シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「大人」になるメリットが見えていた社会/見えにくい社会

 
「若者」を欲しがる企業が、「成熟できない中年」を生み出している。 | Books&Apps
 
 リンク先の記事では、企業が「若者」を欲しがっていること、資本主義の現状が「大人」よりも「若者」を求めていることが指摘されている。本当にそのとおりで、現代人が「若者」的なメンタリティを畳んで、次の段階に移行することの妨げになっていると私も思う。
 
 少し話がそれるが、「若者」であるメリットがはっきりしている現代社会は、「大人」的なメンタリティに移行するメリットがはっきりしない社会でもある。
 
 流行や社会の変化に敏感で、自分自身の成長を最優先にできるメンタリティは、資本主義のバトルロワイヤルを戦い抜く人にとって有利なものだ。バトルロワイヤルの渦中にいる人にとって、自分自身の成長を最優先にしないメンタリティなど、自死にも等しくうつるかもしれない。「若者」であり続けることが、現代の資本主義社会への適応である側面は決して見逃せない。
 
 だが、資本主義のバトルロワイヤルが「大人」的なメンタリティを衰退させた張本人かといったら、そうではない。まだバトルロワイヤルが本格化していなかった20世紀の後半のうちには、「大人」的なメンタリティに移行するメリットは見えなくなっていた。
 
 

NHK中学生・高校生の生活と意識調査2012 失われた20年が生んだ“幸せ

NHK中学生・高校生の生活と意識調査2012 失われた20年が生んだ“幸せ"な十代

 
 上記書籍によれば、1980~90年代の中高生は、既に「大人」になりたがっていなかった。今日ほど資本主義的バトルロワイヤルが苛烈でなかった時代でさえ、「大人」になりたいと思う者は少なかった。バブル崩壊前から、日本社会は「大人」になるメリットが見えにくくなっていた、というわけだ。
 
 

「大人」になるメリットが見えていた社会

 
 対照的に、戦前社会には「早く『大人』になりたい」という言葉があった。
 
 こちらの記事で引用した土井健朗のフレーズに、【青春の季節は、大人に早くなりたい、子どもだとあなどられたくない、という生き急ぎの季節だと思っていたが、昨今はどうも生き遅れの季節であるらしい。】とあるように、昔は「早く大人になりたい・子どもだとあなどられたくない社会」が存在していたわけだ。「大人」になるメリットが可視化されていた社会だった、ともいえる。では、「大人」になるメリットとはどういったものだったのか。
 
 別の調べ物をしていた際に、これに関連した記述に出会ったので、引用してみる。
 

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

 

 内閣統計局の工場労働者賃金調査では、昭和六年の工場労働者の一日あたり平均賃金は一円八十七銭で戦前の最低だが、小学校を出たばかりの見習工ではさらにその四分の一か五分の一しかもらえなかったらしい。当時の工場労働者の一日平均労働時間は九時間から十時間なので、子供でもしっかり大人並みに働かせたわけだ。一般労働者の月の就労日数は二十六日から二十八日が普通で休みは週一回あればいいほうだった。子供でもそれだけ働けば十円以上になったはずだが、実際はそんなに払ってくれなかったようだ。

 
 昭和以前の日本社会には、見習いや年季奉公といったかたちで、「大人」ではない者を労働力として酷使するようなシステムが存在していた。これは日本に限った話でもなく、19世紀~20世紀のイギリスやスペインでも、子どもは安価な労働力として酷使されていた。親の側もまた、子どもをそのような労働力として期待している向きがあった。
 
 このような社会では、子どもであることのメリットは乏しい。子どもは親の言いなりで、望むと望まざるとにかかわらず働かなければならない。高等教育を受けられる者ですら、見習い労働力として安い賃金を稼いで家計の足しとしなければならないことがしばしばあった。この時代の「苦学生」の苦労っぷりは、並大抵ではない。
 
 

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 
 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』には、豆腐屋の手伝いをしながら学校に通い続ける、浦川君というクラスメートが登場していた。エリートの集う学校において彼は貧しい存在であり、「油揚げ」というあだ名をつけられ苦労をしていた。しかし、そんな浦川君の家庭にも豆腐屋の事業を行うための機械装置が据え付けられ、使用人が雇われていた。
 
 浦川君が苦しい思いをしているのは事実だが、彼に丁寧な言葉を使っていた若い使用人のほうが一層シビアな境遇にあったことに、『君たちはどう生きるか』はきちんと触れていた。
 
 子供の大半が安心して育ち、進学できるようになったのはごく最近のことだ。また、今日では虐待やネグレクトに相当するものも、かつては常識の範疇に入っていた。そのような時代の子どもたちが思春期を迎えて、一刻も早く「大人」になりたいというのはよくわかる話だ。早く一人前になって一人前の給料を貰いたい、というのは切実なニーズだっただろう。
 
 「大人」になるメリットが見えていた社会とは、一刻も早く一人前にならなければならず、一人前にならなければ生存もままならない社会だった、ともいえる。勿論このような社会にも例外はいて、江戸川乱歩の作品にしばしば登場する"高等遊民"などはその最たるものだろう。ただし、金持ちの家の三男坊ぐらいにしか許されないものだったが。
 
 

80年代~90年代は、「大人」を急ぐ理由が全く無かった

 
 このことを踏まえたうえで、昭和の後半~平成の前半に立ち返ってみよう。 
 
 戦後の数十年で、子どもの置かれている社会状況は激変した。
 
 子どもが食うや食わずのために働かなければならない状況は、どんどん減っていった。戦後しばらくは、新聞配達をしながら働く学生なども珍しくなかったが、親の仕送り額の増大とともに減っていった。大学進学率は増え続け、仕送りの金額もどんどん増えていった。"一億総中流"と言われる頃には、お金の稼ぎ方についての考え方が変わって、子どもを若い頃から働かせるより、大学に進学させて年収を高くすることをみんなが願うようになった。
 
 こうした高学歴・高収入志向は、前掲の『「月給百円」のサラリーマン』の時代にも存在していたが、高学歴を目指せたのは一部に限られていた。ところが高度経済成長が終わってからは、それこそ国じゅうが高学歴・高収入志向に変わっていき、中卒で働く人は皆無に近くなり、大卒の割合は急激に高まっていった。
 
 バブル崩壊後も、こうした考え方は残った。親は子どもに高学歴・高収入を夢見て、子どもの側もまた、気に入った勤め先や居場所を見つけるまではモラトリアムで構わない、と捉えるようになった。モラトリアム期間のうちは好きなように過ごすことが許容されがちで、海外を放浪するなど「自分探し」をする者も珍しくなかった。テレビ番組『あいのり』がヒットしたのも、そういう時代の空気を汲み取った企画だったからだろう。
 
 子どもでなく、さりとて旧来の大人でもなく、大人の役割を免れているようなモラトリアムな立場・状況のことを、「若者」という。もともと、「若者」という心性は、高学歴化や家庭の経済事情の変化、モラトリアムの許容に裏打ちされて成立してきた。日本に先立ってアメリカで「若者文化」が花開いたのも、豊かな大衆社会をアメリカが一回り早く実現させたからだ。豊かさによってモラトリアムが許容されるようになり、世界に先んじてアメリカの「若者」と「若者文化」が開花したわけだ。
 
 

「若者」を成立させていた豊かさは失われ、「若者」的に働くニーズが残った

 
 しかし周知のとおり、このような経済的豊かさはだんだんに失われていった。少なくとも、一億総中流といわれるような、誰もが親のすねをかじって大学に進学できるような世の中ではなくなってきた。
 
 じゃあ、「大人」になるメリットを皆が思い出すかといったら、そんなことは全く無かった。
 
 高学歴・高収入志向を地で行くようなアッパーミドルな人々は、新しいテクノロジーや流行を追いかけ続け、職場や人間関係を固定するのでなく、転職や転属を厭わずキャリアアップしていくことを望んだ。冒頭リンク先で指摘されているとおり、今日の資本主義の現状は「若者」的な働き方を強いてくるところがある。資本主義のバトルロワイヤルに適応するためには、いつまでも若者のように生きていくことがベターにみえてしまう。
 
 他方で、非正規雇用や派遣労働といった言葉を頻繁に目にするようになってからも、そうした立場の人々が「大人」という言葉と正規雇用や正社員を結び付けることはなかった。ましてや、そういった立場の人々が「一人前になりたい」「若者扱いされるのは嫌だ!大人とみなされたい!」などと声をあげることもなかった。
 
 なぜなら、【「大人」=「一人前の給料がもらえる」→早く「大人」になりたい!】という考え方自体が、すっかり忘れ去られてしまっていたからである。
 
 

まとめ

 
 このように、「大人」という言葉からは経済的なニュアンスが切り離され、「若者」に比べて資本主義バトルロワイヤルで不利なだけの、メリットも捉えどころもわかりにくい言葉になってしまった。
 
 当初、「大人」が廃れて「若者」が流行になっていった背景には、経済的な豊かさを前提とした、思春期のモラトリアム期間の浸透があったし、だからこそ子どもは「大人」へと急くことなく、「若者」という立場に留まるようにもなった。
 
 しかし、不景気が続いて再び経済事情が厳しくなってきた今日でも、「大人になりたい」は思うほどには復活しなかった。子どもや若者が教育・療育の対象として大切にされ続けているのがその一因であろうし、今日の資本主義バトルロワイヤルに勝ち抜くためには「若者」のままでいたほうが有利というのも一因だろう。また、【「大人」=「一人前の給料がもらえる」→早く「大人」になりたい!】という考え方が、あまりにも遠い昔のことになって、忘れられてしまったというのもあるだろう。
 
 いずれにしても、「大人」になるメリットが見えていた社会は遠い昔のことで、現在は「大人」になるメリットが見えにくいままである。こうしたことも、人生を年齢にあわせてシフトチェンジさせていくことの難しさに繋がっているのだろう。
 
 

ブログ書くなら、余所のブログより本を読みなさい

 
 ゆうべ、遊たろうさんというブロガーの方から、以下のような質問をいただいた。
 


 
 
 これに対して、「強いて似ているといえば、しんざきさんの『不倒城』」や、Books`Apps に投稿しているブロガーじゃないでしょうか」と答えたけれど、その後、考えが変わったので、以下にまとめてみた。
 
 

長続きしているブログは、お互いに「あまり似ていない」

 
 考えてみれば、Books&Appsに投稿している人々のブログスタイルはやっぱり違う。
 
 テキストサイトの芸風で長文を書く人もいれば、書籍を引用しながら日常の感慨を書き綴るスタイルの人もいる。また、ゲームと社会適応のことを書くという点では、前述の「不倒城」とこのブログは共通しているけれども、方向性はだいぶ違っていると思う。
 
 結局、わりと近く感じるブログですら、似ている点よりも違っている点のほうが多くて、他人に「『シロクマの屑籠』はここと似ています」と紹介するのは難しい。
 
 そもそも、ブログを書いている人それぞれの、書きたいと思う動機や興味、ブログの人生に対する位置づけみたいなものが皆違っているように感じられる。
 
 自分が知っている面白いブログは全員、書きたいと思う動機や関心がまちまちだ。みんな書きたいように書いていて、誰かの真似をして書いている感じがしない。これは、2018年の現在においてそうだというだけでなく、もう10年ぐらい前から生き残っているブログは10年前からそうだった。もちろん、私のブログ『シロクマの屑籠』も、自分が書きたいと思う動機や興味のままに書き綴っている。
 
 書きたいと思う動機や関心が違っていれば、そのブログは、他とは違ったものに自ずとなっていくと思う。
 
 だからもし、何か他とは違ったユニークなブログが書きたい人がいたら、その人が書きたいと思う動機や関心がユニークであったほうがいいのだろう、と思う。いや、ちょっと違うか。最初はそれほどユニークである必要すらないのかもしれない。ただ、動機や関心が何年も積み重なっていくと、小さなユニークネスも蓄積効果によって大きなユニークネスになり得る。だから自分がブログを書きたいと思う動機や、ブログに書き記したいものへの関心がしっかりしていれば、「ユニークさ×継続時間」によってそのブログは珍しいものになっていくのかもしれない。
 
 

コピーするなら「ブログ」ではなく「本」では

 
 一方で、ブロガーが何も参照にしていないとは思わない。
 
 自分が知る限りでは、ブロガーは、よそのブログやウェブサイトを参考にする以上に、本や作家を参考にしているように思う。
 
 たとえば、LINEに移って「やまもといちろうブログ」に改名してしまった旧・切込隊長は、「写経」が役にたったとおっしゃっている。
 
 [参考]:「切込隊長が、やまもといちろうになるまで」--ウェブ時代の文章読本より : Blog @narumi
 
 

やまもと:していないです。それも変わらないです。書くということのスタイルはこの時点で。もっと前にパソコン通信をやっていたんですね。その時もある程度長文を書いたりというのに慣れていたのと、当時から結構本の虫だったので、筒井康隆とかの写経をずっとやっていたんです。
 
佐々木:好きな小説を選んで?
 
やまもと:選んで、頭から全部、何遍も書くというのをやってました。どんな作品かは言いませんけど、そういう文体とかリズムとかいうのを自分に叩き込もうというのはかなり当時から、中学高校からやってたという。
 
竹内:それすごい効くらしいんですよ。いろんな書き手の方が仰ってました。
 
いちる:僕もやりますよ、写経。

 
 こういう話は、やまもといちろうさんに限った話ではない。自分の記憶が間違っていなければ、他にも似たようなことを言っていたブロガーがいたはずだ。そうでなくても、私がよく知っているブロガーは皆、本をよく読んでいる。あるいは、特定の本をよく読み、文体やリズムや構成の参考にしている。
 
 かくいう私も、昔は田中芳樹の文章をお手本にしていたきらいがあるし、ここ10年くらいは、たぶん以下の二冊から文体やリズムの影響を受けてきたと思う。
 

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

  • 作者: ジャンボードリヤール,Jean Baudrillard,今村仁司,塚原史
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 1995/02
  • メディア: 単行本
  • 購入: 12人 クリック: 108回
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イタリアワインがわかる

イタリアワインがわかる

 
 どちらも訳本なので、正確には翻訳者の文体やリズムの影響も受けているってことだろう。
 
 これらに加えて、自分自身が気に入ったフレーズを写経すると良い影響があると思って、写経専用のブログを運用したりもしていた*1。引用したい時にすぐに引用できるのもありがたい。
  
 だからもし、これから文章主体で自分オリジナルの思いや考えを綴るブログを書きたい人は、
 
 1.自分が書きたいと思う動機や関心を大切にして
 2.たくさん本を読んで、気にったものを写経する
 
 が一番近道なんじゃないかなと思う。 
 
 十年前に比べると、いまどきのインターネットは競争の烈しい世界になってしまったかもしれない。SNSや動画も存在する今という時代だからこそ、「なぜ、ブログに自分が文章を書くのか」がはっきりしていないと長続きしづらいようにも思う。これからブログを書いていきたい人は、本当に自分が書きたい関心領域のことを、自分が書きたいように書くべきだ。
 
 でも、それだけでは心もとないから、文章を書くためのテクニックやテイストを身に付けるために、読書を大事にして、真似するに値する本を探し出すのも大切だ。なんやかんや言っても、一流作家や一流著述家の文章は素晴らしい。書いてある内容だけでなく、文体、リズム、気の利いた言い回しなども本当に凄い。真似するなら、ブログを読むより本を読んだほうが手っ取り早い。そのうえブログ記事のネタもざくざく手に入るし、写経しておけば引用用のストックまで手に入るから最高である。これから文章主体のブロガーをやる人は、読書を大切にしよう。これまでブロガーだった人達も、みんな読書を大切にしていたはずなのだ。
 
 出先で片手間に書いたので乱文かもしれませんが、ご参考まで。
 

*1:※リンク先の『シロクマの物置』は2016年以降、非公開のはてなブログに移行しました

飲むと元気が出るワインについて、ダラダラ書いてみる

 
 
 
 
 今週から来週にかけて、すごく忙しいせいで元気が出ない。
 だから今日は、飲んだら元気が出そうなワインが飲みたい。
 
 以前、「くたびれた金曜日に呑みたいワイン」というブログ記事を書いたことがあった。そこで紹介したワインは金曜日の夜をグダグダに過ごすには十分で、そのうえお手頃なものだった。
 
 ただし、あくまでくたびれた金曜日をグダグダに過ごすためのワインであって、土曜朝のコンディションはお察しである。そうじゃなくて、今欲しいのは飲んだら元気が出るワイン、飲む者に活気をもたらしてくれるワインだ。いわば、「アガるワイン」が欲しい。
 
 ワインもアルコールである以上、基本的には元気を奪うものであるはずだ。アルコールは酩酊状態をもたらすから、飲んでいる最中は安酒でさえ「アガる」と体感されやすい。しかし肝臓に負荷をかけるうえ、体内にアセトアルデヒドを発生させて全身にも負荷をかけているわけだから、翌日、グニャグニャになっているリスクは高いと言わざるを得ない。
 
 だから、どれほど活気をもたらしてくれるワインでも、沢山飲んでしまえば元気が奪われる。原則、飲まないほうが元気が出ると言って構わない。飲んだら元気が出るワインという言葉も、「適量を飲むぶんには元気が出るワイン」と書くべきなのだろう。
 
 適量を飲むぶんには元気が出るワインは、実際存在すると思う。少なくとも私にとってはそうだ。そういうワインが恋しくなってきたので、私にとっての「飲んだら元気が出るワイン」を、ダラダラ書いて気分転換してみる。
 
 
カビッキオーリ ランブルスコ ロッソ アマビーレ
 まずは定番のランブルスコ。パルマハムの里でつくられた微発砲赤ワインのなかでは、この、カビッキオーリという作り手のアマビーレが群を抜いて元気が出る。似たような価格のいろんなワインが売られているけれども、滋養があって悪酔いしにくいという点では、こいつが群を抜いている。
 
 ランブルスコにはちょっと甘口の品が多くて、こいつもちょっと甘口なんだけど、こってりとしているおかげか、甘口が嫌味には感じられない。飲むヨーグルトのような不思議な爽やかさもある。悪いランブルスコは、飲めば飲むほど甘さがクドなり、生臭さすら漂ってくるけれども、こいつはそれが無い。ちなみに倍の値段を払えば「高級品のランブルスコ」も買えるけれども、これを2本買って1本ストックしたほうがたぶん幸せ。
 
 
ピエロパン ソアーヴェクラシコ カルヴァリーノ
 これも、前に紹介したことの白ワイン。チリやカリフォルニアで作られた濃厚白ワインを油絵に例えるなら、ソアーヴェは水彩画。ただ、コンビニで売られているソアーヴェだと疲れがぜんぜん取れないし、ソアーヴェの高級路線のなかには、濃厚白ワインっぽくて飲み疲れるやつがある。高級な濃厚系って、疲れていない日に呑むぶんには楽しいけれども、疲れた日には呑めたもんじゃない。
 
 で、このカルヴァリーノは、水彩画にたとえたくなる淡い飲み心地そのままに、襟を正したような端正さがある。風味に奥行きがあるおかげで飽きにくく、ソアーヴェならではのホンワリとした飲み心地のおかげで、風味の奥行きを押し付けてくる鬱陶しさも無い。カリフォルニアやフランスの高級ワインは、しばしば、風味の奥行きを押し付けてくるから疲れた日には敬遠したくなるが、こいつにはそういう心配をしなくていい。楽しい日にも、悲しい日にも、そっと寄り添ってくれるワインだと思う。
 

マックマニスファミリー ピノ・グリージョ
 ピノ・グリージョという品種でつくられた、カリフォルニア産のワイン。カリフォルニアのお手頃白ワインって、だいたい濃くてクドくて飲みにくくて、翌日に元気が出る感じじゃないけれども、ピノ・グリージョは割と例外。もともと、イタリアでたくさん作られていた日常品種だからか、安くてもおいしい。高級ワインに期待するような「リッチな雰囲気」には程遠いけれども、酸がさわやかで、台所洗剤みたいな匂いがパーッと開いて、くどくなくて、それでいて味がスカスカになることもない。
 
 この品種、フランス産*1やイタリア産もあるんだけど、フランス産は美味いけど呑み疲れる品がチラホラ。イタリア産はチープをきわめすぎていることが稀によくあるので、カリフォルニア産が安全牌じゃないかなーと思ったりもする。チープで構わないなら安いイタリア産でも可。
 
 
リースリング セレクション ド ヴィエイユ ヴィーニュ [2014]
【トリンバック】 リースリング キュヴェ フレデリック エミール [2007]
 フランスはアルザス地方でつくられた、リースリングという品種の白ワイン。ワインをいくらか知っている人だと、リースリングってドイツの甘口ワインを連想するかもだし、あれはあれでいいものだけど、自分の場合、ドイツの(しばしば高級な)甘口白ワインはつい「鑑賞」してしまいがちで、かえって疲れてしまう。甘すぎるのもちょっと。
 
 その点、アルザス産のリースリングは甘口ってわけじゃないし、まだしも気楽に飲める。ここに挙げた銀ラベルと金ラベルは、並品より味も香りも多彩で、それでいて押し付けがましいほどでもない。スッスッと飲みたいなら銀ラベル、ちょっと欲張りたいなら金ラベルか。ただし、金ラベルはお値段が。
 
 
ジゴンダス オー・リュー・ディ [2012] ドメーヌ・サンタ・デュック
 フランス南部、ローヌ地方でつくられた「濃い」赤ワイン。濃い赤ワインの常として、たくさん飲むとしんどくなるので、3日以上かけて飲むのがちょうど良いと思う。で、これも濃い赤ワインの常として、ある程度赤ワイン慣れしているというか、渋みがOKな人じゃないとこいつは飲めない。
 
 赤ワインが飲める人には、果実味がしっかりして飲み応えのあるワインだ。価格の割に香りの多様性に恵まれていて、ときどき、香木のような目を見張る香りがしたり、ビーフジャーキーみたいな肉系の香りが混じったりして、「おお、畑でつくられた良いワイン飲んでるぜ!」って気持ちが高鳴ってくる。赤ワインの高級路線は欲張るときりがないし、値段が気になって「鑑賞モード」に入ってしまうおそれがあるので、疲れている日には適さない。疲れている日に呑むなら、値段の割に風味が豊かで、しかも栄養を飲んでいるような感覚を伴ったワインがいいと思う。ボルドーやブルゴーニュの赤ワインだと、お値段や品種の関係もあって、こうした条件が揃いにくい。開拓するならローヌ地方の赤ワインじゃないかなと。私はローヌ地方のジゴンダス地区のものを贔屓しています。高騰するフランスワインのなかではマシ。
 
 
フェヴレ モンテリ 一級 レ・デュレス 2013

 あとは「値段のあまり高くない、マイナーな地区のブルゴーニュ」もいいかも。
 
 この、モンテリという地区のワインは、威張るようなワインからはかけ離れていて、軽い飲み心地で滋味がわりとあって、ワインを飲む際に緊張を強いるところがない。本来、ワインなんて緊張しながら飲むようなモンじゃなく、「高級ワインと真剣勝負!」みたいな飲み方のほうがどうかしているのだと思う。モンテリには「果し合い」を迫るところが乏しく、『艦これ』でいうならしばふ絵のような芋っぽさ、いや、包容力がある。パチパチの美人に例えたくなるワインより、「おかん」に例えたくなるワインのほうが、疲れた日にはふさわしい。
 
 
 あと、ボルドーはあんまり飲んでないけれどもシャトー ラネッサンは割と穏やかに楽しめて良かった。ボルドーの1000円台の赤ワインは気持ちが落ち着くけれども、飲む人を楽しませてくれるサービス精神に乏しいものも多いので、元気が出るワインは少ないかも。あと、ごく一部、やたら風味が濃くて、エキスを飲んでいるみたなボルドーワインも、呑み疲れやすいので疲れた日に向かない。
 
 「味や香りが強いワイン」は「おいしいワイン」としばしばみなされるけれど、こと、疲れた日に元気を出すには向かないと思う。味や香りが多彩なのは良いことだけど、押しが強いとワインに押されてしまう。そういうワインは、元気な時に呑みたい。
 
 だらだら書いてちょっと気持ちが落ち着いたので、今日はこのなかから一本選んで飲もうかと思います。おわり。
 
 

*1:フランスではピノ・グリと呼ばれる

「何者にもなれない」の正体と、中年期以降の約束事について

 
fujipon.hatenablog.com
 
 リンク先のブログ記事をtwitterに流したら、
 


 
 zomzom1974さんから「自分のような中途半端になってしまった人にもぜひ言及して頂きたいです。」というコメントをいただいたので、少し言及してみる。なお、ここから先に書く「何者」の定義は、fujiponさんのブログ記事と一致しているわけではないし、なにか役に立つことを言ってみたいわけでもないことは断っておく。
 
 

「何者かになれた/なれない」はニーズの一致・不一致次第

 
 
 fujiponさんのブログ記事でいう「何者」のなかには、界隈の第一人者とか、名声を獲得したとか、そういったニュアンスが含まれているように読めた。そういうニュアンスで考えるなら、第一人者にもなれず、名声を獲得してもいない人が、「自分は何者にもなっていない」「自分は何者にもなれなかった」と言うのもわからなくもない。
 
 このニュアンスの「何者」なら、ごく一握りの有名人やアスリートや成功者だけが「何者かになった」ことになるし、本人の要求水準いかんによっては「何者かになった」という実感はどんどん遠ざかることになる。あるジャンルで日本の第一人者とみなされている人ですら、主観的には「何者にもなれなかったなぁ」と思っていることだってあるかもしれない。
 
 そのことを裏返しに考えてみよう。この主観的な「何者かになった」は、あくまで主観次第ということでもある。界隈の第一人者にならなくても、名声が得られなくても、何者かになった実感ができあがることだってあり得る。たとえば、地域コミュニティのメンバーに自然におさまっていて、無名ではあっても「何者かになった」という実感のなかで生きていく人もいる。あるいは、誰かの配偶者として・親としての生活が「何者かになった」という実感の源になっている人もいる。
 
 このことを踏まえて「何者かになれたか・なれないか」を考えると、人は、自分自身のニーズに見合った社会的役割が与えられているときに「何者かになれた」と実感して、そうでないときに「何者にもなれていない」と感じる、と考えられる。
 
 だから主観レベルの「何者かになれたか・なれないか」は、客観的な立場や状況だけで考えては片手落ちだ。現在の立場や状況が自分自身のニーズと一致しているか否かという、合致性のほうが重要ではないかとすら思える。
 
 たとえば、世の中には医者になりたくてしようがない人が存在する。彼らが医者になり、天職であると実感すれば、彼らは「何者かになれた」と実感するだろう。
 
 反面、職業人としては一人前なのに「何者にもなれていない」と感じる人が多いのもまた、医者の世界だ。世間的には、医者になれば「何者かになった」と思う人が多いかもしれないが、少なからぬ医者は、現在の立場や状況が自分自身のニーズと一致していないと感じている。
 
 ニーズが一致しない背景には、もっと有名になりたい・もっと偉くなりたい・もっと違った仕事がやってみたかった、等々の執着があるのかもしれないが、ともかく、世間的には「何者かになった」と思われがちな医者という立場でも、ニーズが一致していなければ「何者かになった」という実感には辿り着かないのである。
 
 だから、「何者かになる/なれない」といったアイデンティの問題は、自分自身の能力開発や進路選択だけではマルッと解決しない。
 
 ものすごく高学歴な20代前半の若者のような、非常に可変性の高い状況の人なら、この問題を自分自身の能力開発や進路選択とイコールで結んでおいて構わないかもしれない。しかし、そこまで可変性の高い状況は例外なので、現在の自分自身の主観的なニーズをよく心得たうえで、自分自身の持ち札・立場・今後の見通しでできることとの摺り合わせが、いつも重要になる。
 
 自分の持ち札・立場・今後の見通しでは到底不可能なニーズを、変形させることなく野放しにしておくのは、世渡りとしては上手くない。能力開発や進路選択によって自分自身のニーズに近付いていくことも大切だが、自分自身の主観的なニーズを把握したうえで、そのニーズを自分自身の持ち札・立場・今後の見通しに近づけていくこともまた大切だ。能力開発や進路選択にはそれほど優れていなくても、自分自身の主観的なニーズを変形させ、自分自身の持ち札・立場・今後の見通しに近づけていくのが巧い人なら、「何者かになる」のはそんなに難しいことではない。なれるものになってしまえば良いのである。
 
 

第三者からみれば、中年は全員「何者かになっている」

 
 ここまでは主観的なアイデンティティの話をしたが、第三者からみた中年は、全員何者かになっている、ともいえる。
 
 壇上で喝采を浴びるような中年も、うだつのあがらないサラリーマン人生の中年も、サブカル畑で生き続けてこれからどうしようか考えている中年も、第三者からみれば全員そのような中年なのであって、「何者でもない」なんてことはない。
 
 トートロジーめいているが、偉くても偉くなくても、幸福でも不幸でも、そのようなものとして出来上がっている中年は、そのような存在なのである。
 
 これが、人生の余白がたっぷり残されている思春期の若者ならそうでもない。のろのろした幼虫がサナギになり、脱皮して蝶になるような可能性があるのが若者だ。心のどこかでそういう可能性を信じている若者は、現在でもそんなに少ないわけではない。
 
 だが中年は違う。中年にも人生の余白は無いわけではないが、半分ぐらいは既に生きてしまっている。これから起こる変化は、基本的に、これまでに自分が敷いてきた人生の延長線上で起こることになる。蝶の幼虫が成虫に変わるような、劇的な変化はあまり起こりそうにない。
 
 顔の表情や皺もそうである。
 
 自分自身が年を取るにつれて、若者や子どもの顔には歴史が刻まれていないことが多い、と感じるようになった。もちろん、極度に過酷な環境で過ごしてきた若者や子どもの場合、早くも、その痕跡が表情や皺となって刻まれていることはある。けれども大半の若者の顔には、人生の履歴としての表情のクセや、皺がそれほど深くは刻まれていない。
 
 対して、中年~高齢者の顔には、人生の履歴が深く刻まれている。これまで何十万回、何百万回と浮かべてきた表情が、顔面表情筋の偏りや皺といったかたちで顔にこびりついている。そういう意味では、若者の顔よりも中年~高齢者の顔のほうが情報量が多い。
 
 だから、主観的に「自分は何者にもなれないまま中年になった」と思っていたとしても、第三者から見ればそうもいかない。これまでの履歴の積み重ねによって、すべての中年は、そのような中年として出来上がっている。少なくとも若者と比較すれば、そのように考えられる余地が大きい。
 
 自称「何者にもなれなかった中年」は、第三者からみて、悩める中年にみえるかもしれないし、まっとうな中年とみえるかもしれないし、フットワークが軽いことを座右の銘にしている中年にみえるかもしれない。いずれにせよ、「何者にもなれていない若者」と同列にはできない履歴の蓄積が存在していることは、ときどき意識してもいいんじゃないかと思う。
 
 でもって、その自分自身の履歴の蓄積を愛したり許したりできるかどうかが、中年のQuality of Life を左右する課題であり、中年期危機が深まるかどうかを左右する課題でもあるのだと思う。ああ、そうなると結局、「何者かになれる/なれない」の主観的なニーズの変形がここでも問題になるわけか。
 
 主観的なニーズの変形は、渡世のスキルとしては最重要のひとつだと思われるけれども言語化が難しい。ので、今日はここでやめにしておく。
 

父親になったブロガーたち

 
 長いことブログを書き続けていると、いろんな人が現れて、いろんな人が去っていく。何人かは鬼籍に入った。もう決して戻って来ないブロガー・ツイッタラー・ウェブサイト運営者のことは意外と覚えている。インターネットという僅かな縁でも、記憶は繋がっていくものらしい。
 
 ところで、私の観測範囲のはてなブロガーから「父親になりました」という話を耳にするようになった。今、妊活しているというブロガーの話も耳にしたりする。
 
 これは十年前のはてなダイアリー時代には無かったことだ。はてなダイアリーが希望をもって語られていた2004~2006年頃にも、30代や40代の男性ブロガーはいたように思う。そのなかには、単著も出しているような著述家も混じっていたけれども、父親になるとかならないとかいった話題はあまり見かけなかった。
 
 しかし、現在のはてなブログには「父親」がたくさんいる。父親になって時間の経ったブロガーも、父親になったばかりのブロガーもいる。父親になること・父親として過ごすことについて、ブログ記事がアップロードされるようになった。
 
 
zuisho.hatenadiary.jp
 最近父親になられて、父親になったこと周辺のことについて書いておられる。積極的。
 
nogreenplace.hateblo.jp
 ブログの副題に『この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。』とあるが、それでも2018年に父親になられた。ばっきーばっきーどるばっきー。おめでとうございます。
 
maname.hatenablog.com
 元ニュースサイト管理者にして、はてなを長く利用しておられるまなめさんも、最近父親になられて、子育てについてあれこれ書き綴っている。これからが楽しみだ。
 
mubou.seesaa.net
 はてなのブロガーではないけれども、ご近所さんみたいなものなので一緒くたにしておこう。しんざきさんは、ゲームと子育てについてたくさんのことを書いている。
 
fujipon.hatenablog.com
 はてなブロガーのfujiponさんは、子育てのことを直接には書かないけれども、記事のところどころに父親としての所感や気付きを綴っておられる。父親やりながらブログを書いているテイストがよく伝わってくる。
 
 



 
 ここに挙げた方々は、私より少し年齢が上か、少し年齢が下とおぼしきブロガーだ。ズイショさんやまなめさんなどを眺めていると、ただ父親でありながらブログを書いているのではなく、父親になった自分自身の変化と、父親になったことで変わりゆく周囲の風景をブログに刻み付けているような気がして、興味深い。そういったブログ記事がみんなが読めるかたちで公開されていることに、時の流れを感じる。
 
 「私がまだ若かった頃から知っていたブロガーが父親になった」ことに時の流れを感じるだけでなく、「父親になったブロガーが、父親になったという出来事やプロセスを積極的に捉えて、それをブログに公開していく」ということにも時の流れを感じるわけだ。
 
 未婚者中心のメディアだったブログに、父親としての自分を書き綴るブロガーが、それも、知っているブロガーから出てくるなんて!
 
 ちなみに、母親としての自分を書き綴るブロガーは幾らでもいた。たとえば2010年前後の某ブログ空間には、ネットリテラシーの欠如したたくさんの母親子育てブログが、無防備な姿を晒していた。顔写真もコンプレックスも家庭の事情も丸出しにしたブログすら、数多の母親によって綴られていた。母親が子育てについてブログを書くということは、もともと珍しいものではなかった。
 
 対して、父親としての自分を書き綴るブロガーは私の観測範囲に入って来なかった。それは、私自身の観測範囲が限られていたせいもあるだろうし、男性ブロガーが父親たる自分自身について書き綴ることに積極的な意味を感じていなかったからかもしれない。しかし2018年の私の観測範囲には、父親になったブロガーの、父親らしい文章が視界に入ってくる。
 
 彼らの文章には、喜びも驚きも苦労もある。怒りや悲しみはそっと隠されるかもしれないが、ときには、行間に何かが漂うこともあるかもしれない。
 
 いずれにせよ、若い頃からブロガーだった人々が歳を取り、そのなかから父親になる人が現れて、その文章がアップロードされることを楽しくも思う。そういった父親の文章は、今父親をやっている人々に何かをもたらすかもしれないし、これから父親になるかもしれない人々へのボトルメールになるかもしれない。
 
 古来、ブログの良いところは「何を書いても構わない」ことだった。父親が、父親としての所感や気付きをブログに書いたって構いやしないだろう。とりわけ、父親になったブロガーが子どもや子育てに関心を持っているなら尚更である。さきほど挙げたブログの書き手はネットリテラシーに長けたベテラン勢だから、「やらかす」心配もあまり無いだろうし。
 
 ブロガーが父親になれば、父親らしいブログ記事ができあがってくる。当たり前といえば当たり前だけど、私は、その当たり前が嬉しくてたまらない。父親になった後の風景や心象は、まだインターネット上にはそんなに流通していない。もっと語られて良いように思うし、ときには私自身も書きたいと思う。
 
 
 ※追記:『さよならドルバッキー』のzeromoon0さんが女性ではないか、という仄めかしをはてなブックマークで見かけた。これまで私は女性ブロガーの性別を何度も間違えてきたから、そう突っ込まれると自信が無い。「私は女性ブロガーです」と明記してない女性ブロガーを、私はしばしば男性だと思ってしまう。オフ会で仰天したことも一再ではなかった。もし、この点で失礼があったとしたらすみませんです。