シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ほとんどの人は「友人にカネを貸してはいけない」を理解する必要なんて無い

 
お金を貸して絶縁するだけの話 - やしお
 
 
 リンク先の筆者ははてなダイアリー時代からブログを書いているという。だからかもしれないけれども不思議な読了感があり、そういえば、ブログで対人関係の様式を読むのは久しぶりだな……などと思った。
 
 

対人関係にカネが介在しても平気な性質

 
 まず、筆者さんの対人関係の様式は、なかなか珍しいもののように私にはみえた。日常臨床の世界でもオフ会の世界でも、筆者さんのような人に出くわすことは稀にある。だが、あくまで稀であって、大多数は筆者さんとはだいぶ違う。
 
 リンク先の文章は、「友人にカネを貸したら戻って来なくて絶縁した」といったテーマで綴られているが、こんなテーマで長文を綴れること自体、かなり独特だ。私たちは、友人同士の間柄ではカネの貸し借りをしないし、してはいけないと教わってもいる。もし、どうしてもカネを貸し借りするとしたら、友人関係は終わると覚悟しなければならない。あるいは、返してもらえることをあてにしないような、半ばくれてやるかたちになるのが通例だ。
 
 世の多くの人は、友人関係にカネの貸し借りが挟まることに耐えられない。
 
 ところがリンク先の筆者さんは、そうではない様子であるように読めた。リンク先の文章には、「友人」の映画代や旅行費や飲食費を筆者さんが何年も払い続けていることが記されていた。はてなブックマーク上の反応をみても、この点に唖然としている人が少なくない。
 
 それはそうだろう。世の大半の人は一方的に金銭を肩代わりする/されるような人間関係を「友人」関係とは呼ばない。ほとんどの人はこのような関係には耐えられないし、過去を振り返って楽しかった、などとは思いもしないだろう。
 
 ところが、筆者さんはこれを楽しかったことと回想できる、できてしまうのである。
 
 もし、数年間「友人」から映画代や旅行費や飲食費を払ってもらい続けるのが「友人」としておかしいと指摘できるとしたら、「友人」の金銭を肩代わりし続けて、それを不快な思い出として回想せず、楽しかった思い出として回想できてしまう筆者さんもおかしい、と指摘しなければならないだろう。
 
 おかしいといって語弊があるなら、珍しい、と言い直すべきかもしれないが。
 
 これまでにもカネを貸して戻って来なかった逸話があったのをみるにつけても、この筆者さんは現代日本人では珍しい、対人関係にカネが介在しても不快にならない性質の持ち主と推測される。
 
 このような性質にもとづいて対人関係を営んでいれば、プライベートな人間関係はかなり制限されかねない。なぜなら、世の多くの人は、友人関係のようなプライベートな人間関係にカネが介在することを不快に感じ、簡単には受け容れられないからだ。人間関係にカネが介在することを不快に感じる度合いの高い人ほど、筆者さんの珍しい性質を目の当たりにした時、「この人とプライベートを共有するのはなんとなく難しそうだ」と感じて距離を取るだろう。
 
 そうなると、カネの介在を不快に感じにくい人だけが距離を取らずに「友人」になり得る。しかし、それだけでは終わるとは限らない。金銭を肩代わりすることを楽しかったと回想できる人と付き合うようになったカネの介在を不快に感じにくい「友人」は、ほとんど抵抗なく金銭を肩代わりしてもらえる関係性へと慣れていき、いよいよ金銭を肩代わりしてもらう方向へとなびかずにはいられないだろう。
 
 人間関係にカネが介在することを不快に感じやすい人なら、このような関係性に至ることはまずないのだが。
 
 別のブログ記事のなかで、筆者さんは
 

 友達にお金を貸しちゃダメって話は誰もが言う。だけど、その仕組みをきちんと説明してくれた人はこれまでいなかった。仕組みをちゃんとわかってる人が少ないんじゃないか。「お金のトラブルになっちゃうと友情が壊れちゃうからね」って、そんな理解じゃぜんぜん浅いんだよ。そうじゃない。「お金のトラブルになっちゃうと」じゃない、そんな途中からの話じゃなくて、もう第一手目からこの終局が導かれてるんだよ。
 これね。ようやく私理解しました。友人にお金を貸してすんなり返ってこないって事態が構造的に不可避だってこと、二人目を経験してみてもうすっかり理解しました。
 引用元:https://yashio.hatenablog.com/entry/20151007/1444230425

 と述べている。
 
 私がみるに、確かに世の多くの人は、「友人にカネを貸してはいけない」を浅くしか理解していないと思う。
 
 だが、理解する必要なんて無いのである。
 
 世の多くの人は、「友人にお金を貸してはいけない」を説明されるまでも理解するまでもなく、友達にお金を貸すという行為がそもそも生理的に耐えられない。生理的に耐えられないから、プライベートな人間関係のなかで少額といえどもお金の貸し借りができてしまったら、できるだけ早く解消しようとする。
 
 「友人にカネを貸してはいけない」その仕組みを深く理解しなければならないのは、現代人としての筆者さんの、独特なところだと私は思う。ほとんどの人が生理的に耐えられないものが平気だから、筆者さんは理解という手続きをとおして「友達にお金を貸しちゃダメ」という対人関係の基礎を実行しなければならない。
 
 しかし実際には実行しきれていないことが詳らかにされているわけだから、理解がまだ足りないか、理解という手続きでは十分ではないのかもしれない。
 
 

カネの影響力は強い。強いがゆえに忌避される。

 
 一連のブログ記事を読んで、私は「そういえば人間関係ってカネの論理だけでは上手くいかないものだね」と改めて思い出した。
 
 商取引や仕事の世界では、ほとんどのことがカネでモノやサービスをやりとりすることができる。大昔は必ずしもそうでもなかったが、現代人は、モノだけでなくサービスまでもカネで売買することにすっかり慣れているし、そのことに罪悪感を感じたりもしない。
 
 しかし、何もかもカネの論理でやりとりできるようになったかといったら、そうでもない。友人関係などはその最たるもので、世の多くの人は、そういうプライベートな人間関係にカネの論理が侵入することを嫌がる。
 
 なにしろカネというのは強力だ。カネという影響力の権化は、人間関係に強い力を及ぼさずにはいられない。金銭を肩代わりし続けて/され続けてもなお、お互いの人間関係を全く変化させないのは、ほとんどの人には不可能だ。
 
 聞くところによれば、昭和時代の大政治家、田中角栄は以下のようなことを言ったという。
 

「いいか。お前は絶対に『これをやるんだ』と云う態度を見せてはならん。お前がこれから会う相手は大半が善人だ。こういう連中が、一番つらい、切ない気持ちになるのは、他人から金を借りるときだ。それから、金を受け取る、もらうときだ。あくまで『もらっていただく』と、姿勢を低くして渡せ。世の中、人はカネの世話になることが何よりつらい。相手の気持ちを汲んでやれ。そこが分かってこそ一人前だ」
 引用元:http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/goroku/kinkengoroku.html

 ここでいう「大半の善人」と、プライベートな人間関係にカネの論理が侵入することを非常に嫌う人はおおむね重なり合っているのではないか、と思う。
 
 そのような人々は、他人からカネの世話をされること・カネを借りることを忌み嫌う。おそらく田中角栄自身は「大半の善人」には相当せず、文脈に沿った言い方をするなら「稀な悪人」だったのだろう。「稀な悪人」ではあっても「大半の善人」の性質を知悉していたから、田中角栄はカネを使って強い影響力を手に入れていた。
 
 現代人はカネがなければ生きていけないし、友人関係を維持するにも幾らかのカネがかかる。ところがカネは万能というわけでもなく、プライベートな人間関係のある部分には馴染みにくく、強引にねじ込むと何かと歪みが生じてしまう。田中角栄のような「稀な悪人」ならそういった歪みも利用できるのかもしれないが、そうでもない限り、無理筋だと思ってかかったほうがいいのではないだろうか。
 
 
 
 他にも気になる話題はあったけれども、文章が長くなってしまったので今回はここまで。
 
 

特別展「東寺─空海と仏像曼荼羅」で、お参りしたい自分に気付いた

 

 
特別展「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」
 
 
 仏縁に導かれて、東京国立博物館で開催している『特別展「国宝 東寺─空海と仏像曼荼羅」』を観に行ってきた。というより仏様に会いに行く気持ちで出かけたのだけど、さすが博物館での開催、そこには仏様ではなく仏像が展示されていたのだった。
 
 

「仏教美術を堪能したけど、お参りはできなかった」

  
 中国伝来の仏具や空海直筆の手紙なども素晴らしく、私の大好きな胎蔵界曼荼羅もババーンと貼られて気持ちが高まったが、今回の展示のクライマックスは、東寺の講堂にいつも並んでいる仏像たちだった。京都は遠い。なかでも、京都駅から南側に向かう東寺は意識しない限りは回らない。それに比べると上野の東京国立博物館は簡単だ。首都圏に出たついでにスッと行ってこれる。
 
 はたして、東寺講堂の仏像が立体曼荼羅をなしているさまは壮観だった。仏像スキーな人で首都圏在住の人は、これのために出かけたっていいと思う。いつもは講堂にすし詰めになっている明王さまや菩薩さまが、広いスペースに展示されている。しかも仏像を前後左右から眺めることだってできる。こういう観察はお寺ではできっこない。平安時代の仏教芸術を、気が済むまで堪能した。
 
 そして会場を後にした時に、はたと気付いた。
 
 そうだ、今日は私は手を合わせていなかったのだった。
 
 私は仏教美術を堪能したけれども、仏様に手を合わせてはいなかったし、お経も唱えていなかったし、お賽銭を入れてもいなかった。
 
 

 
 今回の展示で、一体だけ写真撮影OKになっていた、この帝釈天像を見返しても、これが仏教芸術の傑作として展示されていたことがわかる。仏教芸術の傑作として鑑賞するのに適した展示だし、これは、東京国立博物館の特別展なのだからそうでなければ困る。
 
 ということは、仏様として拝むような、御仏の教えに思いを馳せる一連の構造物としては機能していない、ということでもある。
 
 昔から、お寺の仏像が博物館などに展示される時には「御霊抜き」をされるといわれている。最近は現地で魂を入れることもあると聞いているが、ともあれ、博物館で展示されている時には仏像として展示されているのであって、崇拝の対象として仏様が安置されているわけではない。
 
 この帝釈天像にしても、立体曼荼羅の仏像たちにしても、人々が崇拝するのに適した展示になっているわけではなかった。あえて俗っぽい言い方をするなら、「賽銭箱のひとつも仏像には並置されていなかった」。
 
 私は仏教美術展に来ていたはずだったが、本心としては、仏様をお参りしたがっていたらしい。冒頭に「仏縁に導かれて」と書いたが、実際、そうだったのだろう。平安時代最高峰の仏教美術に溜息を洩らしながらも、ああ、仏様に手を合わせたい気持ち、お参りしたい気持ちが消化できていなかった。帰りに浅草寺にでも寄っておけば良かったのかもしれない。
 
 
 

「お参りできる仏様たち」

 
 お寺に安置されている仏像は、魂が入っているだけでなく、お寺というコンテキストのなかで仏様として機能している。
 
 

 
 
 例えばこの弘法大師さまは、みんなが仏様としてお参りしているもので、実際、礼拝されるセットのなかに安置されている。お寺の人が毎日礼拝している形跡もある。もちろん私は手を合わせるし、訪れた他の人々も手を合わせていく。
 
 

 
 
 こちらの薬師如来さまも、お参りの対象としてフルセットの状態だ。
 
 これらの仏様は、仏教美術という点でみれば特別展の仏像たちに及ばないし、前後左右からしげしげと眺めやすく展示されているわけでもない。そのかわり、手を合わせたい気持ちのままお参りするには完璧な状態になっている。国立博物館で仏像に手を合わせて拝んだら奇異の目でみられるかもしれないが、これらの仏様に手を合わせて拝んでも奇異の目でみられる心配はない。むしろ、手を合わせないほうが奇異の目でみられかねない。
 
 お寺、それと西洋の場合は教会には、私のお参りしたい気持ちを昂らせる何かがある。
 
 

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

 
 
 ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』のなかで、複製可能な現代作品とそれ以前の作品を比べてアウラ(今風に言うならオーラ)が有るとか無いとかいったことを語った。インターネット上でライブ的なコンテンツが栄える2010年代に、このベンヤミンの筋書きがどれぐらい適用できるのかはわからないが、ともあれアウラは古い仏像全般に宿っていて、それ以上に、お寺に安置されている仏様にはビンビンに宿っている。なぜならお寺の仏様は、個別の美術品ではなくみんなでお参りされるものだし、お参りされる対象として安置されているからだ。お寺の仏様はお寺ごとアウラに包まれていて、私はそのアウラのなかでアウラの溢れる仏様に手を合わせる。
 
 国立博物館で展示される仏像にも、もちろんアウラはある、なにしろ平安仏教美術なのだから。だけど美術館という場所で個人が仏像と対峙する時、お寺ごとアウラに包まれるなんてことはない。美術館という場所にも相応のコンテキストがあるとは言えるけれども、美術館はお寺ではなく、鑑賞するための場所ではあっても礼拝のための場所ではない。
 
 まあ、そんな御託は置いといて。
 
 子ども時代からの習慣の延長線上として、私には仏様に手を合わせたい欲求が間違いなくあって、だから私はちょくちょくお寺に行く。仏教芸術を「鑑賞」する機会は、それに比べればずっと少ない。私は、仏様にお参りすることには慣れているが、仏教芸術を鑑賞することには慣れていないのだろう。というか、慣れていないと今回の件でわかった。
 
 
 

「そうだ、東寺行こう。」

  

 じゃあ、私はどうすれば良いのか。
 
 決まっている。お寺に行くしかない。お寺を詣でて、諸行無常のならいのなかで生きるということを、因縁・縁起の考え方にもとづいて思い返そう。そうやって、世の中のモノの見方を仏教フォーマットに定期メンテナンスしておかないと、どうも私は駄目らしい。
 
 そして再び出かけよう、むせかえるほどのアウラに包まれた東寺と、その講堂に。
 
 

だけど、叱られない社会をみんなが望んだ。

 


 
 上掲ツイートは他人事ではないと感じる。
 
 10代や20代の頃、間違いをやらかしている時や危なっかしい時には先生や先輩が叱ってくれた。ときには「お前、何やっているんだ!」的な、まず怒りが飛んでくるみたいな場面もあったし、理不尽を感じる場面もあったが、ともかく、自分のやっていることをまずいと思っている人がいると肌で感じられる場面があり、それが私の行動を軌道修正してくれた。
 
 しかし30代になり、さらに40代にもなるとそういう機会は減った。今、私のことを叱ってくれるのは、若い頃から私のことを知ってくれている先輩や友人ぐらいのものだ。
 
 私だけが叱られにくくなっているわけではない。中年の人々が、たとえば冒頭のツイートのような言動をやらかしたとしても、放っておかれるのをしばしば見かける。私も、他人の言動にやらかしを感じたとしても叱ったりしない。親切心のつもりが逆恨みされても仕方ないわけで、そこでコストやリスクをわざわざ支払う理由が思い浮かばない。他の人々も、そうだろう。
 
 「これをやったら損をする」「これをやったら迷惑をかける」「これをやったらコミュニケーションの失敗確率があがる」──そういう他人の言動が放置されているということは、私自身がそういう言動をやっていたとしても、やはり放置されていると想定される。自覚できない限り、私はまずい言動をずっと繰り返すだろう。
 
 もし、「自覚しない限り、まずい言動を繰り返す」という袋小路を避けたいなら、叱ってくれるような人間関係をつくって中年期に臨むか、同世代や年下からも叱ってもらいやすい自分自身になっておくか必要がある。
 
 そしてもし、本当の本当に誰も叱ってくれなくなってしまったら、よほど自覚する力が強いのでない限り、まずい言動を繰り返す中年が爆誕することになる。
 
 いやむしろ、まずい言動はエスカレートするかもしれない。誰も叱ってくれず、自覚する力も乏しい人は、自分の言動はどれもセーフだと思い続けるだろうから、どれだけ迷惑をかけていようが、どれほど人心を失い続けようが、その行動を改めることができない。自覚する力が乏しければ乏しいほど、事態が深刻になるまで気付きようもないので、その自覚力の乏しさに応じた破局や騒動が起こってようやく気付く(ことがある)。
 
 

相互不干渉の社会で「叱る」「叱られる」難しさ

 
 そもそもの話として、「叱る」は、現代社会では歓迎されていないのではないか。
 
 「叱る」とは、他人に対するかなり強い干渉だ。親が子を叱ったり、指導医がレジデントを叱ったりするのは、強い干渉を行ってもおかしくない立場や役割があるからで、逆に言えば、そういった立場や役割も無いのに「叱る」というアクションが許容されることはまず無い。
 
 だから赤の他人を「叱る」のは難しい。
 なぜ、赤の他人にそのような強い干渉をするのか・して構わないのか?
 これに答えられる状況でない限り、不当な干渉とみなされかねない。
 
 逆に赤の他人に「叱られる」のも同じぐらい難しい。
 なぜ、赤の他人に強い干渉をされなければならないのか?
 これが理解できる状況でない限り、私たちは「叱られる」を不当な干渉と解釈する。
 その結果、憤ったり、傷ついたりすることもある。
 
 相互不干渉は、現代社会ではひとつの通念として浸透している。
 
 かつての日本では、相互干渉は日常茶飯事だった。親が子を叱ったり、指導医がインターンを叱ったりするのは当然のこととして、近所の人に口出しされる・姑が嫁にお小言を言う・上司の家まで飲みに行く、といったかたちで無数の干渉がまかり通っていた。しがらみが無数にあった、とも言えるだろう。「叱る」は、そういった無数の干渉のひとつとして、いろいろなコンテキストのなかで発生し得るものだった。
 
 団塊世代以降の人々は、そうした無数の干渉を嫌って、しがらみを避けて、相互不干渉な社会を建設してきた。新興住宅地での生活によって、地域社会的な濃密な干渉は希釈された。物理的にも精神的にも核家族化が進んで、嫁姑のコンフリクトも緩和された。90年代以降は会社の上司と部下の飲みニケーションも減少し、少なくとも昭和時代に比べれば上司から部下への干渉は減った。
 
 現在は職場でのセクハラやパワハラが問題視されているが、これは、上司から部下に対する干渉についての私たちの意識が変わったからでもある。相互不干渉の通念がいよいよ徹底し、干渉に対して私たちはどんどんデリケートになったから、昭和時代には許容されていた干渉、我慢の対象だった干渉が、令和時代にはハラスメントとして告発されることになる。部下の側だけが嫌がるのでなく、大半の同僚や上司もそれをハラスメントとみなし、許さないだろう。
 
 相互不干渉の浸透した社会のなかで他人に干渉することはますます難しく、勇気の必要な、リスクを孕んだものになっているわけだから、私たちはおいそれとは他人を叱れないし、他人に叱られにくくもなった。ここでいう「他人に叱られにくくなった」とは、他人に叱られる頻度が低下したという意味だけでなく、他人に叱られ慣れなくなった、という意味も含んでいる。
 
 「叱られる」というルートで他人から何かを学び、自分自身の言動を省みるのは非常に難しくなっているのではないだろうか*1
 
 

高い自覚力と自立性を身に付けられるものか

 
 誰も叱ってくれない社会では、自分の言動のまずい部分を自覚できないまま、ますますまずい中年になってしまうのやもしれない。他方で戦後の日本人がそのような社会を望み、相互不干渉という果実を手に入れ、好き勝手に生きられるようになったのだとしたら……その功罪はどう考えるべきなのか。
 
 どうあれ、「中年になったら誰も叱ってくれない」社会、いや、「若いうちから相互干渉に非常にセンシティブな社会」では、私たちは相互干渉が当たり前だった頃に比べてずっと高い自覚力と自律性を求められるのだろう。しかし、現代の40代以降を見ればわかるように、それは誰もがやってのけられることではないし、完璧にやってのけられることでもない。私も自信は全く無い。ここらへんで「そんじゃーね。」と言って匙を投げたくなってしまう。
 

*1:もちろんインターネットで誰かに叱られる場合も、叱られるのが不当な干渉ではないと判断するに足りるだけの文脈が必要になる。そのような文脈をインターネットの繋がりだけを経由して作るためには、相応の期間と信頼関係が必要で、これも簡単なことではない

リスクやコストで人生をはかる人に「子育ての意味」は届くのだろうか

  
子どもがいることの幸せや嬉しさを、ロジックで説明することは出来ない: 不倒城
 
 リンク先でしんざきさんが書いておられる文章は私にもよく「わかる」。なぜなら私も、子育てをとおして得られる意味や価値が、リスクやコストといった現代風の考え方にそぐわないと感じているからだ。
 
 でも、このしんざきさんの文章を15年前の私が見たとして、同じように「わかった」だろうか。
 
 たぶん無理だろう。当時の私は子育てをしていなかったし、子育てなんてあり得ないと思っていた。自分のために使う時間やお金が無くなってしまうといった、リスクやコストのことが頭を占めていたように思う。
 
 だから、現在の子育てをしていない20~30代の人々にも、冒頭の文章は届きにくいのではなかろうか。
 
 

リスクやコストを考えずに子育てを始めるほうが「おかしい」

 
 いまどきは、コスパという言葉がよく使われて、なかには自分の人生までもコストパフォーマンスになぞらえて考えようとする人もいる。
 
子供は人生で一番高い買い物だと思う
 
 上記リンク先の文章には、「リスク」「リターン」「コントロール」「コストパフォーマンス」といった言葉が並んでいる。リスクやリターンやコントロールのことを考えると、確かに子育ては費用対効果が悪い。このはてな匿名ダイアリーの文章は、リスクやコストにもとづいて子育てを考察したがる、子育て未経験者の考え方として、ひとつのステロタイプではないかと思う。
 
 と同時に、子育てを「リスク」「リターン」「コントロール」「コストパフォーマンス」といった考え方で眺める限りにおいて、リンク先のステロタイプが間違っているとも思えない。時間的にも金銭的にも子育ては「リスク」にみあった「リターン」が保証されるものではないし、期待するものでもあるまい。昔だったら、子どもをイエのために売り飛ばしたり、イエの発展のためにスパルタ教育したりすることがまかり通っていたし、これらは経済合理性にかなっているけれども、21世紀の日本では無理筋である。
 
 それぐらいなら、子育てに時間や金銭を差し向けるより、仕事を頑張ってお金を多く稼いだり、自分自身のスキルアップに時間をかけたりしたほうが「リスク」が少なく「リターン」が見込めると考えるのは、筋道が通っている。
 
 いまどきの日本の若者には、こういう「リスク」や「リターン」についての考え方がしっかりインストールされている。少なくとも昭和以前の若者に比べれば、そういうことを考えている。
 
 コスパなんて言葉が流行るということ自体、資本主義的・合理主義的な考え方が昔より浸透している証拠だろう。なんでも最近は、中高生のうちにファイナンシャルプランナーの資格を取ろうとする人もいるのだとか。
 
 そうやって資本主義的・合理主義的なモノの考え方をしっかり内面化している若者たちが、子育てについて資本主義的・合理主義的に考え、判断をくだすのはきわめて自然なことだ。
 
 むしろ、子育てについて資本主義的・合理主義的に考えないほうが「おかしい」のではないか。
 
 誰もが資本主義的・合理主義的にモノを考えるよう促され、訓練されてもいるこのご時世に、後先も考えずに生殖し、なし崩し的に子育てしてしまっている人々は、資本主義的・合理主義的なモノの考え方が足りていないというか、勉強不足というか、訓練不足ではないだろうか。
 
 一億総活躍社会というシュプレヒコールのもと、誰もがお金を稼いで自立できることが望ましいとみなされ、若いうちからNISA積み立てだのインデックスファンドだのを始める人が後を絶たず、日経平均だのダウ平均だのを気にしながら勤勉に働く現代社会において、リスクやコストにもとづいて物事を判断し、決定する能力は社会から必要とされているものだし、おそらく、個人の人生にも必須である。
 
 そのような社会からの要請があるのに、後先を考えずに生殖してうっかり子育てしてしまっている人というのは、一体なんなのか。
 
 リスクやコストにもとづいてあらゆる物事を考える現代社会においては、コストパフォーマンスを考え、子どもを作らない選択をする人が出て来るのが、社会からの要請に適っている。だってそうだろう? 資本主義的・合理主義的主体であることが、一生懸命に教えられ、語られ、勧められているのだから、子育てに対してもそういう考え方で望むのが現代人ってやつだろう。
 
 都内の人々が極端に子どもをつくらないのは、ある部分では、都内では子育てのリスクやコストが高く見積もられるからだろうし、また都内の若い人は田舎の若い人にくらべて資本主義的・合理主義的なモノの考え方がしっかりインストールされているからでもあろう。
 
 東京の、あの出生率の低さは、当該年齢の男女が資本主義的・合理主義的に行動選択している結果なのだと思う。おそらく台北やソウルの出生率の低さもそうである。東アジアの大都市圏のクレバーな若者たちは、リスクやコストをよく考え、それこそファイナンシャルプランニングのノリで人生もプラニングしているのだろう。
 
 対照的に、地方の比較的高い出生率は、地方では子育てのリスクやコストを低く見積もれるからでもあろうし、地方の人々がリスクやコストにもとづいて物事を考えきれていないから、でもあるだろう。
 
 資本主義的・合理主義的ではなさそうな子育ての一指標として、「できちゃった結婚」についての都道府県比較を確かめてみると、予想にたがわず、東京近辺のランキングが低く、九州地方や東北地方のランキングが高い。
 
todo-ran.com
 
 上掲リンク先によれば、
 

相関ランキングを見ると、女子出産年齢や第一子出生時年齢(男性)、男性初婚年齢、女性初婚年齢と負の相関がある。つまり若くして結婚・出産する地域はデキ婚率が高い。

その他、高校生求職率や農業就業人口と正の相関があり、最低賃金と負の相関がある。農業がさかんで最低賃金が低く、高卒で就職する若者が多いところでデキ婚が多いことを意味しており、地方でデキ婚が多く、都市部で少ないと言えそうだ。

 と書かれている。資本主義や合理主義の辺境地域では「できちゃった婚」が多い、と考えてもあながち大きな間違いではなさそうだ。
 
 

「コスパ時代」の合理主義者は子育ての夢を見るか

 
 さてそうなると、「コスパ」時代の若者は、子育ての夢なんてみられるのだろうか?
 
 資本主義と合理主義は、どちらも現代では支配的な通念であり、イデオロギーでもある。若い人ほどこのイデオロギーを強固にインストールしているとしたら、それに逆らって、あえてリスクやコストを勘案せず、エイヤと生殖して子育てになだれ込むのは、イデオロギーに対する背信になる*1
 
 よく内面化されたイデオロギーに背を向けてまで、エイヤと生殖して子育てに身を投じるとしたら……その人は乱心しているということにならないか。
 
 もちろん私は、こうした疑問をなかば皮肉として書いている。すでに子育てを経験し、何かしら手応えを感じている人は、こうしたコストやリスクに基づいた子育て観が片手落ちであることを知っている。子育てには、資本主義と合理主義では語りきれないエッセンスが間違いなく含まれていて、そこを視野に入れないままコストやリスクを云々するのはナンセンスも甚だしい。
 
 だが、資本主義と合理主義には馴染まないエッセンスがあるということを、資本主義と合理主義に骨の髄まで浸かった若者にどうやって伝えれば良いのか? 資本主義と合理主義の申し子たちは、世界は、資本主義と合理主義でできていると捉えている。いや、もうちょっと丁寧な言い方をするなら「資本主義や合理主義にもとづいて世界を把握し、それらのロジックにもとづいて行動している」。そのようなイデオロギー・そのような視界を持っている人々に、それらが適用できない外側の価値とか意味とかを語って聞かせたところで、わかってもらえる気がしない。
 
 
 
 冒頭のしんざきさんは、たとえばbooks&appsに資本主義や合理主義にもとづいた教育論を書いておられるから、そういったイデオロギーをそれなり身に付け、子どもにも授けようとしているように思う。それはおかしなことではないし、私だってそうである──いまどき、資本主義や合理主義にもとづいた行動選択をできないようでは、渡世は覚束ない。
 
 だが、人間が意味や価値を見出すのは、資本主義や合理主義の内側だけとは限らないし、しんざきさんも私も、資本主義や合理主義の外側に相当する何かを実感しているからこそ、子育てや子どもに意味や価値を見出してもいるのだろう。
 
 子育てをやっていると、楽しいこともある。苦しいこともある。でも、子育てという時間のなかで親も子も歴史を重ねていく、その一連のプロセスには一種独特の意味づけが宿り、それが私には最も貴重なものと感じられる。子育て=幸福とは限らないけれども、子育てのプロセスのうちにできあがっていくこの歴史っぽい意味づけは、六本木や銀座でも売っていないし、ディズニーランドや大英博物館に行っても経験できない。
 
 もし、ここのところに価値が見出せるなら、子育ては、やはり素晴らしいものだと思う。
 
 だとしても、誰もがそこに意味を見出せるとも思えない。骨の髄まで資本主義や合理主義の考え方に漬かっている人が、みずからのイデオロギー体系では説明できず、可視化することもできない体験に、時間やお金や体力を費やすとは思えない。どうやったらわかってもらえるのだろうか。そもそもわかりたいと彼らは思っているのだろうか。
 
 以前私は「人生のコスパを語りたいなら、まず人生のベネフィットを語ってみせろ」というブログ記事を書いたことがあるが、最近は、人生のコスパを語る人は、本当にコスパでしか世界が捉えられなくなっているのでないか、と思うこともある。交換可能・換金可能な価値しか価値と認めていない……というより価値の認識方法がわからない人というのも、案外いるものではないか。
 
 リスクやコストで人生をはかる人に、「子育ての意味」は届くものだろうか。
 

*1:もし、余ったお金で趣味として子育てを始める場合は、子育てはイデオロギーに対する背信にはならない。あるいは平成初期の毒親みたく、子どもを次世代において資本を拡大再生産するための道具とみなす場合も、子育てはイデオロギーにたいする背信にはならない。前者はそれだけの余裕を持つ人が少なく、後者は現在の流行ではないし、個人主義の浸透した現代社会では批判されうるものだろう

今年は本気出す。薬理学的に。

 
 2019年度が始まり、令和元年も始まった。
 
 この、節目の年、私は信じられないぐらい忙しい毎日を過ごしている。連休中の空き時間も、ソーシャルゲーム……ではなく文章の作成と資料の読み込みに時間を費やした。
 
 というのも、ちょっとチャンスじゃないかと思う案件に携わっているからだ。今、書いている原稿は、社会適応についての how to 本ではない。現代日本社会を成り立たせる社会の秩序の仕組みと、それによって現代人が享けている恩恵と疎外をまとめた出版企画に、とりあえずのゴーサインが出たから力の限りを尽くしている。
 
 今の世の中には、たくさんの人が便利かつ快適に暮らせるような制度や慣習や空間設計物がたくさん存在している。そういったものによって社会がかたちづくられ、現代人の心もかたちづくられているさまを、過去の文献もまじえながら全身全霊をかけてまとめてみたい──この願いに私は自分の40代を賭けることにした。どんな困難が待っていても、私はこの願いに向かって歩むだろう。
 
 また、最近は色々な方面から色々なお誘いをいただくので、それらに対応するにも時間やエネルギーがかかる。で、言うまでもなく本業は今までどおりに続けていかなければならないし、続けていくべきなので、てんてこ舞いになっているのだ。
 
 

今年だけは本気出す

 
 そこで、私は決断した。 
 今年だけは本気を出す。
 それも、薬理学的にだ。
 
 私は、ある病弱な弱点を抱えた人間なので、自分自身の身体と神経に負荷がかかりすぎると活動できなくなってしまうおそれがある。だから私の信条は「ミッションの可否は補給と休息で決まる」だ。ちゃんと休んで、ちゃんと遊んで、それでやっと仕事がちゃんとできるのが私という人間だと思っている。
 
 そんな私にも、通常をこえたパワーを発揮できる反則アイテムがある。
 

 
 
 コーヒー。
 私はコーヒーがハチャメチャに効く体質なのである。
 
 自分にコーヒーがどれぐらい効くのか、確かめてみたこともある。2017年に行った、コーヒーによって『スプラトゥーン2』の対戦成績がどれぐらい変わるのかを試した実験では、コーヒーを飲んだ時の私はオーバーパワーな戦果を叩き出していた。編集者さんとの打ち合わせの時も、コーヒーを飲むと大変なことになってしまう。思考が猛烈に回転し、テンションも高くなってしまうのだ。ひょっとしたらオーバーパワーがご迷惑なのではないかと思い、最近の打ち合わせの際にはノンカフェインのものを選ぶこともある。
 
 コーヒーを飲んだ時の私は、どう考えてもオーバーパワーで、身体と神経にヘンな負荷がかかっているような気がするので、私はコーヒーの摂取を制限してきた。通常、一週間に2杯以上のコーヒーを飲むことはまず無い。等価交換の考え方で考えるなら、コーヒーで得るものがあるということは、失うものもあるはずである。病弱な私には、それが怖い。
 
 しかし、今年は本気を出さなければならないので、私はコーヒーを飲むことに決めた。
 私にとってコーヒーはドーピング薬物であり、オーバーパワーを呼ぶ反則アイテムだ。
 その危険なコーヒーの使用制限を週4回までとし、コーヒーで原稿を書くのである。
 
 この、コーヒーを使った薬理学的本気によって、私の思考力はクロックアップされ、着想に柔軟性が与えられ、集中力に粘りが生まれる。そのかわり、週末は泥のように眠ることが増えるだろうし、この一年間を終えた後、私は神経と身体を休息モードにしなければならないだろう。
 
 だからこれは、一年限りのドーピングである。コーヒーの力で原稿を書き、コーヒーで都内の打ち合わせ会場を駆けるだろう。
 今年は亥年。私は、コーヒー使って薬理学的に突進することにする。