シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「他人が読む日記」と「自分が読む日記」

 
2/28「はてなダイアリー」サービス終了で考えるインターネットの失ったもの - エキサイトニュース
 
 2019年、(株)はてな が運営するブログサービス「はてなダイアリー」がそのサービスの幕を閉じた。後継のはてなブログが繁盛している以上、自然な流れではあるけれども、私も「はてな“ダイアリー”」には思い入れがあったので、リンク先には強いシンパシーを感じた。
 
 日記とブログは似て非なるもの。
 
 もちろんブログに日記を書くことはできるけれど、ブログに全員が日記を書くわけではない。まして、きわめて個人的な日記が読み物としてブログに曝されるさまは、目に付きにくくなっているようにも思う。
 
 たとえばの話として、2005年頃に「はてなダイアリー」でみんなが書き散らしていたような日記は、今、どこでどこまで私に(または、あなたに)可能なのだろうか。
 
 

日記からブログ・SNSの時代へ

 
 まず、日記とは誰に向かって書くものなのか。
  
 私には、「日記は自分自身が後になって読み返すために書く」という前提があり、このブログもそのように書かれている。でもって、実際私は自分のブログをわりと頻繁に読み返している。
 
 と同時に、日記には他人に読まれることを前提に書かれる側面もある。日記文学と呼ばれるような作品群は言わずもがな、このブログの文章にしても、他人が読むことを前提とした整形が多かれ少なかれほどこされている。
 
 日記には「自分が読むメディア」と「他人が読むメディア」の二つの顔があって、どちらが優勢かによって内容や文体は違ってくる。とはいえ、個人的な日記なら、「自分が読むメディア」という前提が多かれ少なかれ備わっているはずだ。
 
 はてなダイアリーをはじめとする、00年代に繁栄したブログサービスの筆者の大半は、まさに「自分が読むメディア(=日記)」としてブログを書いていたように思う。そういう意味で、はてなダイアリーという命名は実態にみあったものだった。
 
 もちろん、当時も「他人が読むメディア」としてブログを書いている者がいなかったわけではない。著名人のブログ、専門家のブログ、アルファブロガーのブログ、ニュースサイト系のブログなどは「他人が読むメディア」として書かれていた。だが、全体のユーザー数から考えると、「他人が読むメディア」に的を絞った書き手はあまり多くなかったのでないだろうか。
 
 それから10年以上の歳月が流れ、ブログも、ブログを取り巻く環境も変わった。
 
 例えば、今、流行しているブログ――はてなブログでもいいし、ワードプレスで駆動するアフィリエイトブログでもいいが――において、「自分が読むメディア」としてのブログは一体どれぐらいの割合になっているだろう?
 
 現在でも「自分が読むメディア」としての性格を失っていないブログとブロガーはまだまだいるに違いない。
 
 それでも、「他人が読むメディア」としてブログを書く人が増えて、「自分が読むメディア」としてブログを書いている人でさえ、いくらかなりとも「他人も読むことを前提とした性格の日記」へと重心が移動させていることが多いのではないだろうか。
 
 ネットでは、ウェブサイトの時代から「自分が読むメディア」としての日記が綴られてきた。もちろんネットに書かれる日記には、他人に読まれる期待も込められていた。ウェブサイト黎明期の「日記」には、自分自身のことを書きつつも、ボトルメールのようにどこかの誰かに届くかもしれないという、他人への淡い期待があったように思う。
 
 だが、2019年にあまた書かれるブログ記事はそうではないと思う。
 
 他人のまなざしを期待する、ではなく他人のまなざしを前提にして私達は日記を書いているのではないだろうか。
 
 まだブログしかなかった頃、ブログは「自分が読むメディア」であると同時にトラックバックをとおして人と人とをつなぐ機能を担っていた。とはいえ、その機能はまだ弱く、常に意識させられるものではなかった。
 
 しかし今はSNSがあり、誰もがSNSで繋がり合っている。ブログを書く人も書かない人も、SNSという、他人に読まれることを意識させられるメディアで日常的にコミュニケートするようになった。SNSは、ブログ以上に人と人とを頻繁に繋ぎ合い、「他人が読むメディア」であることをユーザーに強く意識させる。そこで用いられる言葉は、おのずと自分に向けられる以上に他人に向けられたものとなる。
 
 現状のSNSは、「自分のアウトプットが他人に読まれる」ことを意識させる訓練装置として機能していて、そのような訓練装置が、現代人の日常に溶け込んでしまっている。
 
 SNSが普及して、それこそ誰もが「他人が読むメディア」を意識するよう訓練され続けている2010年代後半において、ブログもまた「他人が読むメディア」として書かれることには違和感はない。
 
 はてなダイアリーが終了し、はてなブログに取って代わられた現状は、そのことを象徴しているように私には思える。
 
 

学校で教わった日記も「他人が読むメディア」だった

 
 そういえば、学校で習ったばかりの日記も、実は「他人が読むメディア」ではなかったか。
 
 小学生の宿題には、「日記を書いてきなさい」というものがある。私が最初に書いた日記も、この「日記を書いてきなさい」だった。
 
 「日記を書く」宿題は、先生が読むという前提で書かれている。
 
 自分自身の過去はもう思い出せないが、子どもが宿題として日記を書いていた頃に、それがよくわかった。
 
 宿題として提出する日記に、子どもはありのままの気持ちや出来事を書いていなかった。先生に叱られないように、あわよくば先生から花丸をもらえるように、子どもなりにテーマや書き方を考えていたし、そういうことが思い浮かばないと「日記に書くことがない」ことに困っていた。
 
 先生が読むという前提で日記を習っていたということは、私も、私の子どもも、日記というメディアを「他人が読むメディア」としてまずフォーマットされた、ということだ。実は、現代人にとっての日記とは第一に「他人が読むもの」であり、「自分が読むもの」という特徴は後から付け加わったものではなかったか。
 
 

「現代人訓練装置」としての日記

 
 学校には、子どもという自然に近い存在を、現代人という近代的主体へと訓練していく場としての性質がある。授業や運動会や時間割によって子どもは訓練され、近代的主体としてふさわしい習慣や規律や時間感覚を身に付けていくし、そのように社会から期待されてもいる。
 
 もし、近代的主体としてふさわしい習慣や規律や時間感覚を身に付けられない子どもや、身に付けられそうにない子どもは、「問題」があるとみなされ「事例化」していく。が、それはさておき。
 
 この視点で「日記を書きなさい」という宿題について思い出してみる。私達は「他人が読むもの」として日記を教わり、それを後になって「自分が読むもの」だと思い込んで書き綴る。このプロセスをとおして、日記は、自分自身の内面を他人が読めるようなフォーマットへと言語変換する訓練として働いている*1
 
 日記が、その習得段階において「他人が読むもの」としてまずインストールされる以上、良い日記とは、自分で読み返せるだけでなく他人が読むにも適した性質を持っていてしかるべきである。ウェブサイト黎明期やブログ黎明期において、あちこちに書き綴られた「他人の日記」をネットサーフィンして楽しめたのも、それらの「日記」が他人が読めるようなフォーマットで書かれていたおかげなのだろう。
 
 近代的主体にとっての良い日記、ひいては良い内省とは、言語化され、他人が解釈可能な性質のものでなければならないのかもしれない。
 
 だとしたら、本当に「自分に向かって日記を書く」とはどういうことなのか?
 
 範疇的に考えるなら、「他人が読むもの」というフォーマットを上手に使って「自分が読むもの」を書き残せれば、それは「よくできた日記」ということになるだろう。近代的主体である限りにおいて、そのフォーマットを逸脱する必要は無い。そのフォーマットのなかで内省し、そのフォーマットのなかで語り、そのフォーマットのなかでコミュニケーションしても困ることは何もあるまい。
 
 ただもし、自分独自のフォーマットで「自分が読むもの」を書けたとしたら。
 
 私にはそんなことはできないし、大抵の人も同じだろうけれども、フォーマットの殻を破れる剛の者は、破ってみせて欲しい。あるいは詩人の言葉ならば。きっとそれは、近代的主体としての諸フォーマットに慣れきった私には解読しづらいだろうけれども、世の中にはそういう人がいたっていいし、いたほうがいいと思う。
 
 日記の話をしていたつもりが変な着地点に辿り着いたけれども、まあこれも「はてなダイアリー」出身のブログなので、どうかご容赦を。
 
 

*1:そもそも、言語変換するということ自体、他人が読めるような共通のフォーマットへと思考を導く訓練ではあるけれども