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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

古典『Gのレコンギスタ』の感想、あるいは

 
 アニメ『Gのレコンギスタ』が終わって一週間以上経った。
 
 たぶん、その方面では話題になっていたんだろうけれど、私は忙しくてネットを観ていなかったので、巷の『Gレコ』評は何も知らない。ともあれ自分が視た所感をまとめてみたいので、以下、書き並べてみる。
 
 
 『Gのレコンギスタ』は誰のためのアニメだったのだろうか?確か、富野監督がどこかで言っていたことを真に受けるなら「子どものためのアニメ」だったのだろう。少なくとも年取ったオタクのための作品ではなかったはずだ。
 
 しかし、実際に目の前に現れた作品は、あたかも年取ったオタクのための作品のようだった。この作品を、若いアニメファンのどれぐらいの割合が高く評価するのか・高く評価し得るのか、恐ろしく疑問だ。
 
 
 1.まず。ロボット。ここではモビルスーツと呼ばずにロボットと呼んでおくが、ロボット同士の戦いは、とても面白かった。工夫を凝らした演出がいっぱいだ、恰好良いな、と思った。しかし、私がこの演出描写を恰好良いと思うのも、昔のガンダムアニメを思い出したうえで恰好良いと思っているきらいがあり、昔のガンダムアニメの“文法”を知っていて、それに依拠したかたちで恰好良さを“読み取っている”と自覚せざるを得ない。
 
 では、こうした過去の“文法”を知らない年若い世代に、『Gのレコンギスタ』の戦闘シーンの恰好良さ、気の利いた演出が読み取れただろうか?それが、私にはわからない。2010年代に入って深夜帯を中心にロボットアニメはえらく増えたが、そうした新しいロボットアニメから親しみ始めた世代にとって、このアニメのロボットバトルはどのように映り得るものだったか?観る人によっては、まとまりの無い、迫力の捉えにくいバトルとみえたのではないだろうか。
 
 悪いロボットバトルだったと言いたいわけではない。素敵だったと思うし、個人的には『ガンダムAGE』のバトルとは比較にならないほど胸をときめかせながら楽しめた。『ガンダムビルドファイターズ』にもこの魅力は無い。ただし、これは2010年代のロボットバトルの“文法”とは乖離しまくっているとも感じた。「子どものためのアニメ」とか言われても……例えるなら、90年代に70年代のSFアニメ“文法”を差し出して「どうぞ、若い皆さんも楽しんでください」と言っているようなものというか。
 
 古今に通じた博覧強記な若いアニメファンならともかく、カジュアルにライトにアニメを楽しんでいる十代二十代が『Gのレコンギスタ』のロボットバトルを楽しめたのか、楽しみやすかったのか、よくわからなかった。
 
 
 2.人間模様。これも難しかった。飛び飛びの台詞、次から次へと登場する人物、そして“富野節”。これらが獣道の道標のように点在している物語を、読み取らなければならなかった。これは、点在する台詞や描写をもとに世界の広がりに思いを馳せ、「人物それぞれの都合や物語を想像する」には都合の良いものではある。
 
 しかし、逆に言うと「視聴者の側が想像力をフル回転させなければ、ただわかりにくく、飛び石のような台詞が続いているだけのアニメ」だったとも言える。これが例えば90年代末〜00年代初頭のように、脳内補完が前提になった作品が幅を利かせていた時代なら、そういった想像力のフル回転を促す作風は好もしかったかもしれない。しかし、今は2010年代である。若い視聴者は、そうした脳内補完の作法にどこまで慣れているだろうか?能動的にストーリーに“喰らいつく”用意のある視聴者はどのぐらい期待できるだろうか?
 
 もちろん、そういう若い視聴者もいるだろう、古今のアニメ鑑賞の経験値を積んでいるようなマニアならば特にそうだ。もし、『Gのレコンギスタ』がニッチなマニアに訴えるだけの作品ならば何も問題は無い。しかし、もっとカジュアルな若いマスボリュームが、そのような脳内補完の作法に慣れているとは、私には思えない。隙間だらけの靄のような作風が主流ではなくなり、物語の脇をある程度固め、脳内補完の広がりよりもストーリーラインを重視したアニメが幅を利かせている現状を鑑みれば、視聴者に高い脳内補完力を求める作品を突き付けても、あまりウケないのではなかろうか。
 
 また、富野節も相まって、今回の『Gのレコンギスタ』は登場人物が何を考えているのか、そもそもこいつらが人間としての性質を持っていると言えるのか、甚だ怪しかったのだった。富野監督の作品に出てくる登場人物は、もともとどこか人間離れしているというか、超然としていたり、情緒や勘がズレていたりしがちだった*1。それが良いかたちをとることもあれば、悪いかたちをとることもあるのだろうけれども、『Gのレコンギスタ』では、主人公のベルリをはじめ、人間の情緒や勘の一部分だけが異様に描写されたり、ある時にはゴッソリと抜け落ちていたり、人間離れが著しく進んでいたように思う。
 
 作中、登場人物は「人間」「人」という言葉をさかんに連呼していたけれども、かえってそれが人間離れして感じられるというか、情緒が壊れていると思わせる場面が多かったのも『Gのレコンギスタ』だった。もとより情緒のリアリティを追求する作品でもなかろうし、現代人とは違う時代を描写した作品なのだから、現代人には理解が難しいという解釈もできなくもないだろう。単に「人間離れしているから」という理由でこの作品を批判するのはいかにも筋が悪そうではある。が、それにしたって、登場人物それぞれの物語にアプローチする際にメンタリティがわかりにくい・唐突すぎてついていけないというのは、ひとつの弱点――特にセールスなるものを意識するなら――ではあったと思う。
 
 
 3.これらを総合するなら、たくさんの人に楽しまれるセールスに恵まれたアニメとしての『Gのレコンギスタ』は相当な失敗作、だったのではないだろうか。ついていけない人は置いていきますよ、過去と現在のロボットアニメ“文法”の相違なんて知ったことじゃありませんよ、そういう突き放した作品だった。ウケる人にはウケるとしても、これが大向こうに楽しまれるとは到底思えない。
 
 もし将来、『Gのレコンギスタ』“再評価”される日が来るとしても、一部のマニアが愛好するたぐいのものとして、じゃないかと思う。ある日爆発的に売れはじめるタイプの“再評価”は想像しにくい。
 
 ついでに言うと、話の尺が幾分足りないようにもみえた。後半に入るにつれて話が駆け足になっていき、視聴者を振り落さんばかりの勢いで、ベルリ一団はヴィーナスグローブへと旅立って行った。後半に話がバタバタするのも富野監督の作品だからいいじゃないか……という見方もできなくもないし、まずは密度の高い構成を楽しんだのだけど、足並みがバタついている印象が否めなかったし、クンパ大佐がもらい事故のように死んでいったのはちょっとかわいそうだった*2。バタつきといえば、『コードギアス 反逆のルルーシュ』第二期の終盤も大急ぎだったけれど、あちらは登場人物があまり人間離れしていなかったせいか、それとも物語の集束率が高かったせいか、もうちょっと追いかけやすかった。『Gのレコンギスタ』の展開は、富野監督の作品でなければ割り切れていなかったかもしれない。
 
 そう、これだ。
 この「富野監督の作品でなければ」というカギかっこ!
 
 良きにつけ悪しきにつけ、どうも私は、この作品を読み取る際に「富野監督の作品だから」という呪縛に囚われていたように思う。呪縛とはいうけれども、そのおかげで急展開も許容できたし、それぞれの登場人物の物語に思いを馳せようという気持ちにもなれたのだから、感謝すべきなのかもしれないが、逆に言うと「富野監督の作品だから」という前提無しでは、もしかして私はこれを楽しめなかったか、楽しいと感じるまでにもっと時間がかかってしまっていたかもしれないと、つい、疑ってしまう。
 
 この作品は、決して古参のガンダムオタクのためにつくられた作品ではないのだろうと想像するけれども、「富野監督の作品だから」という前提無しで楽しむのがハードだとしたら……それは一体なんなのだ?ガンダムオタクのためではないと言いながらも、結局ガンダムオタク的な、あるいはロボットアニメ古典芸能愛好家的な“文法”や“お約束”を視聴者に求める作品に仕上がってしまっているとしたら……。『ガンダムUC』は中年ガンダムオタク向けの作品だったが、『Gのレコンギスタ』もそれとはまた違った意味で、中年向けの――それで言い方が悪いとすれば、アニメ古典芸能愛好家向けの――作風のきつい作品だったのではないか。
 
 私は、観ている最中、何度も「うわっ面白い!でも懐かしい!」と感じた。「最近の深夜アニメのロボットバトルにはこの演出・表現は絶対にあり得ない」、と思う瞬間も多かった。 最終話の富士山登山のくだりは「フザケンナコラー」と思うところがあるはあったけれども、ここでも「富野監督の作品だから」で済ませている自分がいて、自嘲を禁じ得なかった。私は、この作品を富野監督の重力に囚われた人間として視聴していたのだろう。この文章を書いている今だって。富野監督の重力の外側に立って作品を観ることなどできやしないのだ。
 
 
 4.それでもなお、嫁さんの反応をみるにつけても、この作品は根気良く視聴すれば楽しみ得るものだった、のだろう。人間離れしているからって、それがどうした!楽天的なテーマソング「Gの閃光」は本作にお似合いだった。あの「Gの閃光」を聴いていると、どんなにふざけた話の時にも、なにもかも許せるような気がして、すべてが楽しいような気がして、とても良かったのだ。エンディングのたび、思惑も陣営もバラバラの人達が笑って手を繋いでいるのは、もしかしてサブリミナル効果を生んでいたのではないか?と疑うほど印象深かった。もしあれが無かったら、この作品の「フザケンナコラー」感はもっともっとひどかったかもしれない。
 
 そうしたエンディングに似つかわしい、キラキラしたアニメでもあった。モビルスーツ戦*3に古さを感じつつも、光学兵器周りのピカピカした演出、例えばGセルフのシールドの演出やメガファウナのフィンの演出などは磨き上げられていて綺麗だった。キラキラした戦闘演出は、そのままモビルスーツの迫力や魅力にも関連付けられていたと思う。
 
 なにより、人間同士の思惑を想像して楽しむアニメとしては、やっぱり面白かった。私が個人的に一番気に入っているシーンは、法皇・クンパ大佐・アイーダの父親・ベルリの母親が一堂に会して睨み合うままエンディングを迎える、あのシーンだ。私はあれを観て、色々なものの合点がいったような気がした。モビルスーツ同士の戦いも良いけれども、『Gのレコンギスタ』の人間同士の張り合いは独特のテイストで、年齢不詳ながら興味深いものだったと思う。
 
 でもって話が逆戻りするけれども、結局、これらは「富野監督の作品ならでは」の楽しみなんだろうなとは思う。それって、富野監督の作品が「らしくない」よりは余程幸福だ。そして昔からのガンダムファンとしてみれば、まだ富野監督が生きているうちに、このようなセールスの怪しげな作品を、半年もかけて on air し続けてくれたことが、感慨深く、格別にありがたいものとも感じる。その喜びに比べれば、少々の問題点など取るに足らぬものでしかない。世のどれぐらいの人が『Gのレコンギスタ』を好きになってくれたかなど、私自身が『Gのレコンギスタ』を面白がれたという一事に比べればとるに足らぬことでしかない。
 
 こうやって、あーだこーだと性根悪く御託を並べていられるのも、まずは『Gのレコンギスタ』という作品が現れ、しかもそれが鼻をつまみたくなるほど富野監督的なフレーバーを漂わせていたからこその話なのだから、一ファンとしては、つべこべ言いつつも、結局は愛さずにはいられないのである。そして鼻腔いっぱいに富野フレーバーを吸い込んで咳き込み、みっともないガノタ談義に耽らずにはいられないのだ。ありがたや、ありがたや。
 
 尤も、このようにおじさんガンダムファンがありがたがって楽しむのを、富野監督が嬉しく思うかといったら、たぶんそれは違うのでしょう。だけどこれ、どう考えても富野監督抜きでは創られ得ない何かですよ。そして一種の古典芸能ですよ。だから私は、結局これを一生懸命に咀嚼し、自分の楽しみとしてしまった。あるいは、懐かしいワインが新しいワイングラスに入って出てきたのを飲み干したような気がした。この文章を書き始めた時には恨み節でいっぱいだったけれども、書いているうちにやっぱり好きなんだなと再確認して、なんだか捻じれた文章になってしまったけれども、この捻じれ具合そのものが私の感想を反映しているように思えるので、このままアップロードしておく。
 

*1:果たして、富野監督は自覚してそうしているのだろうか?それとも無自覚のうちにズレているのだろうか?

*2:別に、登場人物が偶発的に死んだっていいんだけど、なんだかあれは“世界線の都合で無理やり殺した”“生きていたらまずいから殺した”感が漂っていた。バララの死も、そうだと言えなくもないけれども、あっちは許容範囲だったと思う。

*3:ロボットロボット連呼するのが疲れてきた