シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自主性の乏しさが罪になってしまう社会

 
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 リンク先を読み、自主性が乏しいけれども仕事が優れている人っているよね、と思った。
 
 出しゃばらず、言われた仕事はきっちりこなし、上司やパートナーの采配次第では抜群の仕事をやってのける人材が、自主性を求められる状況に直面し、困惑して、メンタルヘルスを損ねて来院する……というパターンは精神科では珍しくないものだった。
 
 今では死語になりかかっている感があるけれども、「メランコリ―親和型うつ病」などと呼ばれていた類型の患者さんのなかには、そういうタイプが少なくなかったように思う。フリーハンドを与えられるまではものすごく重用されて、本人も報われた感触を得ていたけれども、フリーハンドを与えられた瞬間にマゴマゴしてしまい働けなくなってしまうタイプ。そういう患者さんは2000年頃に比べて減ってしまった。ひょっとして、自主性が乏しいけれどもしっかり働く働き手は淘汰されてしまったのだろうか。
 
 今日の社会では、自主性というものが非常に重んじられている。
 
 自己選択。
 自己主張。
 自己判断。
 
 それらをこなせるのが「良き大人」であり「良き働き手」でもある。今日の社会では、誰もが自分自身に対して「一国一城の主」でなければならない。誰かの「家臣」であってはいけないのだ。
 
 そういう考え方に競争社会の考え方を混ぜ込んだのか、「自主性の乏しい奴は報われなくても仕方がない」「自主性の乏しい奴は搾取されても仕方がない」といったことを平然と言い放つ人もいる。自主性の乏しさを誰かがカヴァーしてくれれば最優秀の人材になり得る人は、かつての日本には相当数いたはずだし、本当は現在もいるのだろう。いやいや、欧米にだっているはずなのだ。だのに、いまどきの人々は、そういう人の存在を顧みるよりは、自主性というお題目を口にして、自主性の乏しさを問題点として──ときには"障害"として──指摘する。「自主性が乏しいからお前は駄目なんだ!」
 
 世の中には、生まれながらに「一国一城の主」に最適なパーソナリティの人がいる。自主性を重んじる現代社会では活躍しやすく、どこへ行っても自分の人生を歩いていけるような人だ。そういう人が成功するのは素晴らしいことだし、そのようなパーソナリティを尊ぶことに私も反対するつもりはない。
 
 しかし、「一国一城の主」でなければ活躍できない、人生を豊かにできないとしたら、その社会はちょっと偏っているのではないだろうか。現代日本でも、欧米社会でも、多様性なるものが尊重されると耳にしているが、その多様性とやらのなかには、自主性の乏しい人々が豊かになって構わない可能性は含まれているのだろうか。それとも、自主性という基盤があってはじめて享受できる多様性でしかなく、自主性の無い人間には多様性もクソもあったものではないのが実情なのだろうか。どうも、そのあたりがわからない。
 
 多様性が尊重される前提として、まず、個人は自主性を完備していなければならないとしたら。そして「一国一城の主」でなければならないとしたら。それもそれで窮屈な話ではないか。
 
 ところが、欧米のゴールドスタンダードとして自主性があって然るべきとみなされ、日本もそれに倣えということになっているから、誰もが自主性を備えているべき・自主性を備えていない奴は損をしても仕方がないという考え方に、疑問を差し挟む人はあまりいない。匿名掲示板やtwitterの泡沫アカウントのようなインフォーマルな場では、自主性を当然のものとする考え方に疑問を差し挟む人を見かけなくもないが、場がフォーマルになればなるほど、自主性の尊重という金科玉条に異をとなえるのは難しくなる。
 
 元来人間には、自主性がたっぷりある人もいれば、自主性が乏しい人もいる。「自分らしく生きる」「自分が生きやすいように生きる」という観点からみれば、自主性の乏しい人でも活躍できる社会のほうが懐が深いはずだし、自主性が乏しい人にも活躍の場を与えられる社会のほうが人材活用という意味でも効率的なはずである。ところが自主性がやたらと重視されて、誰もが自主性のある人間であるべきとみなすようになってくると、そういった懐の深さや効率性は失われるのではないだろうか。というか、現に失われつつあるのではないだろうか。
 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (日経BPクラシックス)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (日経BPクラシックス)

 
 マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には、プロテスタントの宗教的ニーズが勤勉に働く市民を生んだという話だけでなく、そうした宗教的ニーズが自主的な個人の出現とも関わっている……といった話もふんだんに書かれている。彼の論述がどこまで事実に即しているのかはともかく、自主的な個人を当たり前とみなす考え方が、キリスト教世界で発展した文化的な所産であるというのは、たぶんそのとおりなのだろう。
 
 だとしたら、自主性の乏しい人が社会に適応するのが困難な状況もまた、ある程度までは文化的な所産であり、自主性の乏しいことがハンディキャップのごとくみなされる事態は文化症候群的な側面を持ち合わせている、と考えずにはいられない。
 
 宗教的ニーズを背景として自主性が尊重されてきた社会で暮らしてきた人達にとって、自主性があって然るべきという考え方に疑問を差し挟むのは、許しがたいことかもしれない。たとえキリスト教を信仰していない現代人でも、そこで形作られた自主性尊重という人間観、あるいは世界観に深く"帰依"している人はごまんと存在している。キリスト教は日本や中国にそれほど信者を作ってはいないかもしれないが、キリスト教世界で磨き抜かれた自主性という人間観、あるいは世界観に"帰依"している者は見事に増えている。そしてこの個人主義社会においては、信教の自由が保障されているとしても、自主性というやつは、地獄の果てまで追いかけてくるのである。
 
 冒頭リンク先のタイトルは「自由にやらせると、潰れてしまう人」となっている。不自由と比較すれば、現代人のほとんどは自由のほうが良いと思うだろうし、私もその一人だ。だからといって、自由や自主性が現代人の宿命として万人に背負わされ、それが苦手であることがボトルネックとなって活躍の場を奪われてしまったり、搾取されても仕方がないとみなされてしまったりするのは、褒められたものではないと思う。イデオロギーとしてそう思いたがる人がごまんといるのは理解できるが、それをすべての人にとっての理想のように吹聴することには疑問の念を禁じ得ない。たとえ現代社会が、もう、そのように出来上がっているとしても、である。