脳内補完トレーニング装置としてのコンピュータゲーム - シロクマの屑籠
コンピュータゲームのグラフィックやシステムは、現実に比べて大幅に簡略化されたものから成っている。だからプレイヤーは、ゲームから受け取る情報を願望や想像力で肉付けし、脳内補完して膨らませたイメージを楽しんでいる――そういうシミュラークル生成もひっくるめてゲーム体験は成立していると前回は書いた。
「プレイヤーの数だけ、物語は存在する」
でも、ゲーム独特の物語性は、それだけでは説明できない。
確かに、ロールプレイングゲームやシミュレーションゲームの一部、ビジュアルノベルでは、“脳内補完的・二次創作的なイメージ消費”のウエイトが大きい。けれども、対戦格闘ゲームやシューティングゲーム、もっと自由度の高いゲームでは、全く別の機序で物語が紡ぎ出され、プレイヤー個人個人がゲーム越しに体験する物語や、遭遇するドラマツルギーにばらつきが認められる。
例えば、『skyrim』のようなゲームでは、プレイヤー個々人が体験する物語は千差万別になりやすい。選択されるイベントの種類や順番の違いだけでなく、ドラゴンの襲撃タイミングやNPCの生死、スキルの取得順序等によって、体験のバリエーションが無限に変わってくる。自由度が高いからこそ、プレイヤー自身の欲求やメンタリティが色濃く反映された物語が立ち上がってくるのが『skyrim』というゲームだった。
[参考]:スカイリムで自由を与えられた俺は、自分自身の内面に束縛された - シロクマの屑籠
もっと一方通行なゲームでも、プレイヤーが受け取る物語にばらつきが生じることがある。パターン構築型シューティングゲームの傑作『斑鳩』には、様々な攻略方法が成立する余地があったため、プレイヤーが織り成す攻略パターンは多種多彩だった。いわゆる“難所”も、プレイヤーの攻略指針や腕前によって変わりやすく、それがために、プレイヤーそれぞれが体感するゲーム体験やドラマツルギーに、質感の違いが生じていた。
こうしたゲーム体験の個別性や体感の違いは、『skyrim』のように力任せに自由度を実現したゲームや、『斑鳩』のようにパターン構築可能性の豊かなゲームに顕著だけれど、プレイヤーに自由裁量の余地のあるゲームでは、多かれ少なかれ認められるものでもある。『ファイナルファンタジー2』『ロマサガ2』然り、『レイフォース』『ダライアスバーストAC』然り。プレイヤーのスキルや志向、目的に即したかたちで、ゲームとプレイヤーが奏でる二重奏はいかようにも変わる。それを、物語生成と言って差し支え無いかはさておいて、少なくとも、ゲーム体験には個人性や個別性が拭い難くついてまわる、とは言えるだろう*1。
かけがえのないゲーム体験は“脳内補完”?“ゲーム体験の個人性”?
以上を踏まえ、コンピュータゲーム越しにプレイヤーが受け取る物語や体験のばらつきについて、グラフに図示してみる。
X軸は、ゲームに登場するキャラクターやストーリーを脳内補完・二次創作することで、プレイヤーそれぞれの物語が生成する度合いの高さを、Y軸は、ゲーム体験の個人性・個別性のばらつき具合によってプレイヤーそれぞれの物語が生成される度合いの高さを現している。ちなみに、下線を敷いてある作品は「乱数」が重要な働きを担っているもの。
ビジュアルノベルの『シュタインズゲート』や『ひぐらしのなく頃に』は、ゲーム体験の個人性・個別性はばらつきにくい反面、キャラクターやストーリーを脳内補完・二次創作するのに適している。このため、グラフでは右下に位置している。
対して、『斑鳩』や『ザナドゥ』は、キャラクターやストーリーを脳内補完・二次創作するには適さないけれども、ゲーム体験の個人性・個別性はばらけやすい。だからグラフでは左上に位置している。
そして『ガンパレードマーチ』のように、キャラクターやストーリーの脳内補完・二次創作に適していると同時に、ゲーム体験の個人性・個別性もばらけやすいゲームもあれば、『テトリス』のようにその正反対に位置づけられるゲームも存在している*2
ゲームとプレイヤーの関係性のなかで物語が生み出され、かけがえのない個人的体験になっていくプロセスには、二次創作・脳内補完的なものだけでなく、ゲーム体験の個別性・個人性の散らばりやすさに由来する部分も大きい。いわゆる「ゲームらしいゲーム」の場合は、特に後者のウエイトが大きい。
こうしたゲームならではの物語生成については、似たような視点が、加野瀬未友さんによって2008年に指摘されていた。
[参考]:スクリプトが生み出すドラマではなく、AIが生み出すドラマこそ、自分の考えるゲーム的リアリズム : ARTIFACT ―人工事実―
http://artifact-jp.com/2008/05/10/ai_gamerealism/
GRAND THEFT AUTO IV - 人殺しが人死にに立ち会う - また君か。@d.hatena
sside.net : 認識と現実と虚構と物語
どちらもゲームで、AIによって、プレイヤーが予想もしなかった事態が発生して、衝撃を受けるという話なのだが、自分が考えるところの「ゲーム的リアリズム」(ゲームしか生み出せない感情)というのは、こうしたAIが生み出すドラマにあると思ってる。
ここで加野瀬さんがハイパーリンクを提示して示している「AIが織りなすドラマ」は、ゲームならではの物語体験の、最たるものだと思う。ここまで顕著ではなくても、プレイヤーの挙動とアルゴリズムの重なり合いの結果として、誰も想定していなかったような状況や展開が生まれ、プレイヤーが体感する物語が劇的展開を迎えることはよくあることだ*3。
プレイヤーの行動選択によってプレイヤーとゲームアルゴリズムとの相互作用が大きく変化するタイプのゲームでは、プレイヤーがゲーム体験から受け取る物語に個人差が生じずにはいられない。それは『ガンパレードマーチ』や『シビライゼーション4』のようなゲームに限らず、それこそ古典的で一方通行な国内産ロールプレイングゲームでさえ案外起こることだった*4。
乱数によって生み出されるゲーム体験の個別性
ところで、そうしたゲーム体験の個人性・個別性とは、優れたAIや豊かな選択肢だけに由来するものだろうか。たぶん、そうではないと思うので、補足しておく。
ゲーム体験の個人性・個別性を生み出してくれる要素として最も重要なのが、ゲームワールドの箱庭としての自由度の高さや、攻略バリエーションの多彩さを許してくれるシステムなのは論を待たない。そういう“正攻法”を具現化しているのがベゼスダ社のロールプレイングゲームやパラドクス社のシミュレーションゲームで、圧倒的なゲームエンジンの力で、プレイヤーそれぞれの物語を体感させてくれる。
ところが、そんな高級なゲームエンジンなど望むべくもないゲームでも、案外、プレイヤーの体験に幅が生じるようなものはある。例えば、古典的名作『Wizardry』のアイテム探しは全プレイヤー共通だったが、LV20ぐらいまでのゲーム体感は、どのようなレアアイテムをどのタイミングで拾ったかにかなり左右された――村正や手裏剣を拾ったか否か、ヒーリングアイテムを幾つ拾ったか、カシナートの剣を何本揃えられたか――そういった違いによって、プレイヤーが体感する物語や、採るべき戦略にばらつきが生じるようになっていた。そうしたばらつきによって、愛好家同士のプレイ談義が盛り上がったのは言うまでもない。
そうした乱数の気まぐれによるゲーム体感の違い、プレイヤーが体験する物語やドラマツルギーの違いは、『パズドラ』や『艦これ』といった、“正攻法”が望めないジャンルで意外なほど生かされている、と思う。
『パズドラ』にしても『艦これ』にしても、ゲームを徹底的にやり込んだ後に辿り着く境地は、どのプレイヤーでもそれほど違わないかもしれない。けれども、序盤〜中盤に手に入れるランダム性の高いキャラクタードロップのおかげで、ゲームに慣れてきて、一番夢中になる時期に体感する物語には大きなばらつきが生じている。
『パズドラ』なら、序盤でホルスに巡り会ったプレイヤーと、大天使ルシファーに巡り会ったプレイヤーでは、ゲームにのめり込んでいくプロセスも、体感する物語もだいぶ違うだろう。オーディンを拾ったプレイヤーの場合も、相当違う。
『艦これ』の場合は、そうしたランダムドロップにプレイヤーの嗜好の問題が加わり、一層プレイヤーの体感する物語にばらつくようにできている。艦娘のキャラクターデザインがてんでバラバラなお陰で、プレイヤーが愛着を感じる艦娘が散らばりやすいのは、間違いなく、この作品の長所のひとつだ。序盤で巡り会った重巡洋艦が誰なのか・金剛級巡洋戦艦のなかで誰が好みだったのか・大型艦建造で誰にどのタイミングで出会ったのか……そういった、ランダムドロップ・プレイヤーの嗜好の掛け合わせによって、プレイヤーそれぞれが体験する物語が相当違ってくる。『Wizardry』ほどではないにせよ、戦闘時のダメージにもばらつきがみられるおかげで、見せ場で活躍する艦娘が決まりきっていないのもいい。色々な要素が運任せになっているおかげで、野球の試合を見ている時のようなドラマ性がある。
乱数によってプレイヤーが体感する物語が変化するカラクリも、これもこれで「ゲームならではの物語生成システム」だと思う。
「ゲームはいつも、かけがえのない物語を与えてくれた」
以上、ゲームならではの物語生成システム、あるいは「プレイヤーそれぞれが受け取る物語のバラツキや揺らぎ」について述べた。
サブカルチャー領域の物語消費や物語生成システムのなかでも、ゲーム領域の、とりわけゲームならではのシステムに根ざしたメカニズムについては、あまり議論が蓄積していない。さきに引用した加野瀬未友さんの記事のように、気づいている人はちゃんと気づいていて、それを能動的に楽しんでいるけれど、一部のライターや愛好家を除けば、そういう意識を言語化する人は少なかった。
私の知る限り、ゲームオタク、特にハイスコアやシーンの最先端を疾走し、それをこそ楽しみとしてきたゲームオタクの大半は、あまり書き物をしない人種で構成されていた。サブカルチャー論壇とも関わりを持たず、真摯にゲームを遊ぶ人が多かったと記憶している。でも、だからといってゲームならではの物語生成システムが軽んじられるのは勿体ない。数多のコンピュータゲームが、プレイヤーに交換不可能なドラマを提供し続けてきた恩恵は、もっともっと強調したっていいと思う。
「ゲームだって、かけがえのない物語を生成してきたんだ!」
そう叫びたい気持ちに駆られて、私はこの文章を書いた。
素晴らしいゲームに出会うたび、私は、自分だけの、かけがえのない物語を汲み出してきた。そのかけがえのなさは、『ゼルダの伝説』や『アドバンスド大戦略』を遊んでいた頃も、スケジュールの隙間にソーシャルゲームを遊ぶばかりの今も、基本的には違わない。ゲームの魅力の全てではないにしても、かなりの部分は「誰のものでもない、自分だけの体験と物語を楽しむこと」だ。少なくとも、私はそう思う。
*1:ちなみに、話をややこしくしないために、ここではスタンドアロンなゲーム体験だけを取り扱っている。対戦格闘ゲームやオンラインゲームのゲーム体験は他人の挙動が絡むためややこしく、ここでは割愛する。
*2:もちろん、『テトリス』のようなゲームが劣っていると言いたいわけではない。各人が比較的同じような体験を受け取るゲームにも存在意義があるし、ゲーム体験がプログラムというレールの上で起こる以上、そういう共通部分は多かれ少なかれ存在する。
*3:例えば、シューティングゲームの場合。砲台やザコに固有のアルゴリズムが与えられ、その総体として攻撃を成立させているタイプのボスやシーンは、プレイヤーのエキセントリックな挙動や“早回し”などによって、挙動内容が作り手の想定を超えてしまうことがある。想定範囲内の場合でも、『ダライアス』シリーズのボスのように、ボス攻略の内実や難易度がプレイヤー次第で激変してしまう例は珍しくない。
*4:例:低レベルでどんどん先に進んでいくプレイヤーと、レベリングや装備購入をきっちり済ませるプレイヤーでは、ファイナルファンタジーやドラゴンクエストでさえ、ゲーム体験や戦闘シーンの思い出は違ってくる