シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「トイレ共同。風呂共同。」は夢か現実か

 
 ゆうべ、不思議な夢を見た。
 老人になった私が共同アパートに住んでいる夢だ。
 
 私は一人暮らしをしていて、向かいの部屋にはコロコロとした顔つきのおばあちゃんが――同級生の年老いた姿だと直感した――住んでいた。板の間の廊下を渡り、トイレへ向かう。自室の右隣には物音に敏感なおばあちゃんが住んでいたが、彼女はすぐに引っ越して行ったので無人になっている。トイレに行くにも気兼ねしなくて済むようになった。そういえば、洗濯機も回しておかないと……そこで夢から醒めた。 
 
 「老人になった自分が、トイレ共同、風呂共同で住む」。
 
 あり得ないことだろうか?あり得ないとは言えない。大家族が核家族になり、核家族が単身世帯へとなっていく一連の流れは、まだ止まりそうにない。少なくとも一定以上の世代では止めることが難しい。一方、日本社会はシュリンクしていく。その際、トイレや風呂はもとより、様々なものを共同化して効率を重視した住まいに回帰していく流れが主流になっても驚くべきことではない。そもそも、少し若い世代の間では「シェアハウス」というライフスタイルも出てきているわけで。
 
 省みて、90年代〜00年代のスタンドアロンな生活は、なんと非効率だったのだろう。非効率と言って語弊があるなら、贅沢と言い直すべきか。。
 
 80年代、ワンルームマンションという若者の一人暮らしに訴えかける居住空間が登場し、トレンディになった。コンビニも普及して、そんな若者の一人暮らしをバックアップした。ウォークマンや携帯電話などの普及も相まって、スタンドアロンなライフスタイルが確立していく。スタンドアロンなライフスタイルは、若者自身が自分の時間と空間を好き勝手に過ごせるという点では素晴らしかった。けれども、金銭的には決して安上がりではなかった。その「自分の時間と空間を好き勝手に過ごせるカネのかかる空間」がある種のスタンダードとみなされていく。
 
 私が大学生活をスタートした1990年代前半は、まさにそういう時代の盛りだった。資料(下記グラフ参照)によれば、1990年代前半には大学生への仕送り金額は過去最高を記録している。バブル景気は終わっていたが、大学生が金銭的に最も恵まれていた時代だ。私の通っていた田舎の大学でさえ、トイレと風呂がセパレートな物件が流行っていて、ユニットバス形式のアパートがそれに続いていた。「共同住宅や大学寮は敬遠され気味」という話をよく耳にしたものだ。
 


 グラフ:大学生の仕送り金額。『東京私大教連 2013年度 私立大学新入生の家計負担調査』より抜粋。1990年代前半をピークに、減少の一途を辿っている。

 
 それから二十年。グラフを見てのとおり、大学生への仕送り金額は、バブル景気が始まる1986年を下回るようになった。ワンルームマンションやコンビニが流行しはじめる以前の水準になったということだ。この数字が将来どうなるかはわからないが、とにかく、80年代後半〜90年代にかけての盛時が戻ってくるのはかなり難しい、とは想像できる。
 
 少子高齢化の流れを考えるに、将来のお年寄りの一人暮らしは、金銭的なゆとりが一層なくなってくると想定される。大学生の頃にワンルームマンションに住んでいた人間が、二十年後もワンルームマンション的でスタンドアロンな生活ができるという保証はどこにもない。金銭面だけでなく健康面から考えても、一人暮らしで完結したシステムでお年寄りが生活するのは相当ハイコストになっているだろう*1
 
 その一方で、シェアハウス的なものに馴染む若者が増え、バブルの盛時を知らない人々、間近な仲間を大切にする人々――それこそ、いわゆる“マイルドヤンキー”と呼ばれるような、世代再生産を介して明日の日本を担っていく人々だ――が台頭してくれば、ライフスタイルのスタンダードは、スタンドアロンなものから種々のシェアを前提としたものにシフトすると想定される。そんな将来、ワンルームマンション的なフル装備の一人暮らしは今よりもずっと贅沢なもの、非効率なものとみなされているのではないか――時代の文脈が変われば、ライフスタイルの評価も当然変わってくる。かつて、ワンルームマンションが非常識から常識に変化したのと正反対に――。
 
 冒頭で、私は不思議な夢を見たと書いた。
 風呂共同、トイレ共同の住まい。
 でも、これって正夢になる可能性が高いんじゃないか。
 
 お互いに気を遣い合いながら、コストをシェアしあいながら生きていく、新しいようで古い、古いようで新しい生活に、きっと私達は向かっている。かつては結婚や家族といったシステムも、そうしたコストのシェアという側面を持っていたけれど、それを焼き直したような何かがやって来る。生きていくために人と人が身を寄せ合うための処世術やプロトコルが、たぶん見直されていく。そのために必要なコミュニケーションの一連の作法――あくまで作法であって、人をたらしこむような達人芸までではない――も、おそらく見直されていくと推定される。
 
 してみれば、90年代以来の、スタンドアロンなライフスタイルのほうが夢だったのかもしれない。親の代までに集積した経済力によって支えられてきたライフスタイルは、その経済的基盤が失われれば成立しなくなる。高度成長期〜バブルの徒花のようなものだ。にも関わらず、そのような暮らしをスタンダードとみなし続けるのは、白昼夢に近い。もう、夢から醒めたっていい時期なんじゃないか。『笑っていいとも!』だって、もう終わったことだし。
 
 

昨日のスタンダードは今日の白昼夢

 
 この一件に限らず、1980〜90年代にかけてつくられた諸々のスタンダードのなかには、経済的/人口動態的な存立条件が失われてきているものが少なくない。そういった、存立条件が崩れてきているスタンダードは、しばらくは惰性で持続するにせよ、やがて消えていくと考えられる。
 
 今、スタンダードとみなされている習慣やライフスタイルのうち、何が残り、何が消えていくのか?それらの存立条件を考えるだけでも、あるていど見通しが立つように思う。見通しが立てば、備える余地も、変わっていく余地もある。失われゆくものへの感傷だけはどうしようもない。
 

*1:金銭に不自由しない一握りの人間は、そのハイコストをおしてでもスタンドアロンに暮らし続けるだろうし、そういう上客狙いのサービスにも拍車はかかるだろうが