お金を貸して絶縁するだけの話 - やしお
リンク先の筆者ははてなダイアリー時代からブログを書いているという。だからかもしれないけれども不思議な読了感があり、そういえば、ブログで対人関係の様式を読むのは久しぶりだな……などと思った。
対人関係にカネが介在しても平気な性質
まず、筆者さんの対人関係の様式は、なかなか珍しいもののように私にはみえた。日常臨床の世界でもオフ会の世界でも、筆者さんのような人に出くわすことは稀にある。だが、あくまで稀であって、大多数は筆者さんとはだいぶ違う。
リンク先の文章は、「友人にカネを貸したら戻って来なくて絶縁した」といったテーマで綴られているが、こんなテーマで長文を綴れること自体、かなり独特だ。私たちは、友人同士の間柄ではカネの貸し借りをしないし、してはいけないと教わってもいる。もし、どうしてもカネを貸し借りするとしたら、友人関係は終わると覚悟しなければならない。あるいは、返してもらえることをあてにしないような、半ばくれてやるかたちになるのが通例だ。
世の多くの人は、友人関係にカネの貸し借りが挟まることに耐えられない。
ところがリンク先の筆者さんは、そうではない様子であるように読めた。リンク先の文章には、「友人」の映画代や旅行費や飲食費を筆者さんが何年も払い続けていることが記されていた。はてなブックマーク上の反応をみても、この点に唖然としている人が少なくない。
それはそうだろう。世の大半の人は一方的に金銭を肩代わりする/されるような人間関係を「友人」関係とは呼ばない。ほとんどの人はこのような関係には耐えられないし、過去を振り返って楽しかった、などとは思いもしないだろう。
ところが、筆者さんはこれを楽しかったことと回想できる、できてしまうのである。
もし、数年間「友人」から映画代や旅行費や飲食費を払ってもらい続けるのが「友人」としておかしいと指摘できるとしたら、「友人」の金銭を肩代わりし続けて、それを不快な思い出として回想せず、楽しかった思い出として回想できてしまう筆者さんもおかしい、と指摘しなければならないだろう。
おかしいといって語弊があるなら、珍しい、と言い直すべきかもしれないが。
これまでにもカネを貸して戻って来なかった逸話があったのをみるにつけても、この筆者さんは現代日本人では珍しい、対人関係にカネが介在しても不快にならない性質の持ち主と推測される。
このような性質にもとづいて対人関係を営んでいれば、プライベートな人間関係はかなり制限されかねない。なぜなら、世の多くの人は、友人関係のようなプライベートな人間関係にカネが介在することを不快に感じ、簡単には受け容れられないからだ。人間関係にカネが介在することを不快に感じる度合いの高い人ほど、筆者さんの珍しい性質を目の当たりにした時、「この人とプライベートを共有するのはなんとなく難しそうだ」と感じて距離を取るだろう。
そうなると、カネの介在を不快に感じにくい人だけが距離を取らずに「友人」になり得る。しかし、それだけでは終わるとは限らない。金銭を肩代わりすることを楽しかったと回想できる人と付き合うようになったカネの介在を不快に感じにくい「友人」は、ほとんど抵抗なく金銭を肩代わりしてもらえる関係性へと慣れていき、いよいよ金銭を肩代わりしてもらう方向へとなびかずにはいられないだろう。
人間関係にカネが介在することを不快に感じやすい人なら、このような関係性に至ることはまずないのだが。
別のブログ記事のなかで、筆者さんは
友達にお金を貸しちゃダメって話は誰もが言う。だけど、その仕組みをきちんと説明してくれた人はこれまでいなかった。仕組みをちゃんとわかってる人が少ないんじゃないか。「お金のトラブルになっちゃうと友情が壊れちゃうからね」って、そんな理解じゃぜんぜん浅いんだよ。そうじゃない。「お金のトラブルになっちゃうと」じゃない、そんな途中からの話じゃなくて、もう第一手目からこの終局が導かれてるんだよ。
これね。ようやく私理解しました。友人にお金を貸してすんなり返ってこないって事態が構造的に不可避だってこと、二人目を経験してみてもうすっかり理解しました。
引用元:https://yashio.hatenablog.com/entry/20151007/1444230425
と述べている。
私がみるに、確かに世の多くの人は、「友人にカネを貸してはいけない」を浅くしか理解していないと思う。
だが、理解する必要なんて無いのである。
世の多くの人は、「友人にお金を貸してはいけない」を説明されるまでも理解するまでもなく、友達にお金を貸すという行為がそもそも生理的に耐えられない。生理的に耐えられないから、プライベートな人間関係のなかで少額といえどもお金の貸し借りができてしまったら、できるだけ早く解消しようとする。
「友人にカネを貸してはいけない」その仕組みを深く理解しなければならないのは、現代人としての筆者さんの、独特なところだと私は思う。ほとんどの人が生理的に耐えられないものが平気だから、筆者さんは理解という手続きをとおして「友達にお金を貸しちゃダメ」という対人関係の基礎を実行しなければならない。
しかし実際には実行しきれていないことが詳らかにされているわけだから、理解がまだ足りないか、理解という手続きでは十分ではないのかもしれない。
カネの影響力は強い。強いがゆえに忌避される。
一連のブログ記事を読んで、私は「そういえば人間関係ってカネの論理だけでは上手くいかないものだね」と改めて思い出した。
商取引や仕事の世界では、ほとんどのことがカネでモノやサービスをやりとりすることができる。大昔は必ずしもそうでもなかったが、現代人は、モノだけでなくサービスまでもカネで売買することにすっかり慣れているし、そのことに罪悪感を感じたりもしない。
しかし、何もかもカネの論理でやりとりできるようになったかといったら、そうでもない。友人関係などはその最たるもので、世の多くの人は、そういうプライベートな人間関係にカネの論理が侵入することを嫌がる。
なにしろカネというのは強力だ。カネという影響力の権化は、人間関係に強い力を及ぼさずにはいられない。金銭を肩代わりし続けて/され続けてもなお、お互いの人間関係を全く変化させないのは、ほとんどの人には不可能だ。
聞くところによれば、昭和時代の大政治家、田中角栄は以下のようなことを言ったという。
「いいか。お前は絶対に『これをやるんだ』と云う態度を見せてはならん。お前がこれから会う相手は大半が善人だ。こういう連中が、一番つらい、切ない気持ちになるのは、他人から金を借りるときだ。それから、金を受け取る、もらうときだ。あくまで『もらっていただく』と、姿勢を低くして渡せ。世の中、人はカネの世話になることが何よりつらい。相手の気持ちを汲んでやれ。そこが分かってこそ一人前だ」
引用元:http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/goroku/kinkengoroku.html
ここでいう「大半の善人」と、プライベートな人間関係にカネの論理が侵入することを非常に嫌う人はおおむね重なり合っているのではないか、と思う。
そのような人々は、他人からカネの世話をされること・カネを借りることを忌み嫌う。おそらく田中角栄自身は「大半の善人」には相当せず、文脈に沿った言い方をするなら「稀な悪人」だったのだろう。「稀な悪人」ではあっても「大半の善人」の性質を知悉していたから、田中角栄はカネを使って強い影響力を手に入れていた。
現代人はカネがなければ生きていけないし、友人関係を維持するにも幾らかのカネがかかる。ところがカネは万能というわけでもなく、プライベートな人間関係のある部分には馴染みにくく、強引にねじ込むと何かと歪みが生じてしまう。田中角栄のような「稀な悪人」ならそういった歪みも利用できるのかもしれないが、そうでもない限り、無理筋だと思ってかかったほうがいいのではないだろうか。
他にも気になる話題はあったけれども、文章が長くなってしまったので今回はここまで。