シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

お盆を迎え、アンチエイジングに思いを馳せる

 
お盆が来たので、アンチエイジングとお盆についてボソボソ書きます。
 


 
上掲は、進化心理学に関連した話を頻繁につぶやいている人のものだ。曰く、究極のアンチエイジングは寿命を延ばすことではない。自分の遺伝子が入った子孫を残すこと・子孫を繁栄させることであると述べている。もし遺伝子そのものに人格があり、遺伝子がもの思うとすればそのとおりだが、個人主義にもとづいて生きている現代人にはピンとこないツイートではないだろうか。「老いや死の恐怖は子供の若さで中和できる」というくだりも、果たして何割の人が同意するのか。
 
それに比べると、アンチエイジングの展望はいかにもわかりやすい。
  
ハーバード大学遺伝学教室教授であるD.A.シンクレアが書いた『ライフスパン 老いなき世界』には、最先端科学にもとづいたアンチエイジングの展望が記されている。これによれば、老化は自然なプロセスではなく疾患とみなされるべきであり、是非とも避けるべきもの・遠ざけられるべきものだという。シンクレア教授によれば、いずれ健康寿命は120歳を上回り、それが「長寿」とはみなされず「普通の生涯」とみなされるという。
 
その道の大家が書いただけあって、この本は老化のメカニズムについて該博な知識を提供してくれ、書かれている展望のいくつかは実用化に向かうだろう。アメリカのような医療の不平等が著しい国で、研究の恩恵が大衆にまで行きわたるかは疑問だが、長寿を望むセレブには歓迎されるに違いない。
 
しかしなぜ、私たちは長生きしなければならないのだろう?
 
長生きすること・長生きできることは幸福だと人はいう。なるほど、著しい短命や望まれない死が不幸であることから、それと対照的な長寿は幸福とうつるかもしれない。だが長く生きれば、楽しいことや嬉しいことだけでなく悲しいことも苦しいことも、長いぶんだけ経験する。生涯で口にできるサーロインステーキの総量が増える一方で、便秘や頭痛に苦しむ総量だって増えるわけだ。
 
最も恵まれた境遇の人でさえ、長く生きるとは長く"勤める"ということでもある。勤勉を自明視する宗教観の持ち主にとって、長く"勤める"とはむせび喜ぶに値することかもしれないが、それでもなお、"勤めあげる"のは大層なことだ。そのような宗教観を持たない私にとって、さまざまなテクノロジーに依存しながら、絶え間ない節制をとおして長く生きるとは、喜びである以上にストイックなことのようにみえる。
 
そうとも。
長寿、それも時間やお金や労力を費やしてまで手に入れる長寿とは、ストイックなことではなかっただろうか。
 
 

個人という枠にさえ囚われなければ、子孫繁栄こそが不老不死

 
そうした個人単位の長寿がストイックなのに対し、個人単位にとらわれない長寿、いや、世代交代は安直だ。
 
人間に限らず、有性生殖生物は適齢期になれば生殖をおこない、子孫をつくる。人間の場合、子育ても生殖の一部と言ってしまえるだろう。ひとりひとりの寿命が短くとも、子々孫々が繁栄すれば遺伝子は永遠である。遺伝子という概念が知られていない時代においても、たとえば子孫、たとえば一族が繁栄することはこだわるに値することだった。ちょうど個人主義的な現代人が、長寿にこだわるのと同じように。
 
日本人が健康を意識するようになり長寿を実現していった時期と、日本人が個人主義のセンスを内面化し、血縁や地縁といったセンスを忘れはじめた時期はだいたい重なっているようにみえる。が、そこにどのような関連性があるのか、ここでひも解くことは難しい。
 
いずれにせよ、日本人の健康長寿へのこだわりに比べれば、子々孫々の繁栄へのこだわりは目立たなくなってきている。血縁や地縁によって人々が強く結びついていた時代、ひとりひとりが年老いて死ぬとしても血縁や地縁は不滅だった。その不滅性は、お盆や正月などの行事をとおして毎年確認できていたはずだった。
 
この、地縁や血縁の不滅性という点では、お盆はよくできた行事だった。子孫が先祖を迎えるだけでなく、先祖が子孫の繁栄を確かめられる行事としてのお盆。と同時に、たとえ死んだとしても子々孫々との繋がりが失われないことを生前から知っておける行事としてのお盆。
 
健康長寿が実現する前は今より命が失われやすく、世代交代のサイクルは早かった。そのような社会では個人の不滅性など望むべくもない。そのかわり、命の有限性と子々孫々との繋がりは意識しやすかったといえる。そのような社会でできあがったお盆という行事の社会的役割は、健康長寿のテクノロジーで代替できるものではない。
 
現在でもお盆の季節になると、帰省ラッシュで交通機関はごった返す。とはいえ先祖や子孫との繋がりを強く自覚する行事としてのお盆はいったいどれぐらい生き残っているだろうか。また、もはや帰省することがなくなり、帰省する場所も所属する血縁や地縁もなくなった人々は、どのような生を生き、どのように死を見つめているのだろうか。
 
私たちの死生観は、昭和以前に比べてきわめて個人的なものになっていて、だから『千の風になって』がヒットソングになったりもする。それで自由になれたことを喜ぶ向きもあるだろう。だが死生観が個人的なものになったことで、自分自身の死はいっそう直視に耐え難い、それこそアンチエイジングで頬かむりしておきたい何かへと変わってしまったとも言える。自分自身の生と死を個人化し過ぎると、みずからの死が絶対的なピリオドになってしまう。
 
 

個人主義に囚われたから

 
冒頭ツイートに戻ろう。冒頭ツイートには「老いや死の恐怖は子供の若さで中和できる」と書かれている。親と自分、自分と子どもは別々の人間でもあるから、子どもの若さを自分自身の若さとイコールで結べるわけではない。それでも、死生観がそこまで個人的ではない人にとって、自分が老い衰えたぶん子孫が成長する喜びは大きいし、年の取り甲斐はわかりやすくもなる。ここでいう子孫には、血縁上の子どもだけでなく、それ以外の縁をとおして子孫と呼べるようになった人も含まれ得るだろう。
 
自分自身の老い衰えに囚われる人にとって、時間の流れは常に対抗すべき、それこそアンチエイジングすべきものだが、子孫の成長が体感できる人にとって、時間は子孫の成長に不可欠なものでもある。
 
だったら、老いや死の恐怖におびえる人に本当に必要なのは、健康長寿をやみくもに延長することではなく、個人的な死生観を子々孫々と繋がった死生観へと再構成し、自分自身の永遠ではなく先祖ー自分自身ー子孫の連なりを取り戻すことではないだろうか。もちろん、ここでいう先祖ー自分自身-子孫の連なりが、昭和以前の家父長制家族と同じでなければならない道理はない。今の時代にふさわしい連なりが再発明されなければならないだろう。
 
現代社会をスタンドアロンに生き過ぎると、そういう先祖ー自分自身ー子孫の繋がりがあったことを意識しなくなってしまう。そして個人主義のきわまったこの社会は、そういう繋がりが不足しやすい社会でもあるのだ。死生観がスタンドアロンに完結してしまい、子孫と(場合よっては先祖とも)繋がっていないと感じているから、アンチエイジングによって自分の死をとにかく1秒でも遠ざけるか、さもなくば生前にレガシーを残そうとあがくしかない。レガシーを残すなどという離れ業がほとんどの人には不可能であるのは、いうまでもない。
 
『老いなき世界』のなかには、筆者が親族の晩年や死を回想し「死とは闘うものである」と論じるくだりが登場する。もちろん死は苦しみを伴うものであり、たとえば私も、必ず苦しんで死ぬだろう。だが、死とは闘うしかないものだったのだろうか?
 
そうではあるまい。命や縁が継承される限り、個人の死は絶対的ピリオドにはならない。たとえば個人としての私にとって死は不可避だが、先祖-自分自身-子孫の繋がりが体感でき、遺伝子も含めた色々が子孫へと引き継がれる限り、「私たち」は「死なない」。
 
こうした考えは、個人主義を著しく内面化した人には異質と感じられるかもしれないが、そもそも私には死生観がこれほど個人化している社会のほうが特異にみえる。そして個人化した生と死を望んでやまなかった人はともかく、不本意のうちにそうなってしまった人々の実存的疎外は誰がどうやって解決するのか、強い関心をもたずにいられない。