シロクマの屑籠

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現代アニメときどきエロゲ――『若おかみは小学生』感想

 
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若おかみは小学生!  映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫)

若おかみは小学生! 映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫)

 
 今季はソシャゲと読書で趣味生活が荒みきっていて、テレビアニメを見る気が沸かなかった。そんな折、劇場版『若おかみは小学生』をふらりと観に行ったら予想外に琴線に触れてしまったので、あまりネタバレにならないよう注意しながら思ったことを書いてみる。
 
 

エロゲエロゲと騒ぐ前に:おことわり

 
 感想を書く前に、私のアニメの好みや趣味性について断っておく。
 
 最近は、オタク-サブカルという区別も曖昧になってきた感があるが、それでも私はオタク側の人間だと思っている。少なくともアニメやゲームを選ぶ時の選考基準はオタクのままだ。
 
 つまり自分の好みに忠実であるのがオタクとして正しいスタンスなのであって、教養とかポーズとか、そういったものを基準に作品を選ぶのは褒められた仕草ではない、という考えだ。
 
 で、『若おかみは小学生』は、私の好みでは当落線上ギリギリに見えた。
 
 twitterのタイムラインにいる熱心なアニメ愛好家の反応をみる限り、どうやら優れた作品らしかった。キャストの評判も良いと聞いている。だからといって、それで映画館に行くほど私は熱心でもサブカル的でもない。そのうえ私はロリコンではないから、小学生女児が主人公の作品が特別好きというわけでもない。
 
 だからこの映画を見られたのは、たまたま時間が空いていた時に、たまたま映画館の近くに私がいて、満席に近いにもかかわらずチケットが取れてしまったからに他ならない。ところが、これが忘れられないアニメ体験になったので、こんな文章を書き連ねている。
 
 

「現代アニメときどきエロゲ」

 
 とても大ざっぱな個人的感想を書くと、『若おかみは小学生』は、ときどき「エロゲ」っぽいフレーバーの漂う、洗練された現代アニメだった。
 
 ここでいう「エロゲ」*1とは、エロゲがオタク文化圏のなかで先端を担っていた時期の趣向・表現・感性をひっくるめてエロゲと書いている。90年代後半~00年代前半ぐらいの頃に、エロゲというメディアの近辺で流行っていた趣向・表現・感性、とも言い換えられるかもしれない。
 
 もちろん『若おかみは小学生』は2018年に作られた、親子で安心して楽しめるよう作られたアニメ映画ではある。映画館には親子連れの姿が散見されたし、ときおり笑い声や叫び声があがっていた。また、ストーリー的にも脇役配置的にも、親の立場に訴えかけてくるところも多分にあって、青少年のアニメ愛好家だけに訴えかけているわけではないと見てとれた。そういった間口の広さも、この作品の良いところなのだろう。
 
 その一方で、90~00年代のエロゲ周辺の空気を覚えている視聴者に妙に訴えかけてくる作品ではないかとも思った。
 
 このアニメの舞台は田舎の温泉地で、まあその、郷愁を誘うシーンが数多く登場する。神社も温泉街も鯉のぼりの吹き流しも、もはや、現代アニメでは珍しく無い郷愁ではある。が、この作品のソレは、やけにエロゲっぽいと感じてしまったのだった。
 
 私がこの作品からエロゲ的な郷愁を感じるのは何故なのか?
 
 振り返ってみると、いろいろな理由が思いあたる。
 
 ひとつは、この作品があちこちに潜ませている、ロリコンな愛好家へのそれとないメッセージだ。
 
 原作が児童向けの作品にも関わらず*2、この作品、その筋の人達を喜ばせるための仕掛けが随所に施されている。特に前半は、その筋の愛好家を痺れさせそうなカットがたくさん埋め込まれていて、頑張っていると感じた。長らくオタク文化圏にいる人間にはご褒美カットと気付きそうなものが、健全な描写として堂々と表現されている手際には、感服するほかない。
 
 それとサブヒロインたちの登場や物語のなかでの位置づけ。真月にしてもグローリーにしても、彼女らが登場するシーンは、エロゲのサブヒロインが「よくわからない女」という風采で新登場するさまを連想させた。
 
 どぎついキャラの「よくわからない女」なサブヒロインと出会い、フラグが進行し、やがて仲良くなるうちにメインヒロイン(=おっこ)のストーリーも進展していく……という構図もエロゲめいている。鈴鬼・美陽・ウリ坊といった「人ならざる者」が介在し、彼らによっておっこが変わり、おっこが変わるにつれて彼らとの関わり方が変わっていくさまもエロゲ的だ。
 
 ネタバレを避けるために曖昧な表現にとどめるが、メインヒロインのおっこも、シャンパンに溺れていたグローリーも、旅の途中の男の子も、本作品に出てくるキャラクターたちは「変わっていった」。どう変わっていったのかを書いてしまうとネタバレ直球になってしまうのだけど、その変化の内容や、変化のプロセスは、すこぶるエロゲ的、90年代~00年代風だった。そして、おっこ自身も含め、キャラクター達の変化の物語は「春の屋旅館は誰でも受け入れ、誰でも癒す」というキーワードと綺麗に結びついていた
 
 
 私は原作の予備知識無しにこの作品を観たので、10年代のアニメ、それも、小学生女児を主人公に据えたアニメで、こういう「変化」が真正面から描かれるとは予想していなかった。だが、子供向け原作の作品だったからこそ、かつてオタク界隈で大量生産・大量消費されたのと同じタイプの「変化」がてらいなく描かれ得たのかもしれない。青少年や中年をターゲットにした作品では陳腐とみなされかねない「変化」でも、児童向け作品では依然として重視され、正面から切り込まれることは、あってもおかしくなさそうではある。
 
 そう考えると、私が『若おかみは小学生』にエロゲ的な雰囲気を感じた原因のひとつは「本作品が児童向けの出自を持っていて、90年代~00年代にさんざん描かれた『変化』を描いても違和感が無かったから」なのかもしれない。
 
 

『Air』に似ているとも感じる

 
 個人的には、『若おかみは小学生』を(エロシーンのない)エロゲに見立てるとしたら、『Air』っぽくなるんじゃないかと思う。
 
 その場合、メインヒロインはおっこで、グローリーと真月がサブヒロインルートになるだろう。それに峰子さんルートが加わってもおかしくない。鈴鬼・美陽・ウリ坊は、ヒロインにくっついてくる重要な脇役といったところだろうか。
 
 サブヒロインのフラグやストーリーが進行するにつれて、メインヒロインであるおっこのフラグやストーリーも少しずつ進行し、最終的にはおっこ自身が「変化していく」。――ある種のエロゲであれば、そうした変化は男性主人公によってもたらされなければならないが、『Air』になぞらえる限りにおいて、男性主人公は必要とされない。『Air』の後半、男性主人公が傍観者となったのと同じく、視聴者は変わっていくおっこの物語をただ眺めているしかないし、ただ眺めていたって構わない。そういえば、ウリ坊のポジションも、微妙に『Air』のカラスに似ていないとも言えない。このあたりもネタバレを踏みそうなので「観てください」としか言えないのだけれども。
 
 

「よくできたエロゲ」として観る必要はもちろん無い

 
 映画を見終わってからこのかた、私はずっと「『若おかみは小学生』はよくできたエロゲ」という言霊に取り憑かれていた。今もそうだ。おっこの着せ替えシーンをはじめ、2010年代アニメの芳醇な成果をたっぷり採り入れた劇場版アニメだのに、エロゲ的な何かが炸裂しているとは! いや、2010年代の、丁寧につくられた劇場版アニメに、図らずもエロゲ的な文脈を見いだしてしまうとは!
 
 『若おかみは小学生』は、90年代~00年代のエロゲ的文脈を知らない者を拒むようなアニメでは決してない。「よくできたエロゲ」として観る必要性は微塵も無いし、そもそも、制作陣がエロゲを意識してこの作品を作ったとは思えない。
 
 だからこれは、90~00年代にオタクをやっていた者の思い込みではあろうけれども、こういう思い込みは、たとえば『ゆるキャン』や『ガルパン』を観ていても湧いて来るものではなかったし、『花咲くいろは』でも沸いて来なかった。児童向け原作だった点も含めて、私がエロゲ的文脈を思い起こすに足りる条件が、この作品には整っていたとは思う。
 
 そういうわけで、現代アニメのおいしいところをたっぷりと詰め込み、とても丁寧に作られた本作品を、私は「現代アニメときどきエロゲ」と表現したくなった。繰り返すが、『若おかみは小学生』をエロゲの発展物として観る必要性は無いし、そういう客層にアピールしたい作品でも無いはずである。それでも、二十年ほど前、粗末なグラフィックと三行しか表示されないテキストの虜になっていた者の一人として、2010年代の劇場版アニメ、それも、大変よくできたアニメのうちにエロゲ的な筋を見いだすというのは眼福だった。
 
 エロゲに限った話ではないけれども、界隈のエッセンスは有形無形のかたちで受け継がれ、発展しているのだなぁ……と思う日曜日だった。
 
 

*1:以下、鍵かっこは省略する

*2:いや、だからこそ自然に、と言うべきか

恋愛は要らない。ならば、親しさも要らないのか。

 
 恋愛は要らない。これはわからなくもない。
 なら、親しさは要らない。これはどうだろうか。
 

1.若者の恋愛離れが指摘されて久しいが、確かに、恋愛は中学校でも高校でも必須単位になっていないので、やらない人がいることに不思議は無い。
 
 恋愛が面倒くさいからやらない、もよくわかるし、学生生活はいろいろ忙しいんだ、もよくわかる。だが、恋愛は年齢が上がるにつれて男女双方の要求水準や、期待される社会性の内容が変わっていくので、「やらない」を放っておくと「できない」に変わっていってしまう側面がある。そういう意味では、恋愛を若いうちに経験しておかない人は、そのぶん、招来の生き筋を狭めていると言えるかもしれない。
 
 だが、恋愛をしなければならないご時世でもなくなった。いまどき、セックスとか見栄とか、そういうゴリラのような動機にもとづいて恋愛をわざわざやる意義は減ってきているように思う。恋愛とは似て非なる結婚についても同様だ。
 
 社会全体のマクロな目でみれば、恋愛や結婚、もっとあけすけに言ってしまえば生殖や繁殖はきわめて重要なのだけど、現代社会では、個人はそれを無視して構わないということになっているので、やらないからといっていけないないわけではないのである。
 
 ※本来、人間集団や社会体を維持するうえできわめて重要な生殖や繁殖が、20世紀~21世紀にかけて、個人が無視して構わないものとみなされている現状は、22世紀以降にどのように評価されるのだろうか。たぶん、産業革命期にやたらと機械作業に期待が寄せられたのと同じぐらい奇妙な捉え方と捉えられるのではないかと思ったりもする。
 
 
2.では、親しさも不要なのだろうか。
 
 親しさもまた、学校で必須単位になっているようには見えない。学校では、しばしばチームワークや団結、社会性の向上といったことが課題として児童生徒に課されているが、親しさは、必ずしもそうではない。親しさもまた、小学生時分と大学生時分、社会人時分では求められる社会性等が違っているので、「やらない」を放っておくと「できない」に変わってしまうリスクはある。恋愛に比べれば取り戻しがきくようにもみえるが。
 
 そのかわり、恋愛と違って、人と親しくなるノウハウ、親しさに慣れるノウハウはどこでどう生きるとしても結構重要だ。親しさが要らないという人は、恋愛は要らないという人よりも少ないのではないだろうか。
 
 恋愛や結婚に意味を感じない人の場合でも、恋人のような人、家族のような人、長く付き合える友といえる人を持つことには、相応の意味があるように思う。親しいと感じる水準には個人差があり、淡白な付き合いがちょうど良い親しさという人もいれば、かなりの高密度がちょうど良い親しさという人もいる。だが、どのようなかたちであれ、自分にとって最適な親しさを知り、適した相手を探し、そうした相手と親睦を結べるか否かは、その人のソーシャルキャピタルやメンタルヘルスに直結している。 
 
 人間は社会的生物であり、親しさによって人と人とは繋がってきた。いや、過去においては恐怖や暴力もまた人を繋いできたけれども、恐怖や暴力によって人と人とが繋がらなくなった今日では、親しさが、人と人とを繋ぐエモーションとして特権的地位にあると考えざるを得ない。
 




 
 
3.にも拘わらず、親しさが学校教育で必須単位になっているという話は寡聞にして聞かない。文部科学省管轄の幼稚園においてもそうだ。現在、親しさは専ら家庭の問題とみなされている。それは、現行の子育てシステムでは仕方のないことではあるけれども、だからといって、親しさをこのまま家庭任せにして構わないのか、正直、よくわからない。読み書きそろばんよりも、親しさのほうが、よっぽどサバイブには重要なのに。
 
 「親しさは生得的な問題だ」と言う人もいるだろう。が、むしろだからこそ、その人の生得的度合いにとってちょうど良い親しさを学び取り、自分の親しさに見合った相手と見合った親しさをつくりあげなければならないはずだが、その難事業を、核家族という、必ず家庭内病理を含んだ小さな入れ物に任せている現行は、考え直してみるととんでもないことをやっているなぁという気がする。もし父親や母親が授ける親しさが、子どもの生得的な親しさのdegreeと合致していなかったら、「たいへんなこと」になってしまうわけで。
 
 世の中には、まだまだ学校では教えてくれないことがあり、教科書を読んでもわからないことがある。「親しさ」もまた、その筆頭格にして、必須度が高いもののひとつだ。恋愛は要らない、まではいいとして、親しさまでも要らないと言ってしまって良いのか、私にはちょっとわからない。

 

本物の自己実現欲求の人に出会うと、真似たいとは思えなくなる

 

認められたい

認められたい

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

 
 
 ここ数年のインターネットの様子をみていると、承認欲求をモチベーション源として活動するのが、あたかも卑しいことであるかのような言説がまかり通っている。
 
 褒められたい。認められたい。一目置かれたい。
 
 そういった、他者からの承認をモチベーション源にすることは卑しいこと・良くないこと・しようもないことであり、他人の顔色に左右されるという点で不自由である、云々といった感じである。

 私は、こうした承認欲求-批判がぜんぶ間違っていると主張したいわけではない。

 実際、世の中には承認欲求の下僕としか言いようがない人、承認欲求に振り回され、誰のための人生かわからなくなってしまっている人もいる。インターネット上なら、PV数に囚われて自己コントロールができなくなっているブロガーや動画配信者のようなたぐいは、承認欲求の残念な例としてわかりやすい。

 そうは言っても、人は承認によって心動かされるものであり、承認を得たい気持ちと、承認を得た時の嬉しさによってもモチベーションを獲得しているのも、また事実である。

 子どもなどがその典型だが、承認される行為によって、何が社会的に望ましい振る舞いなのかを窺い知り、承認されない行為によって、何が社会的に望ましくない振る舞いなのかを知る。そういったことの無数の積み重ねのなかで、人はスキルアップし、人は社会性を身に付けていく。
 
 承認欲求「だけ」をモチベーション源とするのは良くないとしても、人間のモチベーション源全体のある割合は、やはり、承認欲求とカテゴライズできるもので占められていて、そこを無碍にするのはいかがなものかな、と私は思う。
 
 

自己実現欲求のレベルに辿り着いたとおぼしき人は、実在する

 そんなわけで、私は承認欲求肯定派である。承認欲求の奴隷になるべきではないが、承認欲求とは上手くつきあっていったほうがモチベーションは太くなる。ほとんどの人間は、高尚なモチベーションや自家発電的なモチベーションだけでは駆動力が足りない。

 で、自己実現欲求、である。
 

マズローの心理学

マズローの心理学

 
 
 自己実現欲求は、いわゆるマズローの欲求段階説のピラミッドのてっぺんに位置する欲求で、承認欲求や所属欲求の次元を超えた、より高尚でよりレアな欲求とされている。マズローによれば、自己実現欲求はすべての人が芽生えるようなものではなく、リンカーンやシュヴァイツァーといった人達がその典型とされている。
 
 そういう高尚でレアな欲求ゆえに、私は、青少年向けの自著(『認められたい』)では「自己実現欲求なんて、そんな簡単に目覚めるものじゃないよ、それより承認欲求や所属欲求のレベル(=社会的習熟度)を高めるよう」といったことを書いた。青少年という想定読者に対して、それは妥当な書き方だったと思っている。
 
 とはいえ、自己実現欲求とカテゴライズされそうなモチベーション、自己実現欲求に目覚めているとおぼしき個人が存在しないわけではない
 
 世の中のところどころには、「この人は、自己実現欲求に目覚めているとしか考えられない」というモチベーションをもって活動している人が確かに存在している。
 
 先日私が出会ったご老人にしてもそうで、もう、承認欲求とか所属欲求とか、そういったカテゴリーでは絶対に説明できないような、まさに自己実現欲求によってモチベートされているとしか思えない振る舞いをするご老人で、社会への貢献や組織の発展といったことを真摯に追求しているさまがみてとれた。
 
 私利私欲を感じさせるところがなく、誰に対しても分け隔てなく振る舞い、長年の経験や知識をできるだけ沢山の人の役に立てようとする姿勢を見て、私は感銘を受けずにはいられなかった。ああ、これが、承認欲求と所属欲求の彼岸に辿り着いた人の姿であるか、と。
 
 このご老人ほどではないにせよ、私はこれまでの人生の中で何度か「自己実現欲求まで辿り着いた人」を見かけてきた。それは、地域の医療のために長い努力を積み重ねてきた人であったり、大学医局で教授職に就いた人であったり、後進のために骨折りを惜しまないメディア人士であったり、いろいろである。
 
 ただし、彼らにはある程度共通点があって、

・比較的年齢が高い。若くても30代後半、典型的には60代以降
・自分がすべきことを十分な期間、すでにやってきた
・私利私欲や承認欲求のロジックでは行動が説明できない
・金銭的にも社会的にも不安定な立場ではない
・現在の立場のために汲々としてきた素振りも感じられない
 
 これらの共通点を誰もがみたすのは難しいように思える。
 
 「自己実現欲求まで辿り着いた人」は、私には、カリスマ的な人物とうつる。ここでいうカリスマとは、インターネット上のインフルエンサーにありがちな、ギラギラとカリスマっぷりを自己顕示するような感じのものではない。むしろいまどきのインフルエンサーのギラギラさには、承認欲求の匂いが立ち込めていて、自己実現欲求の匂いがしない。「自分の知名度や金銭のためにインフルエンサーをやっている」というオーラを放っている人々は、私がいう「自己実現欲求まで辿り着いた人」のソレとは全然違う。
 
 

「敬して、自己を慎みたくなる」

 
 くだんのご老人をはじめ、自己実現欲求まで辿り着いた人には、コミュニケーション能力が高いとか、知名度があるとか、センスが良いとか、そういった尺度だけでは説明のつかない、もっと違った魅力が宿っている。彼らを見ていても「俺も有名になりたい」「俺も出世したい」といった気持ちは沸いてこない。ましてや、嫉妬の感情など恐れ多い。
 
 どちらかと言うと、自己実現欲求の人々からは「この人のもとで働きたい」「この人といると、きっと何かが得られる」「この人の爪の垢を煎じて飲みたい」といった気持ちが沸いてくる。「リスペクトを感じる」という言葉では巷のインフルエンサーと区別がつきにくいかもしれないけれども、「敬して、自己を慎みたくなる」という気持ちが沸いてくる点がやっぱり違っている。自己実現欲求の境地に至った人々を真似たいとか、彼らのようになりたいなどと願うのは、私には、不遜なことのように感じられる。だからこそ、彼らが一段と尊い存在にみえる。
 
 自己実現欲求の境地は、がんばって辿り着くものではなく、一部の人がいつの間にか辿り着いているものだと私は思わざるを得ない。凡夫は、承認欲求や所属欲求の次元で生きていくぐらいの気持ちで十分なのだ。
 
 1990年代~00年代にかけて、「自己実現に目覚めよう」的な自己啓発書が大量に出版されたが、ああいうノリも、実在の自己実現欲求にそぐわない。「自己実現したい」と考えているうちは、承認欲求の次元にとどまっているとみて間違いないだろう。自己実現欲求の次元に到達してしまった人々の、どことなく尊い雰囲気を目の当たりにすると、ただ凡人の一人として、彼らの薫陶を精一杯吸い込み、なるべく善く生きていきたいと願うばかりである。
 

『ふろむだ本』は現代の魔術書だ。だから使う側には力量が求められる

 

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

 
 
 最近、ふろむださんの書籍が早くも四刷を迎えたと知った。このこと自体が、書籍に書かれた内容を証明しているように思えてならない。運や実力に加え、書籍に書かれている「錯覚資産」をうまく生かしたからこそのヒットだろう。見事というほかない。
 
 

実力や運を呼び込むためにも「錯覚資産」が必要

 
 ふろむださん( id:fromdusktildawn さん)は、2006年頃から『分裂勘違い君劇場』という人気ブログを運営していた。現在の基準で考えると異様な長文ばかりだったけれども、読む人を楽しませ、巧みにちゃぶ台をひっくり返してみせて、たくさんのファンを作った。00年代の有名ブロガーの一人だと思う。
 
 その ふろむださんが2018年に書籍を出版するという。はたして、読みやすくアレンジされ、イラストでわかりやすく説明した、たくさんの人にリーチする書籍になっていた。それでいて『分裂勘違い君劇場』のテイストは残っている。そのあたりのパッケージの出来栄えに、見事なものだなぁ……と思わずにいられなかった。
 
 
 
 
 「錯覚資産」、つまり人間を勘違いさせる力は、人間社会に遍在している。
 
 錯覚というと、視覚上の錯覚が有名だが、ものごとの優劣や取捨選択の判断でも人間の脳は錯覚を起こしている──ふろむださんは、さまざまな研究結果を引用しながらその性質を紹介し、その錯覚が遍在しているという前提で人間社会を見据えて、人生を豊かにしていきませんかと提言している。
 
 人間の脳は、知名度やルックス、言葉遣い、肩書きなどによって、気付かぬうちに影響を受けてしまう。実力優先とみなされる場面でも、その実力の優劣を判断し、取捨選択を決めるのは人間だから、その手の錯覚や勘違いがまかり通っている。たとえ錯覚や勘違いによって獲得したチャンスだとしても、そのチャンスによって実力が育まれるから、最終的には、錯覚や勘違いを生かした人間のほうが実力面でも上回ることになりがちだ。
 
 だから実力重視な人も「錯覚資産」をバカにしてはいけない。「錯覚資産」はチャンスの運び手であり、運が舞い込んでくる確率にも影響を与える、きわめて重要なファクターである──こういったことを、ふろむださんは懇切丁寧に説明している。
 
 文中、ふろむださんは本書を「実用書」と位置付けているが、実際、この「錯覚資産」を軽んじていた人には「実用書」たり得るだろう。「錯覚資産」というコンセプトの根拠を疑う人は、文中に出て来る実験や心理学者について調べてみてもいいかもしれない。いずれにせよ、これから力を手に入れたいと思っている人、チャンスや実力を掴みたいけれどもうまくいっていないと感じている人にはオススメできそうな本だし、おそらく、そのような人が想定読者層なのだろう。また、知名度やルックスや言葉遣いや肩書きを軽蔑してかかっている人にも、いい薬になるかもしれない。
 
 

「錯覚資産」を増やして破滅する人もいる

 
 さて、褒めてばかりでは芸が無いので、この本には書かれていない、けれども私自身が気を付けていることについて書いてみる。
 
 「錯覚資産」が実力や運を呼び込む重要なファクターなのは述べたとおりだし、「錯覚資産」それ自体も大きな力を持っている。有名であること・ルックスが優れていること・肩書きが立派であることは、虚構といえば虚構だが、他人に影響を与えるという意味では、やはり「力」には違いない。いや、他人だけではない。自分自身にもその「力」は少なくない影響を与える。
 
 本書の後半には、ふろむださん自身がtwitterを使って「錯覚資産」を増やし、本書の出版に備えていたプロセスが描かれている。実際に本書が売れているところをみるに、嘘いつわりのない成功譚なのだが、私は、ふろむださんの成功は「錯覚資産」以外の要素によって裏打ちされている、と思う。
 
 私は、「ふろむださん自身に、「錯覚資産」を増やしてもブレない心の強さ、いわば『力量』や『器量』があったから成功した」という風に解釈したのだった。
  
 私もインターネットを長くやっているので、いろいろなアカウントの栄枯盛衰を眺めてきたつもりである。
 
 眺めるに、インターネットで急成長するアカウントは、「錯覚資産」を膨らませる術に長けている。たとえばtwitterで短期間に数万単位のフォロワーを獲得するようなアカウントは全員、「錯覚資産」を膨らませていると言って構わないだろう。意識してやっているようにみえる人もいれば、本能的にそうしているようにみえる人もいる。
 
 しかし、そうやって「錯覚資産」を手に入れた者の未来が明るいとは限らない。
 
 むしろ、比較的短期間に手に入れた「錯覚資産」を活かしきれなかった人や、それが仇になってしまった人のほうが多いぐらいではないか。
 
 
 繰り返すが、「錯覚資産」は力である。
 
 インターネットを活用するような分野では、とりわけそうだろう。しかし、力はそれを御する「力量」や「器量」を持たない人間には危険なものでもある。
 
 手に入れた力を暴走させ、手を広げ過ぎて心身を損ねる者もいれば、手に入れた力にのぼせあがり、致命的炎上をやらかしてしまう者もいる。あるいは、力を行使して自分がやりたいことをやっているのか、力に振り回されてやりたくもないことをやっているのか、わからなくなってしまう者もいる。
 
 よく、ファンタジーロールプレイングゲームの寓話として、力量も器量も足りない魔術師が、偉大な力を持ったマジックアイテムを手に入れて、結局、マジックアイテムに振り回されて破滅するものがあるが、これは、「錯覚資産」にもだいたい当てはまると私は思う。
 
 「錯覚資産」は、いわば現代の魅了魔術であり、現代のコミュニケーション錬金術でもある。「力量」や「器量」の十分な人がこれを駆使すれば、大きなことを成し遂げられるだろう。しかし、その人の「力量」や「器量」をオーバーするような「錯覚資産」を手にした場合、思うように力を行使できないか、膨張した「錯覚資産」に振り回されてしまいかねない。
 
 また、実力と「錯覚資産」によって膨張した見かけ上の総合力とのギャップが大きくなり過ぎても、錯覚資産の運用難易度は変わってくる。「錯覚資産」の伸びと実力の伸びは、あるていどシンクロしていたほうが良いように個人的には思う。実力とかけ離れた「錯覚資産」を運用できるのは、この方面で天才的素養を持っている人だけである。
 
 だからこそ、私はふろむださんが「錯覚資産」を手ずから運用して本書をベストセラーにもっていった手つきに、感服せずにはいられなかった。「錯覚資産」を構築する手つきも、「錯覚資産」を使いこなしてみせる力量も、私はふろむださんにはかなわない。むろん、10年前の私に比べれば、現在の私のほうが成長していて、取り扱える「錯覚資産」のキャパシティも大きくなってはいるだろう。だとしても、である。
 
 

ディフェンシブな「錯覚資産」の運用もいいのでは

 
 というわけで、『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』を読んで力がみなぎってきた人は、その力を自分がどこまで生かせるのか、あるいはどう生かすのか、熟慮して欲しい。私は、本書は実用的な現代魔術の書物*1だと思っているが、強い力には、それにふさわしい力量や器量が必要だ。たとえば私のように力量や器量が不足していると感じる人は、「錯覚資産」を無制限に追い求めるのでなく、とりあえずコントローラブルな水準に抑えておいて、自分の力量や器量、あるいは実力が育ってくるのを待つのも一手だと思う。力がみなぎってきたからといって、制御不能なレベルまでパワーアップしなければならない人なんて、それほどいるまい。「錯覚資産」を意識しつつ、制御可能な水準でディフェンシブに運用するのも、本書の使い方のひとつだと思う。
 
 ともあれ、「錯覚資産」という力の存在を知っているのと知らないのとでは、渡世の難易度は大きく変わるので、そのあたりに疎い人にはおすすめしたい。
 
 

*1:錯覚を活用するという意味でも、やはり、本書には魔術書という言葉がふさわしい

失われた「田舎の子育てのアドバンテージ」

 
blog.tinect.jp
 
 リンク先を読みながら、地方で子育てをやっている我が身を振り返って、少し悲観的な気持ちになった。
 
 私は、地方の国道沿いの、イオンやユニクロやニトリから程遠くない郊外に住んでいる。家族で普段の買い物を済ませるには便利だし、東京のような不動産の高騰にも直面していない。
 
 私立中学校にお受験させなければならないわけでもなく、公立高校の進学校を選べば学費はそれほどかからない。高専に進学するならもっと安くて済むだろうし、地元の国立大学を選べば大学でも費用は少なめになる。「子育てを地元で完結させる」ぶんには、地方は子育てしにくい土地だとは思えない。
 
 けれどもリンク先のfujiponさんがおっしゃるように、都会で色々な文物に触れてまわっている子どもたち、早くから進学校に通い、都内や海外の大学へ進学していくであろう子どもたちと比べた時、地方暮らし・田舎暮らしに利点があるかというと、昔ほどアドバンテージが思いつかない気がする。そのことについて、この機会に少し書いてみるにする。
 
 

かつてはあった「田舎暮らしのアドバンテージ」

 
 私が生まれ育った頃、昭和時代の私の田舎には、いかにも田舎らしいメリットがあったと思う。
 
 ひとつは「自然との触れ合い」。
 
 海、山、川、堤防、沼沢地、雑木林。そういったものはすべて遊び場で、私たちは文字どおり自然と触れ合いながら育った。昭和20-30年代はもっと自然が豊富で、身体をフル稼働させるような遊びがもっと多かったという。
 
 そういった自然だけでなく、町全体も遊び場だった。近所の家の裏庭も、空き地も、私有地か公有地かにかかわりなく子どもが遊んで構わず、軒下に出てきた近所のジジババと会話することもよくあった。町内のあらゆる隙間を知り、町内のあらゆる住人を知り、老若男女とたえずコミュニケーションすること自体が、社会性の獲得を後押ししてくれていたと思う。親と対立したとしても、だから孤独になることはあり得なかった。親以外にも年上がたくさんいたし、親の価値観が絶対ではないことを肌で感じさせてくれる年上に囲まれて育ったからだ。
 
 野山を駆けまわり、草野球ができる空き地がどこでも利用できて、町内の年上や年下と豊富な接点が持てたあの頃の生活は、私の社会性の基礎になっていると思うし、これが無ければ、不登校時代の遠回りを挽回できなかったと思う。
 
 

東京の劣化コピーとしての「現在の田舎暮らし」

 
 ところが、現在の私の子どもを見ていると、そういったメリットのことごとくが失われてしまったようにみえる。
 
 海も山も川も沼沢地も、子どもが遊んで良い場所ではなくなった。道路や私有地は子どもが遊んではいけない場所になり、子どもたちは決まった時間に、決まった場所で遊ぶようになった。その公園も、代々木公園や世田谷公園のような広大なものではなく、古い時代の都市公園法に従ってほとんど嫌々作られた、お粗末なものでしかない。そのような狭い公園のうえボール遊びも制限されていて、かつての私たちの頃のような、伸び伸びとした草野球など望むべくもない。
 
 町全体が遊び場ということもなくなってしまった。近所の家の裏庭や空き地に子どもが入ることは、21世紀の郊外では非常識なこととみなされている。それぞれの家の家主がそう思っているだけでなく、子どもも、子どもの親も、そのことを不文律とみなしている。新しく建てられた家屋には、軒下なんてものは存在しない。現代の家屋は、家族がスタンドアロンに過ごすことに最適化されていて、近所の人々と繋がりあうことを前提につくられているとは言えない。
 
 結局、田舎に住んでいるからといって、自然を謳歌する機会も、伸び伸びと草野球をする機会も、地域社会に根付いた社会性をマスターする機会も、あまり無いのである。どうしても自然を謳歌させたかったら、お金を払って自然を謳歌できる場所に行くしかないし、どうしても草野球をさせたければ、お金を払ってスポーツクラブに通わせるしかない。学校と自宅を往復するばかりで、専らゲーム機で遊んでいるような子どもは、田舎ならではのアドバンテージなど望むべくもない。
 
 それなら、塾や稽古事の選択肢が多いぶん、大都市圏のほうが子育てに有利ではないか。
 
 「それは、お前が田舎とはいえ中途半端な郊外に住んでいるからだ。もっと過疎地に行けば自然を謳歌できるはずだ」と反論する人もいるかもしれない。だが、私の知る限りではそうとも限らない。
 
 過疎地に行くと、熊や猪、猿がかなりの頻度で出没する。人の手がほとんど入っていない場所もたくさんあり、切り立った崖や怪しい獣道のたぐいといった、安全面の覚束ない場所がたくさんある。平成時代の親の感覚としては、熊や猪や猿がしばしば出没する場所で子どもを放っておくわけにはいかない。
 
 また、近所の家の裏庭や私有地で子どもが遊ぶ行為も昔ほど許容されない。「子どもといえど、私有地には勝手に入ってはいけない」という意識が、過疎地にもそれなり流れ込んでいるのがわかるからだ*1。それでなくても、少子高齢化が進み過ぎた地域には、子どもにバリエーション豊かな社会的経験を提供するだけのゆとりがない。
 
 かつて、都会の子どものステロタイプとして、「学校から塾への行き帰りに携帯用ゲーム機で遊び、帰った後も自宅で一人で遊ぶ」というものが語られたけれども、結局、どこに住んでいてもあまり変わらないのではないか。子どもが外遊びしなくなったのも、ボール投げの成績が年々落ちていくのも、子どもがゲームで遊ぶのが悪いというより、街全体として、いや社会全体として、子どもを街で遊ばせておいて勝手に経験を積み重ねてもらうことを許容できなくなっている故のように、私にはみえてしまう。
 
 結局、親が子どもにバリエーション豊かな経験を積ませようと思ったら、カネを積んで、経験を買うしかない。
 
 
 [関連]:学力だけじゃない、体力もカネで買う時代 - シロクマの屑籠
 
 

「契約社会の論理」が子どもにも適用されるようになった

 
 こうした、子どもを勝手に外で遊ばせない意識の浸透は、人格形成期の人間関係や社会性の獲得に響くので、私は小さくない問題だと思っている。そして、この意識の浸透はいろいろな切り口で語り得るものだろうとも思う。
 
 この文章では、「社会契約の論理の徹底」という切り口でこのことについて考えてみたい。
 
 かつて、地域社会が社会関係の大きなウエイトを占めていた頃は、地域の子どもはまったき「他人」の子どもではなく、「地域」の子どもでもあった。地域の子どもの遊び場は、地域の共有材だった。親子関係にせよ、地域の年上と年下の社会関係にせよ、その共有のありかたには契約社会のロジックが浸入していなかった。社会学者のテンニースのフレーズを借りるなら、「子育ての相当部分がゲマインシャフトのなかで行われていた」と言えるかもしれない。
 

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 下―純粋社会学の基本概念 (岩波文庫 白 207-2)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 下―純粋社会学の基本概念 (岩波文庫 白 207-2)

 
 ところが、大都市圏では比較的早く、地方や郊外ではそれより幾らか遅れて、地域社会は希薄化していった。子どもの一人一人は「他人」の子どもでしかなく、「地域」の子どもとはみなされない。私有地という概念が浸透するにつれて、軒下コミュニケーションも裏庭を歩く子どもも少なくなり、子どもの遊び場=地域の共有財という意識はなくなった。道路で遊ぶ子どもや空き地で草野球をする子どもは、許容されなくなった。人々の意識も、街のつくりも、数十年の間にすっかり変わってしまった。
 
 このことは、「子育てが契約社会に完全に組み込まれた」と表現することもできるし、「契約社会化した街から子どもが締め出されて、子どもも契約社会のロジックに従わなければならなくなった」と表現することもできよう。
 
www.cnn.co.jp
 
 先日、アメリカのバス停近くの個人が、庭に子どもが入らないよう電気柵をもうけたニュースがあった。結局電気柵は撤去されたそうだが、契約社会のロジックに従って考えるなら、私有地への子どもの闖入を防ぐために土地所有者が電気柵をもうけても、おかしくないように思える。契約社会のロジックに従って考えるなら、「農家が田畑を荒らす猪を避けるために電気柵をもうけるのと変わらない」と考えるべきなのだろう。
 
 これはアメリカの話だが、周囲の子どもたちを眺めていると、わざわざ電気柵をもうけるまでもなく、「私有地に勝手に入ってはいけない」という意識はインストール済みのようにみえる。外遊びに最適な空き地があっても、ご近所の庭に好奇心をそそるものがあっても、2010年代の子どもはまず侵入しない。少なくとも、私が育った頃の子どもと現代の子どもでは、契約社会のロジックを内面化している度合いがぜんぜん違っているようにみえる。
 
 

契約社会化した子育てに、社会は、あなたはどこまで対処できるのか

 
 こうした社会の変化に対して、行政はそれなり手を打っているようにみえる。
 

 
 首都圏の湾岸マンションに限らず、比較的新しい住宅街には、だいたい広々とした公園が併設されている。契約社会のロジックに沿ったかたちで子どもが遊びやすい空間を確保するためには、「公園」とレッテルづけされた空間を増やしていくしかない。このあたりは、都市公園法の改正、少子高齢化を懸念する行政の思惑、不動産販売業者の戦略などが絡み合っての結果だろうけれども、少なくとも、二十年前ぐらいの住宅街に比べればマシになった。
 

 
 また、上掲の自転車の練習写真のような、近所でやりづらくなった体験を授けるためのイベントや場所も、都市部には存在している。こういった計らいも、契約社会のロジックから逸脱しにくくなった子育ての助けになっているとは思う。
 
 それでも、これらですべてが解決するわけではないし、これらは"恵まれた"都市部で行われていることだ。数十年前のニュータウンがそのままになっている地方の郊外などでは、こうした恩恵に与るチャンスが少ない。
 
 結局のところ、契約社会のロジックのもとでは、ほとんどの部分は親の能力と判断でどうにかしなければならないのである。
 
 「田舎=自然や地域社会のアドバンテージが得られる」という図式が無くなった今、契約社会のロジックに即したかたちで子育てのアメニティが取り揃えられた大都市圏の子育てに、田舎の子育てが太刀打ちできるものだろうか。
 
 我ながら、ちょっと少し先走ったことを文章にしてしまったとは思う。だけど地方で子育てしている者の一人として、最近は大都市圏の公園の芝が青くみえてならないので、今の気持ちを書いてしまうことにした。
 

*1:こうなった背景には、過疎地の私有地に勝手に闖入し、山菜やキノコを根こそぎ奪い取っていったりする余所者がたえないことも関係しているかもしれない