シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

子どもがいてもいなくても、世界について考えるのは難しくなってると思う。

  
ta-nishi.hatenablog.com
 
リンク先の文章は、子どもを持たない大人が増えることで自分の代までしか考えない人も増え、世界の持続可能性が危機にさらされるのではないか、といった趣旨だ。「私の死んだ後のことなんかどうでもいい」と皆が考えるようになり、後々の世界に思いを馳せなくなったら、世界の持続可能性は怪しくなるだろう。欧米を中心に若い人たちが世界の持続可能性について大きな声をあげ、その槍玉に挙げられているのがそのような大人たちであることを思い出したりした。
 
 

 
でもって、リンク先の筆者は「セカイ」というサブカルチャーの語彙を使って、そうした大人たちの世界観が自分を中心とした狭い範囲にとどまっていること、ために未来を志向しない自己中心的な死生観を持っていることを指摘している。親になる人が減るぶん、死後の未来について考える人も減るというのは、まあ、そうかもしれない。少なくとも人の親になり、まっとうに親を引き受けている人なら、子どもの代の未来まで考える動機が発生するからだ。
 
他方、それだけでもあるまいと思ったりもする。
 
なぜなら、人の親になるかならないかが世界の捉え方を全部決めてしまうわけではないからだ。たとえば輪廻をベースとした宗教を信じている人や、一族の先祖供養を行っている人、連綿と続く地域の葬祭行事に加わり続けている人などは、人の親になるかならないかに関わらず、自分が死んでも世界が続く世界観・死生観を生きている可能性は高い。自分の子どもという具体性の塊のような未来に比べると、これらは抽象的で、共同幻想に類するものではあるのだけれど、太古の葬祭の痕跡などが示しているように、案外そのようにできあがった世界観で生きていける・生きてしまうのが人間であるように思う。
 
なので、冒頭リンク先の主題であろう「自分の代のことしか考えない大人の増加」とは、(養子縁組も含めた)子育てに参加するしないの問題に加えて、過去から未来へとつらなるような世界を生きていない人が増えていること、死生観や世界観がそのように変わってしまっていることが大きいと私なら思う。で、冒頭リンク先の筆者が「(セカイ系に由来しているらしき)セカイ」という語彙をわざわざ選んでいるのも、そうした死生観や世界観も問題の一端であることを意識してのものだろう。
 
なら、そうした今しかない死生観や世界観が台頭し、過去から未来へと連なるような死生観や世界観が尻すぼみになっているのは何故なのか。
 
ここまでの話から、宗教の衰退や、イエ制度などと深くかかわりを持ってきた盆暮れ正月といった行事の衰退や形骸化を挙げることはたやすいし、実際、既存宗教はすごい勢いで衰退してもいる。それらが死生観や世界観に与える影響は無視できるものではないので、宗教の衰退や形骸化を、生涯未婚率の上昇と並ぶ「自分の代のことしか考えない大人の増加」の理由として挙げるのは簡単ではある。
 
でも私には、その既存宗教の衰退や形骸化も原因ではなく結果であるよう思えてならない。既存宗教が衰退したり形骸化したりしたのは、むしろ、そのような宗教と相性の良い死生観や世界観を持てない環境ができあがってしまったからのようにみえてしまう。
 
既存宗教と相性の良い死生観や世界観が持てない環境とは、どういったものなのか。
ちょっと切り口が異なるかもしれないが、アーカイブで一番これに近いことを書いたのは以下のブログ記事のものだ。 
 
blog.tinect.jp
 
「老害製造装置」というタイトルがついてしまっているが、要旨としては、いまどきの生活環境では他人とコミュニケーションする必要がないし、それは団塊世代あたりから日本人が望んできたことだ、といったことが書いてある。
 
戦後からこのかた、日本人の生活空間はイエ的で集団的なものから、個人的でプライバシーのあるものへと変わってきた。同じく、日本人の生活時間もまた、家族や同郷集団と長い時間を過ごすものから、一人で過ごす時間の長いものへ、個人それぞれのスケジュールに従うものへと変わってきた。これらの変化が日本人の意識を、あるいは社会病理性の内実をも変えていったことは想像にかたくない。
 
日本人の意識も生活実態も、血縁集団や地縁集団といった単位からは離れていき、核家族や個人といった単位に基づいたものに変わっていった。もちろんこれは人々の意識だけが変わっていったのではなく、家屋や街並みといったアーキテクチャも平行して変わっていったこと、働き方や余暇の過ごし方が変わっていったこと、ウォークマンやスマホの普及といったエンタメが変わっていったなどととも、全部つながりあった変化とみるべきなのだろう。
 
なんにせよそうやって個人化が総合的に進んだ結果、いわゆるゲマインシャフト的なものが暮らしの時空間から排斥され、旧来の宗教観がそのままアプライできる状況が珍しくなり、「自分の代のことしか考えない大人の増加」に親和的な死生観や世界観がアプライできる状況が一般的になった。
 
想像してみて欲しい。アパートやマンションの自室で365日を過ごし、親世代や子世代とのコミュニケーションにも煩わされず、自分のやりたい仕事や趣味や人間関係にすべてを費やし、スケジュールも全部自分で決められる──そういう個人生活のなかで、過去から未来へと連なるような死生観や世界観を持つのは結構アクロバティックなことではないだろうか。
 
そういう個人でも、子育てをしているうちはそうした死生観や世界観を持っていられるかもしれない。しかし子育てをしなければそうした死生観や世界観を持つことは難しいし、たかだか20年かそこらの子育て期間を終え、親子が別々に暮らすような核家族的環境(または単身世帯的環境)に戻ってしまえば、やっぱりそのような死生観や世界観を維持するのは難しくなってしまう。
 
冒頭リンク先でid:Ta-nishiさんは、
 

このまま非婚率が天井知らずに上昇を続け、非婚者がマジョリティとなり、「私が死んだ後のことなんかどうでもいい」という「無敵の人」が多数派を占めるようになった未来が訪れたとして、そのときこの世界のサステナビリティはどうなってしまうのだろうか?

と締めくくっておられるが、思うに、少子化がここまで進行してしまう前の段階で(世界の、というより現在の日本国の、と訂正はしておくけど)サステナビリティは維持できなくなっていたように思える。つまり死生観や世界観の変化も、少子化も、全部ひっくるめての話として、ある程度以上にきわまった社会契約的-個人主義的社会はサステナビリティにもともと問題を抱えていて、たとえばアメリカが移民を集めたり、東京が田舎者を集めたりするように、外部からの人口流入をあてにできなければ成立しないもののように思えてならない。
 
最近、この、サステナビリティという言葉がほうぼうで使われているけれども、国や都市によってサステナビリティのための課題は結構違っていて、たとえばニューヨークのような街はどれほど社会契約的-個人主義的社会を突き詰めようとも人口流入があれば街そのもののサステナビリティに問題はない。ニューヨークは、地球温暖化さえ回避できれば持続可能な街にみえる。
 
一方、東京や大阪のような東アジアの街はニューヨークほどには人口流入をあてにできないし、移民制度を正当化するポリティカルコレクトネスも含めた人文科学上の建付けも甘いので、地球温暖化を回避しただけでは持続可能ではない。まして、日本の町村部ともなるとサステナビリティなど午睡の夢、地域社会が丸ごと山林に沈もうとしている。
 
最後に話が脱線した。が、こんな具合に私は、今の日本の生活環境で暮らしている限り、子どもがいてもいなくても世界について考えるのは結構難しいとみているし、自分自身を顧みても、どこまで考えているといえるのか、疑わずにいられなくなる。
 
この、高度に個人化され、他人と深く付き合うことなく暮らせてしまえる社会のなかで、それでも過去や未来に連なる想像力を持てる人というのは、逆にどうやってそういう想像力を涵養しているのだろうか? あるいは、どういう想像力を持ったことをもって過去や未来に連なる想像力が持てていると定義して構わないのだろうか?
 
そのあたりが今の私にはなんだかよくわからない。たとえば地球温暖化についてニュースで見て、再生可能エネルギーを重視する企業の商品を買うよう心がける人がいるとして、それでもって過去や未来に連なる想像力を持てている人だと言って構わないものなのだろうか?
 
地球環境というマクロな視点を除外するなら、お盆や彼岸のたびに先祖の御霊をお迎えしているような、そういう生活環境で暮らしているのと比較すれば、私たちが過去や未来を肌で感じる機会と動機、いや、導線は少なくなっていると私は思わずにいられない。うまくわかってもらえるかわからないけれども、本当は、私は死生観や世界観を規定する第一要因はアーキテクチャとしての社会環境だと思っていて、宗教は、その後ろから追いかけてくるもの(またはアーキテクチャに沿って盛衰するもの)だとか思っている。死生観や世界観が変わるとしたら、それは第一にアーキテクチャが変わる時じゃあないだろうか。
 
長文になってしまったので今日はこのへんで。SNSが世界じゅうを繋ぐようになったからって、世界について考えるのが簡単になっているようには思えない。