シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「パワーが弱まっている感じ」について

 
 

「正しさ」や生産性のために、人間はどこまで治療され、改造されるべきのか - シロクマの屑籠

最近のシロクマ先生の書き物、多くは「社会整合的パーソナリティへの過剰適応と、そこからの逸脱の病理化」への懸念をモヤッと仄めかす体裁になっていて、何か迫力が薄れたというか、パワーが弱まっている感じが…

2020/11/26 20:36

 
こんにちは。ガチャピンアイコンではてなブックマークとtwitterをやってらっしゃるむちょさん。はてなブックマークで何度もお見掛けしています。
 
このたびは、「パワーが弱まっている」さまをご指摘くださり、ありがとうございます。これにかこつけて、私の台所事情の説明、というよりパワーが弱まったブロガーのぼやきを垂れ流すことをお許しください。
 
はてなダイアリー(現・はてなブログ)でブログを書くようになる前から、私はオタクが、ひいては現代人が社会に適応するための条件は何か、どういう方法をとれば首尾よく社会適応できるのかを考え続けてきました。最近は、私たちが適応しなければならない社会がどういうメカニズムで成り立っていて、適応のための条件が時代とともに変化していくさまにも関心を持つようにもなりました。拙著『健康的で清潔で、道徳的な~』は、そうした関心をいったんまとめてみたものです。
 
おかげさまで、『健康的で清潔で、道徳的な~』プロジェクトはある程度うまくいきました。が、書き手としては早速「あれを書いておけば良かった」「ここは、今だったらこう書く」みたいなバージョンアップ欲が沸いてきて仕方ありません。あの本・この文献を読んでいたらきっと書き方が変わっただろうと思うと、身もだえしてしまいます。商業出版企画とは、制限時間のなかで進行させるものでもありますから、そういう後悔は非-生産的なのかもしれませんが。
 
あのように社会や世間の全体を書かせていただける企画を頂戴できることは滅多にありません。また、能力的にも10年に一度挑めるかどうかのもので、あれが最後のトライアルになってしまう可能性もあります。が、望むらくは5~10年後に似たような企画にもっと高い精度で挑戦してみたいものです。そのための調査や試し書きは、これからも続けなければなりません。
 
むちょさんがご指摘された、最近の私の "「社会整合的パーソナリティへの過剰適応と、そこからの逸脱の病理化」への懸念をモヤッと仄めかす体裁" についても試し書きの一部だとご理解ください。モヤッと仄めかす体裁が増えているのは、懸念や疑問が先走っているのに対し、文献やら調査やらが追い付いていないからでもあり、私自身のパワーが落ちているからでもあるでしょう。ひとつ前のブログ記事にも書いたように、2020年の私は忙しすぎてブログにちゃんとした時間をかけられていませんでした。ちゃんとした時間をかけられていないから、踏み込みが浅くなるし、それをこうやって見抜かれてしまう。汗顔の至りです。
 
私は今、一人の書き手としてとても喜ばしい/嘆かわしい状況にあります。
 
 
喜ばしい状況とは、知りたいことや書きたいことがほとんど無尽蔵にあることです。
 
私は、ひとりひとり現代人の社会適応の巧みさについてもっと知りたい・書きたい。
私は、現代人が適応しなければならないところの社会についてもっと知りたい・書きたい。
私は、ゲームやアニメのこと、それから1500円~10000円を中核エリアとするワイン趣味についてもっと知りたい・書きたい。
ああそう、ゲーム障害のことも最近は棚上げになっていました。それとゲーム障害の周辺にあるゲームとメンタルヘルスについての幾つかの小話ってのを連載したい希望もあったのでした。
 
  
嘆かわしい状況とは、知りたいことや書きたいことに対し、私の残り時間と体力が絶望的に足りないことです。
もし私が学術一本槍のプレイヤーなら、自分が骨をうずめる分野に邁進すればいいのでしょう。しかし私の適性はそうではないし、私が歩んできたブロガーの道もそのようなものではないので、私の知識と経験は雑然としていなければなりません。が、雑然を良しとしてここまで進んでみて思ったのは、いくら雑然としていてもすべてを知ることなどできないし、たとえば50歳までに知れることの密度はたかが知れている、ということでした。
 
それが嫌なら知ろうとする対象を減らせばいいのでしょうけど、私は間違いなく学者肌ではなく、絶対にひとつの分野に集中できないので、下手に減らせば「蛸が一本足を目指すがごとき惨状」を招くだろうと思っています。そうしたまま、あれも捨てられないこれも関心がある→だけど身体と頭と調査が追い付かない&拙著の影響でtodoが満杯→今の段階で書けることなんて知れている→ぬるい という状況に至っているわけです。
   
このブログは、不特定多数にオピニオンを発表する場所である以上に、私の考え事や関心事を書き殴っておいて、自分の考えを後でまとめるためのワークショップとしての意味合いが強いので、ただの思いつきでも、書き留めておきたいことは書き留めていくつもりです。もう少し考えや調査が蓄積してきたら、内容がもう少しシャンとしてくるかもしれません。が、今はなんだか駄目だし、どこまでシャンとできるのか自信がありません。
 
シャンとしないまま手先口先だけ動かし続けていたら、すごく駄目な状態になりそうなのでどうにかしなければなりませんが、大丈夫なのでしょうか?
 
他人事みたいに「大丈夫なのでしょうか?」だなんて。やだなー、いまどきの発信者はこんなこと発信しちゃいけない。でもだめだ、p_shirokumaは伸びきったゴムみたいになっています。日照時間が足りなくなってきているからだろうか。私信を書いているつもりが、泣き言になってしまいました。こういう時って、本当はインターネットから離れて岩戸のなかでうずくまっていたほうがいいんだろうな。クマー。
 
 

ブログを書いてられないほど忙しい&近況

 
おかげさまで、2020年の後半はブログを書いていられない状態が続いています。たとえば以下の三つのメディアにてお仕事をさせていただきました。
 

 
左側の『ケムリエ』は愛煙家のためのフリーペーパーで、全国のタバコ屋さんで頒布しているそうです。たいへん立派な冊子なのですが、今回、巻頭インタビューを担当させていただきました。タバコの健康問題は無視できないとしても、タバコ文化を殲滅してしまって良いものなのか・そうやって健康志向を尖らせていった先に懸念は無いのかについて、私見を述べさせていただいています。
 
真ん中の『教職研修』は学校の先生向けの研修誌で、"「健康で清潔で、道徳的な秩序ある学校」の先にあるもの"というタイトルで巻頭インタビューを担当させていただきました。学校は、環境管理型権力の最たるものですが、その学校もまた昭和から令和にかけて変わり続けています。いまどきの子どもは、昭和よりもずっと安全で、ずっと道徳的な学校環境・家庭環境のなかで育っていますが、それはそれで親子が適応するうえでハードルの高い環境なのではないか、等々について喋っています。
 
右側の『學鐙』は、ジュンク堂書店でよく知られる丸善出版さんが作っているPR誌です。こちらでは、コロナウイルス禍を経験後の未来において、私たちの自由と不自由がどうなりそうなのか、私見を寄稿させていただきました。この、由緒正しいPR誌にふさわしい文章が書けたかどうかわかりませんが、ブロガーとして、こんな実績解除はなかなか無いように思います。
 
このほか複数の新聞社さん、複数の法人さん、複数の企業さんからインタビューいただいたり、寄稿のご依頼をいただいたり、多忙のうちに2020年が過ぎていきました。いや、年内はずっと忙しい予定です。
 
おかげさまで、6月に出版された『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』は本当にいろいろな方面の方からご反響いただきました。そして私は、ブログを書いていられないほど忙しくなりました。このブログの常連読者さんはお気づきでしょうが、私は最近、ブログの投稿回数も、ブログ記事を書く時間も少なめにしています。twitterや匿名ダイアリーも今はあまり見ていません。
 
さまざまな方面の方からリアクションをいただけるのは嬉しいことではあるのですが、ホームグラウンドであるブログやウェブサイト、インターネットが手薄になってしまうことに寂しさを感じてもいます。昔は、ブログで往復書簡のようなことを頻繁にやっていましたが、今年はほとんどできませんでした。twitterでは弁士の皆さんがあれこれ難しいことを喋っていますが、そこに参加する余裕もありませんでした。無限の体力と時間があれば、きっとそれらにも参加できたでしょうけれども。
 
私はインターネットを棲み処とし、旧はてなダイアリー~現はてなブログを書き続けているうちに本を出版できるようになりました。その時々の『シロクマの屑籠』の常連読者の皆さんと、(株)はてなの皆さん、ブログがきっかけでご縁をいただいた皆さんのおかげで忙しくしていられるのだと思っています。そうした皆さんへの報恩の思いをどう具現化すべきか、人によって意見はさまざまでしょうけど、私としては、過労死しない範囲で活動を続けていくのが報恩の道ではないかと思っております。
 
シロクマの屑籠とp_Shirokumaを、今後ともどうかよろしくお願いいたします。
 
 
 

教職研修 2020年12月号[雑誌]

教職研修 2020年12月号[雑誌]

  • 発売日: 2020/11/19
  • メディア: 雑誌
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 
 
 
 
※はてなブログ今週のお題「感謝したいこと」

「正しさ」や生産性のために、人間はどこまで治療され、改造されるべきのか

 
 
外では優しいのに家では不機嫌な夫。「フキハラ」には声をあげて、夫婦で話し合おう。 | ハフポスト
 
先日、ハフィントンポストで「不機嫌な夫はフキハラである」という記事を見かけた。家族のなかの誰かが不機嫌な態度を取り、その不機嫌が家族に影響を与え続けているとしたら、それは不機嫌ハラスメントだ、だから解決・解消しましょうといった啓蒙的内容となっている。
 
人間は、他人の不機嫌な態度からも影響を受けずにいられないし、それに苦しんでいる人もいよう。だから不機嫌をハラスメントとみなす提言は理屈として理解はできる。なぜなら、功利主義(最大多数の幸福)や危害原理(お互いに迷惑をかけてはいけない)といった現代社会のドグマに照らすなら、不機嫌な態度で他人に悪影響を与えるのは不道徳なこと、ひいてはハラスメントと呼ぶに値するだろうからだ。
 
上掲記事に対して、「不機嫌をハラスメントと呼ぶのは行き過ぎだ」と反発する意見をtwitterやはてなブックマークで見かけたし、私も、感覚的には行き過ぎだと思っている。それでも、筋の通った理屈を無視することもまた難しい。昭和時代には迷惑ともハラスメントとも被害ともみなされなかった諸々が、迷惑やハラスメントや被害とみなされるようになっていったのだから、不機嫌が迷惑やハラスメントとみなされる未来は不自然とはいえない。
 
それから冒頭リンク先の文章には書かれていなかったけれども、不機嫌は非生産的でもある。不機嫌になった人は、注意が散漫になったり作業が荒くなったりする。不機嫌な人から影響を受ける周囲の人々の生産性や効率性も下がるだろう。不機嫌は、功利主義や危害原理といった「正しさ」の領域を犯すだけでなく、生産性や効率性といった資本主義の領域をも犯している。
 
ありていに言えば、令和の日本社会は、不機嫌という態度を追放したがっている。模範的な現代人は、職場でも学校でも家庭でも不機嫌な態度をとってはならないのである。
 
 

「じゃあ、不機嫌になってしまう人はどうすればいいのですか?」

 
不機嫌になってはならない社会が到来し、他人の前で不機嫌な態度を取ったらハラスメントとみなされる時代になったら、不機嫌になってしまう人はどうすれば良いのだろうか?
 
私もそうだが、動物としての人間(ホモ・サピエンス)は、機嫌が良くなることもあれば機嫌が悪くなることもある。いつでも機嫌良くしていなさいなどというのは、人間の動物としての性質に反している。小さな子どもの不機嫌が教えてくれるように、いつでもどこでも機嫌良く過ごすためには、かなりのトレーニングが必要になる。しかも、いつでも機嫌良く過ごせる素養には個人差があって、どう頑張っても不機嫌になってしまうことのある人、不機嫌になりやすい人もいるだろう。というか実際にいる。
 
不機嫌がハラスメントとみなされ、あってはならないものになった近未来において、それでも不機嫌になってしまう人は精神疾患とみなされるようになるのではないかと、私は疑っている。
 
精神疾患の歴史を振り返ると、社会の変化とともにクローズアップされた精神疾患がいろいろあることに気付く。
 
落ち着きのない挙動、たとえば教室に座って勉強していられない性質などは、かつては精神疾患と呼ばれていなかったが、今では発達障害のひとつであるADHDとみなされている。座学やデスクワークの増えた社会では、ADHD的性質の有無が社会適応の明暗をわける。
 
スピーチが必要な時にドキドキしてしまったり赤面してあがってしまったりする性質は、今では社交不安症と呼ばれ、SSRIという抗うつ薬による治療が一般的となっている。コミュニケーション能力のニーズが高まった社会では、社交不安症的性質の有無が社会適応の明暗をわける。
 
気分の落ち込みや作業能力の低下に関しても、そうかもしれない。20世紀の中頃まで、うつ病は、重症度の高いうつ病*1こそがうつ病とみなされていた。しかし、20世紀後半から21世紀にかけて、より重症度の低いものもうつ病として診断・治療されるようになった。いわば「うつ病が軽症の領域へと大幅に拡張された」わけだが、そうした拡張は、医療サイドからみれば早期治療の実現や新しい薬の普及といった言葉で語られることが多いが、社会サイドからみれば以前に比べて軽症のメンタルトラブルまでが精神疾患とみなされ治療されなければならなくなったということ、その周囲への影響や生産性や効率性の低下を見過ごせなくなったということでもある。
 
精神医学のカテゴリーでいうと、うつ病は"気分障害"や"感情病圏"の疾患のひとつだが、不機嫌もまた、気分や感情にまつわる問題だ。もし、不機嫌が社会的に見過ごせなくなり、精神疾患とみなされるようになったら、たぶん"気分障害"や"感情病圏"にカテゴライズされるだろう。
 
ちなみに、不機嫌のお隣さんともいえる「怒り」については、アメリカ精神医学会の診断基準(DSM-5)に、重篤気分調節症(Disruptive Mood Dysregulation Disorder)という診断病名が存在している。重篤という言葉がついているとおり、これは、慢性的で持続的な怒りやすさの程度が激しい人にしか診断されないし、少なくとも日本では、それほど頻繁に診断されてもいない。しかし今の時点で重篤なケースにしか診断されない病名が、やがて軽症の人にも診断される病名になっていくことはそう珍しくない──それこそ、うつ病もADHDもASDも、20世紀の段階では重症度の高い人しか診断されなかったことを思い出していただきたい。これから先、怒りがますます社会から締め出されていくとしたら(そうなる可能性は高い)、程度の軽い人にも適用できる診断病名に変わっていく可能性はある*2
 
だとしたら、「怒り」のお隣さんである不機嫌もまた、ますます社会から締め出されていくなかで診断病名になっていく可能性は結構高いのではないだろうか。
 
 

人間は、どこまで自己改造して構わないのか

 
ここまで書いているうちに、ふと、2つの疑問が頭に浮かんだ。
 
疑問その1。
その時代・その社会に適応することが難しい特徴は、どこまで増えるのか。
 
前世紀から今世紀にかけて、たくさんの行動や態度、特徴が社会にそぐわなくなり、不道徳であるとみなされたり治療やケアが必要な疾患であるとみなされたりした。ハラスメントの定義の拡大や精神疾患とみなされるものの拡大は、社会のアップデートや、その社会で期待される人間像の変化に寄り添っている。
 
では将来、ますます社会がアップデートされ、ますます期待される人間像が変化していった時、いったいどこまで私たちは不道徳とみなされるものや治療やケアが必要とされるものを増やさなければならないのか。
 
功利主義や危害原理の考え方は、おおむね社会に役立つに違いない。生産性や効率性も、高いに越したことはあるまい。だけど、それらがエスカレートし続けるとしたら、その社会にふさわしい人間像を素のままでやってのけられる人間はどんどん少なくなって、やがて、あの人もこの人も不道徳であるか治療やケアの対象とみなさなければならなくなるのではないか。
 
その行き着く先が、たとえば全人口の40%程度が素のまま社会にいられて、残りの60%が不道徳とみなされるか、さもなくば治療やケアの対象とみなされなければならない社会だとしたら、それはもう、社会としてどこかおかしいのではないかと、私は思う。
 
それとも、全人口の過半数が素のままで社会にいられなくなってさえ、より正しく、より生産性や効率性の高い社会を目指さなければならないのだろうか?
 
疑問その2。
治療という名であれ、そうでない名目であれ、人間は、どこまで自己改造をやっていくのか。
 
精神医療の領域で、さまざまな特徴が治療やケアの対象になっていることは先に書いたとおりだ。ADHDや社交不安症への薬物療法は、治療として認められた自己改造で、これらをドーピング呼ばわりする人はいない。医療の世界に限らず、人間は案外、社会に適応するために小さな自己改造を行っているものである。眠くならないようにコーヒーを飲むだとか、学業成績のためにスマートドラッグを求めるだとかは、その最たるものだ。違法性や危険性に抵触しない限りにおいて、ケミカルな自己改造はさまざまに行われ、認められてきた。
 
言うまでもなく自己改造はメンタル以外の領域でも行われている。美容整形はもちろん、あちこちの子どもに施されている歯科矯正も、美醜の問われがちな現代社会に適応するための自己改造と言えるだろう。歯並びの良さや顔立ちの良さが社会適応を助け、より高い収入や地位を得る助けにもなる以上、美容整形や歯科矯正は現代の「正しさ」にも資本主義のロジックにも妥当している。
 
こちらの場合も、この流れの行き着く先がどこなのか、私は気になってしまう。
競争に勝つためや社会に適応するためなら、精神も肉体も自己改造して構わない・自己改造するのが当たり前になった社会の行き先もまた、人間が素のままではいられない社会だろう。いや、歯科矯正の現状などをみるに、すでに社会はそうなっているのかもしれない。
 
社会のなかで認められ、各人に期待される自己改造の程度は、その社会の「正しさ」の基準や、あるべき人間像の要求水準、テクノロジー水準などによって左右される。昨今は「正しさ」がますますアップデートされ、あるべき人間像の要求水準も高まり、テクノロジーも進歩し続けているのだから、2040年頃には自己改造の程度は今よりも高まっていると想像せずにいられない。
 
病気や疾患は増え続けてきた。自己改造も発展し続けてきた。社会はどんどんアップデートされ、「正しさ」もアップデートされ、期待される人間像も変わってきた。今までは、おおむねそれで良かったのだと思う。ではこれからは? これからも、おおむねそれで良かったと言い続けられるのか? 不機嫌をハラスメントの一種とみなす啓蒙的記事を読んで、いつものように、そういう不安に私は襲われた。
 
……そういえば、不安もまた自己改造の対象なのだった。こういう私の心配性も、より正しく、より生産的に改造されなければならないのだろう。
 

*1:いわゆる内因性うつ病の典型例や重症例

*2:なお、保険病名の話になるが、不機嫌がすでに病名となっているものも一応ある。「てんかん性不機嫌」というのがそれで、てんかんの一部症例にみられる定期的な不機嫌の状態を指していて、この保険病名で処方が行われることがあり得る。

ネットで語られる筋トレと脱オタクファッションは似ている(ところがある)


男は筋トレすればいいけど、「なめられない女」になるのは難易度が高すぎる | Books&Apps
 
上掲リンク先の"男は筋トレすればいいけど、「なめられない女」になるのは難易度が高すぎる"という記事は賛否両論だったようだ。読んでみれば、否定的な意見が寄せられるのもなんとなく察せられるところではある。
 
ところで、舐められる/舐められないはどういった要素によって決まるのか。
舐められる確率を上下させる要素は、見た目や外見以外にもいろいろあると私なら思う。
 
手短に書くと、舐められる確率を上下させる要素として
 
1.見た目・外見 (顔面の形態、服装、アクセサリやガジェット、体格など)
2.動作・挙動 (歩き方・姿勢・表情・目線の動き)
3.認知 (周囲の人間の動きをどれだけ察知・哨戒しているか)
 
を挙げておきたい*1。筋トレや脱オタクファッションは、主に1.に働きかけるものだが、人間は1.だけで相手を値踏みすることはなく、1.2.3.を総合的にみて値踏みするので2.3.が筋トレや脱オタクファッションの結果に釣り合っていなければあまり効果が無いのではないかと思う。3.の認知は2.の動作に近いが、たぶん少し違う。目の前にいる人間が何を見ていて、何を見ていないのかを人間はかなり意識しあい、スキャンしあっている。駅のプラットホームですれ違うぐらいの時間ですら、そうした相互スキャンは素早く働きあう。
 
余談だが、たとえば風邪をひいている時には2.3.が弱くなるのでいつもよりも舐められやすくなる。そういう意味でも風邪をひいている時はむやみに出歩かないほうがいい。実際に相手が舐めてかかるかどうかはさておき、いつもより弱っている人間は弱っている人間としてスキャンされる。少なくとも、そういうスキャニングを素早くこなす人間はぜんぜん珍しい存在ではない。
 
……きりがないので、この話の続きは後日にしよう。
それよりも、筋トレと脱オタクファッションについてだ。
 
筋トレを行う理由は人によってさまざまなだろうが、ネットで語られる筋トレの理由のひとつとして、人に舐められないためとか、自信を身に付けるとか、そういったものがある。コミュニケーションを円滑にするための外見を手に入れることとコミュニケーションの主体としての自分自身を強く持つことの二点を主な目的とするような、そういう筋トレだ。そういう筋トレを勧める人は若い世代から中年世代まで、わりと幅広い。
 
冒頭リンク先の記事を読んでいるうちに、私はこうした筋トレが脱オタクファッション(00年代前半に流行した、オタクの社会適応を向上させるためにオタクっぽい外見をやめて身なりを整えようというムーブメント)になんだか似てるなと感じた。今までそう感じたことは無かったが、ひとつの記事が私のなかで両者をカチーンと結び付けちゃったのだ。
 

脱オタクファッションガイド

脱オタクファッションガイド

こんな感じの書籍が並んだ時期をおぼえていませんか。

 
脱オタクファッションも、その目的はオタクっぽい外見で他人に舐められないこと、それから自信を身に付けることだった。言い換えれば、コミュニケーションを円滑にするための外見を手に入れることとコミュニケーションの主体としての自分自身を強く持つことでもあった。
 
脱オタクファッションの頃は、しばしば「服を買いに行くための服がない」と言われたものである。舐められないようにするための服を買いに行きたいのに、服を買う時に店員に舐められないようにするための「鎧」がないから最初の一歩が踏み出せない、そのジレンマを言い表したフレーズである。そう、脱オタクファッションを語る人々はしばしば「鎧」という言葉を使った。自分自身が舐められないようにするための「鎧」としてのオシャレな服。あるいは自分自身に自信を与えてくれる装備としてのオシャレな服。
 
筋トレも、少なくともその心理-社会的な目論見という点ではこれに似ている──筋トレをして体格が変われば、きっと舐められなくなるに違いない。また、筋トレをすることで自信を涵養し、コミュニケーションの主体としての自分を強く持てる。服を変えるか筋肉を変えるかという違いはあるにせよ、目論見はよく似ている。
 
また、心理-社会的な効果を当て込むあまり、そこに依存してしまったりやりすぎたりする人がいるのもどこか似ている。手段が目的になってしまい、筋トレオタク、ファッションオタクになってしまう人が現れるのも似ている。そういったことが起こってしまうのは、服を買い替えるという行為や筋肉を鍛えるという行為が、コミュニケーション能力の改善や自信の涵養に役立つだけでなく、自信の無さの糊塗に役立ってしまうからかもしれない。自信の無さの糊塗と自信の涵養には、紙一重のところがある。その紙一重を綱渡りしなければならない点でも両者は共通しているように、みえる。
 
脱オタクファッションという00年代のムーブメントは、若者がパルコや伊勢丹で服を買うという習慣がまだ残っていて、ユニクロが(現在に比べて)あてにされていない状況下で起こったものだった。2020年にはそのような習慣はすっかり衰退し、ユニクロの服がむしろ高いと評されることすらある。00年代に若者だったマスボリュームが丸ごと中年になり、そのうえ日本が貧しくなったのだから、服という「鎧」ではなく筋肉という「鎧」にアプローチするのはわかる気がする。中年男性が服にお金をかけようとすると際限のないことになってしまうのに比べれば、筋トレはまだしもローコストにみえる。そのうえ中年男性の関心領域となりがちな健康にもプラスに働く。
 
 
繰り返すが、これは、ネットで語られる筋トレの理由のひとつについて感想を述べたものである。すべての筋トレがこのような理由に基づいているわけではない。しかしこのような理由に基づく筋トレについては脱オタクファッションに似ているといえるし、その落とし穴も似ているのではないか思う。
 

*1:もし、会話を行っている場面なら4.として会話内容も要素のひとつとなる

2020年に出会ったすごく良かったワインたち

 

 
ワインを飲み歩いて約10年、いわゆる定番ワインのことは結構わかるようになった。ところがワインの世界はまだまだ広く、「どうしてこんなワインがこんな値段で?」と思ってしまうことはよくある。今年になって出会った、コストの割にいけているワインたちをズラズラ挙げていこうと思う。
 
 
・クズマーノ "ディズエーリ" ネロダヴォラ 2018 (シチリア・赤)
【1992】Cusumano "Disueri" Nero d'Avola 2018 - 北極の葡萄園
 

 
シチリアは安旨ワインと安いだけのワインの宝庫だけど、このワインはクオリティが価格水準を大きく上回っていると思う。クズマーノはシチリアの大手メーカーで、お手頃なワインをたくさん売っている。で、このワイン、値段が高くないにもかかわらず「いかにも葡萄酒然としたぶどうらしさ」と「森の下草みたいなオーガニックな雰囲気」が漂っている。舌ざわりがしっとりしているのも良い。それでもタンニンが無いわけではないので、結果としてこしあんみたいな飲み心地になることもある。シチリアの土着品種の赤ワインを試してみるなら、こいつは良い入口になると思う。
 
このワインには、工業生産品としてのワインでなく、農産物としてのワインらしさがあるのだけど、一般に、ワインからそういう雰囲気を感じ取るためには3000円以上出さないと難しい。ところがこのワインは1600円ほどで買えるのでリピート。
 
 
・マックマニス・ファミリー ジンファンデル 2018
【1983】McManis Family Vineyards Zinfandel 2018 - 北極の葡萄園
 

 
カリフォルニアの赤ワイン品種・ジンファンデルのなかでもバランスがとれていて、しかも1000円台!
 
こいつは、甘さと果実味で押すワインなのだけど、苦み・梅系酸味といった赤ワインの味の土台となる部分をおろそかにしていない。甘さと果実味で押す安ワインの駄目なやつは、だいたい、土台をおろそかにしているので飲み飽きる。ところがこれは飲み飽きない! 価格を考えると信じられないほど細かいところに目配りされたワイン。これより値段が高く、上っ面だけ美しくした赤ワインはいくらでもある。
 
カリフォルニアワインは値段とクオリティが比例するため、この価格帯で納得のいく品を探すのは非常に難しい。そんななか、マックマニス・ファミリーはかなり頑張っていると思う。以前から白ワインのクオリティには驚いていたけど、今年、赤ワインを発見してこれまたびっくりしてしまった。
 
 
・エミリオ・ブルフォン シャリン 2018
【2073】Emilio Bulfon Scialin 2018 - 北極の葡萄園
 

 
はじめに断っておくと、これはゴージャスな白ワインやリッチな白ワインが欲しい人には向いていない。「白ワインの味の土台は酸味」という基本原則からも逸脱している。模範的な白ワインとはいえない。
 
このワインのいいところは、白ワインにも関わらず、落ち着いた飲み心地で、なんだか重低音の効いたワインと感じられる点。こういう特徴はボルドーの赤ワインにはよくあるけれど、白ワインではあまり多くない。私は白ワインが好きなのだけど、飲むと頭がヒートアップしてメチャクチャになってしまうので最近は控えめ。ところがこのワインは静かな気持ちで飲めた。白ワインをある程度飲み慣れていて、変わり種を飲みたい人、静かな気持ちで飲みたい人におすすめ。シャリンはこのメーカーぐらいしか作っていないイタリア北東部の土着品種なので、話のタネにもどうぞ。
 
 
・ロシュバン ブルゴーニュ・ピノ・ノワール ヴィエイユ・ヴィーニュ 2016
【1972】Domaine de Rochebin Bourgogne Pinot Noir Vielles Vignes 2016 - 北極の葡萄園
 

 
ブルゴーニュの赤ワインは異常に値上がりしていて、新型コロナウイルスがやってきても全然値下がりしない。そんななか、2000円を切った価格で流通しているこのワインはお買い得の部類。ブルゴーニュの赤ワインとしては低価格帯なのに、ちゃんと化粧箱みたいな香りがあって香り映えがする。
 
もちろん、化粧箱みたいな香りの漂うワインは他にもあるし、同じブルゴーニュの赤ワインでも5000円出せばもっともっと薫り高いワインは手に入る。とはいえ、1000円台でそういう雰囲気を出してきているのはえらい。1000円台のブルゴーニュの赤ワインは結構辛いものも多いから。なお、私がリピートしたのは2016年産で、2017年産や2018年産も同じ雰囲気なのかはこれから確認してみる予定。ここに張ったリンク先は2017年。
 
 
・ネグラール アマローネ デッラ ヴァルポリチェッラ モンティゴーリ 2016
【2024】Montigolo Amarone della Valpolicella 2016 - 北極の葡萄園
 

 
アマローネは、一般的な赤ワインに比べて甘みが強めなので、正統な赤ワインとは雰囲気が違う。だけど甘みが強いおかげで「子ども時代にイメージした葡萄酒」に限りなく近い味がするように思う。舌触りが少しザラザラッとしていて果実フレーバーが強烈なのも葡萄酒っぽいイメージを駆り立てる。葡萄酒らしい葡萄酒をワイン初心者が飲むなら、一般的な赤ワインは避けてアマローネを買ったほうが納得できると思う。
 
ところがアマローネはちょっとした高級ワインジャンルなので、マトモに買おうとすると痛い出費になる。にもかかわらず、このワインは2600円とめちゃくちゃ安い。10000円ほどのアマローネに比べるとさすがに粗いと感じる部分はあるにせよ、ちゃんとアマローネらしさは揃っているのでありがたい。
 
 
グレネリー グラスコレクション カベルネ フラン 2016
【1942】Glenelly "Glass Collection" Cabernet Franc 2016 - 北極の葡萄園
 

 
南アフリカのワインは、全体的に価格の割に美味いものが多いのだけど、そうしたなかでこのワインは1700円ほどもする(※値上がりした!今は2800円ほど)。なので「南アフリカのワインにしては高価」なのだけど、それだけのことはある。このワインの品種はカベルネフランといって主にフランス中部でつくられているものだけど、フランスの同価格帯の品に比べて味の輪郭がくっきりしていて、愛嬌があるというか、人をひるませる要素が少ない。
 
サクランボみたいな果実フレーバーと鉛筆・牧草みたいな香りがしっかりと香り、渋みはそれほど厳しくないので、ぶどうでつくられたお酒を飲んでいる感を感じやすい品だと思う。街で見かけたら保護したい。
 
 
・バンフィ ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ "プラチド" 2005
【2074】Banfi "Placido" Brunello di Montalcino 2005 - 北極の葡萄園
 

 
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノはイタリア中部で作られる高級ワインなのだけど、こいつはその割には価格が抑えめ。普通、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノは安くて6000円程度、高くなると15000円程度はする。しかも10年ほど寝かせておきたいので買うのも飲むのも大変。ところがこのワインは4000円を切っていて、2005年と十分に熟成もしている。
 
このワインの特徴は、干し柿やオレンジの皮みたいな香りが香ってくるところ。この香りのおかげか、ワインに包容力があり、飲むにつれ温かい気持ちになってくる。トマトスープや腐葉土のような香りがよぎることもあって、飲み応えは抜群、リッチ、これだけの味と香りのワインは、倍は出さないと普通は飲めない。
 
これは、在庫放出か何かなんだろうか? とにかく滅茶苦茶美味くてまた買いたくなってしまう。じきに在庫が無くなって終わりになるだろうから、つい、ストックしてしまう。なくなるまでリピートする予定。
 
 

手堅いフランスワインばかり買うのはやめよう

 
この、最後に挙げたプラチドや最初に挙げたディズエーリなど、今年はイタリアワインでコストパフォーマンスのおかしいワインに何度も出会い、その個性、その豊かさにびっくりさせられた。2015年頃から私は「一定クオリティ以上のワインを買うなら、結局フランスワインを買ったほうが手堅い」なんて思っていたのだけれど、これらのワインをリピートして「フランスの手堅いワインばかり買っているのは良くない、ちゃんと他所のお買い得品を探し回ろう」と思い直した。
 
それと、ワインを知ったつもりになっていて、まだまだ知らないぶどう品種、知らない味があるとも思った。ワインが趣味のひとつになって10年ぐらいになるけれども、来年は初心にかえって、いろいろな地域のワインをまんべんなくトライしてみよう、と思う。