シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「はてな村」の史跡を振り返る

 
 
 
www.zinseitanosiku.com
 
 拝見しました。ブログでの言及ありがとうございます。
 
 また、過去のネットカルチャー「はてな村」にご関心いただいたことも御礼申し上げます。
 
 めんおうさんは、「なぜ、過去のネットカルチャーについて書いたら御礼を言われるのか」と思ったかもしれません。その理由は、私が「はてな村」に思い入れがあったからです。そして、「はてな村」といわれるネットカルチャーが過去のものとなり、人々の記憶からも風化されつつあるからです。
 
 「はてな村」の生存者としては、かつて確かに存在した場所・時間のことを思い出してくれる人に対して、嬉しい気持ちが湧いてくるのですよ。
 
 冒頭リンク先でまとめて下さったとおり、はてなダイアリー以来の「はてな村」と、はてなブログ以降の新しいブロガーの間には、文化習俗の違いがあります。付け加えると、「はてな村」と呼ばれる文化習俗も、2005年頃と2010年頃、2015年以降に(サーガとして)語られるものには微妙な違いがあります。
 
 また、はてなブログの書き手が全員「非-はてな村」的かといったら……そうでもありません。はてなブログからスタートしたけれども、旧来の「はてな村」に近い習俗を持ったブロガーもいらっしゃいます。
 
 このようなご縁をいただいたことですから、はてな村の史跡を振り返ってみたくなりました。以下のリンク先を訪ねてみると、在りし日の「はてな村」を想像する足しになるのではないかと思います。
 
 
 

「はてな村」についての証言

 
 
 以下、生存しているアカウントの皆さんの、「はてな村」についての証言を淡々と貼っていきます。きりがないので、1人1リンクに絞りました。
 
 1.zeromoon0さんの証言
 nogreenplace.hateblo.jp
 
 2.あざなわさんの証言
 azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 3.ドボン会さんの証言
 dobonkai.hatenablog.com
 
 4.orangestarさんの証言
 

はてな村奇譚

はてな村奇譚

 村の記念碑的作品
 
 5.kanoseさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 並んでいるIDが懐かしい人ばかり
 
 6.finalventさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 ここに書かれている「はてな村」は、『はてな村奇譚』以前の、いわば旧はてな村的用法。ちなみに私が「はてな村」という言葉を使うと決めたきっかけは、このfinalventさんが「はてな村」と書いているのを見たため。古い村民なら、「ネガコメ5」って言葉も覚えているはず。
 
 7.matakimikaさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 今読み返すと、「はてな村」の定義・内実をうまく捉えているように読めるが、いかんせん文脈が古すぎるかもしれない。
 
 8.fujiponさんの証言
 fujipon.hatenablog.com
 
 9.匿名視点
 anond.hatelabo.jp
 オンラインゲームとして眺めたはてな村
 
 10.在華坊さんの証言
 zaikabou.hatenablog.com
 こわい。
 
 

「はてな村」以後の出来事

 
 ついでながら、「はてな村」以後の出来事についても、幾つか紹介しておきます。一般に、これらは「はてな村」の歴史に含まれず、「はてな村」の後に起こり、「はてな村」よりも早く忘れ去られつつあるものです。これらが「はてなブログ全体のごく一部の出来事」でしかないことは言うまでもありません。
 
 
 1.サードブロガー
 d.hatena.ne.jp
 inujin.hatenablog.com
 azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 「はてな村」の後に起こった小さなムーブメント。「はてなブログ」によってもたらされた初期の出来事。
 
 
 2.互助会問題
 anond.hatelabo.jp
 anond.hatelabo.jp
 blog.skky.jp
 このあたり、私はあまり真剣に追いかけていないので詳しくない。
 
 
 3.ミニマリスト云々(の外側からみた様子)
 
 fujipon.hatenablog.com
 hachibei08.hatenablog.com
 このあたりも、あまり詳しくないけれども一大勢力だったはず。
 
 
 4.サイバーメガネさん周辺
 hatebu.me
 出来事が多かった人
 
 
 5.はてな村反省会と称する集まり
 zaikabou.hatenablog.com
 togetter.com
 p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 
 6.2015~2016年くらいにブログがどうこう言っていた若者たち
 
はてなブックマーク - メディアクリエイター否定派のおっさんたちに聞いてほしい話 - Sprechchor
※元のブログは数年間放置された挙句、ドメインを売ってしまった模様なので、記事に集まったはてなブックマークを挙げる。
 
 p-shirokuma.hatenadiary.com
 そういえば、一番金ピカしていた若衆はどこへ行ったのだろう?
 
 

おことわり

 
 いかがだったでしょうか。
 
 今回私は、「村の史跡」として文章が残っているものだけをチョイスいたしました。口伝されている恐ろしい物語、文章が散逸してしまった物語については、ここに書くことはできません。「はてな村」の地下には死者が埋もれているかもしれません。土を掘るのはやめておきましょう。
 
 

青春モノを中年のアングルで楽しんでいる自分に気づいた

 

 
 青春は遠くになりにけり。
 
 今季のアニメ『宇宙よりも遠い場所』を見ていると、自分が思春期から遠いところまで来たことをしみじみ感じる。
 
 『宇宙よりも遠い場所』は、南極に向かう17歳ぐらいの四人組をメインに据えた青春物語だ。主題歌の歌詞から言っても、内容から言っても、そう言って差支えないように思う。
 
 南極探検という非日常が舞台ではあるけれども、かえってそのことによって、17歳ぐらいの年頃って南極探検みたいなものだなぁ……と思い起こさせてくれる作品だ。素晴らしい体験や出会いもある。ときには遭難し、撤退しなければならないことだってある。南極に向かうメインストーリーと四人組それぞれのエピソードを重ね合わせることによって、『宇宙よりも遠い場所』は、南極探検と17歳の青春全般とをダブらせてみせる。まだ未完成で、不完全なところのある者同士が寄り集まって、悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーとスピードで進んでいく姿が素晴らしい。とても、青春している。
 
 だから私は、「ああ、青春物語って、こういう感じだったよなぁ」と回想せずにはいられなかった。そういう回想をとおして、私の思春期がとっくの昔に終わったことを痛感した。私は今、『宇宙よりも遠い場所』を、一人の中年として眺めて、楽しんでいる。
 
 ちょうど最近、小説を読んでいる時にも似たような気持ちになったのだった。
 
わたしの恋人 (角川文庫)

わたしの恋人 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ふたりの文化祭

ふたりの文化祭

 
 この三部作は思春期を切り取った作品群で、おそらく、中年向きではないのだろう。にもかかわらず、これらの作品に私は胸を打たれた。恋愛や人間関係の機敏やしっとりとした筆致だけでなく、作中で描かれる青春模様のうちに、とりかえしのつかなさ・かけがえのなさ・悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーとスピードが感じ取れた。その点において、私はこれら三部作を『宇宙よりも遠い場所』に近いアングルで読んだのだと思う。
 
 ひとつの体験、ひとつの恋愛、ひとつの人間関係によって、17歳ぐらいの若者は大きく変わっていく。それが中年になった私には眩しく感じられる。だけど、私にだってそういう時間は確かにあったし、今、青春のただなかにいる人達は、実際にそのパワーやスピードの只中にある。そして未完成な者同士がぶつかり合いながら、絶えず成長している。40代になってからそういった描写を仰ぎ見るのも、意外と悪くないと思わずにいられなかった。
 
 

「なんだ俺、ちゃんと中年のアングルにシフトチェンジしてるじゃないか」

 
 先だって出版した本のなかで、私は以下のようなことを書いた。
 

 自分が30代、40代と歳を取るにつれて、主人公が10代のアニメやライトノベルを楽しむために必要な読み方が変わってきます。20代のうちはまだ、学生服を着た主人公への感情移入もそれほど難しくありませんが、学生時代から長い年月が経ち、おじさんやおばさんになるにつれて、学生服を着た主人公への感情移入は難しくなります。
 歳を取ってもアニメやライトノベルを楽しみ続けるためには、自分自身が留年や再入学を繰り返すなどして身も心も学生気分のままであり続けるか、そもそも感情移入に頼らず、遠い世界の物語として眺める習慣を身に付けておかなければなりません。
 (『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』より抜粋)

 
 で、『宇宙よりも遠い場所』や『わたしの恋』『僕の嘘』といった作品に触れてみると、なるほど、作品を眺める自分の見る目や楽しみかたが確かに変わったことが実感できて、ちょっと寂しく、ちょっと嬉しくも感じた。
 
 もし私が、これらの作品に20代の頃に触れていたなら、青春のとりかえしのつかなさ・かけがえのなさ・悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーやスピードに胸を打たれることはなかっただろう。もっと違ったかたちで――たとえば我が身に引き寄せたかたちで――作品を味わっていたに違いない。
 
 だが、私はこれらの作品に40代になってから出会った。だから一人の中年として、中年のアングルから味わい、楽しんでいるのである。たぶんこれは、60代のおばさんがNHKの連続テレビ小説を眺める時のアングルに近いのではないか? もう過ぎた時間に思いを馳せながら、それでも心動かされる、この境地。
 
 これらの作品をとおして私は、中年になっても青春モノの作品を楽しめることを割と強く自覚した。近しい年齢として眺めることは不可能になったけれども、これもこれで捨てたモンじゃない。『「若者」をやめて、「大人」を始める』などというタイトルの本を出版した私が言うのもなんだが、「ああ、これで俺はあと二十年は戦える」と胸をなでおろした。
 
 『宇宙よりも遠い場所』の最新話も、青春を真っ直ぐに描きとおしていて、なんとも素晴らしいテイストだった。最終話までしっかり視聴しようと思う。
 
 

効率性のせいで、ソシャゲがなかなかやめられない

 
 
  
 私はゲーム愛好家としてずっと生きて中年になったから、人生の残り時間もゲームに費やすつもりでいる。私の人生・アイデンティティにとって、ゲームは不可欠な一部分だから、年を取ろうとも付き合い続けていくだろう。
 
 とはいえ、世の中には遊びきれないほどのゲームがある。仕事や子育ても忙しい。書籍やアニメといった、可処分時間を奪い合うコンテンツもたくさんある。だからいつも、「どのゲームを、どれだけ、どのように遊ぶのか」が問題になる。
 
 で、ソーシャルゲーム、である。
 
 射幸性を煽るのがいけない、プレイヤー同士の競争を煽るのがいけない、等々が取り沙汰されているソーシャルゲームではあるものの、スマホで遊べて、ライブ性があり、SNS上の出来事も込みで楽しむ点などは、これはこれで現代のゲームという感じがする。ゲーム愛好家として、これを避けるわけにはいかない。
 
 私にとってのソーシャルゲームは、始めるのが難しく、続けるのはたやすく、やめるのが難しいものだ。
 
 世の中には、ソーシャルゲームを始めるのもやめるのも簡単な人がいるという。適度に飽き性な人なら、そういうのもあるのかもしれない。ところが私は、一つ一つのゲームとは長い付き合いになると想定して、いつも慎重にゲームを選ぶ。いまどき、やってみたいソーシャルゲームなんて幾らでもあるけれども、全部をやっていたら社会人としての死が待っている。だから、少ないお小遣いをためてファミコンのカセットを買っていた昭和時代の小学生のような気持ちになって、慎重に、これぞというソーシャルゲームを選ぶ。
 
 そのかわり、いったんソーシャルゲームを始めてしまうと、すごくやめづらい。
 
 最近は、『アズールレーン』をやめるやめないが大問題になった。
 

 
 このタイトル画面を見てのとおり、『アズールレーン』は少し昔のライトノベルっぽい絵柄のソーシャルゲームだ。中国のゲーム会社が作っているおかげか、2010年代の日本のライトノベルやアニメのトレンドよりも古いタイプの絵柄を、堂々と使用している。で、私は、こういうベッタリとした絵がかなり好きである。
 
 『艦これ』の影響を強く受けているけれども、良くも悪くも『艦これ』よりはライトで、周回も単純明快、課金も厳しくないので、いったん軌道に乗った後の『アズールレーン』は短時間で済んだ。イベントも効率的にこなしていける。しかし、あまりにも効率的にこなせるがゆえに飽きてきてしまった。ところどころ、手動で艦隊を動かさなければならないのも、はじめは楽しかったが、だんだん面倒になってきた。
 
 いつしか、私は『アズールレーン』の止め時を考え始めるようになった。ところがなかなかやめられない。短めの時間で効率的に周回できて、効率的にアイテムを集めて、効率的にレベルアップできるからこそ、効率的なルーチンをやめる=非効率で勿体ないと私は感じるようになっていた。本当は、その効率的なルーチンこそがマンネリになっていると頭ではわかっているのに、である。
 
 効率性
 
 効率性は、射幸性とは対照的なソーシャルゲームの罠だ。終わりなきアカウント育成を突き詰めていくと、プレイヤーは必ず効率性に行きつく。かつてMMOで「時給」という言葉が用いられたのも、つまりそういうことだ。
 
 しかし、ソーシャルゲームにおいて効率性を追求すると、止め時がとても難しくなる。ログインボーナスや日々の周回を続けることこそが効率的なわけだから、やめてしまうのは究極の非効率だ。これが、非常にもったいないと感じられる。効率性を優先するなら、ソーシャルゲームはやめずに毎日続けるべきなのである。
 
 だから毎日、効率的にアカウントを育ててきた人がソーシャルゲームをやめるためには、ゲーム内の効率性ではなく、もっと高次の効率/非効率について考えなければならなくなる;つまり、このソーシャルゲームを続けること自体が自分の人生にとって効率的か、他の活動と比べるに値するほどの値打ちがあるのか、という判断である。
 
 その際に判断を曇らせるのは、いままでソーシャルゲームに突っ込んできた時間や情熱だ。確かに、やめてしまったほうが人生にとって望ましいかもしれない。しかし、今ここでやめてしまったら、ここまでアカウントにかけてきた時間はどうなるのか? 今まで長い時間をかけてきたものを捨ててしまうのも、それはそれで非効率のようにも思える。長い時間やお金をかけてきたアカウントを放置するなら、それなりの理由がなければならない。
 
 そんなわけで、私は『アズールレーン』の止め時を探していた。短時間のルーチン周回では通用しなくなったらやめよう、演習をやめてしまおう、その他色々と考えてきたが、なかなか放置には至らなかった。アカウントを放置するのがもったいない気持ちと、効率性やルーチンが自己目的化してしまったつまらなさの板挟みにあって、どうしたものかと悩んでいた。誰か、俺の『アズールレーン』に引導を渡してやってくれ。
 
 先月、ようやく引導を渡してくれる出来事が起こった。
 

 
 新著の出版直後のとても忙しい時期に、現バージョンでは最後かもしれない『艦これ』のイベントが始まった。史実のレイテ沖海戦がモチーフになっているだけあって、時間と手間がかかり、『アズールレーン』に時間をかける余裕はいよいよ無くなった。
 
 しかも、『アズールレーン』側も手間のかかるイベントをぶつけてきた。
  

 
 このイベントは、ある程度数をこなさなければイベント限定艦が手に入らない仕様のため、現在の私には達成困難だった。『艦これ』で言う「丙提督」*1すら困難と知り、とうとう私は白旗をあげることにした。苦しかった日々は終わったのである。
 
 

『アズールレーン』をやめても効率性の呪いは消えない

 
 こうして、私はようやく『アズールレーン』をやめることができた。しかし、『ポケモンGO』や『艦これ』に費やしたプレイ時間や課金は『アズールレーン』の比ではないのだから、これらをやめるには、もっと大きな理由や出来事が必要になるだろう。というか、現時点ではやめられる気がしない。
 
 私はいわゆる"効率厨"であるがゆえに、ソーシャルゲームに仕組まれた、効率性の罠にはまってしまいやすいのだろう。そうやって、私の人生もソーシャルゲームもいつまでも続いていくのである。
 

*1:注:イベントの最終面までとりあえず到達して、参加賞を貰うことだと思ってください

これからの消費アイデンティティ

blogos.com

 
 リンク先は、『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』にかこつけてBLOGOSさんにインタビューしていただいた記事です。これからの時代の「大人」について、私の考えを述べてみました。
  
 インタビュー記事の常として、喋った内容を全部載せられるわけではなく、インタビューが終わった後にも考えが膨らんできました。そのあたりについて書き遺したくなったので、ゴチャゴチャとメモを書き残します。
 
 

アイデンティティを「買う」のが当たり前の社会

 
 インタビュー記事には、都会で生活する人のアイデンティティについて触れた箇所があります。
 

付け加えると、都会の人は消費や購買によってアイデンティティを構築しているところがあるんです。
 
たとえば、都内のタワマンに住んでいるような層のライフスタイルを見てみると、飲むならクラフトビールのあの銘柄がいいとか、子どもに着せる洋服はあのブランドがいいというように消費にこだわりがあって、それがその人の特徴につながっている。
 
あるいはタワマンに住むこと自体もそうかもしれませんね。「私たちはタワマンに住む夫婦です」というのがアイデンティティの構成要素になっているケースもあると思います。
 
これはライフスタイルそのものが商品として売られるようになった影響も大きいのではないでしょうか。

 
 どこのどんな住まいを選ぶのか。
 どんなクラフトビールを選ぶのか。
 子どもに着せる洋服はどこのブランドが良いのか。
 
 いずれも消費に関わることですが、案外、こういうことに現代人はこだわりを持って、そのこだわりによって、自分自身の心理的輪郭を成しているのではないでしょうか。
 
 人間は、自分自身だけでは自己規定や自己イメージをつくることができません。自分が大切に思うものや、「私はこういう人間」と示せるようなものに囲まれているという実感を介して、自己規定や自己イメージをかたちづくっています。それが、アイデンティティと呼ばれるものです。
 
 例えば、誇りに思える出身大学、かけがえがないと思える友達、絶対にやめたくない趣味、等々を持っている人は、それらが自己規定や自己イメージをかたちづくる材料になっていて、それらはその人のアイデンティティの一部と呼べます。
 
 でもって、現代社会では、お金を払って買う・選ぶ行為もまた、自己規定や自己イメージをかたちづくる一端として用いられがちです。自分が買い求めるもの・自分がチョイスするものが、自分が何者であるかを規定する、というわけです。
 
 このことは企業の側もよく心得ていて、ただモノを宣伝するのでなく、消費者が自己イメージを想起しやすいように宣伝し、モノを売るのと同時に自己イメージの材料を売る企業が成功するようになりました。アップルなどはその典型ですよね。アップルの商品を買い求める人は、生活必需品としてそれらを買い求めているのと同等以上に、アイデンティティの構成要素になるような、自己イメージの材料を買い求めているわけです。
 
 この数十年の間に、消費を介した自己イメージの獲得とアイデンティティの補強はごく当たり前になりました。かつての庶民は、ほとんど生活必需品だけを買い求めていたため、買うという行為にアイデンティティを見出す余地はありませんでした。身分、イエ、土地、人間関係、そういったものがそのままアイデンティティと自己イメージをかたちづくっていたわけです。
 
 しかし庶民がいわゆる中産階級化し、職業や土地や人間関係の流動性が高まるとともに、旧来のアイデンティティは少しずつ退潮し、その隙間を埋めるように、買う・選ぶという行為をとおして自己イメージの材料を手に入れ、アイデンティティの一部とすることが珍しくなくなっていきました。モノを買うことで何者かになり、モノを選ぶことによってアイデンティティを補強する風潮はバブル景気の頃にひとつの到達点を迎え、人々は慣れない手つきでモノを買い漁り、ブランド品で自己イメージを肥大化させることに夢中になりました。
 
 バブル景気が終わった後、さすがに成金的な消費は少なくなったものの、消費によってアイデンティティを補強する営みはなくなりませんでした。地縁も、血縁も、勤務先も、ますますアイデンティティの求め先として頼りなくなったことにより、消費を介したアイデンティティ補強の必要性は、むしろ高くなったとさえ言えるかもしれません。
 
 

消費によるアイデンティティ補強の是非

 
 モノを買う・選ぶことによるアイデンティティの獲得には、良い面も悪い面もあります。
 
 良い面は、なんといっても自分の意志でアイデンティティを自由に選べる点でしょうか。
 
 どんな住まいを選び、どんな食べ物を愛好して、どんなライフスタイルを演出するか──こういった細々としたチョイスは個人の采配に任されています。アニメオタクとして生きることも、オーガニックな食品にこだわって生きることも、クルマにお金をかけてみるのも、全部個人の自由です*1。アイデンティティを構成するものの多く、たとえば人間関係や仕事や勤務先といったものは、モノを買う・選ぶことほどには個人の思い通りには選べません。モノを買う・選ぶことには、従来からのアイデンティティの構成要素に比べて強制力が少なく、人間関係の状態にもそれほどは左右されません。その人らしさ・自分らしさを自由につくりあげていけるところがあります。
 
 悪い面は、お金がかかること・やり方が拙いと全く安定しないことでしょうか。
 
 消費によるアイデンティティの補強には、多かれ少なかれお金がかかります。お金のかかりにくい趣味を選び、お金のかかりにくい消費を心がけることは不可能ではありませんが、お金をケチるほど実践難易度は高くなり、自由度が低下します。ソーシャルゲームのように、無料を謳ったものがかえって高くつく、ということも往々にしてあります。格差が大きくなっていると言われている今日では、モノを買う・選ぶ余裕を失った人も増えているでしょう。
 


 
 消費者としての庶民が成立しなくなりつつあるとしたら、モノを買うことでアイデンティティを補強する手法自体が一種の贅沢品になってしまうでしょう。まるで、戦前社会への逆戻りのような話ですが。
 
 また、モノを買う・選ぶことによるアイデンティティの獲得は、ともすれば流行に流されやすく、流されてばかりでは「私はこういう人間」という自己イメージが得られないおそれがあります。ただモノを買う・選ぶのでなく、それらが自分が大切に思うもの、「私はこういう人間」と示せるものにならない限り、消費によるアイデンティティは獲得には至りません。
 
 たとえば、ワインがブームになっている時に高級ワインを飲んだからといって、ワインがアイデンティティになるわけではありません。趣味やライフスタイルや嗜好として、ワインが自分自身に定着してはじめて、ワインは自己イメージの材料たりえるわけです。もちろんこれは、他の趣味や志向にも当てはまります。どんなにお金があったとしても、それらを趣味やライフスタイルや嗜好として定着させられなければ、お金でアイデンティティは買えません。
 
 

「モノ」から「コト」に変わっても、ラクになったわけじゃない

 
 21世紀になってからは、「コト消費」という言葉が使われるようになりました。バブルの頃のようなモノの消費はなりを潜めて、これからはコト(=体験など)の時代だ、というわけです。
 
 実際、90年代に比べれば高価な自動車や衣服は売れなくなり、自分がどういう人間であるのかを他人に示す手段として、自分が持っているモノをじかに他人に見せびらかすより、自分がやったコトをSNSやInstagramで見せびらかす趨勢になりました。であれば、「モノ消費」のウエイトが下がって「コト消費」のウエイトが上がったのは事実のように思われます。
 
 しかし、消費によるアイデンティティの本質・本態は、さほどには変化していないのではないでしょうか。
 
 確かにバブル景気の頃に比べればお金はかからなくなったかもしれない。モノを選ぶのとは違ったセンスがコトを選ぶにあたっては必要かもしれない。そういった違いはあるでしょう。
 
 反面、コトを消費するにもお金がかかり、ときにはモノを消費する以上に散財を余儀なくされることもあります。趣味やライフスタイルや嗜好として定着させられなければ、アイデンティティの獲得に至らない点は変わりません。流行に流されてばかりでは何も定着せず何も残らないのは、モノ消費と同じです。いや、モノなら流行の後にもモノが残るぶんマシですが、コトの流行が終わった後には何も残りません。
 
 モノからコトへと消費のトレンドが変わったとはいえ、消費を介してアイデンティティを補強する難易度が落ちたとは、私にはあまり思えません。現代社会において、消費をアイデンティティ確立の一端と位置付けることに異存は無いのですが、まあその、結局は地に足の着いた取り組みが必要なのだなぁと改めて思う今日このごろです。
 
 

*1:こうした個人の自由が成立する背景には、家庭のなかで個々人が別々のプライベートを持ち、ほかの構成員の趣味趣向に干渉しないという、これまた現代的な考え方が存在します。消費によるアイデンティティの今日的な在り方ができあがる前に、まず、プライベートという観念が準備されなければならなかったわけですが、ここを書き続けると長くなるのでやめます

エヴァやガンダムの昔話で盛り上がる中年の心理

 
anond.hatelabo.jp
 
 数日前、はてな匿名ダイアリーに上のような文章がアップロードされたところ、はてなブックマークには沢山のはてなユーザーが集まり、昔話に花が咲きました。楽しそうですね。
 
 その少し前、ガンダムがいつからブームになっていたのかを問う文章にもはてなユーザーが集まり、これも賑わっていました。
 
 10代~20代には、おじさんおばさんがアニメの昔話に耽るのを、みっともなく思っている人もいるかもしれません。それにしても、どうして彼らは、いや、私達は、昔のアニメの話で盛り上がってしまうのでしょうか。
 
 

コンテンツの昔話は、アイデンティティの指差し確認

 
 ちょうど、新R25さんのインタビューでも触れたのですが、心理学でいうアイデンティティの概念に沿って考えると、おじさんおばさんが昔のアニメやゲームの話で盛り上がるのは妥当でコスパの良い行動であるようにみえます。
 
 アイデンティティとは、大雑把に言ってしまうと「自分を自分たらしめている、必要不可欠なもの」のことです。【自分にとってかけがえなく感じられるもの・代わりの効かないもの・自分自身の成立基盤や構成要素になっているもの=アイデンティティ】と考えていただいて差し支えありません。
 
 この定義にあてはまるなら、仕事も、友達関係も、地域も、宗教も、趣味も、個人のアイデンティティたり得ます。また、忘れがたいインパクトを受けた作品、たくさんの思い出を残してくれたコンテンツも、その人のアイデンティティの一部分、と言えるでしょう。
 
 たとえば私は、以下に貼りつけたコンテンツから強いインパクトを受けましたが、
 

機動戦士ガンダム F91 [DVD]

機動戦士ガンダム F91 [DVD]

銀河英雄伝説 Blu-ray BOX スタンダードエディション 1

銀河英雄伝説 Blu-ray BOX スタンダードエディション 1

AIR - PS Vita

AIR - PS Vita

CLANNAD メモリアルエディション 全年齢対象版

CLANNAD メモリアルエディション 全年齢対象版

 
 コンテンツそのものから影響を受けただけでなく、オタク仲間と語り合うことによって沢山の思い出も作りました。私の人生や価値観を左右したこれらのコンテンツは、私のルーツとも、アイデンティティの一部とも言えます。
 
 これらについて、当時の仲間と昔話をすると、私は自分のルーツを思い出し、趣味領域のアイデンティティのなんたるかを再確認することができます。たぶん、集まった仲間たちも同じでしょう。ガンダムやエヴァンゲリオンの話をして、当時のエピソードなども語りあうことによって、私達は「アイデンティティの指さし点検」をして、自分自身の輪郭をメンテナンスしている、のだと思います。
 
 [関連]:“ガンダム念仏会” - シロクマの屑籠
 
 こうした昔話によるアイデンティティの指さし確認は、流行を追いかけるのに夢中だった頃に比べればローコストで済みます。なにせ、春夏秋冬の新作アニメにべったり張り付いていなくても、話題になった時だけ皆と思い出せば良いのです! それこそ冒頭で紹介した、エヴァンゲリオンの話題で盛り上がるはてなユーザー達のように、話題が出た時だけ語り合うのも良し。『宇宙戦艦ヤマト2199』のようなリバイバル作品が作られた時だけ復帰するのも良し。
  
 若者に比べてアイデンティティが確立しているはずの中年も、変化や不安は人生につきもので、アイデンティティがぐらつきかける時もあります。そういう時には、こういう昔話のたぐいが案外救いになったりするのです。若者からみればみっともないかもしれないけれども、中年が自分を見失わずに生きていくための、立派な一材料ではないでしょうか。
 
 

「昔話もできる新しいコンテンツ」

 
 余談ですが、最近のヒットコンテンツのなかには、新しい作品でありながら、中年に昔話のネタを提供しているものも少なくありません。
 
 ちょっと前の『這いよれ! ニャル子さん』にしても、今期の『ポプテピピック』にしても、昔話のネタをしこたま仕込んで、中年オタク同窓会をやりやすいつくりになっていました。『Fate』シリーズなども、昔話をしたくなる場面ってありますよね。
 
 アニメ視聴者のボリュームゾーンとしてアラフォー世代も無視できなくなり、かといって、新しい視聴者も開拓しなければならない事情を踏まえて、それらの作品は狙って作られているのでしょう。
 
 ともあれ、エヴァネタやガンダムネタで喜んでいるおじさんやおばさんをtwitterや居酒屋で見かけたら、「ああ、あの人はアイデンティティの自己メンテナンス中なんだな」と思って生暖かく見守ってやってください。私も来期は、『シュタインズ・ゲート ゼロ』や『銀河英雄伝説 Die Neue These』を観て、存分に自己メンテナンスしたいと思います。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

※kindle版が3/8にリリースされます。そちらもよろしくです。