックを使う男性は優秀だと思う。… "
 
この、ひろゆきという人のツイートは、プレゼントを贈る側がプレゼントを受け取る側を観察可能であることをよく表現している。
 
たとえばプレゼントを受け取る側がそれをSNSに公開するかしないか、もし公開するとして、どのように公開するのか、プレゼントを贈った側は観察することができる。ときにはプレゼントを授受する二人以外の人がそれを観察し、あれこれ考えることだってあるかもしれない。プレゼントを受け取る側が、プレゼントを贈る側を一方的に観察・評価・値踏みできると考えるのはコミュニケーションの全体の一部しか見ていない。他人を値踏みする時、他人もまたこちらを値踏みしている。
 
そして天の配剤は案外うまくできていて、他人からのプレゼントを値踏みする人のところには、プレゼントを受け取る側を値踏みするような人が現れ、似合いのパートナーシップができあがったりする。
 
こうしてコミュニケーション能力のひとつとしてプレゼントについて考えると、「だからプレゼントを贈る能力を磨きましょう」とか「プレゼントを受け取ったら、いちばんあなたの利益になる反応を示しましょう」と結論を書くのがライフハック・ブログとしては正しいのだろう。
 
でも、ここはライフハック・ブログではないし、今の私はそういう気分になれない。
 
なんというか、クリスマスの季節にプレゼントがツイッターに晒され、それがプレゼントのあるべき姿についての議論を呼び、コミュニケーションのえげつない側面が露わになってしまったことのほうが悲しい。たくさんの人々が、そういうえげつないメカニズムに沿ったかたちでコミュニケーションを営み、プレゼントというものを考察しているのが悲しい。それをこうやって眺め、自動的に考えてしまう我が身、我が神経にも悲しみをおぼえる。
 
いくらか世故に長けると引き換えに、プレゼントをコミュニケーション力学の自動的メカニズムとして把握してしまうようになったら、それは獲得よりも損失のほうが大きいのではないか。
 

考えていること自体、なにかが欠陥している。

 
これまで私は人間のコミュニケーションと、それをとおして社会に適応することを考え続けてきた。けれども、最近、そのコミュニケーションのメカニズムの妥当性を確認するたび、コミュニケーションをとおした人間の力関係や権力関係に救いのなさをおぼえる。プレゼントという、一見、救いやまごころのようにみえる領域にもコミュニケーションの力学的メカニズムはしっかと根を張っていて、たとえばクリスマスプレゼントやお歳暮や年賀状といっためでたい体裁のもと、世の中にまかり通っている。そういっためでたい体裁をめでたいものとして、ジングルベルな気分として眺めていたほうがきっと人は幸せでいられる。そしてコミュニケーションのメカニズムなんて、考えるものではなく感じるものであるべきなのだと思う。
 
こうやってコミュニケーションのメカニズムなんて考察すること自体、コミュニケーションになんらかの不自由を抱えていること・コミュニケーションに本来的な欠陥があることを示唆してやまない。プレゼントのことを考えているうちに、世の中も自分自身もかえってわからなくなり、コミュニケーション力学の外側も思い出しにくくなったので、今日の日記はここで終わりにします。

 

Elite Dangerous(エリデン)は、宇宙ごっこ遊びゲームとして最高

 
今年は『フォートナイト』『リングフィットアドベンチャー』『Fallout4』と、傑作級のゲームに次々に出会った。でもって、2020年の終わりにヤバい宇宙ゲームに出会ってしまった。11月からこのかた、ゲームはこればかりやっている。
 

 
この『Elite dangerous(国内通称エリデン、以下、エリデンと表記)』は銀河系を舞台にしたMMOだ。太陽系を中心とする直径数百光年の人類圏とその外側に広がる深宇宙のなかで、プレイヤーは何をやって過ごしても構わない。
 
国産のゲームに比べて、海外系のゲームは「何をやってもいい」自由度が高めのことが多いけれども、この『エリデン』も「何をやってもいい」感が高くて、プレイヤーは宇宙で貿易をやってもいいし、軍人や宇宙海賊になってもいいし、深宇宙を探索してもいい。なんならPK(プレイヤーキル)だってできる。PKにはペナルティがつくけれども、このゲームではそれほどでもない。ただし、PKされては困るというプレイヤーはソロモードを選べば他のプレイヤーにキルされずにプレイできる。ソロモードとはいうけれど、銀河系の物資の流れや政治情勢、深宇宙の探索状況などは他のプレイヤーと共有されるので、それなりMMOっぽさはある。気分や都合で両方のモードを行ったり来たりすることもできる。
 
これだけだったら、たぶん私はこのゲームにドはまりしなかったと思う。というか宇宙MMOには『EVE ONLINE』という有名タイトルがあって、しかも先月とうとう日本語化が実現したという。でも『EVE ONLINE』はあまりに大規模過ぎて、あまりに本格的過ぎて、下調べしてもプレイするための一歩が踏み出せなかった。なんというか、『EVE ONLINE』を見ていると、"現実的な"ゲームの予感がする。
 
対してこの『エリデン』は、下調べの段階から空想的・妄想的なゲームの予感があった。ちょうど4年前、星間国家シミュレーションゲーム『Stellaris』の良さとして、私は「宇宙探索や宇宙艦隊の妄想に耽りながらぼんやりできるゲーム、星間国家の“ロールプレイ”に夢中になれるゲーム」を挙げたけれども、そう、私にとって宇宙ゲームとは"現実的"であるより"妄想的"であるべきなのだった。ゲームバランスや操作性にちょっとぐらい問題があってもいいから、空想力や想像力を刺激するようなゲーム、もっと言うと、自分自身のごっこ遊びに集中できるゲームであって欲しいと(ファミコン時代の)『スターラスター』の頃から思い続けてきた。
 
で、『エリデン』はそのあたりが素晴らしい。
プレイしている間、宇宙交易ごっこや宇宙探索ごっこ遊びに完全に没入できる。
 

 
ゲームの主な舞台となる人類圏は数百光年の広さだが、銀河全体に比べればぜんぜん狭い。このゲームでは、銀河全体で4000億の星系があり、そのほとんどが今でも未踏の地になっている。人類圏に比べて深宇宙があまりにも広く、プレイヤーの数もそれほど多くないのでこの状態がずっと続くだろう。かといって無限の広さというほどでもなく、他のプレイヤーの探索の痕跡はそれなり目につくし、自分が探索した痕跡もきっと誰かが見つけてくれる。
 

 
しかも恒星系や惑星のデザインがバリエーション豊かで、それぞれの星系の星々や宇宙ステーションが公転しているおかげで景色がしばしば変わる。先日も、ガス惑星同士が衝突する出来事がゲーム内で起こったという。こういう投げやりな緻密さとバリエーションの豊かさはとても嬉しい。美しく珍しい風景を探すために宇宙を旅しても十分報われるぐらいだ。
 


 
超光速航行(ワープ)の入口と出口の演出もなかなか良い。超光速航行を終えた宇宙船は、星系でいちばん大きな恒星の目の前に飛び出してくるのだけど、これがドッカンドッカンしていて毎回気持ち良い。青い巨星や中性子星の前に飛び出してきた時には、あまりの眩しさにのけぞりたくなる。エリデンはVR対応なので、VRでワープアウトを経験したらもっともっとインパクトがあるに違いない。
 

 
しかも無限にも等しいひとつひとつの星々に細かなデータが記載されている。こういうデータの羅列のおかげで、宇宙にたいする空想力や想像力に神が宿ってしようがない。しかもデータは単なる羅列ではなく、星系マップを売る際の値段にも関わってくるので、じきに星のデータを読み取るようになる。これがまた、宇宙探索者気分を盛り上げてくれる。
 

 
人類圏でのプレイも興味深い。
人類圏には複数の政治勢力があって、それぞれの政治勢力のなかにも複数の派閥があり一枚岩ではない。経済もプレイヤーの活動によって動いていて、MMOっぽさ、もとい、人類圏らしさが感じられる。小さな星系なら、一人ひとりのプレイヤーの活動でも政治状況がかなり変わってくれる。宇宙の政治バランスがひっくりかえるほどの変化はないにせよ、そういう変化を眺めていると宇宙MMOを遊んでいるという実感がある。
 
 

ただし人を選ぶゲーム。操作系と英語には苦労するかも

 
そんなわけで、宇宙が好きな人にはすごくオススメしたいのだけど、このゲームにはハードルが高いところもある。
 
まず、このゲームは日本語化されていない。英語ができなければ遊べないほどではないけれど、このゲームの世界観は英語で綴られた文章やアナウンスにも支えられているので、ある程度、英語がわかったほうが没入しやすいと思う。情報収集する際にも英語圏のお世話になることが多い。
 
www.youtube.com
 
操作系も、嫌いな人には嫌いなタイプだ。自分の知っているゲームでいえば『スターラスター』や『エースコンバット』の感覚に近く、見ているだけで気持ち悪くなってしまう人もいるだろう(上掲動画を参照)。宇宙船に慣れるためのチュートリアルもところどころ不親切で、たとえばチュートリアルのコースから一度コースアウトしてしまうと困ってしまうかもしれない。また、現在の日本語版wikiの記載とは違って*1、戦闘も含めた長いチュートリアルを履修しなければゲーム本編を遊ばせてくれないので「離着陸の練習だけやって、とりあえずゲームを始める」という手軽さがない。
 
正直のところ、宇宙を妄想したい強いモチベーションがないとチュートリアルの段階で投げ出してしまうおそれがあると思う。
 
また、コンソール上のカーソル移動も直感的とは言い難い。あるものはカーソルキーで、別のものはQ・E・W・Sキーや1・2・3・4キーでカーソルを移動させる。親切なゲームに比べると、インターフェースに慣れるのにどうしてももたついてしまう。地上を探検する車両の操作も宇宙船とぜんぜん違う設定になっていて、びっくりしてしまった。
 

※宇宙船とまったく違う操作系の地上探索用車両。もうちょっとなんとかならなかったのか。
 
超光速航行-星系内でのスーパークルーズモード移動-ステーションや惑星への着陸モードの切り替えもわかりにくかった。『エリデン』の宇宙フィールドは入れ子状の構造になっていて、たとえば目当ての星系の目当てのステーションにたどり着くためには【超光速航行で星系を飛び回る銀河マップから→複数の星やステーションが配置された星系フィールドに移動し→ステーションの周回軌道や星の軌道フィールドに飛び込んで着陸】という手順を踏まなければならない。ドラクエで喩えるなら、外のフィールドから街フィールドに入って、そこから街のなかのダンジョンに入る感覚に近い。
 
ところが移動の途中で巨大惑星の重力圏に引っかかってしまうと、その星の軌道フィールドに「落ちてしまう」。このあたり、慣れてしまえばどうってことないし、星の重力圏に引っかからないように心掛けるようになってかえって宇宙を旅している実感がわいて良いのだが、はじめて星に捕まってしまった時は慌てる。twitterを見ていると、星に捕まって「落ちてしまう」感覚に戸惑ってしまったり、脱出方法がわからなくて投了してしまったりしたプレイヤーもいる様子だった。
  
落ちてしまうといえば、地表着陸もなかなか難しい。
  

(昼間の地表着陸。迫ってくる地面が怖い)

(夜の側の地表着陸。真っ暗闇で、激突しないかヒヤヒヤする。本当にここで大丈夫か心配になることも)
 
宇宙ステーションへの着陸に比べると、地表着陸はかなり難しい。陸地が見えているなら見えているなりに、真夜中の真っ暗闇なら真っ暗闇なりに、慣れないうちは怖さがある。私は、これもこれで宇宙っぽい味わいがあって好ましいと思うけれど、快適なゲームプレイを望んでいる人には不親切と感じられるかもしれない。
 
また、銀河系がとにかく広く、星系内の移動にすら長い時間がかかるので、せっかちなプレイヤーには辛いかもしれない。銀河系を横切るような移動となれば、もう一日仕事になってしまうだろう。大きな連星系のなかのスーパークルーズモードでの移動にもかなりの時間がかかる。目的地を設定して到着するまでにお茶が用意できるぐらい時間がかかることも。
 

(到着に約10分ほどかかる、二重星系の遠い側の星々。この、遠くにみえる星々が少しずつ近づいてくるさまにロマンが感じられる人は、このゲームは絶対やったほうがいい。)
 
個人的には、こうしたちょっと難しい要素のひとつひとつが『エリデン』の短所でもあり、長所でもあると思う。時間がかかり、少し操作がめんどうだからこそ、宇宙を飛んでいるというごっこ遊びに一種のリアリティが宿り、宇宙を飛び回る自由さが際立つ。もし、このゲームの宇宙船で『宇宙戦艦ヤマト』のイスカンダル星*2まで遠征するとしたら、たいへんな事業になるだろう。そういう長大な時間スケールと面倒さをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかでこのゲームの評価は天と地ほどにも違う。
 
 

妄想や想像こそがこのゲームの真骨頂

 
こんな具合に、『エリデン』は万人受けするゲームとは到底言えない。ただ、『エリデン』には間違いなく『エリデン』ならではの魅力がある:MMOにしては短い時間でプレイを軌道に乗せられる点、初手からかなり自由度の高いプレイスタイルで遊ばせてくれるのも優れたところだ。
 
なにより、『エリデン』は「ごっこ遊びゲーム」や「宇宙妄想ゲーム」としてとにかく卓越している。
 
純粋にゲームとして評価するなら、『エリデン』より豊かなゲーム、親切なゲーム、万人受けするゲームはいくらでもあるだろう。だけど、ゲームプレイをとおして宇宙ごっこの想像力や妄想力を膨らませる触媒として、このゲームの右に出るゲームはあまり無いのではないだろか。
 
いわばこのゲームは、自分自身の宇宙ごっこ遊びに入っていくための触媒みたいな感じなのだ。長時間の移動、美しい星のグラフィック、ピカピカした戦闘、詳細な惑星データも、すべてがごっこ遊びや宇宙妄想ゲームのためのセットであると言い切ってしまいたくなる。
 
大事なことなので二度言うが、『エリデン』は、ゲームそのものの出来より、ゲームをとおして脳内補完する、その脳内補完のほうを楽しむゲームとして卓越していると思う。だから広大な宇宙を妄想したい人や宇宙船の指揮官ごっこが大好きな人、スタートレックごっこが好きな人、自分だけの宇宙ロールプレイにうつつをぬかしたい人には絶対にお勧めしたい。
 

 
『エリデン』は頻繁に値下げが行われるゲームなので、たぶん、Steamの年末セールになれば1000円以下で遊ばせてくれると思う。上に挙げた性癖に当てはまるゲーム愛好家なら、購入ボタンを押しておいて損はないと思う。
 
store.steampowered.com
 
 

*1:2020年12月時点

*2:地球から148000光年

はてな村は水面下に沈み、今はカオナシたちが跋扈している

 
2020年12月、はてな匿名ダイアリーに地方の公立校と中学受験についての話題を起点に、関連した話題が次々に投稿された。
 

中学受験について、匿名でないと書けないことを伝えたい
「多様性が大事」と叫ぶ同僚が私立中学受験させるらしい
[B! 教育] まぁこんなウダウダ書かなくても公立中出身者ならあの動物園に通わなくていいってので十分良さはわかるよ。 - naga_yamas のブックマーク / はてなブックマーク
はてなリベラルやばすぎ
公立動物園だって良いところもある
反差別の道は険しい
公立中学校の『動物園』問題
 
主だったものだけを挙げてもこのようになる。12月9日のはてなブックマーカーが書いた、公立中学校を「動物園」と呼ぶ投稿が燃料投下となり、「いつもははてなブックマーク上で多様性を称賛し差別を手厳しく批判している人々がこの問題では差別的な表現や感性をあらわにしていて自覚が無いさま」を批判する指摘が相次いだ。はてなブックマーカー個人の「晒し上げ」も起こっている。そのほか、自己批判を行っている人、自嘲や韜晦を行っている人、さまざまである。
 
私は久しぶりに「はてな村らしい話題で盛り上がっているな」と思った。
 
今でこそ、インターネットのあちこちで「正しさ」の問題は多いに盛り上がり、やれ差別だ、やれ公平性だ、やれ道徳だといったトピックスに事欠かないわけだが、12年以上昔のインターネットでそういう話題が一番盛り上がっていたのは、なんといってもはてなダイアリー~はてなブックマーク~はてなハイク、といった、(株)はてなのサービス、いわゆるはてな村の圏域だった。
 
そんな様子だったからこそ、はてな村の圏域はしばしば「はてな学級会」などと揶揄されていたのだし、きっと(株)はてなのサービス運営側としては、そのネガティブなイメージを払拭し、もっと普通の話題が盛り上がる愛されるサービスに変えていきたいと願っていた(そしてある程度は実現した)のだと私は思っている。
 
令和2年。いまでは日本のインターネット全体が「はてな学級会」に追いつき、追い越したかのようだ。とはいえ、今回の盛り上がりをみるにつけても、はてなには差別や公平性や道徳の話題を愛してやまないユーザーがまだまだ健在であることが証明された。見よ! すずなりになったはてなブックマークを! はてな学級会は健在なり!
 
 

学級会は健在でも、そこに村人の「顔」は無い

 
それでも私は一抹の寂しさをおぼえる。なぜなら、この盛り上がりをけん引しているのがはてなダイアリーやはてなブログのブロガーではなく、匿名ダイアリーの匿名投稿者たちだからだ。
 
10-15年ほど前にはてな学級会が開催された時には、ブロガーたちが自分のブログでこういったオピニオンを書き連ねていたものである。今回、はてなブックマーカー個人への批判も多く記され、いわば「晒し上げ」もあったわけだけど、こういった「晒し上げ」も自分のブログから、idコールを伴って行われたものである(このidコールが恐れられてもいた)。自己批判や韜晦についても同様だ。
 
いわば、投稿者の「顔」がよく見えるなかで諸々の議論や言い合いが行われていたわけだ。
 
ところが今回を見てもわかるように、今、はてな学級会的なことが起こるフィールドはブログであることはほとんど無く、はてな匿名ダイアリーだ。ある匿名投稿に対する反論も反発も匿名ダイアリー内部で起こることが多い。はてなブックマーカーを名指しで批判していることがわかるように、「晒し上げ」に相当するものは今でも続いてはいるのだけど、それは投稿者の「顔」がみえないかたちで行われている。結果、ブロガーよりも批判されにくい天井桟敷にいると思われていたはてなブックマーカー側が守勢に回る格好となっている。
 
このような事態の是非については、いろいろな意見があるだろう。個人的には、ある時期から"無敵化"の度合いを深めていたはてなブックマーカーに、言及される可能性を思い出してもらえたのは良かったと思っている。が、次には匿名の投稿者が"無敵化"することになるし、既にそうなっているとも言えるので、これで界隈の景色が変わるわけではあるまい。
 
かつて、投稿者の「顔」がみえた時代のブロゴスフィアは、まさにはてな「村」と呼ぶに値するフィールドだったと思う。なぜなら誰が投稿して、投稿したその人がどんなブロガーで、どういったコンテキストを持っていたのかお互いに知っていたからだ。知らないとしても、すぐに確認できたし確認する風習があった。何が投稿されているのかと、誰が投稿しているのかを見比べるのが当然の文化があった──たとえそれが村の奇怪な風習などと揶揄されていたとしても。
 
ところが現在の匿名ダイアリーでは「顔」がみえない。
 

 
はてな匿名ダイアリーの入り口には「名前を隠して楽しく日記」とあるが、名前を隠すとは「顔」を隠すことと同義である。投稿はあるし、議論もあるし「晒し上げ」もあるけれども、ここには顔のある人はいない。まして、村人とかはてな村などといった語彙など連想しようもない。議論は存在するが人はいない。その人がいないフィールドに、ときどきブロガーが言及したり、はてなブックマーカーが群がったり、ときどき誰がか巻き込まれて「晒し上げ」に遭ったりする。
 
このような現状をみて、「はてな村の村祭り」という言葉を連想することはない。ブロガーの丁々発止は遠くなりにけり。かわりにカオナシたちの絶叫や告発がこだまし、そこにはてなブックマーカーたちが群がっている。
 
これが望まれた未来だったのか。
 
わからない。
いずれにせよ、はてな村は水面下へと沈み、村の跡地はカオナシたちのものになっていると言わざるを得ない。