シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

独りで生きて、独りで死ねる未来ができてほしい

 
孤独死を弔い続ける神主が危ぶむ「強烈な孤立」 | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
 
先日、世間では孤独死が増えている、もう既に問題だ、と提起する記事を東洋経済オンラインでみかけた。孤独に死ぬことを凄絶とみなし、また、死後の片づけの問題にも触れている。もう既に問題なのは、指摘のとおりだろう。
 
一方、ここ最近のスマートメディアの発展・普及や、新型コロナウイルス感染症に際して片鱗のうかがわれた健康をモニタリングする統治可能性をみるに、孤独死への対策は不可能ではないというか、将来は大っぴらに行われ、案外うまくいきそうな気がしてきた。
 


 
このツイートにもあるように、電力消費量やメディアの使用状況、スマートウォッチなどの(オンラインと直結した)バイオセンサーをもってすれば、独りで死んで何日も放置されるような事態は防げる。制度上の問題はもちろんあるが、技術的には十分に可能だ。制度さえ許せばだが、孤独死どころか、急変した人の住まいに素早く救急車をまわすことすら可能かもしれない。
 
「孤独であること自体が問題だ」と主張する人もいるし、それはそれで問題ではある。ただ、コミュニケーションのオンライン化が一定以上進んだ世代においては、Face to Faceのコミュニケーションがなくとも、コミュニケーション自体は維持される可能性がある。いや、狭い意味でのコミュニケーションが発生していないとしても、なんらか、コミュニケーションに参加しているという体感は得られるかもしれない。地域の付き合いが生活に密接したエッセンシャルなものでなくなり、むしろ、お互いに関わらないことを良しとするライフスタイルが増えれば増えるほど、オンラインで繋がっていることの重要性は高まる。コンビニやネット通販の普及も、スタンドアロンなライフスタイルを後押ししてきた。孤独は、問題視されるライフスタイルであると同時に、20世紀後半以降、スタンドアロンなライフスタイルとして持てはやされたものでもあった。誰もが嫌々、独りで暮らしているとは限らない。
 
今、起こっている孤独死がさまざまな問題をはらんでいることは確かだ。だからといって、独りで死ぬことは、本当に、すべて問題だろうか。そうではないと思う。独りでひっそり死ねるならそれでいい、他人の手を煩わせることさえなければ独りで死ぬのは構わない、という人は意外に多いのではないだろうか。だとしたら、独りで死ぬことそのものを問題にするのでなく、今現在の孤独死についてまわる諸問題をどうにかして、独りでひっそり死にたい・死ぬまでひっそり独りで暮らしたい人が憂いなく暮らせる未来を模索すべきだし、それは可能のようにみえる。
 
 

孤独死対策に必要と思われるもの・これから行われそうなもの

 
(今現在、問題になっているような)孤独死を防ぐためのインフラの第一は、スマートウォッチなど、個人の健康状態をリアルタイムで確かめられる機器の導入だろう。現時点ではちょっと先進的でお金のかかる手段にみえるかもしれないが、近い将来、生活のあらゆる領域のオンライン化が進めば(進まないわけがない)お金のかからないありきたりの手段になる。現在の統治機構と諸制度はこの仕組みを導入していないが、増え続ける独居者の健康と安全を守るため、それと種々のコストを引き下げるために、採用される可能性がある。いったん採用されてしまえば、独りで死んだ人が何日も放置される事態は防げるし、急死や急変を防ぐ手段にもなり得る。
 
現代人は、健康を守る・命を守るというタテマエには弱いので、どこかの時点で、スマートウォッチなどではなくバイオセンサーを体内に埋め込むことが義務化されても驚きはしない。医療費削減というホンネが加われば尚更だろう。バイオセンサーを埋め込む時に嫌悪感をおぼえる人は当然いようし、これが、人間の自由を枠づける権力の一種たりえることを警戒する人もいよう。が、じきにほとんどの人は馴らされ、命を監視・管理されることを当たり前だと思うようになり、違和感や警戒感を訴える声はかき消されていくだろう。
 
それともうひとつ、独りで死ねる住まいができないものだろうか。独りで死んでも黒いしみを床につくらなくて済むような住まい、それか一般の住まいに独りで死んでも大丈夫な道具立てを備える、そういったインフラが利用できるなら、独りで生きたい人や独りで死んでいきたい人の憂いがまたひとつ減るだろう*1
 
それらに加えて、死後の法的・情報的手続きを生前に整理しておく仕組みが定着すればなお良い。遺言をはじめ、現在でも死語に備えた手続きやサービスはあるにはあるが、もっと多くて構わないし、もっと一般的になっても構わない。
 
 
 *    *    *
 
 
国勢調査によれば、単身世帯の割合は2015年の段階で34.5%に達していて、グラフは右肩上がりだ。地域共同体は希薄になり続け、親子であっても別々に暮らしていることが珍しくない。結婚していたとしても、パートナーが死去すれば残される側は独り暮らしになる。それなら、独りで死ぬのを絶対に回避しようとつとめるのでなく、独りで死んでも構わないようにすること、憂いなく独りで生きて独りで死ねるようにすることは、高齢化と単身世帯化の進むこの国では避けられない課題のようにみえる。だったらやっていくしかないのでは?
 
 

家族がいても死ぬときは独り

 
私は、死について考えるのが恐ろしい。
できれば遠ざけたい。
だがいつか人は死に、家族がいても子どもがいても旅路は独りだ。
ならせめて、死後に憂いを残すことなく生きていきたいので、この分野の進展に期待している。
 
 

*1:今日でも、介護やヘルプサービスを念頭に置いた高齢者向け住宅は独りで死ねる住まいに近いと言えないこともない。しかし高コストであり、介護やヘルプサービスが必要な段階の人のためのものだ。それにピュアに独り暮らしとはいえない

社会の進歩は人間の動物性とどう折り合いをつける?

 
ダメと言われても「夜の街」に繰り出す人は何を考えているのか 「コロナ疲れ」「コロナうつ」は当然だ | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
 
 
上掲の、プレジデントオンラインさんの寄稿テキストでは、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐための、いわゆる「新しい生活様式」によって抑圧されることとなった、動物的な・プリミティブな人間のコミュニケーションについて記した。また、そうした変化が急に始まったものではなく、文明的で行儀の良い、快適で清潔な社会の成立と切っても切れない関係にあることもざっと解説した。
 
インターネットが好きでたまらない人のなかに、「身体的なコミュニケーションやFace to Faceなコミュニケーションなど要らない、ないほうが快適に決まっている」と述べる剛の者がいるのは私も知っている。が、そういう人はネットでは目立っても世間では目立たない少数派だ。21世紀になっても大半の人間は、動物的な・プリミティブなコミュニケーションを完全に捨てられずにいる。
 
大半の人間にとって、「新しい生活様式」によるコミュニケーションの制限は楽なものではなかった。そりゃそうだろう、人間は本来、ディスプレイや文章だけのコミュニケーションなどしておらず、もっと身体的に、もっと動物的にコミュニケーションをしてきたのだから。このことを証明するに、太古の昔まで遡る必要はない。携帯電話やインターネットが無かった頃に遡りさえすれば、子どもも大人ももっと身体的に、もっと密にコミュニケーションしていた時代にたどり着く。
 
だから私は、動物的なコミュニケーションを求めずにいられない人間の性質が、新型コロナウイルスの一連の騒動をとおしてますます制限されたり禁じられたりすることに懸念をおぼえる。ただでさえIT化によって進行してきたコミュニケーションの変形をさらに進め、動物としての人間をいよいよ疎外するもののように思えるからだ。
 
もちろん私は、動物的なコミュニケーションや身体的なコミュニケーションでさえあれば良い、と言いたいわけではない。もし、「人間のコミュニケーションは新石器時代まで巻き戻すべきだ」などと言い出したら、今の文化的な生活も現代社会の秩序も人々の諸権利も、みんなご破算になってしまうだろう。
 

  
人類のコミュニケーションの歴史は、動物的なコミュニケーションをそうでないコミュニケーションへと変形させていく歴史でもあった。動物的なコミュニケーションそのままでは避けられなかったいくつもの野蛮、いくつもの危険、いくつもの不平等が、文明化の過程をとおして改められてきた。この文明化の過程がなければ、たとえば現在の東京の生活など成り立ちようがなく、動物的なコミュニケーションを丸出しにした人間が首都圏の人口密度で集中したら、そこにはカオスしかないだろう。
 
だから、動物的なコミュニケーションをそうでないようにコンバートしていった先人を悪しざまに言うべきではなく、むしろ恩義を感じながら思い出しておきたいと私は思う。
 
 
 

どこまで人間の動物性を漂白できるのか

 
それでも「新しい生活様式」をとおして多くの人が実感したように、動物的なコミュニケーションができなくなってしまうと、私たちは辛いと感じる。快適で便利な暮らしのために、人間がみずからの動物性をお互いに律しあって暮らしていくことに異存はないが、動物を"完全に"やめる方向に進みすぎても、それはそれで生き辛いのではないだろうか。
 
人間の動物的なコミュニケーションを制限する方向に社会が進み過ぎた結果、その進歩についていけない"落第生"が新たに社会不適応者とか、障害とかみなされるような未来を、好ましい未来として思い描くのは私には難しい。
 
いや、現代の段階でも、動物としての私たちはかなり無理を重ねているのではないだろうか。
 
コミュニケーション以外の部分も含め、現代人は新石器時代の生活から大きく離れている。夜になっても煌々と明かりが灯って活動していること、不特定多数を相手に感情労働を行うこと、核家族という風変わりなユニットで子育てしていくこと、等々、もともとのホモ・サピエンスの生活から隔たった暮らしを実現した果てに、精神疾患と診断されなければならない人、治療やサポートを必要としている人が右肩上がりに増え続けている。
 
不特定多数を相手にした果てしないコミュニケーション、果てしない感情労働といったものは、本来、人間にさほど求められなかった課題だったはずだ。ところが社会の流動性が高まり、第三次産業が台頭した社会では、そうした課題をこなせることが社会適応の与件になってしまっている。
 
と同時に、職業の専門分化や個人主義の先鋭化の結果として、動物的なコミュニケーションが極端に不足する境地を生きなければならない人も一方で増えてきている。
 
社会契約のロジックのもと、私たちは仕事の専門分化した社会や個人の自由を貴ぶ社会を成立させたが、それは社会契約の領域での成功でしかない。動物としての人間が、動物としての自分たち自身を疎外しすぎずに生きていける方法を授けてくれるものではなかった。工場労働の疎外が著しかった一時代から情報産業とサービス業の時代になっても、結局、動物としての人間の疎外の問題は解決には至っていない。
 
むしろ文明化が行き過ぎると、動物としての人間は、個人主義や社会契約や資本主義のロジックのなかで置き去りにされ、顧みられなくなってしまい、あたかも動物をやめた「主体 individual」として徹頭徹尾生きていかなければならなくなったのではないか──そんな印象を私は受ける。 
 
動物をやめて「主体」として生きるのは、社会契約のロジックの内側では (または法治のロジックの内側では) 理想的かもしれない。というよりそれが義務でもあるかもしれない。
 
だけど人間は動物をやめられない。完全にやめてしまうべきでもないと私は思っている。これまでの歴史は、とにかく人間の動物的な性質の弊害をなくす方向で進んできたし、それは大筋では良かったのだろう。が、ここに来て、いよいよ動物的な性質を漂白しつくし、あたかも法人のごとき「主体」になれと人間に迫っているようにみえる。
 
 

動物をやめろという社会は誰のための社会?

 
そうやって動物を完全にやめて、動物らしさを捨てきれない人間がついていけない社会をこしらえたとして、それはいったい誰のための社会なのだろう。完全に「主体」になりきれるスーパーマンのような、ごく一部の人間だけが涼やかな顔をしていられて、そうでない多くの人々が動物としての自分たちを疎外され続け、生きづらいと感じ続ける社会は、ごく一部の人間だけのための社会でしかない。
 
だから私は、社会の進歩や文明化そのものは否定しないとしても、そうした進歩や文明化が、そろそろ人間の動物的な側面を顧みるフェーズにたどり着いて欲しいと願う。ちょうど、人間工学なるものが人間にやさしい設計やデザインを考案するように、人間の動物的な側面にやさしい社会の進歩や文明化が議論されて欲しいと希望する。「人間にやさしい社会を目指す」というスローガンのなかに、人間の動物的側面にもやさしい社会を目指すというニュアンスが含まれていて欲しい。
 
 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

神様みたいだった1996年のバトルガレッガ

 

(※写真は、ゲーメスト1996年5月15日号、バトルガレッガ攻略記事より)

  
note.com
 
上掲リンク先は、傑作シューティングゲーム『バトルガレッガ』を20年越しにクリアした方の文章だ (おめでとうございます!)。 20年前に一度諦めたゲームをもう一度手に取り、チャレンジしてクリアするのはタフなことだと思った。
 
で、リンク先にはバトルガレッガをできるだけ簡略なパターンでクリアするための攻略動画へのリンクも掲載されている。それが下のものだ。
 
youtu.be
 
昔は難しいゲームとみなされていたバトルガレッガをここまで解題し、難しい避けを最小限にしているのは、これもこれで進歩だと驚いた。
 
2000年代には、「知の高速道路」という言葉をよく耳にした。いわく、インターネットによって知識やノウハウにアクセスしやすくなり、何事も、ある程度までは簡単に上達できるようになった、というやつだ。今にして思うと、これは楽観的すぎる見方で、2020のインターネットには「必要な知識が何かがわからない」「知識の真贋がわからないまま進歩がない」といった悲惨が溢れている。
 
しかしゲームに関してはこの限りではなく、おもに動画配信によってさまざまなゲームが攻略しやすくなった。優れた攻略動画は、映像を流すだけでなく特定場面のリアクションの理由や意図までわからせてくれる。
 
そのうえゲーム環境が進歩したため、苦手な場面だけリピート練習したり、自分のプレイを検証したりするのも簡単になった。だからバトルガレッガのような「かつて、難しいとされていたゲーム」に挑戦するには良い時代になったと思う。
 
じゃあ、過去のプレイヤーが一方的に不利だったかと言ったら、そうでもなかったと思う。シューティングゲームに限らず、傑作と呼ばれるゲームは皆、プレイヤーを引っ張っていくすごい力を持っている。1996年のバトルガレッガもそういう作品だったので、当時の思い出話を書き残してみる。
 
 

キャロット巣鴨で見た、バトルガレッガの熱狂

 
バトルガレッガがゲーセンに初登場したのは1996年2月だったというが、私が住んでいた地方都市にはバトルガレッガは入荷せず、ゲーメストの紙面や首都圏の友人からの情報がすべてだった。早い段階から「バトルガレッガはとんでもないシューティングゲーム」という噂話だけが聞こえてきて、田舎者としては地団駄を踏むほかなかった。シューティングゲームの好きな首都圏の友人たちは、当然のようにバトルガレッガに挑戦し、魅了されていった。うわごとのようにバトルガレッガを讃える彼らの声を聴き、うらやましいと思うと同時に、とにかく実物を見てみたい、触ってみたいと思った。
 
はじめて私がバトルガレッガに出会ったのは、まだ寒い頃の渋谷だった。当時、渋谷のゲーセンで一番遊びに行っていたのは渋谷会館で、そこは『BATSUGUNスペシャルバージョン』を遊べる数少ないゲーセンのひとつだった。BATSUGUNスペシャルバージョンは、バトルガレッガも怒首領蜂も東方も無かった頃にしては弾幕シューティングに近い内容で、挑戦しがいのある作品だった。
 
ところがその渋谷会館にはバトルガレッガが入荷しなかった。渋谷でバトルガレッガを探してまわった結果、井之頭通りに近い小さめのゲーセンに設置されているのをやっと発見した。そこはマニアが集まるようなゲーセンではなく、バトルガレッガを遊んでいる人はいなかった。帰りの電車の時間を気にしながら少し遊んだバトルガレッガはやたら難しく、5面道中のボスラッシュ手前でやられてしまい、そこから先の熱狂を見損なった。この時点では、面白いというより意地悪、熱狂というより醒めたゲームという印象だった。敵弾が見えづらいせいで突然ミスしてしまうこと・勲章アイテムを落としやすくてスコア稼ぎが辛そうなのも気に入らなかった。正直、よくわからなかった。
 
東京を後にした後、バトルガレッガをよく知る友人に電話で感想を伝えた。当時はまだ、家にインターネットが来ていなかったので午後11時を過ぎるのを見計らって長電話した。バトルガレッガは、友人と長電話をして意見交換したいちばん最後の時期のゲームでもあった。あの頃は、長電話が青少年のたしなみみたいなものだった。
 
「バトルガレッガ、わからんかったわ。敵の弾は見にくいし、難しいし。」
「5面のボスまでは観れたか?」
「いや、そこまで行けんかった。」
「そりゃ駄目だ、シロクマ君はバトルガレッガの面白さと恐怖をまだ見ていない。今度、巣鴨においで」
 
「巣鴨においで」とは、JR巣鴨駅の近くのナムコ直営ゲーセン、プレイシティキャロット巣鴨においでという意味だ。ここはゲーメストのスコア集計でも有名な強豪店で、腕のたつプレイヤーがたくさんいた。友人は、彼らに交じってそこでバトルガレッガをやっているという。
 
百聞は一見に如かず。
キャロット巣鴨で私を待っていたのは、友人も含め、バトルガレッガに長い列を作っているプレイヤーたちと、そのプレイヤーたちによる中毒的なスコア稼ぎ、そして5面ボスラッシュから7面の、見ているだけで心拍数が上がってきそうな波状攻撃だった。
 
バトルガレッガのスコア稼ぎには、なにやら狂熱的な雰囲気があった。当時はランク調整の詳細がまだわかっていなかったが、すでにプレイスタイルは「よく稼ぎ、よく死ぬ」「よく死ぬのを、よく稼いでカバーする」といった雰囲気になっていた。ハイスコアを目指すプレイヤーだけでなく、とにかくバトルガレッガをクリアしたいと思っているプレイヤーも生存のためにスコアを稼いでいた。2020年からみると過剰なスコア稼ぎだったかもしれないが、当時はおおむね必要と理解されていた。結果、長い列をつくっているプレイヤーが全員、とりつかれたようにスコアを稼いでいて、バトルガレッガの筐体からはただならぬ雰囲気が立ち上っていた。
 
5面ボス、ブラックハート。
当時のゲーメストの記事で、ブラックハートが「カリスマ的なボス」と評されていたのを覚えている。
実際、速射砲で弾の壁をつくってプレイヤーを揺さぶる「ワインダー」という攻撃に私は度肝を抜かれたし、多くのプレイヤーも緊張感をもってそれに対峙していた。その後、弾幕シューティングゲームは弾数がインフレしていったので2020年からみるとむしろシンプルな攻撃にみえるかもしれない。だが1996年の段階では断然見栄えが良く、挑み甲斐のある攻撃だった。たくさんのプレイヤーがブラックハートで集中力と残機をすり減らしていった。
 
続いて6面が始まると、間髪おかずに中型の敵が押し寄せ、休む暇はない。当時の6面は難易度の調整が足りていなかったため、まるで画面じゅうから弾がにじみ出てくるかのようで、そこに常識はずれの戦車ラッシュや巨大レーザー砲の砲撃が加わり、すごいプレッシャーになっていた。キャロット巣鴨のプレイヤーの大半は、当時の私よりシューティングゲームが上手い様子だったが、その彼らでさえ、6面を突破できる者はほとんどいなかった。かの友人氏も、6面ボスにどうにかたどり着くのが精いっぱいだった。6面は、プレイヤーを最高に熱くさせていた。
 
そして7面、最難関のブラックハート2。ほとんどのプレイヤーが到達すらできないそいつは、それまで出会ったどんなシューティングゲームのボスよりも圧倒的にみえた。のちの弾幕シューティングゲームに比べて弾の数そのものは少なかったとしても、キャロット巣鴨のブラックハート2は、ランダム性を伴ったバラバラの弾幕をすさまじい勢いで吐き出し、かろうじてたどり着いたプレイヤーを無慈悲に退けていた。ブラックハート2まで到達できたプレイヤーには尊敬の目が集まり、場が沸いた。当然だろう。
 
はじめのうち、私も列に加わってバトルガレッガをプレイしていたが、こうした荒行苦行を眺めているうちにおじけづいてしまった。あまりにも難しそうで、あまりにもみんな熱くなっていて、始めたばかりの自分が割り込むのが申し訳ない気持ちになってきたからだ。しかしじっと観戦し続けた。いつか自分も、彼らのように戦える日が来ると信じて。
   
 

地元にバトルガレッガが入ってからの熱狂

 
それから2か月ほど経った6月頃、地元のゲーセンにとうとうバトルガレッガが入荷した。地元のシューティングゲーム愛好家が集まり、たちまち話題になった。当時、地元で最高峰のプレイヤーはキャロット松本というゲーセンに集まっていて、他のゲームの全一スコアづくりに忙殺されていた。おかげで幸運にも、私とだいたい同じぐらいの腕前のプレイヤーが切磋琢磨しながら攻略することになった。これは競争心を高めてくれただけでなく、攻略情報を融通しあうにも都合が良かった。腕前がだいたい同じなので、難しすぎてパターンが真似できない、といった事態が起こりにくかったからだ。
 
夏休みシーズンを迎えてからは、朝から晩までゲーセンにこもった。8月の段階では、7面の最難関、ブラックハート2を倒すことが現実的な目標になりはじめていて、そのためにもプレイ全体のクオリティを高めなければならない時期だった。全国レベルではクリアする人がだいぶ出てきていたとはいえ、私たちがクリアするにはバトルガレッガはまだまだ難しかった。
 
それでもめげずにプレイできたのは、自分一人で攻略しているわけではないこと、そして当時のバトルガレッガというゲームに宿っていた神様みたいな魅力だった。
 
いつゲーセンに行っても、仲間の誰かがバトルガレッガをやっていた。毎日のように攻略に役立つ発見があり、知識として共有されていった。くだんの東京の友人も含め、遠方から遊びに来てくれるプレイヤーもいて、情報交換に花が咲いた。バトルガレッガを攻略するという一つの目標をみんなが共有していた。傑作ゲームはしばしば、そうやってプレイヤー同士を結び付ける。
 
そして当時のバトルガレッガはシューティングゲーム界で並ぶものの見当たらないシューティングゲームだった。同じぐらいよくできたシューティングゲームは他にもあったが、スコア稼ぎとランク調整の絶妙な組み合わせ、後半のエスカレートする難易度と弾幕、そしてボスのカリスマ性や納得ずくの難しさといった点で、バトルガレッガは群を抜いていた。ランク調整システムのおかげで、後半面の敵が強くなりがちなのも闘志を煽っていたように思う。
 
1997年には『怒首領蜂』がリリースされ、今度は火蜂というカリスマ的ボスがシューティングゲーム界を震撼させるのだけど、それは後日の話。1996年の段階では、バトルガレッガがどこからどうみてもナンバーワンだった。
 
夏の終わりには1~4面のスコア稼ぎと難易度調整が大幅に改善して、5面~7面の難易度がかなり低くなり、残機やボムを残した状態でブラックハート2に挑めるようになった。隣のキャロット松本にバトルガレッガの動画ビデオを持ち込んだ人がいて、それを見る機会があったのも参考になった。やがて地元のプレイヤーの一人がブラックハート2を撃破。見ているほうがハラハラする戦いだった。これが攻略熱に拍車をかけ、やがて私たちはバトルガレッガをクリアした。初クリアそのものは意外にあっさりと終わった。
 
ところがもう一度クリアしようと思ってもクリアできない。一か月近くできなかったと思う。こうなる理由ははじめからわかっていた──なぜならブラックハート2の気まぐれな弾幕を筆頭に、バトルガレッガはランダムな攻撃の引きによって難易度がかなり変わるからだ。私がはじめてクリアした時、ブラックハート2は危険な攻撃をほとんどしかけてこなかったが、そのような幸運に頼っていてはバトルガレッガを御したとは言えない。秋を迎えてようやく、バトルガレッガを安定的にクリアできる目途が立った。約半年かけて、やっとクリアしたということになる。
 
 

あの時じゃなかったらきっとクリアできなかった。

 
1996年の昔話はここまでだ。
 
当時はゲーム環境が今より劣っていたし「知の高速道路」も無かった。その点では、当時のプレイヤーは2020年より不利だったといえる。
 
そのかわり私たちはゲーセンで助け合い、情報交換しあった。Youtubeを検索するかわりに、離れたプレイヤー同士が声をかけあい、教えたり教えられたりしながら切磋琢磨していた。近くにキャロット松本があってトッププレイヤーの援助を受けられたのも大きかった。独りでは攻略できそうにないゲームでも、集団で攻略すればこの限りではない。私たちはバトルガレッガをとおして腕をみがき、難しいゲームでもみんなで攻略すればどうにかなることを知った。
 
1997年、怒首領蜂がゲーセンに旋風を起こした時もこのときの経験が役に立った。なにより、バトルガレッガでさんざん鍛えられたおかげで二周目攻略にもついていくことができた。2年連続で弾幕シューティングゲームに熱中できたこの時期が、プレイヤーとしての私の全盛期だ。
 
それと、当時のバトルガレッガには神々しいほどのカリスマ性があった。2020年から振り返ると、バトルガレッガの演出や難易度は他の弾幕シューティングゲームに埋もれてしまうが、当時は群を抜いて、最高に見栄えのするゲームだった。そこに長い列を作って代わるがわるプレイするプレイヤーたちの熱狂が合わさって、得も言われぬ雰囲気を1996年のバトルガレッガは獲得していた。ゲームの世界は日進月歩だから、こうしたカリスマ性が宿るのはリリースされて間もない、短い時間だけだ。
 
私はお調子者の気配があるので、1996年のバトルガレッガに出会えなかったら、たぶんちゃんとクリアできなかったと思う。いまどきの最新ゲームにも、こうした側面はあるだろう。そういう幸運に巡り合えたときには、きっちり掴んで、しっかり遊んでおきたい。
 
 

中年ナルシストの道は狭く険しい

 
 
これから「中年ナルシストの道は狭く険しい」という小話をするが、私は小心者なのでおことわりを入れておく。
 
私は、自分のことをナルシストだと思っている。
だってそうだろう、二十年以上もインターネットで自己表現……といえば聞こえはいいけれども、自分の話を聞いて聞いて聞けよ聞けったらとやってきたわけだから、これをナルシストと呼ばず何と呼べばいいのか。私が承認欲求やナルシシズムについてずっと書き続けていたのも、自分がそうだからという部分を否定できない。他人の承認欲求やナルシシズムにアンテナが働くのは、同類・同族のたぐいだからではないだろうか。
 
で、そんな私も中年になった。
中年になってナルシスト続けていくの大変かなーと最近は感じている。

【ナルシシズムの夕暮れ】
 
ナルシスト。
自己愛。
 
ナルシストにも色々なタイプがあるけれども、とにかく、歳を取ってくることでナルシシズムが成り立ちにくくなる部分がいろいろあると感じる。
 
まず容姿。
どう頑張っても若い人にかなわなくなる。威厳のある恰好が似合うようになれば、それを頼りにナルシシズムを充たす道がないわけではない。とはいえ、威厳を獲得したとしても、肉体の衰えを隠すことは難しくなる。衰えを他人の目から隠す方法なら、あるかもしれない。だけど衰えを自分の目から隠す方法は無い。
 
判断力、瞬発力、記憶力なども衰えてくる。ひとことでナルシストと言っても容姿を誇っている人はいっそ少数派で、見事に仕事がこなせること、卓越した技能や知性に存在理由を見出しているナルシストもたくさんいる。自分の持っている諸力によってナルシシズムを成立させているそうした人たちにとって、力の衰えは、ナルシシズムの陰りにほかならない。自分がそれを誇りにしていればしているほど、自分がそれに格別な注意を払っていればいるほど、小さな衰えにも気づくことになる。
 
容姿も含めてだが、ナルシストがナルシシズムを成り立たせるにあたってなんらかのパワーに頼っていることはとても多い。そのパワーに限界がみえてきたとき、ナルシストは自分にうぬぼれてはいられなくなる。あるいはプライドが保てなくなったり自信を喪失したりする。
 
また、自分自身と他人の能力を比較し、優越性を見出すことでプライドや自信を守っている場合には、若手の成長が脅威になるかもしれない。三十代の前半あたりだと、年下の人々はまだまだ経験不足すぎてそれほど脅威とうつらないかもしれないが、四十代、五十代ともなると年下は十分すぎるほど経験を重ねていて、しかも自分に比べれば衰えていない……というより伸びてくる。やがて、年下がだんだん自分を追い抜いていく現実に直面する。優秀なナルシストほど年下に追い抜かれる日は遅くなる反面、優秀なナルシストほど年下に追い抜かれたときに衝撃を受けるかもしれない。
 
なにより、可能性。
若い頃のナルシシズムには天井がないというか、自分には可能性があるとか、何者かになれる余地があるとか、まあなんでも適当に夢想できた。夢があれば、自分を過大評価することも、自分を騙すことも難しくはない。
 
けれども年を取ってくればキャリアの限界、人生の限界がみえてくる。少なくとも若い頃のナルシシズムのような、青天井の夢はみられない。伴って、自分を過大評価することも、自分を騙してプライドや自信を保つことも難しくなる。
 
こうやって、若い頃にはナルシシズムを割と簡単に成り立たせていた与件が、だんだんに失われて、ナルシシズムを成り立たせるための手段が難しくなってくる。または、ナルシシズムを成り立たせる手段の条件が厳しくなってくる。危うし!中年のナルシスト!
 
もし、中年のナルシストがいままでどおりにナルシシズムを成り立たせようとしたら、途方もない努力と運が必要になる。美容や健康に全力を尽くし、優秀であり続けようと七転八倒し、キャリアや人生の地平線の向こう側にフロンティアを見つけようとする。もし、それらに成功すれば中年ナルシストはそのままナルシストをやっていけるかもしれない。
 
だが、狭くて険しい道ではある。
美容や健康はだんだん保ちにくくなる。十分に有能で、若手にも負けない自分自身であり続けるのは大変なことだ。出世に負けたり人間関係に失敗したりすれば、キャリアや人生の地平線は簡単に黄昏に沈む。若かった頃と同じぐらいナルシストで通すためには、よほどの努力、よほどの秀逸性、よほどの幸運がなければ無理だろう。あるいは冠絶するような業績か。たいていの場合、そうもいかないので途中でナルシストをやってられなくなる。
 
だけど本当はそれでいいのだと思う。あきらめたり、身の程をわきまえたり、ぐったりしながら、それでも人生は続いていく。そうやってナルシストの度合いをすり減らしていける人は、健康で柔軟だと思う。ただ、みんなが健康かつ柔軟にナルシストの度合いを減らしていけるわけでもない。ぎりぎりまでナルシストを突っ張って疲れ果ててしまう人もいる。どうしてもナルシストを続けたくて、あさっての方向に向かって旅立ってしまう人もいる。そしてたぶんだけど、ナルシストを続けられないことに我慢ならなくなり、死んでしまう人だっている。
 
世の中には「中年の危機」という言葉があるけれど、少なくともナルシストにとって中年はひとつの試練だと思う。なぜなら若かった頃に成立していたナルシストとしての心の経済学が、生物としての加齢や社会的な加齢によって成立しなくなっていくからだ。
 
 
【どこから自覚し、どうやって畳んでゆくのか】 
 
こうした中年ナルシストの道の狭さや険しさは、実感する時期に多少の前後があるとも思う。早ければ三十代前半に始まるかもしれないし、幸運でタフで優秀なナルシストなら五十代になって始まるかどうかかもしれない。何歳ぐらいで狭く険しくなるのかはさておき、加齢によって狭く険しくなるのがナルシストの道だとは思う。
 
私はナルシストであることを悪いことだと思っていないし、自分にそういう性分があることを仕方がないことだとも思っている。どうせなら、よく訓練されたナルシストとして社会に溶け込んでいきたいとも思う。それでも加齢に伴ってナルシストとして生きる根っこのところが煤けてきている自覚は持っておいて、ついでにひとつの教訓として年下のナルシストに知ってもらいたいなとも思う。ああ、この望み自体が私のナルシシズムの発露なのだからどうしようもないですね。それでも、これは私の目の前に広がっているひとつの風景なので、こうやって文章化したものが誰かの参考になったらいいなと願う。
 
 

あの頃私は買いだめして、本能を充たし不安を防衛していた

 
暑いのか秋っぽいのかわからない夜長に眠れなくなってしまった。少し前の思い出を書きたくなったので、新型コロナウイルスの脅威がいちばん切迫していた頃の思い出話を書く。
 
まず、参考までに3月19日付けのヤフーの記事へのリンクを貼り付けておく。
 
新型コロナ影響でコメ・パスタなど食品のストック需要が伸長(日本食糧新聞) - Yahoo!ニュース
 
あの、人々がカップ麺やパスタや缶詰をまとめ買いしていた頃、私も少しだけ買いだめしよう・買いだめしたい、と心がけていた。例の、日本社会についてまわる世間体が気になっていたから、私の買いだめは他のお客さんや店員さんにバレにくいかたちで実行にうつされた。
 
こそこそ買いだめ作戦。その内容は、「使う予定のない缶詰をひとつ余計に買う」「いつもよりパスタソースを1パックだけ多く買う」といったことを一か月ほど地道に続けるものだった。金額にして、一回あたり300円かそこらの買いだめでも、塵も積もれば山となる。この、僅かな買いだめとて、みんなが一斉にやれば店頭から品物はなくなってしまうだろうとわかっていたけれども、やりたかったから、やった。
 
やがて期待どおり、自宅の床下倉庫には買いだめた食料品がそれなりに集まった。3月~4月の時点では、集まった食料品を眺めるのはなかなかに気持ちの良いことだった。
 
この複数回にわたった買いだめは、今にして思えばすごく"お買い得"、または"コスパが良かった"と思う。なぜなら、ささやかな買いだめには大きな満足感が伴っていたからだ。
 
あの時、私は買いだめをしたいというプリミティブな欲求を抱えていた。
 
社会全体を覆う不測の事態に対して、個人に備えられることは少ない。また、備えたとしてもそれが有効であるという確証も乏しい。ちょっとぐらい食品や消耗品の備蓄があったところで、社会情勢が本当に滅茶苦茶になってしまったら足りなくなるだろう。また、オイルショックや東日本大震災を引き合いに出し、「買いだめは利口な人がすることではない」と語る人もたくさんいた。私よりも賢そうな人たちが、賢そうにそう言っていたのだから、利口な人は買いだめをしたくならないのかもしれない。
 
けれども、そうした頭でわかっていることを圧倒するように、買いだめは私の快楽となった。あるいは本能をくすぐってやまなかった。私は安心を買い漁りたくてしようがなかった、という風にも言えるだろう。
 
どうあれ、私は300円かそこらの買いだめをしては、ウキウキとした気持ちで帰宅した。スーパーマーケットや百貨店ではしばしば、「どうぞ、ショッピングをお楽しみください」というアナウンスが流れるけれども、あのささやかな買いだめの時ほど、そのアナウンスどおりに私が楽しんでいたことはなかったかもしれない。これに匹敵するのは、地方の酒屋さんの開かずの冷蔵庫のなかに、市場価格を大幅に下回るワインを発見したときぐらいである。とにかく、たった300円かそこらの買いだめのおかげで、私は買い物のたびに大きな満足をおぼえることができていた。
 
たった300円かそこらで買い物が満足感に彩られるというのは、そうざらにあるものではない。しかも、買いだめた品物はたいがい日持ちするから、後でゆっくり食べれば無駄になることはないときている。「体験にお金を払う」という視点でみるなら、これは、とてもお買い得で、とてもコストパフォーマンスの良い体験だったのではないだろうか。
 
 
不測の事態への備えだとか、経済合理性に照らし合わせるだとか、そういった視点でみるなら、私のやったことは利口なことではなかった。だが、危機管理や経済合理性のとおりに行動選択するのと、自分の快楽や本能の充足、不安の防衛まで意識して行動選択するのでは最適解は変わってくる。あの頃の私は、自分の快楽や本能の充足、不安の防衛まで手当てしたがっていたから、買いだめをしてみて私個人は良かったのだと思っている。
 
ただもし、私と同じ心境で皆が行動していたのだとしたら、個人にとっての最適解と社会にとっての最適解にはギャップがあったとは言えるだろうし、実際そうだったのだろう。